埋葬された指揮権限
紫色の縦穴は、既知の造船所構造を遥かに越えて下へと続いていた。
サルゴンとカエレンは、制御された重力場に包まれながら、輝く暗闇の中を進んでいた。
壁は遠すぎて触れることすらできない。
それでも、古代の金属片が周囲を漂っていた。砕けた記念碑の欠片のように、紫色の光の中で静かに浮遊している。
下方では、目覚めた三つの構造体が動き続けていた。
一つは、巨大な爪が石を引っ掻くような音を発している。
もう一つは、低い機械的な脈動を放ち、その振動によって縦穴全体を震わせていた。
三つ目は、完全な静寂に包まれている。
その沈黙が、カエレンにとっては他の二つよりも不気味だった。
「我々は、どれに近づいているのですか?」
彼が尋ねた。
サルゴンは下方を見つめた。
「最初のものだ」
「機械の獣ですか?」
「ああ」
カエレンは果てしない縦穴を見渡した。
「残りの二つは?」
「まだだ」
「それは、あまりにも危険な楽観論に聞こえます」
「楽観ではない」
「では、何ですか?」
「優先順位の問題だ」
カエレンはため息をついた。
「あなたには、最悪の状況でさえ、整理された計画のように聞こえさせる才能がありますね」
サルゴンはその言葉を無視した。
突然、二人を包んでいた紫色の光が変化した。
降下を支えていた重力場が弱まり、二人の身体が数メートル落下する。
しかし、サルゴンがすぐに制御を取り戻した。
遥か下方から、円形のプラットフォームが暗闇の中に浮かび上がる。
それは、十二本の巨大な柱に囲まれていた。
各柱には、古代の指揮紋章を思わせる記号が刻まれている。
プラットフォームの中央には、巨大な金属製の生物が立っていた。
その身体は四足歩行の戦獣を思わせる形状をしていたが、四肢は幾重にも重なった黒い装甲によって構成されていた。
頭部に目は存在しない。
そこにあるのは、垂直に走る深紅の裂け目だけだった。
赤いエネルギーの鎖が胴体に巻きつき、その巨体をプラットフォームへと拘束している。
背中には、六枚の折り畳まれた機械翼が備わっていた。
サルゴンの足がプラットフォームに触れた瞬間、獣が頭を持ち上げた。
【識別情報を要求】
その声は、口から発せられたものではなかった。
それは、広間全体を振動させながら響いていた。
カエレンが剣を構える。
「サルゴン」
「分かっている」
獣の深紅の裂け目が、さらに明るく輝いた。
【指揮官の署名を検出】
サルゴンは、その構造を観察した。
「お前の指揮官は不在だ」
【指揮官の署名を検出】
「俺は、お前が記憶している指揮官ではない」
【指揮官の署名を検出】
カエレンはサルゴンへ視線を向けた。
「どうやら、話し合う気はないようです」
「あるいは、話し合う能力がない」
サルゴンが一歩前へ進む。
獣を拘束していた鎖が締めつけられた。
プラットフォームが、深い金属音を響かせる。
【指揮権限が必要】
サルゴンの前に、紋章が浮かび上がった。
それは、三つの壊れた輪に囲まれた王冠だった。
サルゴンは手を伸ばす。
紋章が、彼の掌に触れた。
その瞬間、広間が消失した。
彼の目の前に広がったのは、燃え上がる無数の破片で満たされた空の下に広がる、古代の戦場だった。
破壊された大陸の上空には、何千もの第一時代の船が浮かんでいる。
その兵装はすべて、遠方に存在する巨大な影へと向けられていた。
艦隊の中心には、淡い金属の王冠をかぶった存在が立っていた。
その顔は隠されている。
幻視の中を、声が通り抜けた。
「埋葬された指揮権限を目覚めさせるな」
場面が変わる。
機械の獣が、広大な広間に一体だけ立っていた。
その装甲は損傷し、翼は破壊されている。
周囲には、数え切れないほどの機械の残骸が横たわっていた。
一つの命令が下される。
「造船所を守れ。たとえ、そのために造船所そのものを破壊しなければならないとしても」
幻視が終わる。
サルゴンは、プラットフォームへと戻っていた。
獣は依然として動かない。
カエレンは、サルゴンの表情に生じたわずかな変化に気づいた。
「何を見たのですか?」
「古い命令だ」
「どのような命令を?」
「造船所を守れ」
「誰から?」
サルゴンは、鎖に繋がれた獣を見た。
「おそらく、自らの創造主からだ」
その瞬間、獣を拘束していた鎖が砕け散った。
赤いエネルギーがプラットフォーム全体へと爆発的に広がる。
カエレンは即座に動き、サルゴンと獣の間に立った。
彼の剣が淡い紫色の輝きを帯び、攻撃に備える。
獣が突進した。
その前脚が足場を叩きつけ、衝撃波が発生した。無数の古代金属の破片が宙へと吹き飛ばされる。
カエレンは攻撃を防いだが、その衝撃によって数メートル後方へ押し戻された。
彼のブーツの下で、足場がひび割れた。
「サルゴン!」
カエレンが叫んだ。
サルゴンは二本の指を持ち上げた。
振り下ろされていた獣の前脚が停止した。
物理的に拘束されたわけではない。
その質量が、もはや動かすことのできないものへと変化したのだ。
獣の前脚は、カエレンの頭上で宙に浮いたまま静止していた。見えない力に押し潰されるように、その機械関節が突然の負荷に軋んだ。
サルゴンの声は、依然として冷静だった。
「退け」
カエレンは即座にその場から離れた。
サルゴンが手を握りしめる。
獣の全身が下方へと押しつけられた。四本の脚が足場へ叩きつけられ、その下にある古代金属を粉砕する。
しかし、獣は降伏しなかった。
六枚の翼が展開し、数百本もの赤いエネルギーブレードを放出する。それらはあらゆる方向からサルゴンへと飛来した。
サルゴンが手首をわずかに動かす。
ブレードの速度が落ちた。
そして、完全に停止した。
その質量が増大し、もはや飛行を維持できなくなったのだ。一つ、また一つと、ブレードは足場の上へ無害に落下していった。
獣が、雷鳴のような機械的咆哮を放った。
その身体の下に、深紅の円環が形成される。
【防衛プロトコル:最終指揮】
空気が重くなった。
施設内の重力が何倍にも増大する。
カエレンは片膝をつき、支えを求めるように剣を足場へ押し当てた。周囲の柱が曲がり始める。紫色の光でさえ、圧力によって圧縮されているように見えた。
サルゴンの人間の器が震える。
胸を、細い痛みの線が走った。
彼のコアエネルギーには限界がある。造船所は古代のものだったが、その防衛機構は決して弱くない。
あの獣は単なる機械ではない。
それは、物理的な形を与えられた指揮構造そのものだった。
サルゴンはソヴリン・ヴォイドを使うことができる。
だが、それを行えば足場も、獣も、そして下層施設全体さえ破壊してしまう可能性があった。
彼に破壊は必要なかった。
必要なのは、制御だった。
サルゴンは空中へ手のひらを向けた。
「お前の指揮は不完全だ」
獣の下にある深紅の円環が明滅する。
【指揮拒否】
「お前は造船所を守るよう命じられた」
【確認済み】
「お前は、その継承者を攻撃するよう命じられてはいない」
獣の頭部が傾いた。
【継承者ステータス:未確認】
サルゴンが手を掲げる。
三つの壊れた環の紋章が、再び空中に浮かび上がった。
「私は造船所によって認められた」
獣のエネルギーが不規則に揺らぐ。
【認証は指揮権限と同義ではない】
「そうだ」
サルゴンの瞳が鋭く細められる。
「だが、指揮に認証は必要ない」
その瞬間、施設内の圧力が急激に変化した。
サルゴンは質量制御を、獣の肉体そのものにではなく、その指揮信号を取り巻く空間へと適用した。
獣自身の命令に、概念的な重みを与える。
攻撃プロトコルそのものが、実行するには重すぎるほどに。
深紅の円環が砕け散った。
重力が崩壊する。
カエレンは片膝立ちの姿勢から立ち上がり、身体を安定させた。
獣が頭部を下げる。
【指揮系統の衝突を検出】
サルゴンは一歩近づいた。
「お前の原初命令には、二つの条件が含まれている」
獣は沈黙していた。
「造船所を守ること」
サルゴンは、その装甲で覆われた胸部へ手を当てた。
「そして、その権限を継承する者に従うこと」
機械獣の身体が震えた。
初めて、その深紅のスリットが目のように細くなる。
【継承:部分的】
「十分だ」
サルゴンの権威が、獣の内部へと流れ込んだ。
赤い鎖が再び出現する。
しかし今度は、その身体を縛るのではなかった。
獣の内部に存在する指揮コアを取り囲んだのだ。
獣が静止する。
【指揮を受諾】
その胸部から、小さな深紅の紋章が現れ、サルゴンの前へ浮かび上がった。
システムが反応する。
【第一指揮紋章:回収】
【武装保管庫】
【アヌンナキ造船所指揮権限:増加】
紋章はサルゴンの手の中へ溶け込んだ。
獣は足場の上へゆっくりと身を伏せた。
カエレンが慎重に近づく。
「お前の支配下に置かれたのか?」
サルゴンは、動かなくなった守護者を見つめた。
「完全ではない」
「それは安心できる答えだな」
「私の命令は受け入れた。だが、元の指令までは失っていない」
「つまり?」
「私の命令が、古代からの目的と衝突するまでの間は従うだろう」
カエレンは獣へ視線を向けた。
「その古代からの目的とは何だ?」
サルゴンは、さらに深い縦穴へと目を向けた。
「造船所が目覚めるのを防ぐことだ」
突然、 chamber全体が静寂に包まれた。
その直後、遥か頭上で、造船所の光が変化した。
深紅の光が消える。
銀色の光が明るさを増す。
紫色の光は、ほとんど黒に近い色へと変わった。
コア・スピリットの声が、サルゴンの通信装置を通じて響く。
「警告。第一指揮紋章の起動により、施設全域の応答が発生しました」
「説明しろ」
カエレンが言った。
「三つの主要システムが同期を開始しています。観測所、下層保管区画、そして識別不能な中央指揮構造です」
サルゴンは、足場の下に広がる闇を見つめた。
「中央構造を特定できるか?」
「できません」
「ならば、そこへ進む」
カエレンが眉をひそめた。
「我々は今、古代の戦闘獣を目覚めさせ、正体不明のシステムまで起動させたばかりだ。アル・メラージュ号へ戻り、再考したほうがいいのではないか?」
サルゴンは足場の縁へ向かって歩き始めた。
「何が目覚めたのかを知るまでは、再考することはできる」
カエレンは彼の後を追った。
「本当に、お前は撤退というものを信じていないのだな」
「目的が危険に見合わなくなった時、私は撤退を選ぶ」
「では、今は?」
「目的の重要性が増した」
エーテル海の遥か彼方。
その潮流と法則の届かない外側で、ひとりの人物が星の存在しない場所に立っていた。
その空間は、空虚ではなかった。
封じられていたのだ。
透明な障壁が、巨大な淡いガラスの球体のようにエーテル海を取り囲んでいる。その内部では、無数の潮流が暗闇の中を流れていた。
世界、天界、地獄、文明、そして忘れ去られた遺跡。
それらすべてが、障壁の広大な内側に存在していた。
その人物は、その外側に立っていた。
一見したところ、彼は若く見えた。おそらく二十代の男性と大差ない。
身に着けている衣服は質素で暗く、障壁を取り巻く果てしない圧力の影響を一切受けていなかった。
しかし、その瞳だけは古代のものだった。
彼は瞬き一つせず、エーテル海を見つめていた。
遠く離れた障壁の内部で、第一時代の造船所が目覚め始めている。
その人物は、わずかに首を傾けた。
「興味深い」
彼の声は空間を通じて伝わらなかった。
それは、彼を取り囲む封印領域の内部に、直接現れた。
「あの少年は、定命の者ではない」
彼の前に、淡い映像が形成される。
そこには、下層足場の上で休眠状態の守護者と向かい合うサルゴンの姿が映し出されていた。
謎の観測者は、かすかな好奇心を浮かべながらその光景を見つめる。
「あれほど正確に、あの場所の法則を操作できる定命の存在などいない。エオン・デウスでさえ、破壊的な反応を引き起こさずに第一時代の指揮構造を抑え込むことは困難だろう」
映像が切り替わった。
サルゴンの手が、獣の胸部に触れている。
指揮コアが、彼の権威に屈していた。
観測者の表情が、さらに思索的なものへと変わる。
「それでも、彼は定命の器を使っている」
彼は障壁へ手を伸ばした。
指先が障壁へ近づいた瞬間、障壁が低い警告振動を発した。
エーテル海が反応する。
遠方の潮流がねじれた。
封印領域の内部に存在するいくつかの星が、光を弱める。
観測者は手を引いた。
「まだ封じられているか」
彼は、かすかな愉悦を浮かべながら障壁を見つめた。
「私なら、侵入できる」
障壁が脈動する。
「だが、そうすれば、この海は私の存在に耐えられない」
彼の手の横の空間に、髪の毛ほどに細い亀裂が現れた。
一瞬だけ、周囲の暗闇が消え始める。
燃えたのでも、砕けたのでもない。
それが存在することを許していた法則そのものを失い始めたのだ。
観測者は指を閉じた。
亀裂が消滅する。
「障壁は危険を理解している」
彼の視線がサルゴンへ戻る。
「私があの少年のもとへ到達するより先に、エーテル海は消去されるだろう。天界も、地獄も、エオン・デウスも、そしてこの領域に含まれるあらゆる架空の法則も、すべて無へと崩壊する」
彼は一拍置いた。
「幸い、私はそれを破壊するためにここにいるわけではない」
サルゴンの映像が薄れていく。
観測者は、わずかに微笑んだ。
「私はただ、お前が何者なのかを知りたいだけだ」
エーテル海の内部。
造船所の下で輝いていた紫色の光が、突然、黒へと変わった。
謎の人物の表情が変化する。
その瞳に、初めて本物の興味が宿った。
「あの反応は……」
彼は障壁へさらに身を寄せる。
「あの少年は、造船所よりも深い何かを目覚めさせた」
遠くで発生した脈動が、エーテル海を横切った。
障壁が震える。
観測者は、低く囁いた。
「私が会う前に、死ぬなよ。サルゴン」
造船所の地下。
サルゴンとカエレンは、次の chamberへと到達した。
そこは、先ほどの部屋よりも遥かに広大だった。
中央には、巨大な銀色の球体が浮かんでいる。その周囲には、数千枚ものレンズが宙に吊り下げられていた。
それぞれのレンズには、エーテル海の異なる領域が映し出されている。
遠く離れた惑星。
崩壊した都市。
天上の戦場。
そして、幾重もの暗闇の下に隠された広大な領域。
静かなる瞳の観測所。
第二指揮紋章は、その内部のどこかで待っていた。
しかし、二人が動き出すより先に、すべてのレンズがサルゴンへ向きを変えた。
部屋全体に、ひとつのメッセージが浮かび上がる。
【外部観測者を検出】
カエレンは、ゆっくりと剣を持ち上げた。
「外部観測者だと?」
サルゴンは、銀色の球体を見つめた。
レンズが回転を続ける。
やがて、二つ目のメッセージが現れた。
【観測者の位置:エーテル海の外側】
その瞬間、初めてサルゴンの表情がわずかに変化した。
恐怖ではない。
ひとつの可能性を認識した表情だった。
誰かが、彼らを見ていた。
銀色の球体が、ゆっくりと開き始める。
そしてエーテル海の障壁の向こう側から、見えざる視線が、彼自身の視線へと応えた。




