静かなる瞳の観測所
銀色の球体は、部屋の中央に浮かび続けていた。
その周囲を、数千枚ものレンズが取り囲んでいる。
その一枚一枚が、異なる何かを映し出していた。
遠く離れた星。
崩壊した都市。
紫色の星雲を横切る艦隊。
見知らぬ空の下に広がる黒い海。
白い雲だけに覆われた世界。
別のレンズには、闇の中へと伸び続ける巨大な階段が映し出されていた。
カエレンは、剣を手にしたままサルゴンの隣に立っていた。
「この造船所は、エーテル海全域を監視しているのか」
サルゴンはレンズを観察した。
「全域ではない」
カエレンが彼を見る。
「どうして分かる?」
「いくつかの領域が欠落している」
コア・スピリットが空間地図を投影した。
エーテル海の広大な領域が、空白として表示される。
「確認しました」
コア・スピリットが言った。
「この観測所には、既知の航行可能領域のおよそ六十三パーセントを網羅する記録が存在します。残りの領域にはアクセスできません」
「なぜだ?」
「不明です」
サルゴンは最も近くにあるレンズへ歩み寄った。
すると、レンズが即座に変化した。
映像が消える。
新たな光景が映し出された。
広大な文明。
果てしなく続く黄金の砂漠から、黒い塔がそびえ立っている。
何百万もの光が星々のように、その間を行き交っていた。
その文明の上空には、巨大な環状構造物が浮かんでいる。
カエレンが目を見開く。
「ここは……アエテルガルドじゃない」
「そうだ」
「なら、どこだ?」
コア・スピリットが映像を解析する。
「位置を特定できません」
サルゴンは黙ってその光景を見つめていた。
突然、映像が切り替わった。
黄金の文明の上空に、巨大な艦隊が現れる。
それぞれの艦艇には、異なる紋章が刻まれていた。
一隻には太陽。
別の一隻には三日月。
そして三隻目には、見たことのない王冠。
次の瞬間、映像全体が消えた。
レンズが暗闇へ戻る。
カエレンが眉をひそめた。
「なぜ止まった?」
サルゴンは銀色の球体へ視線を向ける。
「何かが、続きを映すことを妨げた」
観測所が反応した。
数千枚ものレンズが、同時に回転する。
すべてのレンズがサルゴンへ向けられた。
部屋の中央に、ひとつのメッセージが浮かび上がる。
【対象を検出】
続いて、別の一行が現れた。
【魂:存在せず】
そして――
【原初の権威:存在】
最後に――
【観測優先度:絶対】
カエレンの剣を握る手に力が入る。
「それは、さっきの守護者よりもずっと厄介そうだな」
サルゴンは答えなかった。
銀色の球体が回転を始める。
淡い光の光線が、彼へ向かって降りてきた。
それが彼の身体に触れた瞬間、システムが反応する。
【警告。外部観測を検出】
【観測者の特定を試行中……】
【特定失敗】
【観測者は、現在の宇宙論的境界の外側に存在します】
サルゴンの瞳が細くなる。
「境界の外側か」
カエレンが彼を見る。
「それはどういう意味だ?」
「何かが、外側から俺たちを見ている」
カエレンは観測所を見回した。
「造船所の外か?」
「違う」
サルゴンは天井へ視線を上げる。
「エーテル海の外側だ」
沈黙。
カエレンでさえ、すぐには言葉を返せなかった。
その時、コア・スピリットが突然割り込んだ。
「あり得ません」
サルゴンが機械の鷹へ視線を向ける。
「説明しろ」
「現在、エーテル海は、この船が到達可能な既知の最高位の空間環境として認識されています。エーテル海の境界外に、確認済みの観測地点は存在しません」
サルゴンは再び銀色の球体へ目を向けた。
「ならば、その観測者は、俺たちが知る現実の外側にいる」
観測所が脈動する。
新たなメッセージが現れた。
【外部存在を検出】
【アクセス拒否】
【障壁完全性:99.999999%】
カエレンの表情が険しくなる。
「なぜ観測所が、障壁について言及している?」
サルゴンは動かなかった。
「観測者が侵入を試みたからだ」
部屋の空気が、突然冷たくなった。
エーテル海の遥か彼方。
謎の観測者は、依然としてその場から動かず、観測を続けていた。
彼とエーテル海を隔てる透明な障壁も、依然として完全な状態を保っている。
その内部では、観測所が彼の存在を検出していた。
観測者は微笑んだ。
「気づいたか」
その瞳に、かすかな光が宿る。
「興味深い」
彼は遠くに映し出されたサルゴンの姿を見る。
「第一時代は、実に優れた観測システムを創り上げたものだ」
彼が手を掲げる。
障壁が即座に振動した。
観測者は動きを止めた。
「やはり、まだ不可能か」
彼の視線がエーテル海全体へと移る。
「この障壁は、単に外部からの力から海を守っているだけではない」
その表情が、再び思索的なものへと変わった。
「この障壁は、私から自らを守っている」
一瞬だけ、彼の笑みが消えた。
彼は自分の手を見つめる。
「これほど長い時が経った後でさえ……」
彼は手を下ろした。
「一体、誰がお前を創ったのだろうな」
観測所の内部。
サルゴンは銀色の球体へ一歩近づいた。
「障壁を見せろ」
観測所は反応しなかった。
サルゴンは手を伸ばす。
【概念上書き:質量制御】が起動する。
彼は球体を押し潰そうとしたのではない。
代わりに、観測所と、それ自身が保持する記録との間に存在する重力的な関係を変化させた。
レンズがより速く動き始める。
数千もの映像が、部屋中を閃光のように駆け巡った。
古代文明。
死んだ星々。
戦場。
浮遊都市。
巨大な門。
天上の宮殿。
底の見えない世界。
そして――
三つの巨大な領域が現れた。
第一の領域は、黄金の光に包まれていた。
第二の領域は、果てしない闇に覆われていた。
第三の領域は、巨大な水晶の障壁の下に隠されていた。
映像は安定するより先に消えていった。
コア・スピリットが告げる。
「三つの主要分類を検出しました」
サルゴンは残された映像の断片を見つめた。
「続けろ」
「データが不完全です」
「なら、再構築しろ」
「追加の権限が必要です」
サルゴンは回収した指揮紋章へ目を向けた。
深紅の紋章が、彼の権威パターンへさらに深く組み込まれていく。
観測所が即座に反応した。
銀色の球体が開く。
巨大なホログラム構造が出現した。
五つの巨大な階層が、上下に重なっている。
その下には、三つの広大な領域が存在していた。
カエレンが投影映像を見つめる。
「これは何だ?」
コア・スピリットが答えた。
「データ分類によれば、五つの天界領域と三つの地獄領域です」
サルゴンは沈黙した。
天界。
地獄。
彼は断片的な記録を通じて、その名称を以前から知っていた。
だが、これほど明確な構造を目にしたのは初めてだった。
投影映像が明滅する。
それぞれの天界は、独自のエネルギー特性を持つ封鎖領域として表示されている。
その下には、三つの地獄が存在していた。
しかし、何かがおかしい。
その構造は不完全だった。
投影映像の一部分が、意図的に消去されている。
サルゴンは即座に気づいた。
「誰かが中央の記録を消した」
「確認しました」
「復元できるか?」
「不可能です」
サルゴンは消去された領域を見つめる。
「そこには何があった?」
コア・スピリットが一瞬、沈黙する。
その時、古代文字の一文が突然浮かび上がった。
【空白の座は、空白のまま残されなければならない】
カエレンがサルゴンを見る。
「それは……聞き覚えがあるな」
サルゴンは何も言わなかった。
文字が消える。
観測所は、以前の状態へと戻った。
そして、別のメッセージが現れる。
【第二指揮紋章を検出】
銀色の球体が回転する。
その直下に、細い通路が開いた。
「ずいぶん都合がいいな」
カエレンが言った。
サルゴンは通路へ向かって歩き始める。
「そうでもない」
「なぜだ?」
「観測所は、通路を開く前に、俺たちにあの記録を見せる必要があった」
カエレンの表情が険しくなった。
「お前は、天界と地獄を意図的に見せられたと思うのか?」
「そうだ」
「なぜ?」
サルゴンは銀色の球体へ視線を向けた。
「俺たちがどう反応するかを見るためだ」
二人は通路へ入った。
壁一面には、数千もの銀色の瞳が埋め込まれていた。
その一つ一つが、彼らの動きを追っている。
カエレンは居心地が悪そうに周囲を見回した。
「この場所は好きになれない」
「そうあるべきだ」
「冗談で言ったんじゃない」
「分かっている」
通路はさらに下へと続いていた。
先ほどの部屋とは違い、機械も守護者も存在しない。
あるのは、ただ瞳だけだった。
開いているもの。
壊れているもの。
小さな星を内包しているもの。
そして、完全な風景そのものを映しているもの。
突然、カエレンが足を止めた。
「サルゴン」
「何だ?」
「一つ……俺たちを映している」
サルゴンが振り返る。
壁に埋め込まれた銀色の瞳の一つに、現在の通路が映し出されていた。
だが、その視点は異なっていた。
二人を背後から見ている。
カエレンが振り返る。
そこには何もない。
再び瞳へ目を向ける。
映像には、依然として二人の背後に立つ黒い人影が映っていた。
カエレンの手が剣へ伸びる。
サルゴンはその瞳へ近づいた。
映像が変化する。
人影が消える。
代わりに、サルゴンは巨大な玉座の間に立つ自分自身の姿を見た。
その背後にはカエレンが立っている。
そしてカエレンの背後には――
巨大な何かが存在していた。
サルゴンが瞳に触れる。
その瞬間、瞳が砕け散った。
通路全体が暗闇に包まれる。
コア・スピリットが警報を発した。
「未知の干渉を検出」
「どこからだ?」
「外部です」
サルゴンは前方を見つめた。
かすかな声が通路に響いた。
観測所からではない。
カエレンからでもない。
コア・スピリットからでもない。
エーテル海の遥か彼方から。
「気づいたか」
サルゴンが立ち止まる。
カエレンが周囲を見回した。
「今の声……聞こえたか?」
「ああ」
声が再び響く。
「興味深い」
サルゴンの瞳が細くなる。
「何者だ?」
沈黙。
そして――
「お前は何者だ?」
サルゴンは答えなかった。
声には、どこか愉しげな響きがあった。
「お前は、定命の身体を纏いながら、古代文明の墓場を歩いている」
一拍。
「それでも、死者たちはまだお前を認識している」
サルゴンが手を掲げる。
通路が震える。
「姿を見せろ」
静かな笑い声が響いた。
「できない」
「できない?」
「私は外側にいる」
通路に並ぶ銀色の瞳が、同時に明滅する。
一つの映像が現れた。
巨大な透明の障壁の向こう側に立つ人物。
サルゴンはその姿を見つめる。
観測者もまた、彼を見つめ返していた。
初めて、二人の視線が交わった。
観測者は若く見えた。
穏やかで、ほとんど普通の人間のようだった。
しかし、彼を取り巻く空間は完全な虚無だった。
星もない。
エーテルもない。
世界もない。
何も存在しない。
カエレンが息を呑む。
「あの人物は……」
サルゴンは沈黙したままだった。
観測者が口を開く。
「この海は封じられている」
その視線が観測所全体を見渡す。
「私は、この海に存在する大半の文明が誕生するよりも遥か以前から、その外側に留まり続けている」
「なぜ?」
「入れないからだ」
観測者は障壁へ手を当てた。
微かな亀裂が生じる。
エーテル海が震えた。
映像の中で、いくつかの星が消滅する。
観測者は即座に手を引いた。
「分かるか?」
その表情には、わずかな愉悦が浮かんでいた。
「私があの障壁を越えれば、この海全体が消去される」
カエレンの表情が変わる。
「破壊されるということか?」
「違う」
観測者が彼へ視線を向ける。
「破壊されたものなら、時に再び築くことができる」
彼の背後にある障壁が振動する。
「私は、この海の存在を可能にしている法則そのものを消去する」
サルゴンは観測者を見つめた。
「それでも、俺を見ている」
「そうだ」
「なぜ?」
観測者が微笑む。
「お前が興味深いからだ」
映像が消える。
銀色の瞳が通常の状態へ戻った。
カエレンは数秒間、沈黙していた。
やがて尋ねる。
「あれは……何者だった?」
サルゴンは前方を見つめる。
「分からない」
「お前にも、分からないことがあるんだな」
「そうだ」
通路のさらに奥から、かすかな脈動が伝わってきた。
第二指揮紋章が近い。
サルゴンは再び歩き始める。
「なら、確かめる」
通路が巨大な円形の部屋へと開けた。
その中央には、銀色の結晶が浮かんでいる。
その内部には、小さな金属製の物体が収められていた。
第二指揮紋章。
しかし、その周囲には数百枚ものレンズが浮遊していた。
そのすべてが、指揮紋章へ向けられている。
サルゴンが部屋へ入った瞬間、空間全体が目覚めた。
【第二指揮紋章:観測権限】
【アクセス条件:知識】
カエレンがサルゴンを見る。
「知識?」
結晶が輝き始める。
一つのメッセージが浮かび上がった。
【第二指揮紋章を継承するには、一つの問いに答えよ】
サルゴンは待った。
部屋が静寂に包まれる。
そして、問いが現れた。
【エーテル海にとって、最大の脅威とは何か?】
カエレンが無数のレンズを見る。
「侵略軍か?」
反応はない。
「エオン・デウスか?」
何も起こらない。
「外部存在か?」
それでも何も起こらない。
サルゴンは銀色の結晶へ視線を向けた。
彼の答えは単純だった。
「完全に理解したと思い込む者だ」
部屋が静まり返る。
そして――
すべてのレンズが開いた。
銀色の結晶が砕け散る。
第二指揮紋章がサルゴンの手の中へ浮かび上がった。
【第二指揮紋章:静かなる瞳の観測所】
【状態:回収】
【アヌンナキ造船所指揮権限:増加】
【観測権限:解除】
遥か頭上。
造船所の下に存在する三つの光が、再び変化した。
深紅。
銀。
紫。
そして、紫色の光が完全な黒へと変わった。
エーテル海の遥か彼方。
謎の観測者が微笑んだ。
「いい答えだ」
障壁が、再び一度だけ震える。
「ますます知りたくなったよ。お前が何者なのかを、サルゴン」




