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虚無の器

アエセルガルドの砂漠は、囁くことなどなかった。轟いていた。

双生太陽――ソルとルミスが容赦なく照りつける灼熱の空の下、一隻の巨大な砂上船が、果てしなく続く黄金色の流砂を切り裂くように進んでいた。

希少な**白鉄木(はくてつぼく)**で造られた船体は、乾ききった烈風を受けて膨らむ巨大な絹帆に軋み声を上げる。

その名はアル=スタリア号。

大オアシス都市アレクサンドリアに属する名高き商船であり、船底へ刻まれた低位浮遊術式によって、灼熱の砂上をわずか数フィート浮かびながら航行する工学の結晶だった。

絹織物の荷を数える商人たちや、湾刀を磨く傭兵たちにとって、この航路はただ利益をもたらすありふれた交易路に過ぎない。

――だが、サルゴンにとっては違った。

それは、死へと続く、終わりの見えない苦痛の行進だった。

サルゴンは額に張りついた汗と砂を拭い、両手首を拘束する重い鉄鎖に擦れた拳をわずかにしかめた。

船体が揺れるたび、鉄鎖は甲板へ激しく打ちつけられ、耳障りな金属音を響かせる。

彼は奴隷だった。

三週間前、無法の略奪団が国境近くの小さく無防備な村を襲撃した際、ただ一人生け捕りにされた哀れな捕虜である。

アエセルガルドでは――力こそがすべてだった。

この世界の子どもたちは、生まれながらにして元素の流れと共鳴する資質を持つ。

小さな炎を灯し、水を操り、大地の鼓動を感じ取ることなど、ごく当たり前の才能だった。

道端で商売をする最下層の露天商でさえ、最低限の魔力源(マナプール)を宿している。

――だが、サルゴンだけは違った。

彼には何もなかった。

マナプールもない。

元素適性もない。

武闘気(オーラ)すら存在しない。

十七年間、彼は世界の異物として生き続けてきた。

中身のない、完全に空っぽの器。

幼い頃、村の魔術師たちが彼の身体を調べた。

だが見つかったのは――何もないという事実だけだった。

魂の残滓も、

霊脈も、

存在の痕跡すらない。

彼らは彼をこう呼んだ。

「呪われた子」

「空白の器」

「塵にも劣る存在」

「まだサボっているのか、この役立たずのネズミが!」

重い革靴が、サルゴンの脇腹へ容赦なく叩き込まれた。

鈍い衝撃が全身を貫き、彼の身体は白い甲板の上を勢いよく滑る。

割れた木片が皮膚を引き裂き、焼けつくような痛みが走った。

そのまま貨物室の前へ倒れ込むと、激しく咳き込み、黄金色の砂を口いっぱい吐き出す。

「ハハハッ!」

腹を抱えて笑ったのは、護衛兵の一人――筋骨隆々の傭兵、ケエレンだった。

両腕にはめられた黄金の腕輪が陽光を受けて高らかに鳴る。

それは彼の富と、大地属性を操るささやかな魔術の実力を誇示する勲章でもあった。

「見ろよ、こいつを――」

ケエレンは嘲笑を浮かべながら言った。

ケエレンは近くで香辛料入りの酒を飲んでいた仲間の衛兵たちへ顔を向け、嘲るように笑った。

「見てみろよ、こいつを。十七にもなって、ロウソク一本灯せるほどのマナすら持っちゃいねぇ。村がカラミティ教団に襲われた時、的当てにも使われなかったなんて奇跡だな。……いや、お前みたいな奴は、流れる血ですら価値がないか。」

サルゴンは何も答えなかった。

木箱の縁を静かに掴み、傷だらけの身体をゆっくりと起こして座り直す。

ケエレンを見ることもない。

生気を失った鈍い茶色の瞳は、ただ両手首を縛る鎖だけを虚ろに見つめていた。

怒りはなかった。

恐怖もなかった。

物心ついた頃から、胸の奥には深く、底知れない空虚が存在していた。

それは心の悲しみではない。

胸の中心に、本当に何も存在しない穴が空いているかのような、現実の感覚だった。

まるで自分は幽霊であり、一時的に人間という皮だけをまとった傍観者に過ぎない。

理解できない「何か」を、ただ永遠に待ち続けているような感覚だった。

「おい、ケエレン! 奴隷なんぞ放っておけ! こっちへ来い!」

船尾の操舵台から、船長の怒鳴り声が響いた。

「風が弱まっている! 砂流探知器の反応もおかしい! 地平線から目を離すな!」

ケエレンは鼻で笑い、サルゴンの足元へ唾を吐き捨てた。

「運が良かったな、クズ。」

ケエレンがその場を離れた、その瞬間だった。

船内の空気が一変した。

すべては、一瞬の出来事だった。

轟々と吹き荒れていた砂漠の風が、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せる。

世界は、耳鳴りすら響かない絶対の静寂に包まれた。

アル=スタリア号を押し進めていた巨大な絹帆は力なく垂れ下がり、風を完全に失う。

船底へ刻まれた浮遊術式は激しく明滅したかと思うと、青白い輝きを完全に失った。

次の瞬間――

ドゴォォォォンッ!!

耳をつんざく轟音とともに、巨大な白鉄木の船体が砂丘へ激突する。

凄まじい衝撃が船全体を揺らし、甲板にいた者たちは次々と体勢を崩した。

「な、何が起きた!?」

船長は使い物にならなくなった操舵輪へ必死にしがみつき、叫ぶ。

「機関部のマナ結晶が砕け散った!? 推進力が完全に失われている!」

「船長ッ!! 空を!!」

見張り台の上から、見張り番が悲鳴にも似た声で叫んだ。

その声には、隠しようのない恐怖が滲んでいた。

サルゴンはゆっくりと顔を上げる。

つい先ほどまで灼熱の輝きを放っていた双生太陽――ソルとルミスが、不気味な紫黒色へと急速に染まり始めていた。

空には巨大な影が滲み出るように広がり、昼の光を静かに飲み込んでいく。

砂漠を支配していた灼熱は跡形もなく消え去り、その代わりに魂の奥底まで凍りつかせるような異質の冷気が世界を覆った。

サルゴンの吐息は白く凍り、霧となって宙へ溶けていく。

そして――

まるで布を無理やり引き裂くような音が、天そのものから響き渡った。

砂上船の真上――

空が、音を立てて裂けた。

巨大で禍々しい亀裂が天を切り裂き、空間そのものが無理やり剥がされるように歪んでいく。

その裂け目の向こうには、光を一切寄せつけない漆黒の虚無が広がっていた。

やがて、その闇の中から幾十もの人影が静かに降り立つ。

まるで重力という概念すら存在しないかのように、彼らは悠然と宙を漂っていた。

全身を覆うのは、残された光さえ飲み込む黒曜石の重装鎧。

鋭く突き出た棘が全身を覆い、禍々しい威圧感を放っている。

顔は巨大な角を持つ兜に隠され、その奥で燃える血のような深紅の瞳だけが、不吉な光を放っていた。

「……カラミティ教団……」

ケエレンは震える声で呟く。

顔から血の気が引き、握り締めた湾刀が小刻みに震えていた。

「先鋒部隊が……丸ごと一隊……!? しかも、空間魔法を使っているだと……!」

次の瞬間。

教団員たちは流星のような勢いでアル=スタリア号の甲板へ降り立った。

着地の衝撃だけで、強化された白鉄木の甲板が蜘蛛の巣のようにひび割れる。

誰一人として口を開かない。

警告も、交渉もない。

彼らはただ黒く染まった剣を静かに抜き放ち――

虐殺を始めた。

「積み荷を守れッ! 火炎魔法を放て!!」

船長は光を放つ魔導杖を抜き、怒号を響かせる。

だが、呪文を唱え始める暇すら与えられなかった。

いつの間にか、一人の教団員が船長の背後へ立っていた。

漆黒の魔力で形成された刃が、音もなく首筋を薙ぎ払う。

鮮血が宙へ舞い、船長の身体は崩れ落ちた。

船上は、一瞬で地獄へと変わる。

絶叫。

鋼と鋼が激突する轟音。

焼け焦げた血の臭い。

そのすべてが混ざり合い、狂気の交響曲を奏でていた。

ほんの数分前まで威勢よく笑っていた傭兵たちは、まるで鎌で刈られる麦のように次々と倒れていく。

アエセルガルドの元素法則によって築かれた魔法障壁も、教団員たちが放つ穢れた破壊の力の前では、安物のガラスのように脆く砕け散った。

サルゴンは木箱の傍らに倒れ込んだまま、その凄惨な光景をただ見つめていた。

身体は恐怖に縛られ、一歩たりとも動くことができなかった。

黒ずんだ深紅の血だまりが、白い甲板の上をゆっくりと広がっていく。

血はサルゴンのぼろ布同然の衣服へ染み込み、その冷たい感触だけが現実を突きつけていた。

――その時だった。

甲板一帯の空気圧が、突如として百倍にも膨れ上がる。

サルゴンの足元にある木の甲板は、凄まじい圧力に耐えきれず悲鳴を上げ、音を立てて歪み、ひび割れ始めた。

空間の裂け目、その中心から――

最後の一体が姿を現す。

それは鎧をまとってはいなかった。

全身は絶えず形を変える液体のような漆黒の影で構成され、実体すら曖昧だった。

隆々とした四本の腕を持ち、それぞれの鋭い鉤爪からは、どろりとした黒い瘴気が絶え間なく滴り落ちている。

顔には目も鼻も口も存在しない。

ただ闇そのものを切り取ったような仮面の中央で、二つの深紅の瞳だけが禍々しく燃えていた。

その眼差しから放たれる威圧だけで、生き残っていた護衛たちは次々と膝をつき、血を吐きながら倒れ伏す。

――下位魔王。

災厄神に直属する将軍級の存在だった。

「哀れなる創造の産物どもよ。」

魔王が低く囁く。

その声は耳ではなく、この場にいる全員の骨髄そのものを震わせた。

「貴様らの肉体は礎となり、魂は燃料となる。」

「すべてを――真なる父へ捧げよ。」

教団員たちは無言のまま生存者へ歩み寄り、一人、また一人と処刑していく。

肉体から引き剥がされた淡く輝く魂は、黒い結晶の瓶へ次々と封じ込められていった。

やがて――

ドン……。

ドン……。

重く響く足音が貨物室へ近づいてくる。

魔王だった。

サルゴンは動かなかった。

――いや、動けなかった。

その存在から放たれる圧倒的な覇気は、まるで巨大な山そのものが胸へ落ちてきたかのような重圧となり、彼の身体を完全に押さえつけていた。

魔王はサルゴンの目の前で足を止めた。

闇そのものを象った仮面がゆっくりと俯き、深紅の双眸が、鎖に繋がれ傷だらけとなったサルゴンの全身を静かに見下ろす。

「……異物か。」

魔王は嫌悪を滲ませた声で低く呟いた。

「マナプールを完全に持たぬ凡俗の器。」

「霊脈は存在せず、元素の波長すら検知できぬ。」

「貴様は創造女神が生み出した――欠陥品だ。」

魔王は四本ある腕のうち一本をゆっくりと持ち上げた。

四本の鉤爪の先端から、漆黒に染まった腐食の光が渦を巻き始める。

やがて、それは濃密な闇の球体となって凝縮されていった。

球体の周囲では空気そのものが腐食し、耳障りな**「ジジジ……」**という不快な音を響かせる。

魔王は冷たい嘲笑を浮かべた。

「価値なき肉塊。」

「だが、たとえ欠陥だらけの魂であろうと、砕いて塵とすれば混沌の炉を燃やす薪くらいにはなる。」

「――《概念消滅(コンセプト・イレイジャー)》」

魔王は手首を軽く払った。

その瞬間、漆黒の腐食光が一直線に放たれ、サルゴンの胸――心臓の真上を貫いた。

《概念消滅》。

それは災厄教団に伝わる最上位級の魔法。

肉体を破壊するだけの術ではない。

標的の魂という概念そのものへ干渉し、現実という織物から完全に消し去る禁忌の術式だった。

その術に触れた者は輪廻へ還ることも叶わず、

存在したという記録すら失われ、

永遠に世界から忘却される。

教団員たちは動きを止めた。

漆黒の光がサルゴンの身体を飲み込んでいく光景を、ただ静かに見つめる。

彼らは待っていた。

魂が砕け散り、灰となって消滅する――

あの聞き慣れた音を。

一秒が過ぎる。

二秒。

三秒。

だが――

漆黒の腐食光はなおもサルゴンの胸を激しく渦巻いていた。

それなのに。

肉体は腐らない。

灰にもならない。

術式は荒れ狂う嵐のように暴れ続けているにもかかわらず、

その姿はまるで、

永遠に砕けることのない大陸へ、小さな波が打ち寄せているだけのようだった。

魔王の余裕に満ちた表情が消える。

闇で形作られた顔が激しく波打ち、

存在そのものが揺らぐほどの衝撃に包まれた。

「……何だと?」

魔王は怒号を響かせる。

その声からは先ほどまでの威厳が完全に消え失せていた。

「なぜ術式が停止している!?」

「なぜ貴様の魂は砕けぬ!」

「消滅は絶対だ! それは災厄神の法そのものだ!!」

その時だった。

サルゴンの胸の奥で、

十七年間、

永遠とも思える時を沈黙し続けていた空虚が、

ついに待つことをやめた。

その虚無は災厄の術式に押し潰されることなく、

ゆっくりと、

荘厳に、

瞳を開いた。

「魂を消し去るには――まず、そこに魂が存在しなければならない。」

その声が、静かに響いた。

その声は、闇に染まった空から響いたものではない。

サルゴン自身の喉から発せられた声でもなかった。

それは冷たく、絶対であり――

全能という言葉すら矮小に思えるほどの威厳を宿した声だった。

その響きは船上だけに留まらず、幾重にも重なる次元の境界そのものを震わせる。

重さなど持たぬはずの声。

それなのに、その一言一言には、

「重さ」という概念すら生まれる以前から存在していた者の絶対的な権威が宿っていた。

「だが、この器に魂は存在しない。」

「在るのは――ただ、《原初意識(プライマル・コンシャスネス)》のみ。」

その瞬間――

アエセルガルドの紫色の空は、ただ暗くなったのではない。

空という存在そのものが、消えた。

双生太陽ソルとルミスは跡形もなく姿を消す。

砂漠を舞っていた砂粒は空中で静止し、

甲板から滴り落ちる血液も宙に浮かんだまま止まった。

教団員たちも、

アル=スタリア号も、

風も、

時間も、

空間も、

そして半径十マイルに及ぶ世界の**「現実」という概念**さえも、

完全なる静止へと閉じ込められる。

絶対に動かぬ、

絶対に揺るがぬ、

永遠の停止。

サルゴンの瞳は、ゆっくりと色を変え始めた。

生気を失っていた鈍い茶色は溶けるように消え、

その奥には、

幾億もの銀河が渦巻く、

底知れぬ漆黒の無限が広がっていく。

そして――

静止した世界の中央。

サルゴンの眼前に、

宇宙そのものの星光で刻まれた巨大な文字が、

眩い輝きを放ちながら静かに浮かび上がった。

《警告》生体器(バイオロジカル・シェル)が致命的な概念干渉を受けました。

《条件達成》原初意識(プライマル・コンシャスネス)の封印を確認。

《起源権能(オリジン・オーソリティ)を起動中……》

《成功》究極属性《虚無の主権(ソブリン・ヴォイド)》を獲得しました。

《成功》究極属性《支配権能(ルーラー・オブ・オーソリティ)》を獲得しました。

サルゴンは、ゆっくりと立ち上がる。

その動作には一切の焦りも、迷いもなかった。

両手首を拘束していた重い鉄鎖は、砕けることも、千切れることもない。

宇宙の星光で刻まれた文字が現れた、その瞬間――

鉄鎖という概念そのものが世界から失われた。

鎖は静かに絶対の虚無へと還り、

初めから鍛造された事実すら存在しなかったかのように、

時の流れから完全に抹消される。

サルゴンは一歩、静かに前へ踏み出した。

裸足が、血に濡れた甲板を踏みしめる。

そして視線をゆっくりと上げる。

その先には、下位魔王が立っていた。

いや――

立ち尽くしていた。

先ほどまで圧倒的な威厳を放っていた魔王は、

今や純粋で混じり気のない恐怖に凍りついている。

サルゴンの覚醒によって放たれる絶対的な威圧の中で、

唯一動くことを許されていたのは、

魔王の思考だけだった。

サルゴンは静かに唇を開いた。

覚醒した存在として放たれる――最初の言葉。

その一言は、凍てついた宇宙そのものを切り裂いた。

「跪け。」

いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!

もしこの作品を少しでも面白いと思っていただけましたら、ブックマーク、評価、そしてご感想をいただけると大変励みになります。

「良かった点」や「改善したほうがいい点」など、どんなご意見でも歓迎しております。皆様のご感想を今後の作品作りの参考にさせていただきます。

これからも『Sovereign of the Bornless Sea』をよろしくお願いいたします!

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