静かな森
アル・メラージュは、暗闇の中を漂っていた。
船はもはや、かつてのような確かな力強さで進んではいなかった。
ダークマターの帆は部分的に崩壊している。
黒曜星金属で造られた船体のいくつかの区画では、滑らかで幾何学的だった表面が失われ、奇妙な攻撃によって船の構造そのものが干渉されたかのような、歪んだ箇所が残されていた。
指令室では、警告灯が絶えず点滅している。
カエレンは航行プラットフォームの前に座り、損傷したシステムを見つめていた。
数秒間、彼は何も言わなかった。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「これは……まずいな」
その後ろに、サルゴンが立っていた。
その表情は、依然として落ち着いている。
「どれくらいだ?」
カエレンはシステムの読み取り結果に目を向けた。
「正直な答えが聞きたいか?」
「ああ」
「この船がまだ動いていること自体が、幸運だ」
サルゴンは観測窓へと視線を向けた。
彼らを取り囲んでいるのは、〈外縁のヴェール〉だった。
それは、これまで彼らが見たものとはまるで違っていた。
見慣れた星間航路はない。
既知の惑星を示す目印もない。
認識可能な航行ビーコンも存在しない。
既知の文明もない。
そこにあるのは――ただ、闇だけだった。
そして、その暗闇の中には、巨大な構造物が立っていた。
それは、まるで樹木のようだった。
宇宙を貫くほど巨大で、太古から存在しているかのような樹木。
その幹はあまりにも巨大で、カエレンにはどこから始まっているのかさえ判断できなかった。
枝々は遥か彼方へと伸び、暗闇の中へ消えている。
その間には、かすかな光が浮かんでいた。
白いものもある。
淡い青色のものもある。
そして、遠くの星にしか見えないほど微かなものもあった。
まるで、この宇宙全体が果てのない森であるかのようだった。
カエレンは観測窓越しに、その光景を見つめた。
「俺には、自分が何を見ているのかさえ分からない」
サルゴンは黙っていた。
彼にも分からなかった。
その時、突然、中央コンソールの上にコア・スピリットが現れた。
機械仕掛けの鷹の星座の翼が、弱々しく明滅する。
いつもの青い光は不安定だった。
【システム損傷評価――完了。】
カエレンはすぐにそちらへ振り向いた。
「やっとか」
機械の鷹は、複数の情報レイヤーを空中へ投影した。
【船体状態:危険。】
【船体完全性:39%。】
【空間スラスター:28%。】
【ダークマター・セイル:43%。】
【時間帆:オフライン。】
【次元ドライブ:不安定。】
【コア・スピリット:71%。】
カエレンは表示された数字を見つめた。
「船体完全性、39パーセント……」
彼は額を押さえた。
「そりゃ、あれだけうるさいわけだ」
その瞬間、背後のどこかから金属音が響いた。
――キィィィィン……!
カエレンは天井を見上げた。
「……あれは本当に嫌な音だ」
サルゴンは中央コンソールへ歩み寄った。
「修復できるか?」
コア・スピリットは即座に応答した。
【部分修復:可能。】
カエレンは姿勢を正した。
「よし」
しかし、次の一文が表示された。
【必要素材:現在の船内に存在。】
カエレンは瞬きをした。
「……待て」
コア・スピリットは続ける。
【緊急修復手順:使用可能。】
【推定船体修復率:68%。】
カエレンは笑みを浮かべた。
「それなら、かなりマシだ」
サルゴンは頷いた。
「開始しろ」
コア・スピリットの翼が開く。
アル・メラージュ内部の複数の区画が解錠された。
壁の内部から、古代の修復機構が姿を現す。
金属製のアームが損傷した船体へ向かって伸びていく。
星金属コア・マトリクスが修復システムへエネルギーを供給し始めた。
船は、ゆっくりと再び息を吹き返していく。
カエレンはその作業を見守った。
外縁のヴェールへ入ってから初めて、彼の表情がわずかに緩んだ。
「つまり、この船は自力で修復できるんだな」
「部分的に」
サルゴンが答えた。
カエレンは彼を見る。
「……せっかくのいい雰囲気を台無しにする必要あるか?」
サルゴンは無視した。
修復作業は続いていく。
損傷した星金属が取り除かれる。
内部構造の支持部が移動する。
破損した導管がいくつも交換される。
ダークマター・セイルのシステムが徐々に安定していく。
船内が静かになっていく。
絶え間なく続いていた振動が消える。
警告灯が一つ、また一つと消えていった。
そして――
【緊急修復:42%。】
【緊急修復:57%。】
【緊急修復:64%。】
カエレンは数字を見つめた。
「頼むぞ……」
数字が止まる。
【緊急修復:完了。】
カエレンは笑った。
「やっとか」
しかし、次のメッセージが表示された。
【船体状態:安定。】
カエレンは背もたれに身を預ける。
「つまり、修理完了ってことだな」
コア・スピリットはしばらく沈黙した。
そして――
新たなメッセージが表示された。
【否定。】
カエレンの笑顔が消えた。
「……何?」
サルゴンもシステムへ視線を向ける。
次の情報が複数のレイヤーとなって表示された。
【船体は安定。】
【船体は完全には修復されていない。】
【不足素材を検出。】
カエレンは画面を凝視した。
「つまり、さっきのは緊急修復にすぎないってことか?」
【肯定。】
サルゴンが一歩近づく。
「不足している素材を一覧表示しろ」
システムが応答する。
いくつもの未知の素材分類が表示された。
その一部には、不完全な説明しか存在していない。
【高純度星金属:不足。】
【虚無耐性構造合金:不足。】
【次元安定化コンポーネント:欠損。】
【時間帆コア・コンポーネント:欠損。】
【高性能コア導体:不足。】
カエレンの表情が徐々に変わっていく。
「つまり、今あるものだけじゃ完全修復はできない」
【正しい。】
彼はサルゴンを見る。
「じゃあ、どうやって手に入れる?」
コア・スピリットが一瞬停止する。
そして、新たなメッセージが表示された。
【素材の調達が必要。】
【可能な方法:】
【1.回収。】
【2.交易。】
【3.購入。】
カエレンは最後の項目を見つめた。
「購入……」
さらにメッセージが表示される。
【推定調達費用:極めて高額。】
カエレンの眉が上がった。
「どれくらい高い?」
システムが複数の数値を表示した。
カエレンは黙り込んだ。
数秒間、その数字を見つめ続ける。
そして、ゆっくりとサルゴンを見る。
「……金が必要だな」
サルゴンは無表情のままだった。
「いくらだ?」
カエレンは投影された数字を指差した。
「言いたくなくなるくらいだ」
サルゴン自身が数字を確認する。
しかし、その表情に変化はない。
「回収によって素材を入手できる」
カエレンは頷いた。
「それなら金はかからない」
「回収できるならな」
「そして、見つけられるならな」
サルゴンは答えなかった。
それこそが問題だった。
彼らは完全に未知の宇宙へ入ってしまった。
この宇宙の市場を知らない。
資源の存在する場所も知らない。
住民についても何も知らない。
そもそも、アル・メラージュが必要としている素材が近くに存在するのかすら分からない。
カエレンは再び観測窓の外を見た。
巨大な暗黒の構造物が、彼らを取り囲んでいる。
「つまり、俺たちは何も知らない宇宙で、半分しか修復されていない船に取り残されたってことか」
サルゴンが訂正する。
「取り残されたわけではない」
カエレンは彼を見る。
「安全に航行できないだけだ」
カエレンはため息をついた。
「それ、ほとんど同じ意味だろ」
サルゴンはその言葉を無視した。
そして、コア・スピリットへ視線を向ける。
「航行に必要な最低条件は?」
システムは即座に応答した。
【現在の船体状態:限定的な移動には十分。】
【長距離次元航行:非推奨。】
【高速空間航行:非推奨。】
【長時間戦闘:非推奨。】
カエレンは頷いた。
「つまり、絶対に何かと戦うなってことだな」
サルゴンは外の森へ視線を向けた。
「安定した場所が必要だ」
カエレンは航行システムを起動した。
画面が明滅する。
しかし、何も起こらない。
彼はもう一度試した。
それでも何も起こらなかった。
「航行データベースが何も認識してない」
コア・スピリットが確認する。
【外縁のヴェール航行データ:なし。】
カエレンは画面を見つめた。
「最高だな……」
彼は身を乗り出す。
「安定した領域を探知できるか?」
【スキャン開始。】
機械仕掛けの鷹が翼を開く。
青い光の波が船内を通り抜ける。
周囲の暗闇がディスプレイへ映し出された。
巨大な樹木のような構造物が、投影画面を埋め尽くす。
その間には、無数の暗闇が存在していた。
密集している場所もある。
何もない場所もある。
そして、微かなエネルギー反応を示す場所もあった。
やがて、一つの領域だけがわずかに明るく表示された。
【安定領域を検出。】
カエレンはそれを見る。
「距離は?」
【距離:370万キロメートル。】
カエレンは凝視した。
「……近くないな」
サルゴンは航行ディスプレイを見る。
「到達できるか?」
【肯定。】
カエレンはわずかに笑った。
「ようやく、いい知らせが来たな」
システムは即座に続けた。
【推定航行時間:約19時間。】
カエレンの笑顔が消えた。
「……やっぱりな」
サルゴンは背を向けた。
「進めろ」
カエレンは損傷した空間スラスターを起動する。
アル・メラージュは、ゆっくりと動き始めた。
巨大な暗黒構造物が、彼らの周囲を通り過ぎていく。
その後、数時間。
サルゴンもカエレンも、ほとんど言葉を交わさなかった。
外縁のヴェールは、奇妙なほど静かだった。
船影は現れない。
通信信号も届かない。
目に見える文明が、この暗闇を乱すこともない。
ただ、巨大な森のような構造物だけが存在していた。
カエレンは時折、航行データを確認した。
サルゴンは観測窓の近くに立ったままだった。
彼はその奇妙な環境を注意深く観察している。
何かが、見慣れない。
脅威ではない。
平穏でもない。
ただ――
異質だった。
数時間後、カエレンが口を開いた。
「なあ、気になることがある」
サルゴンは振り向かなかった。
「何だ?」
「俺たちが見てるあれ……本当に木なのか?」
サルゴンは最も近くにある巨大な構造物へ視線を向けた。
その表面は、暗闇の中でほとんど見えない。
遠くに伸びた枝の一つを、淡い光が走っていく。
サルゴンは数秒間、それを観察した。
「分からない」
カエレンは頷いた。
「だよな」
二人は、それ以上近づこうとはしなかった。
船は進み続ける。
やがて、安定領域が航行ディスプレイに映し出された。
それは、巨大な暗黒構造物に囲まれた、比較的開けた領域だった。
カエレンは船の速度を落とした。
「ここが、俺たちの一時的な拠点だ」
アル・メラージュがその領域へ入る。
直後、船は比較的安定した空間場を検出した。
激しい空間の歪みはない。
即座に干渉してくるものもない。
カエレンは慎重に船を配置した。
損傷した船は、ゆっくりと静止した状態で漂い始める。
彼はようやく操縦装置から手を離した。
「着いたぞ」
サルゴンはシステムへ目を向けた。
「修復準備を開始しろ」
カエレンは頷いた。
コア・スピリットが、使用可能な資源の整理を始める。
損傷した部品が分離される。
使用可能な素材が修復室へと運ばれていく。
星金属コア・マトリクスは、ゆっくりと同期を続けていた。
【コア同期率:13%。】
それ以上、数値は上昇しなかった。
カエレンがそれに気づく。
「まだ13パーセントか」
サルゴンは頷いた。
「時間がかかる」
カエレンはシステムへ視線を向ける。
「不足している素材は?」
「いずれ手に入る」
カエレンはかすかに笑った。
「お前はいつも、まるですべてが勝手に解決するみたいに言うよな」
サルゴンは彼を見る。
「解決するとは言っていない」
カエレンは瞬きをした。
「……それ、余計に悪いだろ」
一瞬、指令室は再び静寂に包まれた。
そして、コア・スピリットが声を発する。
【追加情報。】
サルゴンがそちらを見る。
「何だ?」
【素材調達手段を検出。】
新たな投影画面が現れた。
そこには地図はなかった。
文明もない。
具体的な場所も表示されていない。
ただ、三つのカテゴリーだけが表示された。
【回収。】
【交易。】
【購入。】
カエレンは最後の項目に表示された、とてつもなく大きな数字を見た。
そして、即座に頭の中で却下した。
「回収だ」
サルゴンは頷いた。
「同意する」
カエレンは観測窓の外を見る。
奇妙な暗黒の森が、船の彼方へと果てしなく広がっていた。
この宇宙のどこかに、彼らが必要とする素材が存在している。
あとは、それを見つけるだけだ。
そして、外縁のヴェールへ入ってから初めて、彼らの目的は単純になった。
アル・メラージュを修復する。
そして――
旅を続ける。
サルゴンは窓から離れた。
「スキャンを開始しろ」
コア・スピリットが命令に従う。
機械仕掛けの鷹が、星座の翼を大きく広げた。
青い光の波が、音もなく暗闇の中へと広がっていく。
数秒間、何も起こらなかった。
そして――
【スキャン中。】
【未知の環境。】
【未知の素材分布。】
【未知の生命反応分布。】
最後のメッセージが表示された。
【外縁のヴェール:探索が必要。】
サルゴンは暗闇へ視線を向けた。
その表情は、依然として冷静だった。
だが、その瞳にはわずかな鋭さが宿っていた。
船は安定している。
目の前の危機は去った。
修復も始まった。
しかし、アル・メラージュを完全に修復するために必要な素材は、この奇妙な宇宙のどこかに存在している。
そして――
彼らには、どこから探し始めればいいのかさえ分からなかった。
船の外では、巨大な暗黒の森が完全な静寂の中に佇んでいる。
今は――ただ、それだけだった。




