囁き渡る潮流
アル・ミラージュは、暗黒の絹を切り裂く静かな幻影のように、開けた星海の未踏なる内側の航路を滑るように進んでいた。
その遥か後方では、企業審問官の自動国境検問所を構成していた真鍮のリングと白熱したスキャン・グリッドが、広大な暗闇の彼方へと消えている。
極秘の身元偽装プロトコルによって完全に出し抜かれたのだ。
巨大な黒曜石の巡洋艦は、すでに内縁領域の開放境界を深く進んでいた。
そこは静寂に包まれた、穢れのないセクター。
周囲に満ちる星明かりは、どこか濃密で、より豊かな輝きを帯びていた。
それは、宇宙そのものの生のエネルギーが、この領域ではより強く満ちている証だった。
船体側面に刻まれた灰色の迷彩ルーンは、完全に抑制されたまま、無害な光を反射しない炭色へと変化している。
そのおかげでアル・ミラージュは、一切の存在反応を放つことなく、自然に形成された未踏のスリップストリームに沿って滑らかに航行していた。
◆
静かな石柱が並ぶ船長室の聖域。
その空間は、まるで保護された薄明の中に閉ざされたかのような静寂に包まれていた。
サルゴンは巨大な黒曜石の玉座にゆったりと腰掛けていた。
その姿勢には完全に力が抜けており、青白い手に顎を預けている。
長く乱れた白髪が、黄金のヘッドバンドに施された精巧な彫刻へ柔らかく触れていた。
その中央に埋め込まれた紫水晶のような宝石は、内なる力を温存するため、完全に光を落としている。
左手に嵌められた、
[君主の印章:ニヒル]
――その液状星金属の指輪は、完全に静止していた。
中央に浮かぶ小さな銀河も、その回転を保ったまま微動だにしない。
そして、サルゴンの脳内に存在するシステム・インターフェースが、彼の現在の状態を思考領域へと更新した。
[通知:現在のコア・エネルギー残量:16.5%]
[安定平衡状態は継続中]
[警告:50,00,000個の高品質エーテル・コアを対象とした世界規模の賞金警報により、広域セクター全体で局地的な神格追跡網が依然として高い活動状態を維持しています]
[『究極属性:ソヴリン・ヴォイド』による高位概念消去の強制実行は、船体の恒久的な物理劣化を防止するため、現在も厳しく制限されています]
サルゴンは、ゆっくりと浅い息を吐いた。
その青白く無表情な顔には、いつもの絶対的な無関心を思わせる飄々とした表情が浮かんでいる。
巨大な宇宙規模の賞金が、彼の身元へ向けて刻一刻と迫っているという事実さえ、冷徹な知性を揺るがすことはなかった。
彼には、自分自身の現在の限界が正確に分かっている。
コア・エネルギー残量が厳密に16.5%という現在の状態では、封印解除されたゲートはあまりにも弱い。
高位エオン神々の追跡艦隊を相手に、正面から力ずくの戦争を仕掛けることなど到底できない。
――力は使えない。
ならば必要なのは、絶対的な慎重さ。
緻密な戦術。
そして、つい先ほど深い闇の中で完成させた新たな戦力だった。
「補助星金属砲が、銀級アップグレード・カタリストの完全な合成を完了しました、我が君」
カエレンの低く掠れた声が、重苦しい船室の静寂を切り裂いた。
彼は低い石造りの台座へ足を踏み入れると、玉座から正確に二歩離れた位置で立ち止まった。
一等航海士であるカエレンの存在感は威圧的だった。
暗色の旅装用マントはすでに脱ぎ捨てられており、その下からは、鍛え上げられた両肩に沿って配置された、新たに研磨された特注強化装甲が露わになっている。
戦場で鍛え上げられた鋭い眼差しは、極度に集中した状態でサルゴンへ向けられていた。
その手は、鞘に収められたシミターの柄をしっかりと握っている。
「第二武器アレイは現在、完全に独立した無動力式周波数ループで稼働しています」
カエレンは、低く規律正しい声で報告を続けた。
「これにより、カスタム仕様の星金属砲身を発射しても、プラットフォーム由来のマナ・シグネチャを一切発生させません」
「予期せぬ小競り合いに巻き込まれた場合でも、我々の幻影パラメータを完全に維持できます」
「さらに――」
カエレンは続けた。
「漂流商人の恒星航路図についても、主ターミナル・グリッドとの正常なキャリブレーションが完了しました」
サルゴンの漆黒の虚無の瞳が、僅かに動いた。
その瞳孔の内部では、小さな恒星銀河がゆっくりと計算するような回転を続けている。
彼の視線は、甲板の床板から浮かび上がった青く輝くホログラフィック投影へと向けられた。
「この先、独立系ネットワークはどの航路を辿っている?」
サルゴンは淡々と尋ねた。
その静かな声には、石柱の間へと響き渡る帝王のような穏やかさがあった。
「このサブセクターの中立領域に構築された、三つの異なる隠された交易ジャンクションが記録されています」
カエレンは説明しながら、ホログラフィック・マップ上で回転する紫色のアイコン群を、節くれだった手で指し示した。
「最も近い目的地は、古代の凍結彗星群を中心に形成された、未登録の無法交易リングです」
「現地の密輸業者たちからは――」
「《フロスト・ヴェイン・ジャンクション》と呼ばれています」
「そこは、審問官艦隊から完全に無視されている暗黒の避難所です」
「独立系の漂流者たちが、公式の宇宙台帳を介さず、そこで原材料を直接物々交換しています」
その提案は、まさに理想的だった。
無法交易ジャンクション。
それは、現地の資源を密かに集め、地域経済を調査し、そして神々の警戒網を刺激することなく、自身のシステム運用ゲートを安全に拡張するために必要な特殊な宇宙部品を探すには、これ以上ない場所だった。
――だが。
サルゴンが命令を下すよりも早く。
突然、メインマスト付近の高所に留まっていたコア・スピリットの機械鷹アバターが、鋭い異音を発した。
――カチッ、カチカチッ……!
静電ノイズの混じった不穏なクリック音。
その瞬間、星座を思わせる翼が激しく明滅した。
鮮烈な警戒色の紅い光が、船室全体を一瞬だけ照らし出す。
――ウゥゥゥゥン……
突然、低周波の電磁リップルが船外の感覚探知アレイを通過した。
その瞬間、青いホログラフィック・ターミナルのラインが激しく歪み、空中に表示されていた情報が一斉に乱れる。
これは、神格級惑星巡洋艦によるリアルタイム追跡スキャンではない。
ましてや、物理的な空間崩壊でもなかった。
ほんの数マイルほど船の左舷外側を漂っていた、極小の物体。
そこから発せられた、局所的かつ極めて高度な追跡パルスだった。
「報告」
サルゴンは冷たく命じた。
突然の歪曲波にもかかわらず、その無表情な顔には一切の動揺がない。
カエレンは即座に主指揮コンソールへと歩み寄った。
超人的な熟練精度で手動式の機械レバーを操作しながら、鋭い眼差しを極限まで細める。
ガラス製スクリーン上を、診断データが高速で流れていった。
「自動式の天界追跡ドローンです、我が至高の君主よ」
カエレンの低い声には、強烈な警戒心と防衛意識が滲んでいた。
「企業エルフ艦隊の所属ではありません。機体の系譜を追ったところ、独立系の賞金稼ぎシンジケートへと繋がっています――おそらく、50,00,000エーテル・コアの懸賞金を狙っている、ならず者のスクラッパー・クルーでしょう」
カエレンの指がコンソール上を走る。
「奴はスリップストリーム内部の、クロークされた休眠ポケットに潜伏していました。密度異常が通過するのを待っていたのでしょう」
一瞬、カエレンの表情が険しくなる。
「そして今、奴は我々の暗黒質量を検知しました。内部送信機は現在、予熱段階へ移行しています。あと僅かで、我々の正確な空間座標を周辺の賞金稼ぎチャンネルへ送信します!」
事態は即座に、そして静かに――極めて危険な段階へと突入した。
もし自動ドローンが送信ループを完了すれば、このサブセクター全域に数百もの独立系賞金稼ぎが一斉に殺到する。
そうなれば、アル・ミラージュの幻影パラメータは完全に露見し、現在わずか16.5%しかないエネルギー状態では、正面からの戦闘を避けることすら困難になる。
残された時間は、正確に四十秒。
それを過ぎれば、信号はより広大な宇宙圏へと漏れ出す。
「補助星金属砲で、送信シーケンスが同期する前にあの機体を狙えるか?」
サルゴンは平坦な声で尋ねた。
その声音には、揺るぎない帝王の静けさが保たれている。
「射線は確保できます、我が君」
カエレンは即座に答え、手動射撃トリガーへ手を叩きつけるように置いた。
「しかし、独立型カタリストによるアップグレードを終えているとはいえ、この距離で星金属弾を撃ち込めば、物理的衝撃によって運動エネルギーの衝撃波が発生します」
カエレンの目が周囲の空間を睨む。
「局所的な空間リップルを引き起こし、付近の審問官国境検問所に武器発射を感知される可能性があります」
「ならば、砲は使わない」
サルゴンは淡々と言った。
銀河を内包したその瞳孔が、わずかに細くなる。
そして、白い唇の端に――笑みと呼ぶにはあまりにも温度のない、薄い微笑が浮かんだ。
サルゴンはゆっくりと左手を台座の上へ差し出した。
その指に嵌められた液体星金属の指輪が、突如として鋭い円を描いて回転する。
――システム。
サルゴンは心の中で呼びかけた。
その内なる声は、平坦で、冷たく、そして決して揺らがない。
――《マス・コントロール》を初期化。
――賞金稼ぎのドローンを直接狙うのではない。
――奴を取り囲む局所空間グリッドそのものを、受動的対象として指定しろ。
[通知:《概念上書き:マス・コントロール》が受動的に発動しました]
[現在の対象:独立系追跡ドローンの全長約90センチメートルの機械フレーム]
[状態:絶対重力圧縮を強制。局所大気質量密度を5,000%まで増加]
音もなく。
目にも見えず。
サルゴンの至高なる権能法則が、敵偵察機を取り囲む小さな暗黒真空の中で、宇宙の台帳そのものを書き換えた。
彼は至高特性による派手な消去を放ったわけではない。
制御を失った圧倒的なエネルギーを解き放ったわけでもない。
ただ、ドローンの周囲を支配していた――
「重量」
そして、
「圧力」
という概念を静かに介入させ、その効果を増幅しただけだった。
次の瞬間。
遥か数マイル先、開けた真空宇宙に浮かんでいた銀色の追跡ドローンを取り囲む空間が、激しく内側へと陥没した。
まるで山岳そのものが凝縮したかのような圧倒的な大気重量が、四方八方から同時に機械のシャーシへ叩きつけられる。
ドローン内部の銅製自動ギアが一斉に砕ける。
ガラス製の追跡レンズは瞬時に微細な粉塵へと崩れ落ち、高周波通信アンテナもまた、一粒のデータすら発信する暇もなく完全に圧縮された。
細長いアンテナは、歪んだ金属スクラップの平たい塊へと変わった。
送信シーケンスは――完全に破壊された。
そして、虚空の見えざる手によって、その存在そのものが無効化された。
船長室。
ターミナル画面で激しく点滅していた真紅の警告文字が、突然消滅する。
代わりに表示されたのは、安定した静かな青色の確認表示だった。
[外部脅威を無力化:身元情報漏洩を阻止しました]
[対象状態:絶対質量圧縮による局所構造崩壊。船体パラメータ外への空間リップルは検出されません]
カエレンはコンソールの前で、ゆっくりと、深い安堵の息を吐いた。
張り詰めていた筋肉から力が抜けていく。
そして同時に――
主君が見せた冷徹で計算された一手への深い畏敬が、もはや揺るぎようのない、震えるほどの確信へと変わった。
サルゴンは慌てなかった。
警戒網に気づかれるような爆発を無理に起こすこともしなかった。
彼はただ、冷静な知性と、完璧に精密な戦略判断だけで、この極めて危険な遭遇戦を制したのだ。
「ドローンは完全に圧壊しました、我が至高の君主よ」
カエレンが報告する。
その掠れた声には、絶対的な、深い畏敬が込められていた。
彼は副次センサーを確認する。
「メイン送信機は、座標データがこのセクターの外へ一粒たりとも漏れる前に破壊されています。損傷したデータ・コアを回収するため、手動回収クローを展開しましょうか?」
「やれ、カエレン」
サルゴンは平坦に答えた。
青白い指先が、再び玉座の冷たい石のクッションへと静かに戻る。
銀河を宿した瞳は、遥か前方に広がる開けた星海へと鋭く向けられていた。
「コアから奴らの追跡コードを抽出しろ」
その声には、一切の感情がなかった。
「独立系の賞金稼ぎどもが、私の首を狙うための台帳を書きたいというのなら――」
サルゴンの瞳に、冷たい光が宿る。
「奴ら自身のインクを使って、奴らの墓標を描かせてもらおう」
一拍。
「進路を《フロスト・ヴェイン・ジャンクション》へ直接設定しろ」
「この暗闇の中で、あの追放者どもが一体どれほどの資源を埋め隠しているのか――見せてもらおう」
「御意――我が君!」
カエレンが鋭く叫んだ。
その声には、燃え上がるような絶対的な忠誠と覚悟が込められていた。
彼は甲板へ深く頭を下げると、そのまま身を翻し、破壊されたドローンの残骸を回収するため下層メンテナンス・ドックへと歩み去っていった。
やがてサルゴンも静かに青白い手を下ろす。
指先は再び、玉座の冷たい石のクッションへと戻った。
船長室には、絶対的で荘厳な静寂が帰ってくる。
巨大な幽霊船は、隠されたスリップストリームに沿って静かに航路を修正した。
最大オーバードライブ・エンジンは安全なアイドリング状態を維持している。
主君と第一航海士は、眼前に広がる広大で未知なるマルチバースへ挑むため、長期的な戦略を組み立て始めていた。
そして彼らの背後では――
砕けた敵の影が、暗黒の星海の奥深くへと沈み込み、二度と浮かび上がることのないまま、静かに闇へ埋もれていった。




