リヴァイアサンの顎
アル・メラージュの黒曜石の船首が、静寂に包まれた暗い藍色の星潮を滑らかに切り裂いていく。
無法の前哨地に存在したレーダー・シャドウから離脱し、船はゆっくりと上昇していった。
希少なエクリプス・ロータスは完全に溶解し、サルゴンの霊的構造へと統合された。
それによって、彼の人間の器に存在していた内部の微細な亀裂は完全に塞がった。
視界の前に浮かぶ冷たく機械的な宇宙システム・インターフェースも、ついに赤色で表示されていた効率低下ペナルティを消去した。
エネルギー・マトリクスは再び安定した基準稼働状態へと戻っていた。
純粋なダークマターを、流動する墨のように織り上げて造られた巨大な帆が、限界まで大きく膨らむ。
その帆は、下部貨物区画に蓄えられていた高密度かつ未精製の時空鉱物を吸収し続け、船の最大オーバードライブ推進力を維持していた。
サルゴンは指揮甲板の後方に設置された、巨大な船長の玉座へ静かに腰掛けていた。
乱れた白髪が、精巧な黄金のヘッドバンドの周囲へと無造作に垂れている。
その中央に埋め込まれた紫色の宝石が、暗い玉座のクッションへ柔らかな反射光を落としていた。
無表情で感情の読めない顔は、完全に静止している。
漆黒の虚無の瞳だけが、遠方で絶えず色彩を変化させる開けたエーテル海を見つめていた。
その玉座の傍らで――
コア・スピリットの機械仕掛けの鷹のアバターが、突然鋭い金属音のような鳴き声を上げた。
キィィィィンッ!!
青い星座の翼が大きく展開される。
同時に、激しく脈動する赤い警告灯が翼から放たれ、星鉄で覆われた甲板全体を赤く照らし出した。
――ゴゴゴゴゴ……。
突然――
壊滅的な震動が巨大巡洋艦の床板を駆け抜けた。
船体の下を流れていた液体状の星光の潮流が激しく渦巻き始める。
穏やかな藍色だった星潮は、一瞬にして――
純粋な黒い虚無が煮え立つ、混沌とした巨大な渦へと変貌した。
そして――
船の周囲の空間そのものが歪み始めた。
伸びる。
捻れる。
局所的な重力パラメータが、正常な配列から大きく逸脱していく。
アル・メラージュを取り巻く空間そのものが、何か巨大な存在に掴まれたかのように――不自然に変形し始めていた。
[高危険度警報:宇宙空間の歪曲を検知!]
[存在識別:原初の虚無リヴァイアサン――古代概念級魔獣]
[警告:対象は自律的に顕現した宇宙的存在であり、時空元素および星潮を能動的に捕食しています。対象の純粋な概念密度は、高位星団に匹敵します]
[船体安全マトリクス:船体下部の星鉄フレームに対する大規模物理ロックダウンを開始]
煮え立つ暗黒の巨大渦――
その底から、恐ろしく巨大な悪夢が、開けた虚空へと姿を現した。
それは、絶対的な神話そのもの。
――虚無リヴァイアサン。
その巨大で鋭く彫刻されたような肉体は、星の海を何マイルにもわたって横断するほどの巨体だった。
全身を覆うのは、幾重にも重なった鋸歯状の硬質な宇宙黒曜石の鱗。
その鱗は周囲の星光さえも吸収し、巨大な怪物の輪郭を暗黒へと溶け込ませていた。
そして――
洞窟のように巨大な円形の顎。
その内部には、何千列もの紫黒色に輝く牙が並んでいる。
惑星級の船体ですら、塵へと噛み砕くことができるほどの破壊力を秘めた牙だった。
次の瞬間。
咆哮。
声ですらなかった。
それは深宇宙そのものを震わせる、無音の咆哮だった。
――ドォォォォンッ!!
局所宙域全体を揺さぶる激烈な運動衝撃波が発生する。
そして怪物は――
十二本もの巨大な触手を一斉に解き放った。
一本一本が、全長一マイルにも及ぶ巨体。
それらがアル・メラージュの甲板へと次々に叩きつけられる。
――ズガァァンッ!!
巨大な触手が黒曜石の船体へ絡みつき、まるで破壊不可能な鉄の万力のように船を締め上げていく。
アル・メラージュの巨大な星鉄フレームが、突然襲いかかった凄まじい圧力に軋んだ。
――ギギギギ……!!
ダークマターで織られた巨大な帆が激しくはためく。
歪んだ星潮に対する推進力を失い、船体が大きく揺さぶられる。
そして――
虚無リヴァイアサンは、伝説級の巡洋艦を猛烈な力で下方へと引きずり始めた。
向かう先は――
大きく開かれた、怪物の巨大な顎。
何千もの紫黒色の牙が並ぶ、その深淵へ。
アル・メラージュそのものが――
まるで巨大な獣に捕食される、無力な獲物であるかのように。
ゆっくりと――
その暗黒の顎の中へと引きずり込まれていった。
サルゴンは、自らの存在そのものを拡張した。
左手が玉座の肘掛けからゆっくりと持ち上がる。
その中指に嵌められた――
[ソヴリン・シグネット:ニヒル]
が、眩い紫色の光を放った。
サルゴンは迫り来る巨大な怪物の頭部へ向けて、指を突き出す。
――FLASH。
だが――
その法則が彼の精神から解き放たれるよりも早く。
巨大な深紅色の宇宙システム警告が、視界を強制的に覆い尽くした。
警告文が激しく脈動する。
[重大システム警告:概念消去の試行は極めて危険です!]
[解析:虚無リヴァイアサンは、現在あなたが解放している閾値を遥かに超える、古代原初の魂密度を有しています]
[反動予測:『究極属性:ソヴリン・ヴォイド』を古代概念級魔獣へ強制適用した場合、宇宙規模の300%反動が発生します]
[結果:使用者の人間の肉体殻が完全に崩壊・分解します]
サルゴンの指が、空中で静止した。
表情は変わらない。
しかし――
漆黒の虚無の瞳の中で、無数の小さな銀河が高速で回転していた。
計算。
解析。
判断。
サルゴンは警告データを冷静に読み取っていく。
――現在の自分では、弱すぎる。
封印を解かれたばかりの門では、この階位の原初の怪物を真正面から処理することはできない。
[究極属性:ソヴリン・ヴォイド]を無理に行使すれば――
怪物を消し去るより先に、自らの脆弱な肉体の内側から崩壊してしまう。
「我が主、虚無を解放してはなりません!」
コア・スピリットの鷹が、パニックに陥ったように叫んだ。
星座で構成されたその身体が、赤い警告灯の中で激しく明滅する。
「この獣の純粋な質量は、峡谷そのものの根幹構造と結びついています! 今ここで奴を消去すれば、あなたの魂脈まで引き裂かれてしまいます!」
「分かっている」
サルゴンが囁いた。
静かな声だった。
しかしそこには――
古代の皇帝を思わせる、冷徹な威厳が宿っていた。
ゆっくりと左手を下ろし、石造りの肘掛けへ戻す。
彼は慌てなかった。
恐れもしなかった。
ただ、長く軋む甲板の先――
副操舵席の方向へ視線を向ける。
「カエレン」
短い呼びかけ。
「四肢を斬り落とせ」
次の瞬間。
船の前方から、低く轟くような、鍛え抜かれた戦士の声が響き渡った。
「御意に――我が主」
カエレンは操舵輪を乱暴に手放した。
手動マトリクスとの接続が解除される。
彼の精神内部に存在していた直接的な自動操縦支配は消え去り――
その代わりに、サルゴンの至高なる権能と完全に同調した、極限まで研ぎ澄まされた集中状態へと移行した。
両腕は分厚い包帯に覆われている。
だが――
その存在感は圧倒的だった。
星々へ到達する以前から砂竜を狩り続けてきた、砂漠の精鋭生存戦士。
幾多の死線を潜り抜けた歴戦の傭兵だけが纏う、荒々しく鍛え上げられた戦闘者の気配が、カエレンの全身から放たれていた。
――シャンッ。
澄んだ金属音が響く。
カエレンは鞘から湾曲した三日月刀を抜き放った。
派手な光線も、轟音を伴うエネルギーも放たない。
代わりに――
己自身が持つティア5の人間マナを、黒鋼の刀身へと流し込む。
しかし。
カエレンの精神は、常にサルゴンの存在と完全に同調している。
そのため――
主人が新たに獲得した[概念上書き:質量制御]の法則、その僅かな痕跡がカエレンの武器へと漏れ出した。
瞬間。
黒鋼の刀身が震え始める。
目には見えない。
だが――
そこには、人工的に付与された異常な密度の重量が存在していた。
カエレンが走り出す。
巨大な星鉄の甲板を、重い革靴が激しく踏み鳴らす。
――ドンッ!
――ドンッ!
――ドンッ!
紫色に脈動するルーンが、その足元で明滅する。
その直後――
一本の巨大な触手が、猛烈な速度で振り下ろされた。
全長一マイル。
表面には鋭利な黒曜石の棘が無数に生えている。
その巨大な触手が頭上へ落下するだけで、発生する風圧だけで山すら平らにできるほどだった。
だが――
今回はカエレンは滑らない。
避けもしない。
両足を甲板へと強く踏み込み、身体を固定する。
そして三日月刀を両手で握り締めた。
次の瞬間――
真正面から迫り来る悪夢へ向けて。
凄まじい速度で、垂直の斬撃を振り上げる。
――BOOM!!
物理的な衝撃が、宇宙空間の真空そのものを爆発のように震わせた。
カエレンの刃には、質量操作の法則、その僅かな残滓が宿っている。
そのため――
湾曲した三日月刀の刃は、単純に触手を「斬った」のではなかった。
触手そのものへ――
崩壊する小惑星帯全体に匹敵する、人工的な質量を叩き込んだ。
――バキィィィンッ!!
虚無リヴァイアサンの巨大な四肢が激しく折れ曲がる。
硬化した宇宙黒曜石の鱗が、莫大な圧力に耐えきれず粉砕された。
数百万もの黒い破片となって、星の海へと飛び散っていく。
そして――
カエレンは腰を滑らかに捻った。
そのまま横薙ぎへと斬撃を繋げる。
――ズバァァァンッ!!
全長一マイルにも及ぶ巨大な触手が、完全に二つへと切断された。
切断面から緑色に輝く宇宙血が噴き出し、暗黒の虚空を染め上げる。
切り落とされた巨大な四肢は、そのまま星潮の彼方へと漂っていった。
虚無リヴァイアサンが――
再び、声なき苦痛の咆哮を放つ。
残された十一本の触手が狂ったように暴れ始めた。
巨大な船体フレームを何度も叩きつけながら――
甲板に立つ一人の戦士を、今度こそ押し潰そうとしていた。
カエレンは、一呼吸たりとも止まらなかった。
彼は精鋭技術――砂糸歩法を最大限に駆使する。
その身体が、星鉄の甲板上を駆け抜ける黒い亡霊のようにぼやけた。
荒れ狂う触手が生み出す、狭く不規則な隙間。
その一つ一つを、カエレンは寸分の狂いもなく踏み抜いていく。
まるで巨大な怪物自身の攻撃を嘲笑うかのように。
虚無リヴァイアサンが振り下ろす凶悪な一撃は、ことごとく空を切った。
そして――
カエレンの三日月刀が触手へ触れるたびに、人工的な質量による巨大な衝撃波が爆発する。
――ドゴォォンッ!!
黒曜石の装甲板が次々と砕け散る。
純粋で荒々しい、歴戦の戦士として磨き抜かれた肉体戦闘技術。
それだけで、怪物の肉体内部へと深い構造的な傷を刻み込んでいく。
――CRASH!
――SPARK!
――CLANG!
そして――
わずか三分にも満たない、極限状態の肉弾戦。
その間にカエレンは、一人だけでさらに四本もの巨大な触手を切断した。
アル・メラージュの下部船体を締め上げていた、怪物の鉄の万力は完全に崩壊した。
だが――
虚無リヴァイアサンの巨大な円形の顎は、すでに船首から二十フィートにも満たない距離へ迫っていた。
紫黒色に輝く何千もの牙が、大口を開いている。
次の瞬間には――
船体そのものを噛み砕く距離だった。
カエレンは、船首の手摺りへ向かって一直線に走った。
そして――
そのまま虚空へと跳び出す。
三日月刀を頭上高く掲げる。
両腕の黄金の腕輪が激しく輝いた。
ティア5戦士としてのマナが、その極限まで引き上げられる。
そして――
カエレンは、質量を付与された黒鋼の刃を、怪物の巨大な上顎へ向けて一直線に振り下ろした。
――CRACK――BOOM!!
凄まじい人工質量が、リヴァイアサンの頭部へ強制的に叩き込まれる。
その威力は――
あまりにも破滅的だった。
怪物の巨大な鼻先が、衝撃によって激しく歪み――
内側へと大きく陥没する。
「――――!!」
声なき絶叫。
虚無リヴァイアサンの巨大な肉体そのものが、斬撃に付与された異常な重量によって強引に下方へ叩き落とされた。
その巨大な顎が大きく振られ、身体全体の重心が完全に崩れる。
怪物は制御を失い――
アル・メラージュの航路から大きく逸れながら、虚空を無様に螺旋状に回転していった。
そして――
理解した。
この星鉄の船には――
恐ろしく強力で、卓越した肉体戦闘能力を持つ戦士が存在する。
負傷した怪物は恐怖に駆られた。
残された触手を急速に引き戻す。
巨大な黒曜石の身体を反転させ――
そのまま星潮の煮え立つ暗黒の巨大渦へと潜り込んでいく。
虚無リヴァイアサンは――
峡谷の未踏領域へと逃走した。
次の瞬間。
――バキィィィンッ!!
空間の歪曲が激しく収束し、閉じた。
まるで何事もなかったかのように――
エーテル海の局所宙域は、再び完全な静寂と平穏を取り戻した。
静かだった。
澄んでいた。
何も起きていない。
そんな錯覚さえ抱かせるほどに。
◆
カエレンの身体が滑らかに宙を漂う。
そして――
そのままメインデッキへと戻り、両足でしっかりと着地した。
「……ッ」
胸が激しく上下している。
莫大な肉体的負荷によって呼吸は荒くなり、全身を覆う包帯は汗と宇宙血で濡れていた。
それでも――
その姿勢は、一切崩れなかった。
カエレンは決して膝をつかない。
鋭い眼差しを、ただ前方の何もない虚空へと向け続ける。
彼は成し遂げた。
遠方に存在するエオン・デイティたちの注意を一切引くことなく――
純粋で、荒々しい肉体戦闘技術だけによって。
伝説のリヴァイアサンから――
アル・メラージュを守り抜いたのだった。
サルゴンは巨大な玉座に静かに腰掛けていた。
無表情だった顔には、再び気怠げな落ち着きが戻っている。
長く伸びる甲板の先――
血に濡れた己の戦士へと視線を向ける。
漆黒の虚無の瞳に、ほんの僅かな至高の満足が浮かんでいた。
「操舵系統は問題ありません、我が主」
カエレンが告げる。
その声には、深い信頼を寄せられる一等航海士に相応しい、穏やかで揺るぎない重みがあった。
そして――
三日月刀を鞘へ収める。
――カチン。
澄んだ金属音が星鉄の甲板へ響いた。
「オーバードライブを維持しろ、カエレン」
サルゴンが静かに命じる。
その穏やかな声が、星鉄の床板を通して船内へと響き渡った。
「内界領域への門が――我々を待っている」
その言葉に応えるように――
アル・メラージュが、低く荘厳な唸りを上げた。
巨大なダークマターの帆が、開けた星の海を流れる高速の潮流を捉える。
次の瞬間――
――ゴォォォォン!!
伝説の黒曜石船が、前方へと加速した。
静寂に包まれた石の墓場を滑るように通り抜け――
無限多元宇宙の、誰も踏み入れたことのない深奥へと姿を消していく。
その遥か後方には――
敗北した虚無リヴァイアサンだけが残されていた。
アル・メラージュは振り返らない。
ただ前へ。
さらに深く。
未知なる内界領域へ向けて――
無限の宇宙海を静かに航行していった。




