服従の勅令
エンピリアン・バザール全体が、息を呑んだ。
つい先ほどまで喧騒に満ちていた大広場は、一瞬にして絶対的な静寂に包まれる。
異次元から訪れた商人たち、外套を纏った旅人たち、そして遥か彼方の星域からやって来た高位の使節たち――。
数千もの視線が、ネクサスの白大理石で築かれた巨大な尖塔の下、わずか十歩の距離を隔てて向かい合う者たちへと注がれていた。
一方は、オリンポス領域の青銅鎧を纏う精鋭執行官たち。
そしてもう一方は、下位世界の旅商人が身に着ける、少しくたびれた絹の衣しか纏わぬ、一人の蒼白い青年。
しばらくの間、広大な大理石の広場に響く音はただ一つ。
黄金の髪を持つ衛兵隊長の肩を走る純白の雷光が、激しく弾ける轟音だけだった。
「……今、何と言った?」
隊長は低く唸るような声で吐き捨てた。
その声音には、聞く者の背筋を凍らせる危険な怒気が宿っている。
周囲の空気は焼け焦げたオゾンの臭いで満たされ、両腕を走る雷撃はさらに勢いを増し、白い水晶石の床へ飛び散って黒い焦げ跡を刻んでいく。
「雷王を愚弄するとは……貴様ごとき虫けらが、我が王の主権を塵ほどの価値もないと言うのか?」
隊長の瞳には殺意が宿る。
「この交易区を治める永劫神の絶対なる権威を、自らの口で侮辱したということだ!」
サルゴンは答えなかった。
一歩たりとも動かない。
両手はゆったりとした旅商人の袖の奥へ収められたまま。
その姿勢はどこまでも穏やかで、眼前に渦巻く敵意など最初から存在しないかのようだった。
漆黒の虚無の瞳。
その奥で、小さな銀河が静かに、荘厳に回り続けている。
その視線は、黄金の髪の戦士だけを静かに見据えていた。
傍から見れば、恐怖のあまり思考を失った哀れな若者にしか映らない。
だが――
現実そのものにとって、サルゴンとは、
吹き抜ける一陣の風を見下ろす、不動の山そのものだった。
「全員、抜剣しろ!」
隊長はついに怒号を轟かせた。
堪えていた忍耐は完全に途切れ、その顔は純粋な激怒に歪む。
「この出来損ないの屑め! 黙っていれば助かるとでも思ったか!」
彼は大剣をサルゴンへ突きつけ、雷光を迸らせながら命じた。
「四肢を叩き折れ! 連れの男は処刑広場へ引きずって行け!」
「そして、この場にいるすべての下位世界の商人どもへ教えてやれ!」
「――オリンポスの紋章を侮辱した代償が、どれほど高くつくのかを!」
「はぁぁぁっ!!」
隊長の号令と同時に、
「おおおおおっ!!」
十二人の青銅鎧の精鋭兵たちが、腹の底から雄叫びを上げ、一斉に踏み込んだ。
重厚な鎧が激しくぶつかり合い、金属音が白い石畳へと響き渡る。
彼らは巨大な両刃のブロードソードを一斉に抜き放った。
刃は瞬く間に純白の雷光を纏い、鋭い稲妻が蛇のように走る。
激しく弾ける雷の魔力は凄まじい威圧となり、近くにいた魂の弱い商人たちは悲鳴を上げながら後退し、迫り来る虐殺から逃れようと必死に距離を取った。
兵士たちは寸分の狂いもない軍隊の連携を保ったまま、重い青銅の軍靴で純白の大理石を踏み鳴らしながら前進する。
そのままサルゴンとカエレンを包囲するように陣形を広げた。
主の二歩後ろに立つカエレンは、微動だにしない。
右手は静かに鞘に収まった曲刀の柄を握り、その表情には恐怖も焦りも一切浮かんでいなかった。
サルゴンの《支配者の権能》による絶対的な支配の下、彼の精神は揺るぎない服従だけで構成された鉄壁の要塞となっている。
十二人もの雷の精鋭が、星すら焼き尽くす刃を振りかざして迫っていようと関係ない。
彼はただ一つ――
主から下される命令だけを待っていた。
サルゴンは静かに、一歩前へ踏み出す。
裸足の右足が、床を転がってきた拳大の紫色に輝く結晶――《エオン級アストラル・エーテル・コア》の上へ静かに降ろされた。
その素足が結晶へ触れた瞬間。
《原初の意識》のほんの一筋が、誰にも気づかれぬほど静かに結晶内部へ流れ込む。
荒れ狂っていた宇宙エネルギーは完全に鎮圧され、エーテル・コアは彼の足元で音もなく沈黙した。
サルゴンは迫り来る兵士たちを見つめる。
雷光を纏う大剣は、すでに五歩と離れていない。
だが彼は手を上げることも、
呪文を唱えることもなかった。
ただ胸の奥――左胸に眠る力へ、静かに意志を向ける。
【究極属性:《支配者の権能》 解放】
――跪け。
その命令は声として発せられたわけではない。
それは宇宙そのものへ直接刻み込まれた、絶対不可侵の精神勅令だった。
サルゴンの意識は兵士たちと隊長が身に纏う青銅の鎧へ届き、その内部に刻まれた**「重量」と「重力」**という根源概念を掴み取る。
そして、その法則を書き換えた。
――BOOM!!
目には見えない、破滅的な人工質量の衝撃波が広場全体へ叩きつけられた。
あまりにも突然で、あまりにも凄まじい変化だった。
急激な気圧変動に耐えきれず、大気そのものが苦しげな唸り声を上げる。
一ミリ秒にも満たない刹那。
兵士たちが身に着けていた青銅の鎧の重量は、二倍や三倍では済まなかった。
百倍。
その質量は、一瞬にして百倍へと増幅された。
先ほどまで高位の戦士たちが軽々と身に着けていた鎧は、
今や――
十二の崩れ落ちる山岳を、その肩に直接押しつけられたかのような重さへと変貌していた。
「がっ……!」
隊長の雄叫びは、苦痛に満ちた掠れた呻き声へと変わった。
凄まじい重力が彼の身体を容赦なく押し潰し、その軍靴は水晶の床を突き破って深くめり込む。
大剣を振り上げる暇すら与えられない。
次の瞬間――
膝が白大理石へと激しく叩きつけられた。
――ドゴォンッ!!
衝撃で床は蜘蛛の巣のような巨大な亀裂を走らせる。
肺は極限まで圧迫され、黒い血が口元から激しく噴き出した。
肩を覆っていた純白の雷光も、その圧力に耐えきれず、嵐に吹き消される蝋燭のように激しく明滅し、儚く消えていく。
――クラァァァン!!
――ガァァン!!
――ドォォン!!
重い金属が地面へ叩きつけられる轟音が、中央広場へ立て続けに響き渡った。
残る十二人の青銅鎧の精鋭兵たちもまた、同時に崩れ落ちる。
それは「倒れた」という生易しいものではない。
彼らは抗う術もなく、大地へと無慈悲に押し潰された。
青銅の大剣は感覚を失った指先から滑り落ち、乾いた金属音を立てながら地面を転がっていく。
鎧を纏った胸は砕け散った大理石へ押し付けられ、自らが身に着ける鎧の重量によって肋骨は悲鳴を上げる。
その身は完全に拘束され、
絶対に抗えない服従の姿勢へと叩き伏せられていた。
傍から見れば、それはまるで――
天より見えざる全能の神の手が降り立ち、
オリンポス領域が誇る精鋭部隊すべてを、
一人のみすぼらしい青年の足元へ強制的に跪かせたかのようだった。
エンピリアン・バザールに集う数千人もの商人たちは、その光景を目の当たりにして完全に言葉を失う。
誰もが目を見開き、顎を落としたまま凍りついていた。
彼らは雷神ゼウスに仕える精鋭処刑人。
星海で幾つもの次元軍を滅ぼしてきた、不敗の戦士たち。
その彼らが今――
血に塗れたまま地面へ這いつくばり、
指一本すら動かせず、
袖から手さえ出さぬ一人の蒼白い青年に、
完膚なきまでに制圧されていた。
「な……何だ……これは……?」
隊長は血を吐きながら、掠れた声を絞り出した。
黄金の髪は土埃にまみれ、
必死に頭を持ち上げようとする。
だが、どれほど力を込めても身体は一寸たりとも動かない。
雷を呼び起こそうと魔力炉心を解放する。
しかし――
広場に満ちる元素の流れは、彼の呼びかけに一切応えなかった。
まるで大気そのものが彼を見限り、
魂の支配すら超越した、
より古く、より絶対的な権威へ忠誠を誓ってしまったかのように。
「お、俺の魔力が……!
魔力核が……封じられている……!」
隊長は震える瞳でサルゴンを睨みつけ、恐怖に歪んだ声を上げる。
「貴様……何者だ……この化け物が……!」
サルゴンは跪く隊長を静かに見下ろした。
その眼差しは冷たく、平坦で、一切の感情を宿していない。
漆黒の瞳の奥で静かに巡る小さな銀河にとって、隊長の怒りなど、ただ一匹の虫が立てる羽音ほどの意味しかなかった。
サルゴンは彼を憎んではいない。
――主権者とは、塵一つに憎しみを抱く存在ではない。
「貴様は、この市場ではエオン王の法こそが絶対だと思っているようだ。」
サルゴンは静かに口を開いた。
その穏やかな声は、完全な静寂に包まれた広場全体へと澄み渡る。
「だが、お前は一つの単純な真理を忘れている。」
「お前が纏う鎧は、創造の金属から鍛えられたもの。」
「お前が操る元素は、現実という大河から汲み上げられた力。」
そして――
「現実は、常に私の声に従う。」
サルゴンはゆっくりと身を屈めた。
絹の袖から静かに白い手を伸ばし、
足元に転がる拳大の紫色の結晶――
**《エオン級アストラル・エーテル・コア》**を穏やかに掴み上げる。
その瞬間。
彼の指先が結晶へ触れた途端、視界に機械的なシステム表示が輝く星光とともに現れた。
【通知:高位エネルギー触媒《エオン級アストラル・エーテル・コア》の確保に成功しました。】
【通知:コア内部に封印されていた不安定な神性エネルギーは、《原初の意識》によって完全に鎮圧されました。】
【艦艇リンク接続:『アル・ミラージュ』への遠隔補給シーケンスを開始。】
【現在のヴォイド・ドライブ出力:24%……40%……65%……90%】
その瞬間。
港の西側埠頭遥か彼方に停泊している漆黒の巨艦――アル・ミラージュから、深く重厚な鼓動のような振動がサルゴンの意識へ伝わってきた。
暗黒物質で織られた帆が静かに震え、
飢えた獣が目覚めるように、新たな宇宙の力を飲み込み始める。
ヴォイド・ドライブの備蓄は完全に回復した。
中立港でのサルゴンの第一目的は、
これにて達成された。
サルゴンはゆっくりと立ち上がった。
淡い紫色に輝く結晶を軽く持ち上げると、《虚無》の力で空間に小さな裂け目を生み出し、その中へ何気なくしまい込む。
エーテル・コアは彼専用の亜空間へ静かに収納され、裂け目は音もなく閉じた。
彼は壊れた露店を振り返らない。
仮面の老商人にも視線を向けない。
地面に這いつくばり、苦悶する衛兵たちにも興味はなかった。
「カエレン。」
サルゴンは広場へ背を向けたまま静かに命じる。
「戻る。艦の準備は整った。」
「御意、我が君。」
カエレンは即座に応えた。
その声はいつも通り冷静で揺るがない。
押し潰された青銅兵の身体を静かに跨ぎ、主のちょうど二歩後ろを忠実な影のように歩き出した。
数千人もの宇宙の旅人たちは、サルゴンが歩み始めた瞬間、我先にと道を開けた。
誰も彼へ近づこうとはしない。
絹の天幕の陰へ飛び込み、
壁際へ身を寄せ、
本能的な恐怖に身体を震わせながら、その蒼白い青年を見送る。
彼らは知らない。
彼の名も、
その血統も、
あの静かで圧倒的な権威がどこから来るのかも。
だがネクサス・オブ・バビロンにいた全員が理解した。
サルゴンとは――
永劫神すら容易く踏みにじる、説明不能の宇宙的存在。
歩く虚無、そのものだった。
サルゴンの背中はやがて市場の人混みに紛れ、
西側港へ続く白い回廊の奥へと静かに消えていく。
その姿が完全に見えなくなった瞬間――
衛兵たちを押し潰していた見えざる重力の拘束が、音もなく解除された。
「はぁっ……! はぁっ……!」
黄金の髪の隊長は激しく息を吸い込み、胸を大きく上下させる。
百倍に増していた鎧の重量は消え去り、
彼は傷だらけの身体を引きずりながら、砕け散った大理石の窪みから這い出した。
震える手を伸ばし、
ようやく地面へ落ちていた大剣を拾い上げる。
しかし、その手は恐怖で激しく震え、
剣を握ることすらままならない。
隊長は広場の出口――
すでに誰の姿もない場所を睨みつけた。
雷を宿す瞳には、
耐え難い屈辱と、
魂の底から湧き上がる根源的な恐怖が入り混じっていた。
理解していた。
自分が生き残れた理由はただ一つ。
あの白髪の青年にとって、
自分は消し去る価値すらないほど取るに足らない存在だったからだ。
「……報告しろ。」
隊長は息を切らしながら命じる。
土埃の中から這い上がってくる部下たちへ向け、その声を震わせた。
「この件を……直ちにオリンポス中枢へ伝えろ。」
「《元素法則を超越する権能》を持つ……魂なき未知の存在が、プライム・アクシスへ侵入した。」
隊長は拳を強く握り締める。
「……大神官たちへ伝えろ。」
「そして雷王へ。」
「雷王の宝物庫は、奪われた――と。」
遥か上空では、
浮遊する白大理石の島々を囲む深紫色のエーテルの海が、何事もなかったかのように静かに波打っていた。
しかし、その静寂の裏では、
《主権者》の帰還を告げる最初の波紋が、
すでに永劫神たちの不滅の宮廷へと、
静かに、
そして確実に広がり始めていた。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
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これからも『Sovereign of the Bornless Sea』をよろしくお願いいたします!




