無効指揮
静寂が、部屋を支配していた。
静かなる瞳の観測所に存在していた何千ものレンズは、すでに動きを止めていた。
一つ、また一つと、古代の機構が壁の内部へと折り畳まれていく。
残されたのは、中央区画だけだった。
サルゴンは、第二指揮紋章の前に立っていた。
銀色の構造体は、台座から数センチほど浮かんでいる。
鎖はない。
守護者もいない。
警告すらない。
ただ、静寂だけがあった。
カエレンが周囲を見回した。
「……つまり、これで終わりなのか?」
サルゴンは彼を一瞥した。
「違う。」
カエレンはため息をついた。
「そう言うと思ってた。」
銀色の紋章が、ゆっくりと回転した。
かすかな機械音が、部屋の中に響く。
そして――
KRRRNNN――
二人の足元にある床が動いた。
観測所全体が震え始める。
カエレンは即座に片手を武器へ伸ばした。
「今度は何だ?」
サルゴンは答えなかった。
彼の視線は、床へと向けられていた。
古代の金属で造られた円形の区画が、観測所の真下で開いていく。
だが、これまでの部屋とは違って、階段は存在しなかった。
そこにあったのは、ただの闇。
完全なる闇だった。
普通の闇ではない。
観測所の銀色の光でさえ、その開口部に触れた瞬間に消失していた。
カエレンは下を見つめた。
「……安全そうには見えないな。」
「安全ではない。」
「床が開く前に言ってくれればよかったのに。」
「聞かれていない。」
カエレンはゆっくりとサルゴンを見た。
「本当に、君はどうしようもないな。」
サルゴンは一歩、前へ進んだ。
その足が開口部の境界を越えた瞬間――
通知が表示された。
【アヌンナキ造船所システム】
【第二指揮権限:認証済み】
【観測権限:解除】
【残存指揮権限:一】
【位置:無効指揮】
【警告:】
【第三指揮権限は、造船所を制御するものではない。】
【それは、造船所が何を隠すために造られたのかを制御する。】
サルゴンの表情は変わらなかった。
カエレンは最後の一文を二度読み返した。
「……それは、一体どういう意味だ?」
サルゴンは闇の中を見つめた。
「これから分かる。」
彼は、その中へ足を踏み入れた。
カエレンも続く。
闇が、二人を飲み込んだ。
二人は落下した。
下へ――ではない。
少なくとも、通常の意味での「下」ではなかった。
風を感じない。
重力もない。
方向という感覚すら存在しない。
数秒間、サルゴンとカエレンは完全な暗闇の中を、ただ浮遊していた。
やがて――
二人の下方に、かすかな金属の光が現れた。
巨大な構造物が姿を現す。
カエレンの目が大きく見開かれた。
「……あれは何だ?」
サルゴンは黙ったままだった。
二人の眼下に広がっていたのは、巨大な円形施設だった。
それは、上層の造船所よりも大きかった。
遥かに大きい。
外壁は、闇の中へ消えている。
中央構造体の周囲には、何百もの巨大なリングが存在していた。
ゆっくりと回転しているものもあれば、完全に停止しているものもある。
その間には、数え切れないほどの封印された区画が並んでいた。
そして、それぞれの区画には黒い球体が一つずつ収められている。
その数は――数千。
カエレンはそれを見つめた。
「……あれは武器なのか?」
「違う。」
「なら、何だ?」
サルゴンは目を細めた。
「記録だ。」
カエレンは困惑した。
「記録?」
「可能性はある。」
二人は中央プラットフォームへ向かって降下していく。
二人の足が古代の金属へ触れた瞬間――
施設全体が目を覚ました。
一つのリングが回転する。
次に、もう一つ。
そして、さらにもう一つ。
やがて、巨大な構造体全体が動き始めた。
BOOOOOOM――
深い振動が、空間全体を貫いた。
そして、声が響いた。
あらゆる場所から同時に聞こえてくる声だった。
「無効指揮。」
カエレンは即座に武器を抜いた。
声は続いた。
「最終権限が必要。」
サルゴンが一歩前へ出る。
「認証。」
淡い光線が、彼の前に現れた。
その内部に、三つのシンボルが形成される。
王冠。
空白の円。
そして、砕けた星。
さらに――
第四のシンボルが現れた。
人間のシルエット。
カエレンは眉をひそめた。
「……これは新しいな。」
サルゴンは、それを注意深く見つめた。
再び、声が響く。
「権限の目的を定義せよ。」
カエレンはサルゴンへ視線を向けた。
サルゴンは沈黙していた。
これまでの試練とは、問いそのものが違っていた。
何を持っているのかを問われているわけではない。
何かを支配できるかを問われているわけでもない。
問われているのは――
なぜなのか。
サルゴンは、ついに答えた。
「選択する自由を守るためだ。」
何も起こらなかった。
カエレンは待った。
施設は沈黙したままだった。
やがて――
王冠のシンボルが消えた。
声が続く。
「力の目的を定義せよ。」
サルゴンは即座に答えた。
「それなしでは成し遂げられないことを、成し遂げるためだ。」
静寂。
空白の円が消えた。
残されたのは、砕けた星だけ。
そして――
「虚無の目的を定義せよ。」
カエレンはサルゴンを見た。
初めて、彼でさえサルゴンがどんな答えを返すのか分からなかった。
サルゴンは、砕けた星を見つめた。
彼の器の内部に存在するソヴリン・ヴォイドは、完全な静寂を保っていた。
そして、彼は言った。
「まだ存在していない何かのために、余白を残すことだ。」
施設全体が停止した。
回転していたすべてのリングが凍りつく。
無数の黒い球体も、完全に静止した。
そして――
中央プラットフォームが開いた。
その下から、小さな物体が浮かび上がる。
黒い金属の欠片。
それはサルゴンの手のひらよりも大きくない。
その表面には、三本の銀色の線が交差していた。
カエレンはそれを見つめた。
「……あれが、第三の指揮紋章なのか?」
サルゴンは、それへ手を伸ばした。
その指が物体に触れた瞬間――
【第三指揮紋章を検出。】
【無効指揮:認証を実行中。】
黒い欠片が、無数の粒子へと溶解した。
それらはサルゴンの手の中へと入り込んでいく。
彼の掌に奇妙な紋様が浮かび上がった。
そして――消えた。
【第三指揮紋章:無効指揮】
【状態:受諾】
【アヌンナキ造船所指揮権限:完全】
【第一時代・星金属コア・マトリクス:アクセス拡張】
【無効指揮権限:解除】
カエレンはサルゴンを見つめた。
「……これで終わりなのか?」
サルゴンは巨大な施設へ視線を向けた。
「違う。」
その瞬間――
施設全体が突然、目を覚ました。
無数の黒い球体が、すべて開いていく。
その内部には、それぞれ異なる映像が映し出されていた。
古代の船。
滅びた都市。
未知の世界。
海の上空に浮かぶ巨大構造物。
軍勢。
機械。
人々。
文明。
そして――
映像が消え始めた。
一つ、また一つと。
カエレンは困惑しながらそれを見つめた。
「なぜ消えている?」
サルゴンはすぐには答えなかった。
彼は最も近くにある球体へ歩み寄る。
その内部には、第一時代の造船所の映像が映っていた。
だが――
何かがおかしい。
そこに映っていたのは、造船所が水没する前の姿だった。
何千もの船がドックを埋め尽くしている。
アヌンナキ文明は、まだ生きていた。
そして――
映像が変化した。
巨大な構造物が、造船所の上空に出現する。
名前はない。
識別情報もない。
ただ、黒い幾何学的な形状だけが存在していた。
それが出現した瞬間――
第一時代のすべての船が停止した。
文明全体が、凍りついたかのようだった。
そして――
記録は終了した。
サルゴンは、空になった球体を見つめた。
「誰かが、その出来事を取り除いた。」
カエレンの表情が険しくなる。
「取り除いた?」
「そうだ。」
「記録から?」
サルゴンは首を横に振った。
「記録の記録からだ。」
カエレンは眉をひそめた。
「……意味が分からない。」
「分かる必要はない。」
その瞬間――
低い振動が、施設全体を通り抜けた。
再びシステムが起動する。
「無効指揮アーカイブへのアクセス。」
「警告。」
「アーカイブ内容は、第一時代の命令によって封印されています。」
「アクセスすることで、現在の第一時代システムに変化が生じる可能性があります。」
カエレンは即座にサルゴンを見る。
「なら、開けるな。」
サルゴンは中央アーカイブへ視線を向けた。
「なぜ?」
「その警告は、大抵の場合……扉の向こうに、とんでもないものがあるって意味だからだ。」
サルゴンは彼の言葉をしばらく考えた。
「だからこそ、扉は開かれる。」
カエレンはため息をついた。
「……当然、そうなるよな。」
施設の最奥に、巨大な扉が出現した。
他のすべてとは違って、その扉には装飾がなかった。
シンボルもない。
碑文もない。
機構すら存在しない。
ただ、完全な黒色の表面だけがあった。
サルゴンが近づく。
彼が扉の前に到達した瞬間――
扉が開いた。
外側へでもない。
内側へでもない。
ただ――
その存在そのものが消失した。
その向こうには、別の部屋があった。
そして、その部屋の中には一つの物体だけが存在していた。
玉座。
古代のものだった。
そして――
空席だった。
その背後には、壊れた光輪のような巨大な円形構造物が存在していた。
サルゴンが足を止める。
カエレンも、その隣で立ち止まった。
二人とも、何も言わなかった。
そして――
最後のシステムメッセージが表示された。
【第一時代・造船所指揮権限:100%】
【三つの指揮紋章:復元完了】
【武装指揮:稼働】
【観測指揮:稼働】
【無効指揮:稼働】
【次段階の継承フェーズ:利用可能】
【指揮官の座が、待っている。】
サルゴンは空の玉座を見つめた。
数秒間、何も言わなかった。
そして――
玉座へ向かって歩き始めた。
カエレンも続く。
だが、サルゴンが玉座へ到達するよりも前に――
造船所全体が、突然震えた。
攻撃によるものではない。
爆発でもない。
もっと深い何かが起こったのだ。
古代施設全域で、何千もの休眠システムが同時に目を覚ました。
その上にある水没した造船所が、動き始める。
古代のエンジンが始動する。
巨大な構造物が次々とロックを解除していく。
埋められていた船々が、反応を開始する。
そして――
第一時代の造船所、その闇のどこかで。
計り知れないほど長い時間、眠り続けていた何かが――
その目を開いた。
サルゴンが立ち止まる。
表情は依然として穏やかなままだった。
だが、その視線だけが鋭くなる。
カエレンはゆっくりと武器を構えた。
「サルゴン。」
「分かっている。」
造船所の機械音声が、すべての区画へ響き渡った。
「指揮官を認証。」
一瞬の間。
「造船所ステータス:覚醒開始。」
再び、沈黙。
「防衛プロトコル:稼働。」
古代文明全体の照明が、紅く染まった。
サルゴンは前方の闇へ視線を向ける。
継承は完了した。
だが――
造船所は、指揮官を待っていたのではない。
目覚める理由を待っていたのだ。
そして今――
その理由が、存在する。




