壊れたスリップストリム
アル・メラージュ号が奏でていた荘厳な、最大過負荷状態の轟音が、突如として苦痛に満ちた死を迎えた。
カエレンの純粋な肉体的英雄行為によって、古代のヴォイド・リヴァイアサンを黒曜石の海溝に渦巻く灼熱の暗黒へと押し戻すことには成功した。しかし、その怪物が最後の死力を振り絞って抵抗した際に生じた凄まじい運動衝撃波は、船体下部に壊滅的な傷跡を残していた。
甲板遥か上空では、巨大なダークマターの帆が激しく明滅し、液状の星光潮流を滑らかに捉えていた推進力を失っていく。
そして副操舵機構の奥深くでは、重厚なスターメタル製の主舵が、途方もない重力圧力によって真っ二つに砕けていた。
その結果、巨大巡洋艦は追跡不能なスリップストリームから強制的に離脱し、明るく照らされた内側交易圏の境界へと、無力に漂いながら進むことを余儀なくされた。
サルゴンは荘厳な黒曜石の玉座に腰掛け、わずかに身体を強張らせていた。
彼は左袖を持ち上げ、自分の腕を確認する。
青白い皮膚の下では、彼の霊脈が激しく脈動し、かすかな不規則な紫色の光を放っていた。
視界の前には内部システムのインターフェースが浮かび上がり、冷徹な文字が容赦なく点滅している。
[警告:深刻な構造振動により、未封印ゲートのコア平衡が不安定化しています。]
[現在のコア・エネルギー残量:14.2%(危険域)。]
[緊急プロトコル:『究極属性:ソヴリン・ヴォイド』による概念削除を実行した場合、Tier 6以上の魂密度を有する存在に対して使用すると、使用者の人間の肉体殻が即時かつ致命的な物理崩壊を引き起こします。]
サルゴンは、ゆっくりと無言の息を吐いた。
表情は変わらない。
しかし、その冷静な、どこか『銀魂』を思わせるような仮面の奥で、突然、苦い既視感が深く心を蝕んだ。
――弱さ。
この冷たく、息苦しい制限。
それは、アエテルガルドの荒涼たる砂漠で、苦痛に満ちた十七年間を過ごした彼が、何度も味わってきたものとまったく同じだった。
自分が完全に無力であるという感覚。
災厄のカルト教団が、何の躊躇もなく彼の顔を踏みつけ、塵芥以下の存在として扱っていたあの日々。
生まれながらにして空虚で、魂も魔力脈も持たず、自分自身を守る術さえなかったからだ。
閉じた瞼の裏に、母が最後に残した必死の囁きが蘇る。
――「目を隠して、サルゴン。ゲートがその重みに耐えられるようになるまで、天にあなたの中の空白を見せてはいけない……」
彼は漆黒の虚無の瞳を開いた。
その瞳孔の中に存在する小さな星々の銀河が、苛立つようにゆっくりと渦を巻いている。
――まだ、弱すぎる。
広大なエーテル海に君臨する、本物の超越者たちを前にすれば、現在の彼の未封印段階など、砕かれるのを待つだけの脆いガラス杯に過ぎなかった。
カァン。
重々しい金属の足音が、彼の思考を断ち切った。
サルゴンは長く伸びるスターメタル製の甲板へと視線を向けた。
そこには、破損した操舵室の近くに立つカエレンの姿があった。
筋骨隆々とした身体を操舵コンソールに大きく預け、どうにか立っている。
傭兵の両腕は宇宙の緑色の血と汗で完全に濡れ、巻かれていた厚手の布製包帯はほどけ始め、肉体には深く裂けた生々しい傷が露わになっていた。
それでも、凄まじい疲労に襲われながらも、カエレンの鋭く戦い慣れた眼差しは、暗黒の水平線から一瞬たりとも離れなかった。
その手には今なお、湾曲したシミターの柄が固く握られていた。
その戦士を見つめながら、サルゴンの皇帝然とした無関心の奥に、珍しく静かな本物の感情が湧き上がった。
それは、言葉にすることのない、深い敬意だった。
カエレンは文字通り、自らの筋肉を引き裂くほどの力を振り絞り、船を救った。
その一方で、サルゴンの封印された肉体は血を吐き出していた。
「下がれ、カエレン」
サルゴンは静かに命じた。
その穏やかな声には、冷静でありながら決して揺るがない重みが宿っていた。
「武器を抜くな。今回は、戦わない」
「御意のままに、我が主よ」
カエレンは答えた。
肉体的疲労によって掠れ、重く濁った声だった。
彼はゆっくりと舵輪から離れ、頭を下げる。
その所作には、絶対的な敬意が込められていた。
船のよろめく船首の先。
星の海の開けた虚空は、もはや何もない空間ではなかった。
揺らめく黄金色の星雲の彼方から、巨大な浮遊要塞が姿を現した。
それは白い大理石の巨大な板材を幾重にも組み合わせ、さらに強化された真鍮製の魔導配列によって補強された、壮大な要塞だった。
――第44検問所。
そこは、アウレリアン商業ギルドの銀メッキされた企業軍が管理する、重武装の国境前哨基地だった。
要塞の周囲には、十隻もの巨大で傷一つない惑星間戦闘巡洋艦が展開していた。
その一隻一隻から、Tier 6スカイ・アークオン級の濃密で息苦しいほどのマナの気配が放たれている。
そして前哨基地の中央指令塔、その頂上には、一人の眩い人物が立っていた。
流れるような絹のローブ。
精巧なプラチナ製の肩当て。
その人物こそ――ヴェイン司令官。
Tier 6スカイ・アークオン。
その圧倒的な魂密度は、あまりにも巨大だった。
彼の身体の周囲に漂う星明かりさえも物理的に湾曲し、絶対的な権威による天然の防壁を形成している。
彼は内域における真の強者だった。
鍛え抜かれた彼の人間のマナ・コアは、まるで小さな月そのもののような密度を誇っていた。
「漂流船! 身元を明らかにしろ!」
前哨基地から、轟くような高周波音響アレイが鳴り響いた。
純粋な音圧だけで、アル・メラージュに残されたダークマターの帆が激しく波打つ。
「お前たちは、船体に甚大な損傷を受け、未登録のエネルギー反応を発生させた状態で、アウレリアン・ギルドの交易管轄区域へ侵入した!」
「錨を下ろし、臨検を受ける準備をしろ!」
「さもなくば、貴船を無法海賊異常体として分類し、要塞防衛配列によって蒸発させる!」
サルゴンは、ゆっくりと黒曜石の玉座から立ち上がった。
紫と金の刺繍が施された商人用のローブが床板の上を優雅に滑る。
彼は船首の手すりへ向かって歩き、その額の黄金のヘッドバンドに乱れた白髪がかすかに触れた。
――システム。
サルゴンは心の中で思考した。
その内なる声は完全に平坦だった。
――ソヴリン・ヴォイドの存在を隠せ。
――登録配列を作動させるな。
彼は船首甲板の外縁へと歩み出た。
そして、開けた虚空の向こうから接近してくる銀メッキの臨検艇を見つめる。
そこには三十名の精鋭Tier 4ギルド士官が乗っていた。
全員が、魔力を帯びたマナ・ハルバードを手にしている。
旅を始めて以来、初めてだった。
サルゴンは、力を使うことができない。
今回は、戦って勝つことはできない。
広大な宇宙に存在する、苛烈で秩序立ったルールに従って行動しなければならなかった。
臨検艇が鋭い磁気音を響かせながら、アル・メラージュの船体へと固定される。
ギルド士官たちが甲板へと行進してきた。
銀色の鎧板が、検問所の人工照明を受けて眩く輝いている。
彼らを率いていたのは、鋭い目をした高位のエルフの裁定官だった。
その手には、淡い光を放つホログラフィック・レジャーが握られている。
「この船は、プライム・アクシスに存在する既知の設計図のいずれとも一致しません」
裁定官は冷たく言った。
彼の目が細められ、スターメタル製の甲板に刻まれた古代の幾何学的ルーンをスキャンする。
そして、血まみれで敵意を放つカエレンの姿へ視線を向ける。
次いで、その視線がサルゴンへと移った。
「船体は深刻な亀裂を起こしている」
「そして、お前の従者からは、原初概念獣の匂いが漂っている」
裁定官はホログラフィック・レジャーを操作しながら続けた。
「アウレリアン交易法、第9条に基づき、高度な構造的損傷を負った未登録船舶は、緊急境界安定化費として一万五千枚の高級コズミック・トークンを支払わなければならない」
「支払いができない場合――」
裁定官の冷たい視線がサルゴンを射抜いた。
「この船は接収される」
「そして、お前たちの乗組員は尋問のため、現地アークオン法廷へと引き渡される」
カエレンの指がシミターの柄を激しく震わせた。
喉の奥から、低く危険な唸り声が響く。
しかしサルゴンは、青白い片手を静かに上げた。
それだけで十分だった。
第一副官にその場を動くなと、無言で命じたのだ。
サルゴンは裁定官の目を真正面から見据えた。
その顔には、相変わらず『銀魂』のような、何事にも動じない平静さが浮かんでいる。
彼には分かっていた。
自分たちには、コズミック・トークンが一枚もない。
無法前哨基地でカエレンが行った取引によって、通貨の保有量は完全に底をついていた。
だが――
彼には、それより遥かに価値のあるものがあった。
「我々はトークンを持っていない」
サルゴンが口を開いた。
静かな声が甲板全体へと響き渡る。
その冷たく、帝王のような静謐さに、銀メッキの装甲をまとった士官たちは無意識に一歩後ずさった。
「だが、深層海溝の純粋な原材料なら持っている」
サルゴンは進化した【権能の支配:質量制御】の法則を、ほんのわずかに精神で揺らした。
標的は、その下にある中央貨物倉。
攻撃するために力を使ったわけではない。
ただ、空気の密度を操作しただけだった。
すると、下層甲板に置かれていた重量級の貨物箱が、ゆっくりと浮かび上がった。
そして何の抵抗もなく上昇し、サルゴンと裁定官の間で正確に静止する。
貨物箱の蓋が外側へと滑るように開いた。
その内部から姿を現したのは――
純粋なスペース・タイム鉱石の巨大な未精製ブロック十個。
そして、淡い紫色の光を放つヴォイド・シャード。
それらは、第13章でサルゴンが三日月形の小惑星から採掘したものだった。
生の原材料が外気に晒された瞬間。
濃密で陶酔するほどの紫色の霧が甲板いっぱいに広がった。
純粋な時空エッセンスそのものだった。
裁定官のホログラフィック・レジャーが激しく明滅する。
画面には、理解不能なほど大量の異常データが次々と表示されていった。
裁定官の目が大きく見開かれる。
そこに浮かんでいたのは、純粋で隠しようのない――強欲だった。
「こ、これは……」
彼の声が震える。
「深層海溝から採掘された、未精製の生のスペース・タイム・エッセンス……」
「しかも……エオン・フィルターを一度も通していない……」
「純粋な未精製スペース・タイム鉱物、二十トン」
サルゴンは冷たく告げた。
銀河を宿した瞳が、エルフの裁定官を真っ直ぐに射抜く。
「我々の通行料を支払い、緊急境界安定化費を賄うには十分すぎる量だ」
「さらに、操舵用の主舵を修理するため、下層ドックで三時間、何者にも邪魔されず停泊する権利も確保できる」
サルゴンの声は静かだった。
だが、その言葉には一切の交渉の余地がなかった。
「鉱石を受け取れ」
一瞬の間。
「さもなくば――」
サルゴンの漆黒の瞳が、さらに深く沈む。
「我々が手動操船による漂流航行を開始し、お前たちの要塞壁をそのまま通り抜けるのを見ていろ」
「選ぶのはお前だ、裁定官」
脅迫だった。
しかし、それは露骨なものではない。
絶対的で、冷淡な自信の中に巧妙に隠された脅威だった。
裁定官は、目の前で紫色に輝く鉱物へ視線を落とした。
そして再び、サルゴンを見る。
底の見えない漆黒の瞳。
その奥には、銀河そのものが渦巻いている。
裁定官の背筋を、本能的な冷たい汗がゆっくりと伝った。
実際には、サルゴン自身の内部エネルギーは危険なほど枯渇していた。
肉体も限界に近い。
それでも――
その古代的で原初的な威厳は、彼をまるで正体を隠した恐るべきエオン・ロードのように見せていた。
危険極まりないゲームを、退屈そうに楽しんでいる超越者。
裁定官は、ごくりと唾を飲み込んだ。
そして、ゆっくりと手にしていたマナ・ハルバードを下ろした。
「……二十トンの未精製スペース・タイム鉱石……」
短い沈黙。
やがて裁定官は、はっきりと告げた。
「アウレリアン・ギルドは、この通行料を受け入れる」
「貴船への通行許可を承認する」
エルフの裁定官はレジャーを軽く叩いた。
すると、銀色の通行許可紋章がアル・メラージュの航行コンソールへと転送された。
「貴船には、下層ドックから退去し、修理を完了させるために正確に三時間が与えられる」
裁定官は冷たく告げた。
「タイマーが切れた後も貴船が検問所の境界内に留まっていた場合――ヴェイン司令官本人が介入する」
「三時間もあれば十分だ」
サルゴンは平坦な声で答えた。
銀メッキの士官たちは、鉱物の詰まった重い貨物箱を慎重に固定する。
そして戦利品を手に、臨検艇へと戻っていった。
今回の勝利には、重く、痛ましい代償が伴っていた。
サルゴンは、三日月形の小惑星から命懸けで採掘した貴重なスペース・タイム鉱石のほぼ半分を手放さざるを得なかった。
たった一つの小規模な境界ゲートを安全に通過する。
そのためだけに。
臨検艇が切り離され、白大理石の要塞へ向かって飛び去っていく。
その間、アル・メラージュはゆっくりと進み、下層修理ドックの暗く防護された影の中へと滑り込んでいった。
サルゴンは荘厳な玉座へと戻っていく。
紫色のローブが金属製の床を擦り、静かな衣擦れの音を響かせた。
彼は玉座へ腰を下ろし、石造りのクッションへ頭を預けた。
短く、疲れ切った呼吸が、次第に落ち着いていく。
サルゴンは左手へ視線を落とした。
そこでは【覇者の印章:ニヒル】が、ゆっくりと気怠げな円を描きながら回転していた。
その紫色の光もまた、彼の低下したコア・エネルギーに合わせるように弱々しく明滅している。
――宇宙は広大だった。
秩序によって組織され、そして、現在の彼の段階など一瞬で粉砕できる恐るべき強者たちに満ちている。
サルゴンは、この検問所を生き延びた。
使ったのは、冷徹な知性。
鋭い策略。
そして、痛みを伴う物質的な犠牲。
彼は、下位神々が定めたルールに従うことを余儀なくされた。
だが――
ゲートの向こうへと広がる内域。
そこにそびえ立つ、巨大で輝かしい黄金の塔へと、銀河を宿した瞳を再び向けた瞬間。
彼の精神に宿る冷酷な皇帝然とした無関心は、さらに硬く研ぎ澄まされた。
プライム・アクシスの均衡は、今まさに変わり始めている。
そして――
三天の王となるための道は、
血と、
犠牲と、
策略によって彩られることになる。
今はまだ――
虚無は待つ。
癒える。
そして、影の中から見つめ続ける。




