天界の震撼
エセルガルド砂漠を包む静寂は、まるで実体を持つ重圧のように、アル=スタリア号の血に濡れた甲板へとのしかかっていた。
双子の紫の太陽――ソルとルミス――は傷ついた空の低い位置に浮かび、その歪んだ光は白鉄木で造られた甲板へ長く鋭い影を落としていた。
カエレンは額を甲板へ押しつけた。
それは、冷え始めた船長の血溜まりの中だった。
彼の指は木材の裂け目を必死に掴み、拳は白く変色し、爪の間から血が滲み出ていた。
彼は世界の終わりを待っていた。
あの淡い星光に包まれた青年が、指を一度動かすだけで、自分を存在ごと消し去る瞬間を。
四本腕の魔王が消えたように。
「た……頼む……」
カエレンは嗚咽混じりに震える声を漏らした。
「慈悲を……ソブリン様……どうか、お慈悲を……」
彼の精神は崩壊し始めていた。
一介の凡人の魂では、先ほど目撃した絶対的な虚無を理解することなど到底できない。
**《ソブリン・ヴォイド》**という概念そのものが、カエレンの思考を蝕む毒となり、理性を少しずつ食い尽くしていく。
このままでは、底知れぬ恐怖によって、自我を失った抜け殻へと堕ちてしまうだろう。
サルゴンは震え続ける傭兵を静かに見下ろした。
退屈で平凡だった十七年間の人生において、この男は常に自分を見下し、土属性魔法で肋骨を打ち据え、魂を持たない自分を嘲笑し続けた存在だった。
だが今、サルゴンの心には何の感情も湧かなかった。
憎しみもない。
復讐心もない。
始原意識にとって、一人の人間が振るう残酷さなど、砂粒が一つ風に舞う程度の意味しか持たない。
――壊れ始めている。
サルゴンは静かに、胸の内でそう結論づけた。
【通知:束縛魂『カエレン』は、《虚無の法》への近接により、自我の崩壊が臨界段階へ到達しています。】
【提案:《支配者の権能》を展開し、対象の認知構造を安定化させてください。】
サルゴンは複雑な詠唱を必要としなかった。
ただ、自らの存在を僅かに揺らす――それだけで十分だった。
**《究極属性:支配者の権能》**が、静かに胸の奥で脈動する。
それは激しい魔力の奔流ではない。
目には見えず、しかし何者にも覆せない絶対命令の波動だった。
サルゴンの意識はカエレンの混乱し、崩れかけた魂へと伸びる。
そして、その魂を掴み、力ずくであるべき形へと固定した。
「――落ち着け。」
サルゴンは静かに命じた。
たった一言。
しかし、その言葉は凍てつく氷の波となってカエレンの精神へ叩きつけられる。
狂乱し、悲鳴を上げ続けていた恐怖は、一瞬で消え去った。
荒れ狂っていた呼吸は止まり、
震えていた両手も甲板の上で静止する。
サルゴンの絶対法則は、カエレン自身の神経系と自由意志を書き換え、その精神を強制的に静寂へと染め上げた。
やがて、カエレンはゆっくりと顔を上げる。
その瞳は大きく見開かれていた。
だが、そこに恐怖はない。
虚ろで、
曇りきったその瞳には、
絶対服従という揺るぎない意志だけが刻まれていた。
恐怖は消え去り、
その代わりに、
サルゴンへ仕えることだけを望む抗いようのない衝動が心を満たしていた。
「立て。」
サルゴンは命じる。
その声は、時間という概念が生まれる以前より王座に君臨してきた王の威厳を宿していた。
「舵を取れ。」
「南西へ三百マイル進め。」
「深き砂の底で――
我を待つ眠れる錨がある。」
「……はい、我が主。」
カエレンはかすれた声で囁いた。
傷だらけの身体をゆっくりと甲板から起こす。
その動きはまるで操り人形のように機械的で、一切の迷いがなかった。
視線は決して上げず、ただ床だけを見つめながら、砂船の操舵輪が据えられた高台へと階段を駆け上がっていく。
アル=スタリア号の船底に刻まれた浮遊ルーンが再び淡く輝き始めた。
その光を満たしていたのは、サルゴンから漏れ出した宇宙的エネルギーの、ほんの一筋に過ぎない。
しかし、その瞬間――
高次元世界全体が激しく震えた。
エセルガルドの大気圏を遥かに超え、
銀河の境界すら越えた先には、
真なる宇宙が広がっている。
その名は――
《エーテルの海》。
それは果てなき絶対無限の大海原。
液体の星光が悠然と流れ、
無数の多元宇宙、
分岐した時間軸、
そして神々の神域が、
まるで島々のように静かに漂っていた。
その宇宙の海でも、
最も深く、
最も荒廃し、
最も光の届かぬ深淵。
永遠の闇の中を、
腐敗した巨大な黒曜石の要塞のような古代領域が静かに漂っていた。
その名は――
《滅びの深淵》。
要塞の中心部。
忘れ去られた神話神たちの石灰化した頭蓋骨を積み重ねて築かれた王座。
その玉座に座す、
一柱の巨大な存在が、
ゆっくりと瞼を開いた。
アバドン。
絶対破壊を司る始原の王。
彼は一〇〇億年もの歳月、
一度たりとも動くことなく、
宇宙の法則そのものから完全に外れた場所で、
自ら覚醒した始原意識として存在し続けていた。
創世の黎明において、
六柱の始原神はその誕生を認め、
そして――
災厄神は、
己が持つ最も凶悪なる祝福を、
アバドンへと授けたのであった。
その瞬間――
アバドンの無機質な漆黒の兜が、ゆっくりと天を仰いだ。
**《エーテルの海》**全域を、一筋の激しい震動が駆け抜けたのだ。
それは無限に広がる多元宇宙から見れば、囁きにも満たない微かな揺らぎ。
だが、自ら誕生した始原意識であるアバドンにとって、その波動は滅びゆく恒星の断末魔にも等しい轟音だった。
辺境世界――エセルガルド。
その現実の一角が、たった今、
時間軸そのものから完全かつ永久に削除された。
アバドンはゆっくりと口を開く。
その口腔の奥には肉も骨も存在せず、
そこには終末の業火のように燃え狂う深紅の恒星だけが渦巻いていた。
ゴォォォォォ――
低く重い轟音が黒曜石の要塞全体を震わせる。
その余波だけで、
数百万を超える超越級の下位悪魔たちは恐怖のあまり膝をつき、頭を垂れた。
アバドンは――
笑っていた。
「……封印が解けたか。」
その声は天変地異そのものだった。
放たれた衝撃波は周囲を漂う巨大な小惑星群を粉々に砕き、
空間の裂け目すら崩壊させていく。
「始まりと終焉の子よ……ついに目を覚ましたか。」
「母の血脈が、ようやく目覚めた。」
アバドンの双眸に宿る二つの深紅の恒星が、
獲物を見つけた猛獣のような期待と歓喜の光を放つ。
長きにわたり停滞していた宇宙の海の平穏は、
今、この瞬間をもって終焉を迎えた。
真なる主権者が、
自らの玉座を取り戻すために帰還したのだ。
そして、
闇の三位一体は、
ようやく滅ぼすに値する存在を見つけた。
一方その頃――
アル=スタリア号の甲板。
サルゴンは不意に空を見上げた。
漆黒の瞳の奥でゆっくりと回転していた銀河が、
わずかに収縮する。
ほんの一瞬だけだった。
彼は感じた。
エーテルの海最深部から、
幾重もの次元を貫いて降り注ぐ、
途方もなく巨大で、
想像を絶するほど重い視線を。
その意識には、
どこか懐かしさを覚える。
しかし同時に、
絶対なる破滅という概念そのものが滲み出るほどの、
抗うことのできない恐るべき気配を宿していた。
――アバドン。
サルゴンは胸中でその名を呟いた。
彼の始原意識は、本能的にその気配を認識していた。
自ら覚醒した魔王。
「……なるほど。」
「私の誕生は、すでに父の側近たちへ伝わったか。」
サルゴンがその感覚をさらに分析しようとした、その時だった。
アル=スタリア号の真上を覆う紫色の雲が、
突如として激しく渦を巻き始める。
傷ついた空は再び裂けた。
だが、今度は災厄教団が操る穢れた黒雷ではない。
眩いほど純白の神聖なる光の柱が天を貫き、
大気を切り裂いて砂漠へ降り注いだ。
その光は、
航行中の砂船からおよそ五十ヤード先へ激突する。
轟――ッ!!
あまりにも凄まじい熱量によって、
黄金色の砂丘は一瞬で融解し、
鏡のように輝く巨大なガラスの大地へと変貌した。
「サ、サルゴン様!」
操舵輪を握るカエレンが叫ぶ。
《支配者の権能》によって無理やり平静を保たされていた精神でさえ、
突如現れた神々しい閃光には抗いきれなかった。
「天界からの降臨です!」
「空が……空が燃えています!」
次の瞬間。
純白の光柱の中心から、
天地そのものを震わせる威厳に満ちた声が砂漠全域へ響き渡った。
その声は、
あらゆる下位世界の生命へ無条件の服従を強いる、
《天頂天》の絶対法則そのものを宿していた。
「この座標において、現実構造に絶対的な破断を確認した。」
雷鳴のような声が轟く。
「下位魔王一体、および災厄の先遣隊が、宇宙の記録より痕跡すら残さず消滅している。」
一拍置き、
その神聖なる威圧がさらに強まる。
「下界の者どもよ。」
「光がお前たちの魂を裁く前に、自らの罪を述べよ。”
眩い光の柱がゆっくりと消え始める。
その中心から、一人の巨大な人影が砂漠へ姿を現した。
全身を覆うのは、銀に金の装飾を施した完璧な白銀の鎧。
その背には、純粋な元素の光が結晶化して形成された四枚の巨大な光翼が静かに広がっている。
右手には、
両手で扱うほど巨大な大剣。
その刃からは、
《三天》の法則そのものを宿した絶対的な権威が静かに脈動していた。
《昇天審判官》――。
天頂天の裁定者たちによって遣わされた、
異常存在を粛清するための最上位級の天使である。
黄金に輝く瞳が、
アル=スタリア号の血に染まった甲板をゆっくりと見渡す。
倒れ伏した傭兵たちの亡骸を一瞥し、
震えるカエレンには一切興味を示さず、
その視線は真っ直ぐに、
船首へ立つ一人の青年へと突き刺さった。
ぼろ布を纏った、
青白い肌の少年。
――サルゴン。
「……貴様か。」
天使は低く呟く。
その瞬間、
神聖なるオーラが激しく膨れ上がり、
凄まじい敵意が周囲へ解き放たれた。
「貴様の器には魂の波長が存在しない。」
「貴様は世界の法則に記録されていない違法存在である。」
「天頂天の勅命により、
貴様を原初世界より粛清する。」
昇天審判官は巨大な大剣を静かに掲げた。
刹那――
刀身から、
魂そのものを焼き尽くす純白の聖炎が爆発的に噴き上がる。
アル=スタリア号ごと灰燼へ帰すべく、
神罰の炎が解き放たれようとしていた。
サルゴンは船首に静かに立っていた。
風に揺れるのは、
粗末な絹の衣だけ。
その漆黒の瞳は、
四枚の光翼を持つ天使を見上げる。
その眼差しは、
恒星さえ凍りつかせるほど冷たかった。
「……母の法則が生み出した、ただの構造物に過ぎぬものが。」
サルゴンは静かに呟く。
ゆっくりと右手を持ち上げる。
その指先には、
**《究極属性:主権の虚無》**が静かに瞬き始めていた。
「創造主を裁けるとでも思ったか。」
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
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これからも『Sovereign of the Bornless Sea』をよろしくお願いいたします!




