権能の勅令
その一言は、凍りついた空間に響いただけではなかった。
――世界そのものを押し潰した。
サルゴンが言葉を発した瞬間、その命令は音として伝わったのではない。
大気を介さず、
距離という概念を飛び越え、
魔法法則すら完全に無視して発動した。
それは、新たに覚醒した**《究極属性:支配権能》によって下された絶対勅令**。
宇宙にとって、サルゴンの言葉は命令ですらなかった。
それは重力と論理そのものを書き換える、新たな真理だった。
――バキィィィィンッ!!
静止したアル=スタリア号の甲板に、骨が砕け散る不気味な破裂音が響き渡る。
下位魔王は、ただ膝をついたわけではない。
サルゴンの絶対命令によって、その巨大な四本腕の影の肉体は凄まじい力で甲板へ叩きつけられた。
衝撃はあまりにも強大だった。
両膝から下の関節は耐え切れず完全に粉砕され、白鉄木の甲板へ激突する。
どろりと粘つく漆黒の血液が勢いよく飛び散り、周囲の空間へ舞い上がった。
だが、その血は甲板へ落ちることはない。
サルゴンの宇宙的な威圧によって、時はなお完全なる静止を保っていた。
漆黒の血滴は空中へ固定されたまま、
まるで不吉な黒曜石の真珠のように、砕けた魔王の周囲を静かに漂っている。
「がっ……あ……っ……」
苦痛に満ちたうめき声だけが、静寂に包まれた世界へ微かに響いた。
魔王は喉を詰まらせたように息を呑み、蠢く影で形作られた仮面の奥から、濁った呻き声を漏らした。
燃え盛る深紅の双眸は大きく見開かれ、激しく揺らいでいる。
そこに宿っていたのは――
数千年の時を生きてきた魔王が、一度たりとも味わったことのない感情。
純粋にして、混じり気のない存在そのものへの恐怖。
それは災厄教団を率いる将軍。
災厄神の名の下に幾つもの王国を滅ぼし、数え切れぬ命を虐殺してきた存在だった。
だが今、
ほんの数秒前まで鎖に繋がれた奴隷に過ぎなかった少年を見上げる魔王は、
まるで崩壊する恒星を見上げる一匹の蟻に等しかった。
「……貴様は、一体……何者だ……?」
魔王は震える声を絞り出す。
その震えはあまりにも激しく、胸を構成する影そのものがほつれ始めていた。
「マナが……ない……。」
「魂も存在しない……。」
「この威圧は……まさか……原初の存在……。」
サルゴンは答えなかった。
答える必要などない。
堕落した父の軍勢の一片に、自らを説明する理由など存在しなかった。
彼は静かに、もう一歩前へ踏み出す。
裸足が、傭兵の血だまりの上をゆっくりと踏み越えた。
歩みを進めるたび、
サルゴンの瞳に渦巻く二つの銀河はさらに加速し、
無限の漆黒はアエセルガルドに満ちる光さえ静かに呑み込んでいく。
サルゴンはゆっくりと自らの両手を見下ろした。
先ほどまで手首を拘束していた重い奴隷の鉄枷は、完全に消え去っていた。
鉄粉一粒すら残っていない。
ケエレンに蹴りつけられ、泥と痣に覆われていた肌も、
今では傷一つない。
その白い肌の奥からは、
原初意識の深淵より漏れ出す、淡く神秘的な星の輝きが静かに揺らめいていた。
(――システム。)
サルゴンは心の中で静かに問いかけた。
その内なる声は冷静で、感情の揺らぎは一切なく、太古より響き続ける王者の威厳を宿していた。
(覚醒した属性の詳細を説明しろ。)
瞬間――
彼の精神世界へ、宇宙そのものを思わせる冷たく荘厳な声が響き渡る。
それは現実世界とは完全に切り離された、システムだけが持つ絶対の声だった。
《通知》究極属性《虚無の主権》
現実から生まれたあらゆる概念・物質・魂を否定し、分解し、永久に消去する権能です。
これは創造以前より存在した『無』そのものを司る絶対法則です。
《通知》究極属性《支配権能》
あらゆる下位法則・意志・元素に対する絶対的な支配権を付与します。
魂という制約を持つすべての存在および概念は、使用者の言葉、あるいは思念による命令に絶対服従します。
サルゴンの口元が、わずかに吊り上がる。
そこに笑みはあっても、温もりは一切なかった。
「……なるほど。」
「魂と概念によって支配されたこの世界で、異なる法則に従う存在は――俺だけというわけか。」
彼は再び視線を前へ向ける。
そこには下位魔王がいた。
そして甲板の各所では、虐殺の最中で時を止められた数十人の災厄教団員たちが、黒曜石の剣を振り上げたまま彫像のように静止している。
サルゴンは魔王を見据え、静かに口を開いた。
その声は低く、凍えるような囁きとなって船全体へ響き渡る。
砕けた白鉄木の甲板さえ、その一言に震えた。
「貴様らの主――災厄神は、自らこそが万物の終焉を支配すると信じている。」
「だが、奴は一つだけ忘れていた。」
サルゴンの瞳に、無限の銀河が静かに揺らめく。
「奴が滅びを司る者として生まれる、その遥か以前から――」
「虚無は、すでにそこに在った。」
サルゴンはゆっくりと右手を持ち上げる。
そして、青白く透き通る一本の指を、
静かに下位魔王の胸へと向けた。
「――《虚無の主権》」
サルゴンは静かに、その名を告げた。
次の瞬間。
彼の指先に、極小の漆黒が生まれる。
それは闇の魔力でもなければ、元素によって生み出された球体でもない。
現実そのものに穿たれた、ひとつの“穴”。
空間も、
時間も、
論理さえも、
存在することを許されない絶対の虚無だった。
漆黒の点は、音もなく指先を離れる。
ゆっくりと、
まるで世界そのものが息を止めたかのような静けさの中、
下位魔王へ向かって漂っていく。
そして――
その点が魔王の影の肉体へ触れた瞬間。
虚無は、開いた。
爆発は起こらない。
轟音もない。
悲鳴も、
鮮血も存在しない。
ただ、
絶対なる虚無が静かに顎を開いた。
一ミリ秒にも満たない刹那。
漆黒は完璧な球体となって瞬時に膨張し、
下位魔王の存在を丸ごと飲み込む。
さらに球体は広がり続け、
アル=スタリア号の甲板全域を、寸分の狂いもなく包み込んだ。
そこにいたすべての災厄教団員。
黒曜石の鎧。
魂を封じた黒い結晶瓶。
そのすべてが、
虚無へと呑み込まれていく。
そして――
漆黒の球体は再び収縮を始め、
最後には一本の指先へ吸い込まれるように消え去った。
静寂だけが残る。
甲板には、
誰一人として残っていなかった。
教団員たちは消えた。
下位魔王も消えた。
だが、それは「死」ではない。
彼らの存在そのものが、
その名も、
歩んできた歴史も、
存在したという記憶さえも、
アエセルガルドという世界の織物から完全に抹消されたのだ。
やがて、奪われた魂を閉じ込めていた黒い結晶瓶が次々と砕け散る。
解放された商人たちの淡く輝く魂は、
災厄の呪縛から解き放たれ、
静かに天へと昇っていった。
――パキン。
その瞬間――
世界を縛っていた絶対の静止が砕け散った。
紫色の双生太陽が微かに震え、
アエセルガルドを覆う黄金の砂丘は再び轟音を上げながら流動を始める。
止まっていた風が一気に吹き戻り、
巨大な絹帆を激しく膨らませた。
アル=スタリア号の船底へ刻まれた浮遊術式は、
突如として未知なる宇宙の力に満たされ、
再びゆっくりと砂上へ浮かび上がる。
まるで何事もなかったかのように、
堂々と空中を漂っていた。
「な……何が……起きたんだ……!?」
かすれた震える声が、
積み荷の木箱の陰から響く。
サルゴンはゆっくりと顔だけをそちらへ向けた。
そこには、
先ほど彼の脇腹を蹴り飛ばした屈強な傭兵――ケエレンがいた。
帆布の下から這い出してきた彼は、
先ほどの凄まじい威圧によって鼻から血を流し、
全身を激しく震わせている。
震える手で湾刀を握ってはいるものの、
その刃は恐怖のあまり定まることすらなかった。
ケエレンは怯えた表情のまま、
ゆっくりと甲板を見渡す。
船長はすでに絶命している。
仲間の護衛たちも、皆、無残な亡骸となって横たわっていた。
だが――
先ほどまで甲板を埋め尽くしていた災厄教団の大群も、
四本腕の下位魔王も、
まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え去っていた。
戦闘の痕跡はない。
砂に残された足跡もない。
そこに彼らが存在していた証拠は、
何一つ残されていなかった。
その場に立っていたのは――
ただ一人、奴隷だけだった。
ケエレンの視線は、サルゴンへと釘付けになる。
ぼろぼろの奴隷服。
だが、その下にある肌には傷一つなく、
淡い星の光を宿したかのような神秘的な輝きを放っていた。
両手首を拘束していたはずの鉄枷は、跡形もなく消え去っている。
そして何より――
その瞳。
漆黒の無限に、二つの銀河が静かに渦巻くその双眸は、
まるで天そのものさえ飲み込んでしまうかのような、底知れぬ威圧を放っていた。
「お……お前……!」
ケエレンは声を震わせながら後ずさる。
恐怖のあまり足元がおぼつかず、
血に濡れた甲板で革靴を滑らせ、そのまま尻もちをついた。
「な……何をした!?」
「奴らはどこへ消えた!?」
「お前は……何なんだ……!?」
「この化け物がッ!!」
サルゴンは答えなかった。
ただ静かにケエレンを見つめる。
その瞳の奥では、
二つの銀河がゆっくりと回り続けていた。
――その瞬間。
アエセルガルドの大気圏を遥かに超え、
雲海のさらに彼方、
砂漠の空すら越えた宇宙の高みで、
宇宙そのものの織り目が、微かに震えた。
その頃――
天頂天。
天界の裁定者たちが住まう、純白の大理石で築かれた無数の神殿と尖塔が、一斉に微かに震えた。
多元宇宙監視網に、
かつて観測されたことのない巨大な異常反応が閃いたのだ。
その力は、
三天のいずれにも属さない。
魔族のものでもない。
ましてや、
**永劫神**の神威でもなかった。
それは、
あらゆる既知の法則から完全に逸脱した、
未知なる存在の波動。
――原初意識が、その瞳を開いた。
その瞬間、
無限の世界を浮かべる星海――
エーテル海は静かに波打ち始める。
その果てなき波紋は、
やがて幾千万、幾億の世界へと広がり、
新たなる時代の幕開けを告げようとしていた。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
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これからも『Sovereign of the Bornless Sea』をよろしくお願いいたします!




