天の天井を破る
アル=ミイラージュの上昇は、アエセルガルドの物理法則そのものを踏みにじる大災厄だった。
ゴルゴンの顎と呼ばれる巨大な裂け目の奈落から、漆黒の星金属で造られた巨艦が真上へと撃ち上がる。その船尾スラスターから噴き出した紫黒の虚無エネルギーの渦は、大気を限界まで押し上げ、ついにはその均衡を完全に破壊した。
次の瞬間、凄まじい衝撃波を伴うソニックブームが砂漠全域へと放射状に広がる。その轟音だけで峡谷を囲む黒曜石の断崖は粉々に砕け散り、数え切れないほどの微細な黒い結晶となって空中へ舞い上がった。
さらに衝撃波は周囲の砂丘を呑み込み、山脈ほどの高さを誇る砂の丘すら一瞬にして押し潰し、鏡のように滑らかな巨大なガラスの大地へと変貌させた。
遥か上空――なおもサルゴンの《命令律》によって空中へ縫い留められたままの《天頂天》の三人の大魔導師たちは、ただ見届けることしかできなかった。
強制的に見開かれた瞳へ映るのは、自分たちへ向かって真っ直ぐに迫り来る漆黒の巨艦。
アル=ミイラージュは、瞬き一つする間もなく彼らの傍らを駆け抜けた。暗黒物質で織られた巨大な帆と、脈動する紫色の魔導ルーンを纏うその威容は、まるで絹を裂く刃のように天空を切り裂いていく。
通過の際に巻き起こった猛烈な風圧が純白の法衣を激しくはためかせる。しかし、見えざる重力の檻は彼らの肉体を微動だにさせず、彼らはただ、主権者の旅立ちを見届ける沈黙の証人であり続けるしかなかった。
わずか数秒のうちに、砂船アル=スタリアとアエセルガルドの砂漠は遥か眼下へ遠ざかり、紫色の黄昏に染まる広大な一枚の絵画のような景色へと変わっていった。
サルゴンは指揮甲板後方に据えられた巨大な黒曜星石の玉座に腰掛けたままだった。
淡く白い指先は星金属製の肘掛けに気怠げに添えられ、垂直上昇によって生じる凄まじい重力加速度など、彼には何の影響も及ぼしていない。
胸の内に広がる虚無は絶対的な慣性制御装置として機能していた。
時間も、空間も、そしてそれらの概念が定義される以前から存在していた《始原の意識》に対し、宇宙は加速度や質量といった法則を適用することなどできなかったのだ。
副操舵席では、カエレンがアル=ミイラージュの操舵輪を固く握っていた。
【究極属性:《支配者の権能》】によって精神を完全に鎮静化された彼は、サルゴンが艦との精神接続を介して送り込むあらゆる命令を、一切の誤差なく実行していく。
その瞳は一度たりとも瞬くことなく、甲板に刻まれた紫色のルーンへ次々と映し出される高度情報を静かに追い続けていた。
「主よ」
中枢霊の機械仕掛けの鷹のアバターが、サルゴンの玉座の傍らへと姿を現した。その星座を象った翼は、警告を示す鋭い青い光を明滅させている。
「成層圏上層へ到達しました。惑星の天井が反応を開始しています。《三天》の封鎖結界が第一防衛網を起動しました」
サルゴンは静かに頭を後ろへ傾け、漆黒の瞳で薄れゆく上層大気の雲を貫いて見上げた。
その瞬間、アエセルガルドの夜空に広がる星々が波紋のように揺らぐ。
やがて地平線の果てから、無数の白く輝く線が姿を現した。
それらは複雑な幾何学模様を描きながら互いに組み合わさり、純粋な天の力で織り上げられた巨大な蜘蛛の巣のように、世界全体を覆い尽くしていく。
――《光矩境界》。
それは《天頂天》の天界審判官たちが世界を封じるために築き上げた惑星規模の封鎖結界。
宇宙の海へ違法な存在が脱出することを決して許さないための絶対障壁であった。
アル=ミイラージュがその境界へ接近するにつれ、白い幾何学模様は眩い光を放ちながら激しく脈動する。
その結界は単なる物理的な壁ではない。
それは《封縛》という絶対法則そのものを概念化した障壁だった。
艦が迎撃圏内へ踏み込んだ瞬間、黒曜星金属の船体を包む空間が聖なる光へと結晶化し始める。
巨大な鉄床が昇りゆく影を押し潰そうとするかのように、無数の光の結晶板が船体へ凄まじい圧力を加えた。
「聖域内に侵入者を確認」
次の瞬間、上層大気全域へ千人の天界審判官の声が重なり響き渡る。
肉体を持たぬその大合唱は、独善に満ちた怒りを震わせながら世界へ宣告した。
「下界の天井は絶対である。
いかなる凡人の肉体も、いかなる穢れた船も、いかなる魂なき異常存在も、光の檻を越えることは許されぬ。
――【勅令:《天界完全圧縮》】」
白く輝く格子状の光線が激しく収縮した。
アル=ミイラージュを押さえつけていた聖なる光の結晶板は、魂さえ焼き尽くす純白の業火を纏い始める。
その摩擦は凄まじく、艦の暗黒物質製の帆は激しい音を立てて軋み、船体へ刻まれた宇宙ルーンに満ちる星辰の力さえ、上位次元の概念圧力によって激しく明滅した。
結界は艦を地上へ押し戻し、その星金属の船体を灼熱の溶滓へと磨り潰し、存在した軌跡そのものを時間軸から抹消しようとしていた。
副操舵席では、カエレンの両手がわずかに震える。
【究極属性:《支配者の権能》】によって強制的に鎮静化された精神は、初めて上位法則による真の抵抗へ直面していた。
《天界封縛》という法則そのものの圧倒的な重みが、サルゴンへの絶対服従を書き換えようとし、その存在へ近づくだけで、彼の束縛された人間の魂を押し潰そうとしていた。
サルゴンは静かに黒曜星石の玉座から立ち上がる。
ゆっくりと、しかし一切の迷いなく一歩を踏み出し、長い指揮甲板を歩いて艦首へ向かった。
神風が吹き荒れる中、長い白髪は激しく翻り、紫と黄金の法衣は封鎖結界の眩い白光を受けて大きくはためく。
行く手を阻む、聖なる光で編まれた巨大な蜘蛛の巣。
その壮絶な光景を前にしても、サルゴンの表情は微塵も揺るがなかった。
ただ、漆黒の瞳の奥で瞬く小さな星河だけが、太古より眠り続けていた制御不能の怒りを宿すように静かに回転を始める。
「従僕どもが造った檻か……」
サルゴンは静かに呟く。
その低い声は、天界審判官たちの轟く大合唱を、凍てつく冬風のように容易く切り裂いた。
「空を閉じ込められると思っているとは。」
やがて彼は艦首の最先端へ辿り着く。
眼下には果てしない大気の深淵が広がっていた。
サルゴンは虚空の上へ堂々と立つと、ゆっくりと両腕を持ち上げる。
両手首を胸の前で交差させ――
次の瞬間、それを天地を裂くかのような勢いで、水平方向へ一気に振り払った。
【究極属性:《主権の虚無》】――完全解放。
サルゴンの胸に眠る虚無は、そのすべての封印を解き放った。
次の瞬間、両掌から咆哮するような濃紫黒の《無》が奔流となって噴き出す。
それは瞬く間に上層大気を覆い尽くすほど巨大な三日月形の刃へと膨れ上がり、その長さは数マイルにも及んだ。
その刃に質量は存在しない。
元素エネルギーも存在しない。
それは存在そのものの織物を引き裂いた、純粋なる《消去》の波。
宇宙そのものを抹消しながら進む虚無の刃であった。
巨大な虚無の三日月刃は、《光矩境界》の中心へ真正面から叩きつけられる。
爆発は起こらない。
天を揺るがす力と力の激突も存在しない。
封鎖結界を構成する白き聖光の線が、サルゴンの紫黒の虚無へ触れた、その瞬間――
《封縛》という概念そのものが、この世界から“存在しなかったもの”へと書き換えられた。
聖なる光で形成された結晶板は、絶対の空白へと還る。
白熱する天界の神炎が消えたのではない。
その空間における《熱》という定義も、《燃焼》という法則も、時間軸そのものから完全に削除されたのだ。
《主権の虚無》は惑星を覆う天井を寸分違わず両断した。
《三天》が築き上げた監視結界の中心には、巨大で歪な裂け目が永遠の傷跡として刻み込まれる。
幾何学模様を描いていた光の線は次々と砕け散り、その切断面は燃え尽きる紙が灰となるように、暗黒の虚無へ溶けながら消滅していった。
――バキィィンッ。
惑星全域へ、凄まじい大気衝撃波が駆け巡る。
遥か眼下では、アエセルガルド全土の気象法則が激しく崩壊した。
暴風雨は一瞬で消え去り、
砂漠には宇宙の深淵から吹き込む極寒の風が流れ込み、
大海は震えるように波打つ。
惑星の物理法則を維持していた人工の天井が、無慈悲に引き裂かれたからだ。
そして、空に刻まれた永遠の裂傷の向こうには、
青き大気の裏側に隠されていた――
飾りも偽りもない、ありのままの宇宙が、その姿を現していた。
空を覆う天井に刻まれた数マイルにも及ぶ巨大な裂け目を突き抜け、アル=ミイラージュは一気に虚空へと飛び出した。
その船体には傷一つなく、暗黒物質で織られた帆は限界まで大きく広がる。
アエセルガルドの大気圏を永遠に後にし、巨艦は果てなき宇宙へと翔け上がっていった。
【通知:惑星封鎖結界《光矩境界》を現在座標において完全削除しました。】
【警告:《天井》の永久破壊により、《天頂天》地域監視網は壊滅的かつ不可逆的な機能停止を確認。】
【通知:あなたは《アエセルガルド第一界域》から正式に離脱しました。】
【ようこそ、主権者よ――《無生の海》の真なる広がりへ。】
轟々と鳴り響いていた大気の咆哮は、一瞬にして消え去る。
その代わりに訪れたのは、深宇宙だけが持つ荘厳にして絶対なる静寂だった。
サルゴンは艦首に立ち、ゆっくりと両手を下ろす。
渦巻いていた紫黒の虚無は掌へと静かに吸い込まれ、その姿を消した。
彼は船の進む先へ視線を向ける。
そして――十七年という短い人生で、初めて。
己が本当に支配すべき領域を、その瞳で目にした。
宇宙とは、冷たく暗い真空に星々が散らばるだけの空間ではなかった。
そこに広がっていたのは――《エーテル海》。
すなわち、《無生の海》。
彼方には、絶対無限へと続く果てなき大洋が広がっていた。
液体の星光が波となって揺らぎ、濃紫、黄金、蒼の星雲が巨大な潮流となって宇宙を流れていく。
その大いなる流れの中には、無数の多元宇宙と異なる時間線が、色鮮やかな島々のように静かに浮かんでいた。
ある世界は神聖なる黄金の光球に包まれ、
またある世界は深紅の災厄魔力が渦巻く嵐に囲まれている。
数え切れない次元の裂け目と星系が、液体の宇宙を漂い、
そのすべてが、宇宙の海を流れる巨大な輝く潮流によって一つに結ばれていた。
サルゴンは艦の手すり越しに眼下を見下ろした。
遥か後方では、アエセルガルドが急速に小さくなっていく。
黄金と紫の砂で彩られたその惑星は、今や保護結界に包まれた小さな大理石の球のように浮かんでいた。
しかし、その結界の天井には――修復不可能な巨大な漆黒の裂孔が、永遠の傷跡として穿たれている。
副操舵席では、カエレンが浅く息を吐いた。
虚ろだった瞳がわずかに見開かれる。
【究極属性:《支配者の権能》】によって強制された静寂の精神は、眼前に広がる無限という現実を、ただ静かに受け入れていた。
もはや彼は砂漠を渡り歩く一介の傭兵ではない。
創世そのものの織物を航海する、一人の旅人となっていた。
その時、中枢霊の機械仕掛けの鷹が静かに舞い上がり、サルゴンの隣にある星金属製の手すりへ優雅に降り立つ。
星座のように輝く蒼い瞳は、液体の星光が波打つ果てなき海を見つめ、深い畏敬の光を宿していた。
「惑星境界を完全に離脱しました、若き主様。」
中枢霊の穏やかな声が、サルゴンの意識へ直接響く。
「現在、《第一主軸流》への航行を確認。
アル=ミイラージュの航行状態は極めて安定しています。
主権者よ――どちらへ進路を定められますか?」
サルゴンはすぐには答えなかった。
彼は自身の個人亜空間へ手を差し入れ、削除した《昇天司法官》から奪い取った重厚な証標を取り出す。
それは、《三天》の紋章が刻まれた純白の星光ダイヤモンドだった。
サルゴンはそれを星明かりへ掲げる。
界域の結界を離れたことで、結晶内部に残されていた追跡魔術は、今にも消えそうなほど弱々しく明滅していた。
「《天頂天》の審判官どもは……異常存在程度なら追跡できると思っているらしい。」
静かな囁きとともに、漆黒の瞳の奥で小さな星河がゆっくりと回転する。
次の瞬間――
サルゴンは素手で星光のダイヤモンドを握り潰した。
砕け散ったのは結晶だけではない。
その証標という概念そのものが、《主権の虚無》によって存在から完全に削除された。
「ならば探すがいい。」
サルゴンは果てなき《無生の海》を見渡しながら、静かに告げる。
「この無限の中で、私を。」
サルゴンはゆっくりと踵を返し、黒曜星石で造られた壮麗な玉座へと歩み始めた。
近くを流れる巨大な星雲の輝きが、彼の紫と黄金の法衣を幻想的に照らし出す。
「《三天》の支配圏外に存在する最も近い独立界域へ進路を設定しろ。」
冷え切った声が、星金属で造られた艦橋へ静かに響き渡る。
「父の先遣隊が、我々の航路を察知する前に――艦の中枢備蓄を補充する必要がある。」
「ご命令を承りました、主権者様。」
中枢霊は静かに応える。
その機械仕掛けの鷹の姿は淡い光の粒子へと分解され、一筋の光となって主帆柱の中心へ吸い込まれていった。
次の瞬間――
アル=ミイラージュの暗黒物質製の帆が、音もなく向きを変える。
それは《エーテル海》を流れる液体星光の大潮流を受け止め、まるで海原を滑る帆船のように宇宙の流れへ乗った。
船体を覆う数百万もの紫色のルーンが、飢えた獣の鼓動のように深く脈動する。
巨大な黒曜星金属の艦はゆっくりと艦首を巡らせ、
無限多元宇宙の誰一人踏み入れたことのない深奥へと進路を定めた。
そしてアル=ミイラージュは、
美しくも混沌に満ちた《無生の海》の果てなき広がりの中へ、
静かにその姿を消していった。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
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これからも『Sovereign of the Bornless Sea』をよろしくお願いいたします!




