隠された境界
アウター・ヴェイルは静寂に包まれていた。
アル・メラージュ号は奇妙な暗黒領域の中で静止していた。
その周囲を、古代の樹木を思わせる巨大な構造物が取り囲んでいる。
数時間もの間、船はその場に留まり、損傷したシステムは修復を続けていた。
指揮室の中で、カエレンは航行ディスプレイの前に立っていた。
表示された地図は、ほぼ完全に空白だった。
既知の航路――なし。
登録済みの世界――なし。
通信ネットワーク――なし。
何もない。
彼は腕を組む。
「この船を修復するなら、運だけじゃ足りないな」
サルゴンは観測窓の傍に立っていた。
その瞳は、外に広がる暗闇を見つめ続けている。
「物資が必要だ」
カエレンが頷く。
「船内の予備資源なら、ある程度の修理はできる。だが、全部は無理だ」
システムが再び情報を表示する。
【船体修復状況:安定】
【完全修復:現在の物資では不可能】
【必要物資:不足】
カエレンはため息を吐いた。
「しかも、どこで手に入れればいいのかも分からない」
サルゴンは航行ディスプレイへ視線を向ける。
「なら、探す」
カエレンは彼を見る。
「船を出るってことか?」
「そうだ」
カエレンは窓の外に広がる暗黒の森へ目を向けた。
巨大な構造物は、スキャナーが正確に測定できる範囲を遥かに超えて続いている。
「……そう言うと思ってたよ」
サルゴンは出口へ向かって歩き出した。
カエレンは後を追った。
「役に立ちそうなものを見つけたら、持ち帰る」
「もし厄介事を見つけたら?」
サルゴンが立ち止まる。
「その時は対処する」
カエレンがかすかに笑う。
「その答えは予想してたよ」
二人はアル・メラージュ号を後にした。
外へ出た瞬間――アウター・ヴェイルの静寂が、より一層際立って感じられた。
風はない。
それなのに、頭上の巨大な枝々はゆっくりと動いている。
目に見える太陽もない。
それでも、巨大な構造物の間には淡い光が存在していた。
足元の地面は暗く、不規則だった。
土とは少し違う。
黒い岩石と砂、そして奇妙な結晶質の粒子が混ざり合ったように見える。
カエレンはしゃがみ込み、小さな欠片を拾い上げた。
「これは普通の岩じゃないな」
サルゴンがそれを調べる。
「そうだ」
「使えそうか?」
「不明だ」
カエレンはそれを容器の中へ入れた。
「なら、持っていこう」
二人は先へ進んだ。
森の奥へ進むほど、周囲は暗くなっていった。
巨大な構造物は、次第にその正体を理解することすら難しくなっていく。
樹皮に似た表面を持つものもあれば――
黒い金属のように見えるものもある。
ほとんど透明に見えるものさえあった。
そして時折、淡い光がその表面を移動していた。
カエレンが立ち止まる。
「今の、見たか?」
サルゴンは遠方へ視線を向ける。
「ああ」
「何だった?」
「分からない」
カエレンはため息を吐く。
「最高だな」
二人はさらに進んだ。
周囲の環境が、徐々に変化していく。
巨大な構造物同士の間隔が狭くなっていく。
その枝々が頭上で絡み合い、巨大な天井のようなものを形成していた。
闇はさらに濃くなり、通常の視覚はほとんど役に立たなくなった。
それでもサルゴンは、迷うことなく歩き続ける。
カエレンもすぐ後ろをついていく。
そして――
サルゴンが立ち止まった。
カエレンは危うく彼にぶつかりそうになる。
「何だ?」
サルゴンが片手を上げる。
「聞け」
カエレンは黙った。
最初は、何もなかった。
そして――
暗闇の中から、低い音が響いた。
風ではない。
機械音でもない。
何かが、呼吸している音だった。
カエレンはゆっくりと武器へ手を伸ばす。
「近くに何かいる」
サルゴンが頷く。
遠くの巨大な構造物の間に、淡い光を放つ目がいくつも現れた。
そして――さらに増える。
さらに。
さらに。
カエレンの表情が変わった。
「何体いる?」
サルゴンはそれらを観察する。
「十分だ」
怪物たちが淡い光の中へと姿を現した。
狼に似ていた。
ただし――あくまで、漠然と似ているだけだった。
その身体は通常の狼より遥かに巨大だった。
四肢は異様なほど発達している。
毛皮は暗く、不揃いで、周囲の闇にほとんど溶け込んでいた。
その瞳からは、鈍く不自然な光が放たれている。
だが、最も不気味なのは――その存在感だった。
獣のようには感じられない。
まるで――かつて生きていた何かのようだった。
カエレンは武器を握る手に力を込める。
「人狼か?」
サルゴンは彼らを見る。
「おそらくな」
一体の怪物が低い唸り声を上げた。
その音が森の中を伝わっていく。
複数の個体がそれに応える。
森そのものが目を覚ましたかのようだった。
カエレンは周囲を見回す。
「囲まれてるぞ」
サルゴンは落ち着いたままだった。
「好きにさせろ」
最初の一体が突進する。
その速度は驚異的だった。
カエレンは横へ身を躱し、怪物が彼の横を通り過ぎる。
その足元で地面が砕けた。
カエレンの目が見開かれる。
「……あれ、かなり強いぞ」
別の怪物が襲いかかる。
今度はサルゴンが動いた。
わずかな動きだけで攻撃を躱し、そのまま後方へ下がる。
怪物の爪が地面を打ちつける。
強烈な衝撃が周囲の大地を駆け抜けた。
カエレンは目を見張る。
「あれ一体だけでも、街を破壊できる」
サルゴンは怪物たちを見る。
「それ以上かもしれない」
人狼たちが一斉に襲いかかる。
カエレンはその間を縫うように動き、攻撃を防ぎ、そして躱していく。
彼の刃が一体を斬りつける。
その一撃によって怪物は後方へ吹き飛ばされた。
だが――
直後には立ち上がった。
カエレンが眉をひそめる。
「普通じゃない」
サルゴンは注意深く観察していた。
怪物の傷が塞がり始める。
いや――治癒ではない。
それとは何かが違う。
その身体そのものが、以前の状態へ戻っていく。
サルゴンの瞳が細くなる。
「アンデッドだ」
カエレンが彼を見る。
「確かなのか?」
「ああ」
別の怪物が襲いかかる。
カエレンは再びそれを斬りつける。
怪物は倒れる。
そして――立ち上がる。
また。
そして、また。
カエレンが後退する。
「倒れても終わらないぞ」
サルゴンが片手を上げる。
周囲の空間が変化する。
突然、怪物たちの身体が重くなる。
動きが鈍る。
質量制御。
複数の個体が地面へ押しつけられる。
だが、拘束されながらも動き続けていた。
その身体を捻り、圧力へと抗っている。
カエレンがサルゴンを見る。
「質量制御で押さえ込めている。でも、破壊できていない」
「分かっている」
怪物たちが抵抗を始める。
その力が増していく。
足元の地面に亀裂が走る。
サルゴンは能力を解除した。
一体の怪物が、即座に彼へ飛びかかる。
サルゴンは横へ移動する。
爪が虚空を切り裂く。
彼は振り返る。
怪物が再び襲いかかる。
サルゴンが片手を上げる。
怪物の周囲の空気が歪んだ。
怪物が停止する。
一瞬――
森は完全な静寂に包まれた。
サルゴンの瞳は、依然として静かだった。
「お前たちは、ここに存在すべきではない」
怪物が身を捩る。
サルゴンは究極属性を発動する。
爆発は起こらない。
閃光もない。
巨大な衝撃波もない。
その代わり――
怪物は、ただ消えた。
肉体が消えたのではない。
エネルギーが消えたのでもない。
その存在そのものが消去された。
カエレンは呆然と見つめる。
サルゴンは残った怪物たちへ振り返る。
残りの人狼たちが一斉に襲いかかる。
サルゴンが動く。
一体。
また一体。
怪物たちが次々と消えていく。
逃げようとするものもいた。
攻撃を仕掛けるものもいた。
だが、その効果に耐えられるものは一体もいなかった。
数秒もしないうちに――
森は再び静寂へと戻った。
カエレンはゆっくりと武器を下ろす。
「……本当にアンデッドだったんだな」
サルゴンが頷く。
「何かが、ここに留めていた」
カエレンは周囲を見回す。
「なら……何だ?」
サルゴンは答えなかった。
彼の意識は、さらに森の奥へと向けられていた。
巨大な二つの構造物の間に――
かすかな歪みが見える。
カエレンもそれに気づいた。
「あれは何だ?」
サルゴンは歪みへ向かって歩き出す。
二人が近づくにつれて、闇そのものが変化しているように見えた。
空気が歪む。
歪みの向こうにある景色が、異なって見える。
カエレンが立ち止まる。
「……あれは、境界だ」
サルゴンがそれを観察する。
「ああ」
カエレンは後ろを振り返る。
今まで歩いてきた森が、突然違って見えた。
影が、より深くなっている。
巨大な構造物は、さらに歪んで見える。
そして――
自分たちが通ってきた道さえ、どこか不気味なものへと変わっていた。
カエレンが眉をひそめる。
「待て」
彼は境界の向こうを見つめる。
「……あれは、幻影なのか?」
サルゴンが頷く。
「この境界は、認識そのものを変えている」
カエレンは森を見つめた。
「つまり、俺たちの後ろにあるものは、本当の姿とは違って見えている可能性がある?」
「その通りだ」
サルゴンが一歩踏み出す。
カエレンもすぐに後を追った。
境界を越えた瞬間――
すべてが変わった。
闇が消える。
目の前には、広大な砂漠が広がっていた。
黄金色の砂が地平線の彼方まで続いている。
淡い空が世界を覆っていた。
森はない。
巨大な枝もない。
黒い構造物もない。
カエレンが立ち止まる。
そして後ろを振り返った。
そこには境界が立っている。
その向こう側には――あの恐ろしい暗黒の森。
だが、こちら側にはまったく異なる景色が広がっている。
カエレンは数秒間、呆然と見つめた。
「……俺たちは、もう同じ環境にいない」
サルゴンは砂漠全体を見渡す。
「そうだ」
カエレンは境界を指差す。
「つまり、あの森は単純に見た目を変えていたわけじゃない」
サルゴンが頷く。
「あれは、この領域と別の区域を隔てている」
カエレンは地平線を見る。
「別の区域?」
サルゴンは歩き始める。
「確かめるぞ」
二人は砂漠を進んだ。
数マイル進んでも、何もなかった。
ただ砂だけが続いている。
ここでの静寂は、森とは違っていた。
圧迫感はない。
ただ、果てしなく広い。
やがて、カエレンが遠くに何かを見つけた。
「待て」
サルゴンが立ち止まる。
カエレンが指差す。
「あれだ」
砂丘の遥か彼方に、巨大な構造物が立っていた。
最初は岩のように見えた。
だが、次第にその形が明確になっていく。
城壁。
塔。
建物。
都市だった。
カエレンの表情が変わる。
「……人がいる」
サルゴンは遠くの都市を観察する。
城壁の上を移動する人影が見える。
門へ向かう隊商。
道を歩く人々。
その都市は――生きていた。
そして距離から判断する限り、最初に想像していたより遥かに巨大だった。
カエレンが笑みを浮かべる。
「文明だ」
サルゴンが頷く。
「なら、ここを始点にする」
二人は都市へ近づいていく。
距離が縮まるにつれて、様々な種族の姿が見えてきた。
人間。
そして――明らかに人間ではない者たち。
獣の耳を持つ者。
角を持つ者。
尻尾を持つ者。
人間とはまったく異なる特徴を持つ者たちもいる。
カエレンは静かに彼らを観察する。
「亜人……」
サルゴンは答えなかった。
彼の意識は都市の入口へ向けられていた。
そこには複数の衛兵が立っている。
隊商が荷物を積んだまま門を通過していく。
旅人たちが物資を抱えて外へ出てくる。
街の雰囲気は活気に満ちているが、秩序も保たれていた。
カエレンがサルゴンを見る。
「物資が必要だ」
「ああ」
「それと情報も」
「ああ」
カエレンが笑う。
「つまり、買い物ってことだな」
サルゴンは彼を見る。
「そういうことになる」
二人はそのまま都市へ向かって進み続けた。
システムが静かに、アル・メラージュ号に残された必要物資を表示する。
【残存必要物資】
【高純度星金属】
【虚無耐性構造合金】
【次元安定化部品】
【時間帆コア部品】
リストは変わらない。
カエレンは表示された情報を見る。
「この都市に、そのうち一つでもあれば、船の修理を続けられるかもしれない」
サルゴンが頷く。
「確かめる」
二人は都市の城門へ続く外縁道路へ到着した。
カエレンが振り返る。
遥か後方には、砂漠が遠くの境界まで続いている。
その向こう側には――暗黒の森。
二つの環境は、まるでまったく関係のない場所のように見える。
それでも――
それらは隣り合って存在していた。
二人には理解できない何かによって隔てられている。
カエレンは首を振る。
「ここは、どんどん奇妙になっていくな」
サルゴンは都市へ視線を向ける。
「まだ十分に見ていない」
カエレンが笑う。
「それが問題なんだろうな」
二人はさらに前へ進んだ。
二人とも、都市の名前を知らない。
その法律も知らない。
そこに暮らす人々のことも知らない。
必要な物資の価値も知らない。
そして――砂漠の向こうに、どんな秘密が隠されているのかも知らない。
だが、二人はついに、今の自分たちが切実に必要としていたものを見つけた。
文明。
情報を集める場所。
そして、おそらく――
アル・メラージュ号を修復するために必要な物資。
二人の背後で、境界は静寂を保っていた。
その向こう側では、暗黒の森が待っている。
そしてサルゴンもカエレンもまだ理解していなかった。
なぜ、あれほど広大で恐ろしい森が――この一見平凡な砂漠の文明から隔てられているのか。
だが今は、もっと差し迫った目的がある。
都市へ入る。
必要な物資を探す。
そして――
自分たちが一体どこへ辿り着いたのかを知る。




