「コア同期」
第一時代の造船所は、ゆっくりと彼らの背後へと消えていった。
アル・メラージュ号は古代の通路を進み、その黒曜石の船体が、放棄された施設に残るかすかな深紅と銀色の光を反射していた。
造船所へ入って以来、初めて――古代の機構が答えを要求することはなかった。
守護者もいない。
指揮紋章もない。
試練もない。
ただ、静寂だけがあった。
カエレンは航行プラットフォームの近くに立ち、観測窓の向こうで遠ざかっていく造船所を見つめていた。
「……つまり、俺たちは本当にあそこを生き延びたんだな」
彼はゆっくりと息を吐きながら言った。
サルゴンは彼の隣に立っていた。
その表情は変わらない。
「そうだ」
カエレンは彼をちらりと見た。
「ずいぶん自信満々に聞こえるんだが」
サルゴンは答えなかった。
彼の意識は中央システムへと向けられていた。
三つの指揮紋章は、すでに造船所の指揮ネットワークへ統合されている。
そして今――次の段階が始まろうとしていた。
星金属コア・マトリクス。
アル・メラージュ号をかすかな振動が通り抜けた。
コア・スピリットを象徴する機械の鷹が、中央コンソールの上に姿を現す。
青い星座の翼が開いた。
【コア同期:初期化中】
カエレンの表情が変わった。
「もう?」
サルゴンは船の中央部へ視線を向けた。
「そのようだ」
機械の鷹が首を傾ける。
【アル・メラージュ号のコア構造を検出】
【第一時代・星金属コア・マトリクスを検出】
【指揮権限:完全】
【船体同期を開始】
アル・メラージュ号の内部が静まり返った。
そして――
ヴゥゥゥゥゥゥゥ――
深い振動が船全体を駆け抜けた。
壁面に細い銀色の線が灯る。
古代の幾何学模様が床一面に浮かび上がり、中央区画へ向かって広がっていった。
カエレンは周囲を見回した。
「これは……起きていいことなのか?」
「そうだ」
「もし違ったら?」
サルゴンは彼を見る。
「その時は、分かる」
カエレンは数秒間、彼を見つめた。
「……本当に、人を安心させるのが下手だな」
サルゴンは再びシステムへ視線を戻した。
同期は続いていた。
星金属コア・マトリクスが、アル・メラージュ号の既存コアとの接続を開始する。
一つ、また一つとシステムが応答していく。
航行システム。
空間スラスター。
ダークマター・セイル。
時間帆。
防御構造。
コア・スピリット。
それらすべてが、一つの統合ネットワークへと組み込まれ始めた。
そして――システムが停止した。
【同期率:7%】
カエレンが眉を上げる。
「七パーセント?」
数字が変化する。
【8%】
「遅いな」
【9%】
カエレンは腕を組んだ。
「待つしかなさそうだな」
サルゴンは答えなかった。
代わりに――
突然、彼は顔を横へ向けた。
その瞳が、わずかに細くなる。
何かがおかしい。
船の内部ではない。
外だ。
機械の鷹の翼が、突然――静止した。
その頭部が、観測窓へと向けられた。
【警告】
穏やかな静寂が消え去った。
【未確認現象を検出】
カエレンは即座に航行プラットフォームへと移動した。
「何だ?」
窓の外にあった星々が消えた。
アル・メラージュ号が移動したからではない。
何かが、その間を通過したのだ。
巨大な闇。
その形を判別することは不可能だった。
明確な肉体は存在しない。
視認可能な船体もない。
認識可能なエネルギー反応もない。
ただ周囲の空間そのものが――
異常になったように感じられた。
船体が揺れる。
ゴォォォォォン――
カエレンはコンソールを掴んだ。
「今のは何だ?!」
船内全体が震動する。
サルゴンは立ったままだった。
彼の瞳が外殻へと向けられる。
そして――
再び衝撃が走った。
ゴォォォォォン――
今度は船内全域に警告シンボルが浮かび上がった。
【船体歪曲を検出】
【外部構造干渉】
【警告:標準防御システムでは無効化不能】
カエレンの表情が険しくなる。
「防御システムが……無効?」
彼はサルゴンを見る。
「破壊できるか?」
サルゴンはすぐには答えなかった。
その視線は、読み取られる数値へと向けられたままだった。
「……無理だ」
カエレンが瞬きをする。
その答えは珍しかった。
サルゴンは続ける。
「直接攻撃しているわけではない」
「なら、何をしている?」
「船と干渉している」
再び震動が走る。
今度は、いくつかの照明が消えた。
コア・スピリットが突然、歪んだ機械音を発する。
【コア接続:不安定化】
カエレンの表情が変わった。
「船のシステムを攻撃しているのか」
サルゴンが頷く。
その脅威は、強力な攻撃によってアル・メラージュ号を破壊しようとしているのではなかった。
もっと異質なことをしていた。
船体。
空間システム。
コア。
そして――
船という存在そのもの。
それらの間に存在する繋がりへ、何かが干渉している。
サルゴンが片手を上げる。
指先の周囲の空気が、わずかに歪んだ。
彼は質量制御を適用しようとした。
何も起こらなかった。
その瞳が細くなる。
抵抗されているわけではない。
そもそも、制御できるほど安定したものが存在していなかった。
再び船が揺れる。
ギギギギギギ――
外殻の一部が変形し始めた。
カエレンは即座に航行席へ移動する。
「サルゴン!」
「分かっている」
「ここに留まるわけにはいかない!」
カエレンは緊急航行システムを起動した。
損傷したシステムが、ゆっくりと応答する。
【空間スラスター:不安定】
【時間帆:オフライン】
【ダークマター・セイル:43%】
【次元航行:使用可能】
カエレンは最後の項目を見つめた。
「次元航行……」
彼はサルゴンを見る。
「今いるエーテル海の座標から離れる必要がある」
サルゴンが彼を見る。
「通路を開けるか?」
「制御されたものは無理だ」
一瞬の沈黙。
カエレンの表情が険しくなる。
「強引に開くことならできる」
再び船体へ衝撃が走った。
ゴォォォォォン――
観測窓に亀裂が走る。
カエレンが即座に叫んだ。
「なら、やるぞ!」
サルゴンは彼へ振り返る。
「アル・メラージュ号を頼む」
カエレンが固まった。
「……何?」
「俺はここに残る」
カエレンの目が見開かれる。
「ダメだ」
サルゴンは船の後方区画へ歩き始めた。
奇妙な現象が彼を追うように動く。
彼の周囲の壁が歪み始めた。
サルゴンは立ち止まる。
その表情が、初めてわずかに集中したものへ変わった。
「コアから引き離す必要がある」
カエレンは拳を握る。
「一人であれと戦うつもりか?」
「戦うんじゃない」
サルゴンは船体の外側で歪む空間へ視線を向ける。
「時間を稼ぐ」
カエレンは理解した。
次元通路が形成されている間に、あの脅威がコアへ到達すれば――アル・メラージュ号は決して逃げられない。
彼は航行プラットフォームへ戻る。
「分かった」
両手を操作盤へ伸ばす。
「だが、死ぬなよ」
サルゴンがカエレンを一瞥する。
「要求が増えたな」
カエレンは疲れたように笑う。
「誰かが言わないとな」
次元システムがチャージを開始する。
【緊急次元通路】
【目標座標:不明】
【目的地:未確定】
カエレンは表示を見つめた。
「目的地……不明」
サルゴンが表示を見る。
「開けろ」
カエレンは躊躇した。
「入ったら、どこへ出るか分からないぞ」
「分かっている」
「なら、せめて……着地できる場所があることを祈ろう」
船が軋んだ。
文字通り叫んだわけではない。
だが、船を構成するすべての金属構造が一斉に振動したかのようだった。
未知の現象が、再び衝突する。
今度は中央コアが明滅した。
【コア同期:中断】
【同期率:12%】
サルゴンが動く。
彼は手を床へ触れた。
質量制御が発動する。
しかし――敵を対象にはしなかった。
アル・メラージュ号そのものを対象とした。
損傷した船体区画の質量が増大する。
変形の速度が遅くなる。
船が安定した。
カエレンは即座に理解した。
サルゴンは未知の現象を攻撃しているのではない。
船に時間を与えているのだ。
「三十秒!」
カエレンが叫ぶ。
サルゴンは答えない。
外の闇が動く。
近づいてくる。
船内の照明が明滅する。
サルゴンは、その闇とコアの間に一人で立っていた。
白い髪が、不安定な圧力によって僅かに揺れる。
その瞳は、依然として静かだった。
アル・メラージュ号の背後で、次元通路が形成され始める。
空間に一本の細い線が現れる。
そして、もう一本。
線が外側へと広がっていく。
巨大な開口部が、ゆっくりと形成されていった。
その向こうにあるのは、闇。
ただの宇宙空間に存在する闇ではない。
もっと深いもの。
未知なるもの。
カエレンはそれを見つめる。
「あれが……俺たちの脱出口か」
サルゴンが頷く。
「行け」
カエレンは操縦装置を強く握る。
「お前も連れていく」
「時間がない」
「時間なら作る」
次元通路が拡大する。
【通路安定率:61%】
未知の現象が再び衝突する。
サルゴンが手を上げた。
質量制御が損傷区画全体へと広がる。
衝撃が別方向へ逸らされる。
船体が激しく揺れる。
カエレンはエンジンを安全限界を超えて稼働させる。
【空間スラスター:過負荷】
「頼む……!」
通路がさらに広がる。
【通路安定率:84%】
サルゴンはアル・メラージュ号を振り返った。
コア・スピリットの機械の鷹が、彼の隣に姿を現す。
青い翼が明滅する。
サルゴンは片手を船内の壁へ置いた。
同期は、まだ完了していない。
だが――
何かが変わっていた。
星金属コア・マトリクスは、この船を認識していた。
そして――
サルゴンを認識していた。
【コア同期:13%】
サルゴンの瞳が細くなる。
「……もういい」
彼は質量制御を解除した。
カエレンは理解した。
今だ。
彼は次元航行システムを起動する。
「しっかり掴まってろ!」
アル・メラージュ号が加速する。
船体全体が次元通路へと突入した。
ほんの一瞬――すべてが消えた。
音。
光。
空間。
時間。
そして――
クラァァァァァッシュ――
アル・メラージュ号が姿を現した。
船は暗闇の中で激しく回転する。
カエレンは必死に制御を取り戻そうとした。
「何が起きた?!」
航行システムは、ほぼ完全に機能を失っていた。
【次元遷移:完了】
【現在地:不明】
【宇宙識別:アウター・ヴェイル】
カエレンは表示された文字を見つめた。
「アウター・ヴェイル……?」
サルゴンがゆっくりと立ち上がる。
彼は損傷した観測窓の向こうを見た。
二人とも、何も言わなかった。
目の前に広がる宇宙は――あまりにも巨大だった。
だが、二人が知る宇宙の景色とは似ても似つかなかった。
すべてを闇が覆っている。
遠方には、巨大な樹木のような途方もない影が伸びていた。
その枝々は虚空全体へと広がっている。
かすかな光に照らされているものもあれば――
完全に闇の中へと消えているものもあった。
目立った都市は存在しない。
艦隊もない。
見慣れた構造物もない。
ただ――
果てしなく広がる、奇妙な環境。
まるで巨大な森が、一つの宇宙そのものを呑み込んでしまったかのようだった。
カエレンが小さく呟く。
「……ここは、どこだ?」
サルゴンは遠くの闇を見つめた。
「分からない」
突然、船体が揺れる。
【警告】
【複数システム障害】
【船体完全性:39%】
【空間スラスター:損傷】
【ダークマター・セイル:危険域】
【時間帆:オフライン】
カエレンはゆっくりと両手を下ろした。
「……俺たちは生きてる」
サルゴンが頷く。
「今のところはな」
カエレンは観測窓の向こうに広がる、果てしない暗黒の森を見つめる。
「それで……俺たちは自分たちがどこにいるのか、まったく分からない」
サルゴンは黙っていた。
再びコア・スピリットが姿を現す。
その機械の鷹の姿は損傷していた。
星座の翼の一枚が、かすかに明滅している。
【新たな宇宙を検出】
【アウター・ヴェイル】
【航行データベース:一致する記録なし】
【修復が必要】
カエレンは座席にもたれかかる。
「つまり……俺たちは遭難したってことか」
サルゴンは巨大な闇へ視線を向ける。
「一時的にな」
「ずいぶん確信があるな」
「船がある」
カエレンは損傷した船体を見回す。
そして再びサルゴンを見る。
「半分しかないけどな」
サルゴンは船内へ視線を向ける。
「重要な半分は残っている」
カエレンはため息を吐いた。
「それも全然安心できないんだが……」
数秒間、二人は何も話さなかった。
アウター・ヴェイルは静寂に包まれていた。
暗闇のどこかで、巨大な枝々がゆっくりと動いている。
こちらへ向かっているわけでもない。
遠ざかっているわけでもない。
ただ、動いている。
まるで――
何か古代の存在が、眠りの中で呼吸しているかのように。
サルゴンは、それらを注意深く観察した。
アウター・ヴェイルに何が存在するのか、彼には分からない。
どれほど広大なのかも分からない。
そこに誰かが住んでいるのかも分からない。
そして――
二人を取り囲む奇妙な森を、何が創り出したのかも分からない。
だが、一つだけ理解していた。
このまま航行を続けることはできない。
アル・メラージュ号には修復が必要だった。
そして――
星金属コア・マトリクスの同期率は、まだ13%にしか達していない。
サルゴンは観測窓から離れる。
「安定した場所を探せ」
カエレンは損傷した航行パネルを見る。
「……しばらくかかりそうだな」
「なら、始めろ」
カエレンは疲れたように笑った。
「了解です、司令官」
機械の鷹が損傷した翼を広げる。
船はゆっくりと暗闇の奥へ進んでいく。
未知なる宇宙――
アウター・ヴェイルへ。
そしてその果てなき宇宙の森のどこかで――
アル・メラージュ号は、二人が一度も見たことのない宇宙を巡る、最初の航海を始めた。




