天穹のバザール
エーテル海の潮流は、水のようには流れていなかった。それはまるで液状の星明かりのように静かに漂い、無数の未だ紡がれていない時間軸の重みを乗せながら、果てなき宇宙を流れていた。
アル・ミイラージュは、プライム・アクシスを走る蒼と紫に輝く航路を音もなく滑っていた。ダークマター製の帆は限界まで張り詰められ、その船体は宇宙の潮流を切り裂くように進む。
指揮甲板後方に据えられた黒曜星石の船長玉座に腰掛けたサルゴンは、眼前に広がる**「生まれざる海」**の果てなき景色を静かに見つめていた。
背後では、惑星アエセルガルドはすでに完全に姿を消し、黄金の砂粒ほどの微細な点となって、宇宙の潮流の彼方へと埋もれていた。
その先に広がるのは、多元宇宙のありのままの真実――銀河や無数の並行世界が、揺らめく宇宙の大海に浮かぶ色鮮やかな島々のように漂う、果てなき虚空だった。
「主。」
コア・スピリットの機械仕掛けの鷹のアバターが、玉座の星鋼製の肘掛けに姿を現した。星座のような翼は、一定の青い輝きを静かに脈打っている。
「ゼニス・ヘヴン辺境領域の管轄を離脱しました。航行アレイは、およそ一万ノット前方に存在する巨大な中立空間断層を捕捉しています。目的地は**『バビロン・ネクサス』――三大天界およびカラミティ勢力**の直接支配圏外に存在する、独立した天界交易拠点です。」
サルゴンは視線を移し、その漆黒の虚無の瞳を細めた。瞳の奥でゆっくりと回転する小さな銀河が、空間座標を静かに解析していく。
「……船の中核状態は?」
【通知:現在の〈ヴォイド・ドライブ〉の備蓄率は24%です。】
【警告:容量が20%を下回ると、《アル=ミアラージ》は《プライム・アクシス》の航路から逸脱し、無作為な空間圧縮波に船体が晒されます。】
【推奨:〈アストラル・エーテル・コア〉または〈エオン級マナクリスタル〉などの高位エネルギー触媒を確保し、主動力炉を補充してください。】
「バビロン・ネクサスは無法地帯の港です。」
コア・スピリットは澄み切った旋律のような声で、サルゴンの意識へ直接語りかけた。
「そこは次元商会、星海を渡る旅人、さらには《エオン神》の下級使者までもが集う巨大な交易都市。滅びた次元から持ち帰られた希少な遺物が日々売買されています。この宙域に触媒が存在するなら、間違いなくあの港で見つかるでしょう。」
――エオン神。
サルゴンはその名を静かに思考した。
彼らは下位世界の織物を支配する不死の支配者たち。数百万年という悠久の時を経て、星団や歴史そのものを統べる存在となった者たちだった。
凡人にとって、《大天神ゼウス》や《海王ポセイドン》のような存在は、絶対に触れることのできない神々である。
だが、万物の根源――《シングル・ソース》が最初の「現実」という概念を描く以前から存在していたサルゴンの《始原意識》にとって、彼らはただ時間という檻に囚われた高位魂生命体に過ぎない。
偉大ではある。
だが、なお「有限」の存在だった。
「カエレン。」
サルゴンは静かに命じた。
その声には、《究極属性:支配者の権能》が放つ抗い難い威圧がわずかに宿っていた。
副操舵席に立つ傭兵は、即座に姿勢を正した。
表情には作り物のような静寂だけが浮かび、瞳から個人的な恐怖は完全に消え失せていた。しかし主人の命令を遂行するための鋭さだけは、なお宿っている。
「ご命令を、我が主。」
「船体のルーンを隠せ。空間波長を一般的な下位世界の商船へ偽装しろ。」
サルゴンは淡々と言った。
「中立港へ入る。動力炉を補充する前に、《暗黒三位一体》の先遣隊へ存在を知られるつもりはない。」
「承知しました。」
カエレンはそう答え、星鋼製の操縦卓に備えられた複数のレバーを操作した。
低く響く駆動音とともに、《アル=ミアラージ》の船体を覆っていた無数の紫紺の宇宙ルーンが次々と輝きを失い、やがて起動不能な灰色へと変化していく。
漆黒の物質で織られた巨大な帆も静かに折り畳まれ、その代わりに魔力を持たない偽装帆が展開され、船全体を包み込んだ。
外から見れば、伝説の次元航行戦艦の姿は消え去り、そこにあるのは少し年季の入った、ごく普通の深宇宙交易船にしか見えなかった。
日本語翻訳(ライトノベル風)
三十分後――。
紫色の星雲の彼方から、**《バビロン・ネクサス》**がその姿を現した。
それは、息を呑み、理性さえ揺さぶられるほど壮麗な光景だった。
この中立港は惑星ではない。
純白の古代水晶大理石と煌めくガラス建築によって築かれた、巨大な浮遊島だった。その島は液体の星光が流れるエーテルの海に浮かび、数十マイルにも及ぶ広大な面積を誇っている。
島の各所には、巨大なジッグラトや天を衝く尖塔が立ち並び、その外壁にはメソポタミアとペルシャの幾何学模様が精緻に刻まれ、淡い黄金の光を静かに放っていた。
浮遊島を取り囲むように、何百もの巨大な船渠が広がっている。
そこには、あらゆる世界から訪れた多種多様な船が停泊していた。
蒸気文明の異世界から来た機械仕掛けの飛空艇。
古代修仙宗門が所有する巨大な浮遊石城。
そして、各《エオン神》の紋章を掲げた優雅な銀色の小型艇までもが、静かに港へ並んでいた。
《アル=ミアラージ》は港の西端にある下級船渠へと静かに滑り込み、水晶で造られた桟橋へと音もなく接岸した。
漆黒の船体が完全に停止すると、サルゴンは玉座から静かに立ち上がる。
長い白髪が肩へと流れ落ちる。
そして彼は《虚無》の法則をわずかに発動し、紫と黄金に彩られた王族の衣装を、シルクロード諸国を旅する若き商人貴族が身に纏う、少しくたびれた絹の旅装へと自然に変化させた。
「カエレン、ついて来い。」
サルゴンは白く磨かれた埠頭へ足を踏み出しながら静かに命じた。
「精神を乱すな。命令があるまで口を開くな。」
「かしこまりました、我が主。」
カエレンは低く応え、腰に佩いた曲刀を確かめるように軽く押さえ、そのままサルゴンの二歩後ろを歩き始めた。
まるで主人に付き従う、忠実で物言わぬ影そのものだった。
彼らがエンピリアン・バザールの入口を飾る黄金のアーチをくぐった瞬間、圧倒的な感覚の奔流が二人を襲った。
市場は、色鮮やかな絹の天幕、青空の下に広がる白大理石の中庭、そして異国の香辛料や焚かれた乳香、さらに制御されていない荒々しい魔力の匂いで満ちた巨大なバザールが果てしなく入り組んだ迷宮となっていた。
そこに集う人々は、無限なる多元宇宙の縮図そのものだった。
サルゴンは、輝く星図を売る六本腕の商人獣、天使の羽根の値段を巡って言い争う翼を持つ天界の存在、そして魔法の鋼を品定めする中世世界の重装騎士たちの横を、無言で歩いていく。
「冥界の支配者、永劫神ハデスの領域から採れた新鮮なソウルストーンだ!」
近くの露店から、赤い肌を持つずんぐりした商人が紫色に輝く結晶を高く掲げ、大声で叫んだ。
「魔力の器を十倍にまで拡張する保証付き! 三百コズミック・コインだ!」
サルゴンは商人たちを一瞥することすらしなかった。
漆黒の虚無の瞳は、完全な無関心を湛えたまま市場全体を静かに見渡していた。
ソウルストーンにも、魔法の鋼にも興味はない。
彼のシステムはすでに市場全域のエネルギーを解析し、目的であるエーテル・コア特有の濃密な波動だけを追跡していた。
その時、不意に中央広場の方角から大きな騒ぎが巻き起こった。
異次元から集まった旅人たちは慌てて左右へ散り、争いを避けるように天幕の影へ身を隠す。
白い大理石の大通りを堂々と進んできたのは、鋭く弾ける雷光のオーラを放つ、重厚な青銅の鎧に身を包んだ長身の戦士たちだった。
その先頭には、長い黄金色の髪をなびかせ、瞳から純白の雷光を放つ男が歩いている。
彼の腰には、雷霆の紋章が刻まれた重厚なメダリオンが下がっていた。
「オリンポス領域の使者です。」
カエレンが静かに囁く。
サルゴンの《支配者の権能》によって精神は完全に統制されていたが、その視線は戦士たちを正確に捉えていた。
「彼らは永劫神ゼウスに仕える者たち。このネクサス西区画における高級エネルギー結晶の取引を支配しています。」
黄金の髪の隊長は、一人の年老いた仮面商人が営む小さな露店の前で足を止めた。
その老人は辺境の砂世界から来た下位領域の商人だった。
隊長は容赦なく露店へ蹴りを叩き込み、木製の陳列棚を粉々に砕く。
青く輝く結晶が、白い大理石の床へ四方八方へと飛び散った。
「雷王の領地で無許可のエオン結晶を売るとは、いい度胸だ。」
隊長は嘲笑しながら言う。
その声には雷が走り、周囲の空気を鋭く震わせた。
「この西のバザールで取引されるエネルギー触媒は、すべてオリンポスの財務府を通さねばならん。商品はすべて没収だ。そして、この老いぼれ鼠を牢獄へ引きずっていけ!」
老人の商人は膝をつき、青銅の鎧をまとった衛兵たちが自分へ近づいてくるのを見て、全身を激しく震わせた。
「お、お慈悲を……! 我が故郷の領域は今、空間干ばつに見舞われています……。私はただ、民に食料を買うための金が必要だっただけなのです……!」
サルゴンは十歩ほど離れた場所で足を止めた。
両手は旅商人の衣の袖へ静かに収められたまま。
老人の境遇にも、オリンポス領域の政治にも興味はない。
しかし――。
彼の虚無の瞳は、砕け散った陳列棚の下から転がり出てきた、拳ほどの大きさの結晶を静かに捉えていた。
その結晶は青くなかった。
深く、眩い紫色。
濃密で、太古より眠り続けてきた未精製の宇宙エネルギーを脈動させており、その波動は《アル=ミアラージ》の動力炉が求める診断条件と完全に一致していた。
――《エオン級アストラル・エーテル・コア》。
まさに、《アル=ミアラージ》を再び満たすために必要な触媒、そのものだった。
「おい、そこの奴隷面のガキ!」
黄金の髪を持つ隊長が、結晶の近くに立つサルゴンへ気づき、鋭く怒鳴った。
雷光を宿す瞳が一瞬で敵意に染まり、重い青銅の長靴で大理石を踏み砕きながら歩み寄る。
「その密輸品から離れろ。その結晶は、今この瞬間から永劫神ゼウスの所有物だ。」
隊長は冷笑を浮かべた。
「跪いて道を空けろ。さもなくば、お前の魂ごと雷で灰に変えてやる。」
広場全体が、水を打ったような静寂に包まれた。
何百人もの異界の旅人たちが一斉に振り返り、その場に立つ痩せた白い青年へ視線を向ける。
相手は永劫神に仕える精鋭処刑部隊。
誰もが思っていた。
――青ざめるだろう。
――震えながら命乞いをするだろう。
――あるいは地に額を擦りつけ、許しを請うだろう、と。
サルゴンは微動だにしなかった。
ゆっくりと視線を落とし、自らの足元に転がる紫色の結晶を見つめる。
そして静かに顔を上げ、雷光を宿す隊長の視線を真正面から受け止めた。
漆黒の虚無の瞳に浮かぶ二つの小さな銀河が、荘厳な静けさの中でゆっくりと回転を始める。
その瞳は、バザールを満たす光さえも静かに呑み込んでいた。
「お前は、自らの永劫神が万物の所有者であるかのように語る。」
サルゴンは静かに口を開く。
その声は決して大きくはなかった。
しかし、その一言一言には、太古より存在していたかのような冷たく絶対的な重みが宿っていた。
その瞬間――
隊長の鎧を包んでいた激しい雷光が、不意に揺らぎ、火花を散らしたかと思うと、音もなく消え失せる。
「だが、お前たちの王が雷という概念に意志を与える遥か以前から――」
サルゴンの漆黒の瞳は、わずかに細められた。
「虚無は、すでにそこに在った。」
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これからも『Sovereign of the Bornless Sea』をよろしくお願いいたします!




