解放された門の限界
アル・メーラジュの最大オーバードライブによる轟音が突如として周波数を変え、継ぎ目のない星金属の船体全体に反響する、耳障りな振動音へと変化した。
巨大な黒曜石の巡洋艦は、深宇宙スリップストリームを抜け、独立国境セクターの外縁を越えたばかりだった。だが、その瞬間、周囲の宇宙潮流が激しく敵対的なものへと変貌した。
船首の前方では、開けたエーテル海を流れていた液状の星明かりが完全に消え去り、代わりに、眩い黄金のエネルギーで構成された巨大な壁がそびえ立っていた。
それは局地的に発生した巨大な宇宙嵐だった。
近隣に存在する《聖騎士聖域》次元から漏れ出した、高位聖属性マナによる凄まじい圧力が、宇宙的な摩擦波となって周囲へと広がっている。
黄金の元素流の密度はあまりにも凄まじく、周辺の重力そのものを歪ませ、星ほどの大きさを持つ聖なる圧力波が、船の進行方向へと次々に叩きつけられていた。
副操舵席では、カエレンが制御コンソールを強く握り締めていた。
虚ろな瞳は、急速に上昇していく圧力計を追っている。
サルゴンの命令法によって厳格な鎮静状態に置かれた彼の定命の魂は、高位軸の元素が生み出す巨大で圧倒的な重圧を感じ取っていた。
それでも彼は舵を微動だにさせず、ただ帝国の意思を待つ、無言の操り人形としてそこに立っていた。
サルゴンは、巨大な黒曜石の玉座に静かに腰掛けていた。
乱れた白髪は、額に掛けられた黄金のヘッドバンドの上へと完璧に流れ落ちている。
その顔には、いつもの感情のない表情――絶対的で、冷酷なまでの無関心が浮かんでいた。
左手では、液体のような星金属で造られた《至高者の印章:ニヒル》が低く唸っていた。
その中央に浮かぶ小さな銀河が、計算するかのようにゆっくりと回転している。
「至高者様」
コア・スピリットの機械仕掛けの鷹のアバターが、黒曜石の玉座の肘掛けに直接姿を現した。
青い星座の翼が、鋭く警戒するような周波数で明滅している。
「前方の宇宙摩擦波は、高密度の聖属性マナによって構成されています。通常の物理グライドでは突破できません。この凄まじい概念摩擦を受けたまま現在の速度を維持すれば、外部のダークマター・セイルが損傷します」
サルゴンは答えなかった。
ゆっくりと、そして気怠げに左手を持ち上げる。
肘を肘掛けへ預けたまま、彼は迫り来る眩い黄金の壁へ向けて、一本の白い指を伸ばした。
そして――己の存在を拡張する。
進路を塞ぐ障害そのものを消去するため、彼の根源法則を発動させた。
【究極属性:至高なる虚無】起動。
――消去。
その法則は、静かな命令として彼の精神から放たれた。
サルゴンの指先に、漆黒の無が鋭く局所的な渦となって発生する。
それは黄金の嵐を無へと還すため、巨大な波動となって広がろうとしていた。
だが――
サルゴンの虚無エネルギーが高密度の高位聖属性マナの波動に触れた瞬間、宇宙は屈しなかった。
その聖なる嵐の概念密度は、生きた聖域のアンカー・コアと結びついていた。
それは、これまでサルゴンが消去してきた下位領域の塵芥などとは比較にもならない、遥かに重い超越的構造法則だった。
この規模の元素に対して概念消去を強制するには、膨大な量の原初エネルギーが必要となる。
そして現在のサルゴンの肉体は――幾重にも封印された、未だ脆弱な定命の肉体は――それを受け止めることができなかった。
CRACK――!
サルゴン自身の胸の奥で、霊的な何かが弾ける音が響いた。
拒絶された宇宙法則が突然、激しい反動となって彼との接続を逆流し、まるで物理的な鉄槌のようにその肉体を打ち抜いた。
「ぐっ――」
サルゴンの気怠げな姿勢が激しく崩れた。
頭が前方へ跳ね、唇から濃い一筋の黒い天界血が流れ落ちる。
それは純白の絹で仕立てられた商人服の内衣を、赤黒く染め上げた。
漆黒の虚無眼の中で渦巻いていた銀河が激しく明滅し、その膨大な内部負荷が、脆弱な人間の器を砕こうとしていた。
――まだ、彼の「未封印の門」は十分な強度を持っていなかった。
深淵なる宇宙の高位勢力へ挑むには、サルゴンはあまりにも弱すぎた。
「若君様!」
コア・スピリットの鷹が、完全な狼狽に陥って叫んだ。
その星座のような身体が激しく明滅する。
「反動です! 聖域の波動が持つ未精製の密度は、現在の若君様の肉体では受け止められません! 法則を停止してください! さもなくば、若君様の人間の器が崩壊します!」
サルゴンは左手を下ろした。
呼吸は短く、浅く乱れていた。
指先に浮かんでいた漆黒の渦は、静かに消滅する。
だが――黄金の波動は依然として彼らへ向かって轟音を上げながら迫っていた。
距離は、もはや二マイルにも満たない。
防御を失ったアル・メーラジュを、溶融した金属の残骸へと変えるには十分な距離だった。
その瞬間――
ガァァァンッ!!
前部デッキから、巨大な金属音が響き渡った。
副操舵席に立つカエレンの身体が激しく震える。
主君が血を吐いた。
その光景。
そして目前へ迫る、避けることのできない致命的な宇宙嵐。
その二つが、彼の戦士の魂の奥底に眠っていた原始的な何かを呼び起こした。
砂漠で何十年にもわたる苛烈な傭兵戦争を生き抜く中で研ぎ澄まされた――
彼の生存本能が、
【権威の支配者】による直接的な鎮静命令と、正面から激しく衝突した。
直接的な精神拘束は砕けなかった。
しかし、それは緩んだ。
機械的な奴隷状態から、能動的かつ極限まで研ぎ澄まされた同調状態へと変化したのだ。
カエレンの虚ろだった瞳に、突如として鋭く燃え上がるような光が宿った。
彼は逃げなかった。
恐慌にも陥らなかった。
「下がれ、精霊!」
カエレンが咆哮した。
その声からは、先ほどまでの空虚な静けさが完全に消え失せていた。
代わりに響き渡ったのは、歴戦の砂漠の精鋭兵士だけが持つ、力強く鍛え抜かれた怒号だった。
筋骨隆々とした両腕を凄まじい勢いで捻り、カエレンは船の自動航行マトリクスを解除する。
そして機械式の操舵輪を、自らの手で強引に奪い取った。
上腕二頭筋を覆う黄金の腕輪が、彼自身の純粋な第5階位定命マナによって激しく輝く。
重いブーツを星金属の甲板へと踏み込み、全身の力を操舵へと集中させた。
「索具を押さえろ!」
カエレンは、そびえ立つ黄金の炎の壁から目を離さず命じた。
「この船が土の中から引き上げられるより前から、俺はエオンの先鋒艦隊をくぐり抜けてきた!」
そして――
「波頭に乗るぞ!」
卓越した純粋な操船技術を見せつけるように、カエレンは副操舵を左へと激しく引いた。
黒曜石の船首が、迫り来る波動へ正確に四十五度の角度で突入する。
彼は嵐そのものと戦おうとはしなかった。
ダークマター・セイルを利用し、摩擦圧力の波に存在する文字通りの下層潮流を捉える。
そして、船を押し潰そうとしていた巨大な聖なる波動そのものを、巨大な運動エネルギーを生み出すスリングショットへと変換した。
GROAN――!
巨大な宇宙巡洋艦が激しく傾いた。
星金属の船体が軋み、悲鳴のような音を上げる。
アル・メーラジュは、黄金の大潮流の絶対的な境界線を滑るように進んでいった。
三分間。
苦痛とも思える長い三分間、カエレンはたった一人で操舵輪と格闘し続けた。
筋肉が引き裂かれ、鉄製の取っ手に擦れた両手から血が流れ落ちる。
それでも彼は、伝説の巨大艦を手動で操り、嵐の狭く混沌とした空間の裂け目を正確に縫うように通過させていった。
そして――
最後の轟音とともに、
アル・メーラジュは黄金の壁の反対側へと飛び出した。
再び開けた虚空の静かな、濃い藍色の星潮へと戻る。
その船体には――
傷一つなかった。
サルゴンは玉座へ背を預け直した。
袖で唇に付着した黒い血を、ゆっくりと拭う。
銀河が満ちるその瞳が、長い甲板の向こうにいるカエレンへと向けられた。
カエレンは操舵席へ重く身体を預け、荒い息を繰り返していた。
全身から放出していた純粋なマナはすでに収まり、その両手は血に染まっている。
それでも、その姿勢だけは誇り高く、決して屈していなかった。
そこへ、コア・スピリットの機械仕掛けの鷹のアバターが飛来する。
操舵席の近くへと降り立つと、その星座で構成された頭部を深く下げた。
それは、傭兵に対する心からの敬意を示す礼だった。
「完璧な手動航行……」
鷹は静かに告げた。
「お前は船体を救ったのだ、戦士よ。」
カエレンは、すぐには答えなかった。
ゆっくりと首を回し、その鋭く、幾多の戦場を潜り抜けてきた眼差しを、サルゴンの冷たい瞳へと向ける。
再び、機械的な鎮静による精神拘束が彼の意識へと戻ってきた。
だが――彼の存在そのものは、すでに正式に変化していた。
もはや、ただ命令によって縛られた奴隷ではない。
彼は《至高者》の船の極めて有能な副長であり、サルゴンの現在の封印された力では届かない領域を、己の力で支えることのできる精鋭戦士となっていた。
「道は開けました、我が主君」
カエレンは低く呟いた。
声を落ち着かせながら、操舵装置を再び所定の位置へと固定する。
サルゴンは片手に顎を乗せた。
その無表情でどこか気怠げな、まるで『銀魂』のような雰囲気を持つ顔が、再びいつもの静かな落ち着きを取り戻していた。
「この進路を維持しろ、カエレン」
サルゴンは淡々と告げる。
「前方の門を越えるには、お前の刃が必要になる」
アル・メーラジュは滑らかに前進を続けた。
漆黒の帆が静かな星潮を吸収しながら、船は無限に広がる多元宇宙の、さらに深く危険な領域へと消えていく。
その遥か後方には――
先ほどの聖なる宇宙嵐だけが、静かに取り残されていた。




