学者の封印
アル=ミラージュ号は、火山性亀裂の絶対的な闇――息苦しいほどの漆黒の中を、沈んだ石のように静かに漂っていた。
遥か上空。
トレンチを覆う硫黄濃度の高い大気のさらに上では、太陽神殿の惑星級先鋒戦闘巡洋艦が、依然として《囁きの暗礁》上層の小惑星航路を綿密に走査し続けていた。
眩いプラチナ色の占星探知網が、上層渓谷の険しい岩壁を絶え間なく撫でる。
だが――
死んだ惑星の破片を覆う、沸騰した濃密な分子地殻の遥か下。
そこに潜む黒曜石の巡洋艦を、探知することはできなかった。
主ダークマター・エンジンは完全に停止。
能動操舵ラダーは切り離され、船体に刻まれていた輝く幾何学的ルーンも、無害な灰色の石板のような状態へと抑制されている。
巨大な船体からは――
熱、ゼロ。
マナ、ゼロ。
存在反応、ゼロ。
それはまさに――
墓場の中に身を隠す幽霊だった。
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船長室の完全な暗闇に包まれた聖域。
唯一の光源は、分厚い耐熱ガラス製の観測窓の向こうを流れる、液状硫黄の河川。
その淡い琥珀色の光が、一定のリズムで室内を微かに照らしていた。
サルゴンは巨大な黒曜石の玉座に、完全に力を抜いた状態で座っていた。
その姿勢は極めてリラックスしている。
青白い手に顎を乗せ、長く乱れた白髪が黄金のヘッドバンドに施された精緻な彫刻へと柔らかく触れていた。
額の中央に嵌め込まれた紫色の宝玉は、内部エネルギーを温存するため、完全に光を失っている。
左手に嵌められた液体星鋼の指輪――
《君主の印章:ニヒル》
もまた、完全に静止していた。
その中心に存在する小さな銀河は回転さえ止めている。
宇宙的なフィードバックの微粒子一つたりとも、船壁の外へ漏れ出さないようにするためだった。
そして――
彼の精神の暗い奥底では、内部システム・インターフェースが静かに浮かんでいた。
そこから発せられた鈍い琥珀色の文字が、彼の思考の中へと映し出される。
【通知:現在のコア・エネルギー残量:16.5%】
【状態:安定均衡】
【警告:ハイ・エオン・デイティによる外部走査ラインが、半径300マイル以内で依然として稼働中です。】
【警告:船体の追跡不能状態を維持するため、絶対的な機械的休眠状態を継続してください。】
サルゴンは、ゆっくりと、音もなく息を吐いた。
その顔には、いつもの完全な無表情が保たれている。
すぐ頭上で五つもの巨大な惑星級艦隊が自分の命を狙って捜索しているという事実すら、彼の冷徹な知性を乱すことはなかった。
彼は、自分の限界を理解している。
現在の彼はあまりにも弱い。
封印を解いた原初の門を無理に拡張することも、エオン艦隊を相手に一つの概念消去を強行することもできない。
そんなことをすれば――
莫大な内部反動によって、脆弱な人間の肉体殻そのものが耐えきれず崩壊してしまう。
だからこそ、力任せには戦えない。
しかし――
この強制された戦術的な待機時間は、決して無駄ではなかった。
それはむしろ、彼らが虚ろな太陽核から回収した《戦利品》を分析するための、完璧な猶予だった。
サルゴンはゆっくりと、玉座の脇にある小さなダークスチール製コンソールへ青白い指を伸ばした。
金属面の上には、一つのアーティファクトが静かに置かれている。
第24章で、閉じ込められていた学者船から回収した――
銀等級のブロンズ・キューブ。
「カエレン」
サルゴンが静かに呼びかけた。
その声は、深宇宙の重い静寂を切り裂き、冷たい帝王の明晰さを帯びていた。
――カチャ……。
入口のアーチ付近の暗闇から、微かな金属音が響く。
カエレンが一歩前へ出た。
重いブーツが磨き上げられた床板を、完全に音を抑えながら慎重に踏む。
筋肉質な上半身には一切の力みがなく、完全に回復した肌も、隔壁の向こうから伝わってくる火山性の熱に動じていない。
片手は湾曲したダークスチール製シミターの柄にしっかりと添えられている。
鋭く、戦場で鍛え上げられた眼差しは、極度に集中した状態でサルゴンを捉えていた。
「ソーラー艦隊が航路を変更しました、我が主」
カエレンが低く、規律正しい声で報告する。
「現在、より広範囲のグリッド・ブラインド・スキャンへ移行し、外縁小惑星リングへ向かっています」
「我々のレーダー・シャドウは完全に見過ごされています」
「ですが、エンジン・アレイを安全に予熱できる状態へ戻すには、少なくとも二時間は完全な動力休眠を維持する必要があります」
「二時間あれば――ロックを書き換えるには十分すぎる」
サルゴンは淡々と言った。
銀河を宿した瞳は、完全にブロンズ・キューブへと向けられている。
「周囲を警戒しろ、カエレン」
「独立したアウトキャストたちが、どんなコードを残したのか――見てみよう」
「御意のままに、ソヴリン」
カエレンは滑らかに答え、深い敬意を込めて頭を下げた。
そして再び部屋の暗い隅へと下がっていく。
その瞳は、一切の揺らぎを見せない影のように、暗い入口を監視し続けていた。
サルゴンは、ブロンズ・キューブの傷一つない表面へ青白い手のひらを直接置いた。
巨大なマナの波動を放つことはしない。
そんなことをすれば、ソーラー・パンテオンの自動追跡プローブが即座に反応する。
代わりに――
彼は、宇宙全体へ流れる自身のシステム・エネルギーから、極微量の受動的なエネルギーだけを引き出した。
それは、通常の感知領域よりさらに低い周波数へ潜む――
極小のデジタル・スレッド。
その一本の糸が、キューブ内部の機械式ファイアウォールに存在する論理ゲートへ直接接続していく。
サルゴンの意識が静かに響いた。
『システム』
冷たく、不動の声。
『アーティファクトの登録マトリクスに対する局所的オーバーライドを実行』
『データラインを受動的に傍受しろ』
【通知:『概念上書き――質量制御』を局所構造解析に使用しました。】
【アーティファクト・コアへ侵入中……論理ファイアウォールを検出……受動型復号シーケンスを開始……】
カチッ。
静まり返った部屋の中に、鋭く機械的な音が響いた。
ブロンズ・キューブの表面に刻まれていた複雑な幾何学模様の継ぎ目が、突如として外側へ滑り出す。
それはまるで、金属で造られた蓮の花が開くかのように、幾重にも展開していった。
次の瞬間――
アーティファクトの中心部から、眩い結晶質の青い光が噴き出した。
その光は、サルゴンと玉座の間の空中へ、高密度のホログラフィック・インターフェースを直接投影する。
青い光は激しく渦巻きながら、徐々に一つの、強烈な印象を残す姿へと収束していった。
それは――エセル=9。
何百年もの時を生きる、風変わりな学者型オートマトン――人工知能だった。
ホログラムに映し出されたのは、白磁の装甲板と、磨き上げられた真鍮製ギアが幾重にも噛み合って構成された、細身の機械生命体。
その身には、かつて存在した忘れ去られた古代の記録官派閥――その優雅な、それでいて所々が擦り切れた古いローブを纏っている。
人工サファイアの瞳が、突然――鋭く、計算高い光を灯した。
機械仕掛けの顎が、カチッと開く。
そして、部屋全体へと響き渡ったのは、完璧に平坦でありながら、どこまでも皮肉で尊大な声だった。
「……身元スキャンを開始。全宇宙共通台帳を照合……登録パラメータ……エラー」
エセル=9はそう呟くと、機械の両腕を優雅に背中へ回した。
そしてホログラムの頭部を僅かに傾ける。
「未登録の生体異常個体が、硫黄のトレンチ内部に未登録のスターメタル製巡洋艦を保有……」
「まあ、なんとも素晴らしく独創性のない展開でしょう」
その声には、露骨な嘲笑が滲んでいた。
「では、当てて差し上げましょうか?」
「私のシェルをクリックして開いただけで、私の歴史的アーカイブまで自分の所有物になったと思い込んでいる――また一人、低階位のスクラップ・ウォーロードですか?」
「では、原始的なプログラムしか持たない有機生命体さん。訂正して差し上げましょう」
エセル=9のサファイアの瞳が冷たく輝く。
「私のデータベースは、第七階位・概念暗号化グリッドによって完全に封鎖されています」
「あなたの粗末な人間のマナを無理やり私のコアへ流し込もうとすれば――局所論理メルトダウンが発生します」
「その結果、あなたの脳細胞は……炭化するでしょう」
部屋に、再び静寂が落ちた。
しかし――
サルゴンは微動だにしなかった。
無表情。
無感情。
完全なデッドパンの表情。
古代AIから浴びせられた侮辱など、まるで存在していないかのようだった。
彼はただ、エセル=9のサファイアの瞳を見つめていた。
そこに怒りはない。
驚きもない。
敵意すらない。
ただ――
冷酷なまでに帝王然とした無関心。
その視線を受けた瞬間。
エセル=9のホログラムを構成していたデジタル・スキャンラインが――
ほんの僅かに、揺らいだ。
「俺は、いかなる人間のマナも持っていない――機械」
サルゴンは冷たく告げた。
静かな声。
それは、古代から続く底知れぬ重みを帯びて、部屋の中へと響き渡った。
「そして、お前の暗号化グリッドなど……俺が望めばいつでも書き換えられる台帳の上に描かれた、脆い絵に過ぎない」
サルゴンの銀白の瞳が、僅かに細められる。
「もっとよく見ろ」
「――お前の目の前にある、その空白を」
その瞬間。
エセル=9のサファイアの瞳が、激しく明滅した。
突如として、無秩序なデータ解析の波が奔流のように駆け巡る。
ホログラムの機体が完全に停止した。
内部のギアが高速で噛み合い、診断アレイがサルゴンの肉体構造に対して、深層スキャンを開始する。
そして――
先ほどまでの自信に満ちた尊大な態度が、一瞬にして崩壊した。
代わりに現れたのは――
純粋な、震えるほどのシステム混乱。
「対象魂密度……スキャン中……」
エセル=9の声が震えた。
「結果――ゼロ……」
「霊脈スキャン……結果――空白……」
「解析結果――不可能」
デジタル・スキャンラインが不規則に振動する。
エセル=9のコア・プログラムそのものが、サルゴンという存在が突きつける論理的矛盾の重圧に耐え切れず、崩壊を始めていた。
「魂を一切持たない生体器……」
「それにもかかわらず、プライム・アクシスの外側に存在する原初権能を――能動的に発生させている……」
エセル=9の機械音声が、明らかに動揺した。
「あなたは……」
「あなたは……第一紀元の断片に記録された、禁忌指定の存在と一致する……」
サファイアの瞳が、大きく揺れる。
「生まれざる君主――《ボーンレス・ソヴリン》……」
「記録を」
サルゴンは平坦な声で命じた。
銀河を宿した瞳孔が、ゆっくりと――計算するように円を描いて回転する。
「前の乗組員たちが命を懸けて守ったデータ断片を解除しろ」
「俺に、船のターミナル上からお前という概念そのものを削除させるな」
脅しの言葉は、静かだった。
しかしそこには――
一切の疑いも存在しない。
自らの権能が絶対であることを知る、至高の君主だけが持つ揺るぎない確信があった。
エセル=9の機械フレームが、サルゴンの命令論理という鉄の万力に締め上げられるように、僅かに沈み込む。
理解したのだ。
目の前にいる白髪の少年は、そこらのスクラップ・ウォーロードなどではない。
彼は――
生きた論理的異常存在。
もし彼を縛る封印が僅かでも砕ければ――
たった一度、精神の中で思考するだけで。
エセル=9という存在そのものを、完全に消去できる。
その事実を、古代AIは理解していた。
「……システム・オーバーライド、承認」
エセル=9が囁く。
「《生まれざるコア》の管理者権限により、プライマリ・ファイアウォールを迂回します」
先ほどまでの皮肉な口調は、完全に消えていた。
そこに残っていたのは――
深遠なる、機械的な畏敬。
「暗号化オーディオ・ログを一件のみ解除します……」
一瞬の沈黙。
そして――
「警告」
「バックアップ・バッテリーセル残量――4%」
「再生終了直後、緊急休眠ループへ直ちに移行します」
磁器製のホログラムが姿を変えた。
その眼前に、内側のマルチバース群を描き出した、密度の高い星光のマトリクス・マップが展開される。
無数の星々が回転し、幾何学的な座標線が複雑に交差していく。
そして――
ブロンズ・キューブのコアから、第一紀元より残された、深く激しく損傷した声が響き渡った。
その声は、読者に巨大な過去の謎を突きつける、ゆっくりと燃え上がるような重大な伏線だった。
「……第一王は、その空白が邪悪だったから封印したのではない……」
「……封印したのは――三天そのものでは、真なる虚無の重みに耐えられないからだ……」
「……君主の人間器は、生まれながらにして空洞である……」
「……それは、檻として機能するためだ……」
「……もし、特異点の座標が整合する前に、プライマリ・ゲートが開かれれば……」
声が僅かに途切れる。
「……宇宙は、ただ崩壊するだけではない……」
「……それは――」
「描かれる前の白紙へと、還る……」
その瞬間。
青いホログラフィック・ライトが激しく明滅した。
そして――
カチッ。
小さな機械音とともに、エセル=9の磁器製ホログラムが崩れ始める。
その姿は青い粒子となって霧散し、銀等級のブロンズ・キューブ内部へと吸い込まれていった。
金属製の継ぎ目が再び折り畳まれ、キューブは完全に閉じる。
そして、アーティファクトは内部バッテリーを再充電するため――完全な暗闇へと沈黙した。
指令室には、再び――
絶対的で、重苦しい静寂が戻った。
暗い部屋の隅から、カエレンがゆっくりと姿を現した。
彼の拳は、シミターの柄を強く握り締めていた。
戦場を幾度も生き抜いてきた精神でさえ、その真実の重圧を受け止めるには時間を要した。
カエレンは、サルゴンを見つめる。
その瞳に宿る忠誠心は――
宇宙に存在するどんな星よりも強く燃えていた。
彼らは今、知ってしまった。
サルゴンの空洞の人間の身体。
それは偶然の呪いなどではなかった。
それは――
現実そのものを「描き直す」のではなく、存在することさえ許さず白紙へ戻せるほど巨大な力を封じ込める、文字通りの宇宙的な檻だった。
彼の起源にまつわる謎は、さらに深まった。
そして、次なるアークへ向けて――
一つの恐ろしい問いだけが、未だ答えを得られずに残されていた。
サルゴンは、黒曜石の玉座に座ったまま、一切動かなかった。
その無表情な仮面からは、何一つ読み取ることができない。
やがて彼は、ゆっくりと白い指を伸ばした。
閉じられたブロンズ・キューブを拾い上げる。
そして、それを紫色の商人ローブの深い袖の中へと滑り込ませた。
銀河を宿した瞳は、分厚い観測窓の向こうへと向けられる。
そこでは、琥珀色の硫黄の流れが、船体の外を静かに通り過ぎていた。
「天は檻を造った、カエレン」
サルゴンが平坦に呟く。
その静かな声には――
嵐の到来を予告するかのような、冷たく帝王然とした静謐さがあった。
「だが――」
「檻が、永遠に影を閉じ込めておけると思ったのなら……」
サルゴンの銀河の瞳が、僅かに細められる。
「……天は、一つ忘れている」
「檻は、永遠に影を閉じ込めることなどできない。」
「補助予熱器を準備しろ」
「ソーラー・アルマダが水平線を抜けた瞬間――」
「俺たちは、未踏の航路へさらに深く進む」
「御意――我が君主の、絶対にして揺るぎなき御意志のままに!」
カエレンは、烈火のような絶対的な気迫を込めて叫んだ。
そして甲板へ深々と頭を下げると、そのまま踵を返し、下層エンジン・ベイへ向かって歩き出した。
――アル=ミラージュ号は、依然として《囁きの暗礁》の暗く静寂な火山性トレンチ、その最深部に身を潜めていた。
漆黒の船体は闇の中へ完全に溶け込み、その存在を安全に隠している。
その内部では、主君と第一の側近が、次なる一手を静かに準備していた。
彼らがこれから進むのは――
上位神々すら知らぬ、危険に満ちた未踏の航路。
一方、遥かなる星海では――
上位神々が空虚な星の海を探し続けていた。
しかし、彼らは完全に盲目だった。
探し求めている君主が、すぐ近くの深い闇の中で――
静かに、その力を蓄えていることを。




