重力の陥没
深き宇宙スリップストリームを流れる青と紫の奔流が、迫り来る大艦隊の重圧によって大きくたわんだ。
アル=ミラージュ号が、虚ろに抉り取られた三日月形の小惑星からわずか一万ノットほど進んだところで、前方の開けた虚空が激しく波打った。そこには、高位防御陣列が放つ苛烈な人工の光が浮かび上がっていた。
渦巻く宇宙塵の中から姿を現したのは、二十隻もの重装甲惑星戦闘巡洋艦だった。
鉄甲で覆われた船体には、咆哮する獅子を象った黄金の紋章が眩く輝いている。
彼らは《ソーラー・ヴァンガード艦隊》。
エオン神アポロンに仕える、この地域最精鋭の軍事執行部隊である。
彼らはこの星域の境界門を支配し、深き星潮を航行する独立船舶に対して、組織的な課税と拿捕を行っていた。
二十隻の巨大戦艦は即座に三日月状の陣形を展開し、サルゴンの船が進む航路を完全に包囲した。
ズゥゥゥン――。
中央に位置する旗艦から、巨大な黄金のエネルギー網が噴き出した。
それは周囲の空間座標へと食い込み、対象を固定する。
《ソーラー・アイアンロック・アレイ》。
それは船の運動エネルギーそのものを剥ぎ取り、その場へ強制的に固定するために設計された概念的な係留術式だった。
あらゆる次元転移、そして逃走手段を封じるための拘束陣である。
「停止せよ、無法船!」
黄金の旗艦の甲板から、轟音のような声が響き渡った。
高位音響陣列によって増幅されたその声は、虚空を震わせながらアル=ミラージュ号へと届く。
船首に立っていたのは、傲慢な表情を浮かべる司令官だった。
深紅のマントを翻し、磨き上げられた黄金の鎧を身に纏っている。
「貴船は、オリュンポス神殿の至高領域へ侵入した!」
「貴船には身分証明トークンも、商船登録も存在しない! さらに、未登録のエネルギー反応まで放っている!」
「帆を下ろし、指揮権限マトリクスをソーラー・ヴァンガードへ引き渡せ!」
「さもなくば――太陽王の光によって、貴船を灰燼と化す!」
サルゴンは、指揮甲板の後方に鎮座する巨大な黒曜石の玉座に座ったままだった。
その姿勢は完全に気怠げだった。頭を暗黒石のクッションへと預け、指先だけが肘掛けをゆっくりと、一定のリズムで叩いている。
長く乱れた白髪が額の精巧な黄金の額飾りに柔らかく触れ、その中央に嵌め込まれた紫水晶が、頭上に広がる黄金の網の苛烈な光を受けて妖しく輝いていた。
その顔には、いつもの感情の欠片すらない、冷酷なまでの無関心が浮かんでいる。
玉座の傍らには、コア・スピリットの機械仕掛けの鷹のアバターが姿を現していた。その青い星座の翼は、鋭く機械的な光を放ちながら明滅している。
「至高主よ。敵旗艦は、我々の船首周辺の空間潮流の固定に成功しました。現在、エンジンは《最大過駆動》状態で稼働しております。したがって、《ヴォイド・ドライブ》を使用すれば、あの拘束網を容易に引き裂くことが可能です。ただし、その場合、航行軌道に若干の遅延が発生します」
サルゴンは鷹へ視線すら向けなかった。
漆黒の虚無眼。
その瞳の奥では、小さな星々の銀河が、計算するかのようにゆっくりと円を描いていた。
その視線は黄金の拘束網を通り過ぎ、敵艦隊のわずか三マイル下方に浮かぶ巨大な宇宙異常現象へと向けられていた。
そこにあったのは――
眠りについた、巨大な宇宙ブラックホール。
渦巻く暗黒の天体は、周囲に漂う無数の瓦礫を悠然と飲み込み続けていた。
「船の燃料を無駄にする必要はない」
サルゴンが囁いた。
その静かな声には、星鉄の甲板全体を震わせるほどの、古代的で凍てつくような重みが宿っていた。
ゆっくりと、そして気怠げに、彼は左手を持ち上げた。
肘を肘掛けに預けたまま、薬指を敵艦隊へ向ける。
そこには、液体星鉄で作られた指輪――
《至高主の印章:ニヒル》
が嵌められていた。
その指先は、暗黒の異常領域の上空に浮かぶ二十隻の惑星戦闘巡洋艦へと向けられていた。
次の瞬間。
サルゴンの左胸が激しく脈動した。
第二の普遍法則に新たに進化した、受動連鎖が封印を解かれる。
[究極属性:支配者の権能]初期化。
[概念上書き:質量制御]発動。
――沈め。
その単純な精神命令は、皇帝の勅令そのものの絶対的な重みを伴って、宇宙の普遍記録へと刻み込まれた。
サルゴンは武器を放たなかった。
元素マナを操ったわけでもない。
彼の意識は三マイルという距離そのものを無視して空間を横断し、二十隻の戦闘巡洋艦の鉄甲船体に刻まれていた根源概念――
《質量》と《密度》。
その二つを直接、掌握した。
一ミリ秒にも満たない時間の中で、敵艦の重量は二倍にも三倍にもならなかった。
――百万倍。
ズドォォォン!!
巨大な不可視の重力衝撃波が、局所的なスリップストリーム領域全体を震撼させた。
それまで高位反重力陣列によって軽々と浮遊していた二十隻の惑星戦闘巡洋艦が、一斉に軋み始める。
船体が、自らの重量によって歪み、捻じれ、凄まじい音を立てて崩壊していく。
艦内の反重力コアは瞬時に限界を超えた。
ドォン!!
次々と爆発する。
突然、星鉄の船体そのものへ、崩壊する巨大な山脈を押し込まれたかのような圧倒的質量。
それを支え切れるほど、彼らの反重力機構は強くなかった。
「な……何が起きている!?」
深紅のマントを纏った司令官が絶叫した。
つい先ほどまで浮かべていた傲慢な表情は、完全に砕け散っていた。
次の瞬間――
ドガァッ!!
彼の身体が猛烈な勢いで床へ叩きつけられ、顔面から旗艦の甲板へ激突する。
強烈な重力増幅によって、磨き上げられた黄金の鎧が肋骨へと食い込み、骨が砕ける音が響いた。
「船が……重すぎる!」
「反重力陣列が……消えた!」
「我々は……落ちている!!」
バキィッ! バキィッ! バキィッ!
巨大な黄金の《アイアンロック・アレイ》が激しく震えた。
そして――
バァンッ!!
黄金の拘束網が一斉に断裂した。
エネルギーの線が次々とほつれ、無数の黄金の火花へと変わりながら虚空へ溶けていく。
拘束を失った旗艦は、凄まじい重力に引きずり込まれるように――
その下に広がる漆黒の異常領域へ向かって、容赦なく落下を始めた。
二十隻の重装甲惑星戦闘巡洋艦は、航行軌道の制御を完全に失った。
サルゴンの権能によって強制的に与えられた、圧倒的な人工質量。
その凄まじい重圧に抗うこともできず、二十隻の巨大戦艦は激しく、そして無力に、眼下で渦巻く宇宙ブラックホールへ向かって真っ直ぐ沈み始めた。
それまで眠るように静かだった暗黒の異常領域が、突然、巨大な飢餓を露わにした。
惑星そのものに匹敵する質量を持つ二十個の巨大物体が、その重力圏へ無理やり送り込まれたのだ。
「駄目だ! 逆噴射! ソーラーシールドを展開しろ! 旗艦を救え――!」
司令官の絶望的な叫び声が響く。
だが――
旗艦が事象の地平面を越えた瞬間。
その声は、完全な静寂へと途切れた。
一隻。
また一隻。
ソーラー・ヴァンガード艦隊の二十隻もの巨大な惑星戦闘巡洋艦が、容赦なく、そして完璧に、渦巻くブラックホールの深淵へと引きずり込まれていく。
暗黒の異常領域が生み出す途方もない重力。
そして、サルゴンによって百万倍へと増幅された質量。
その二つが重なり合った瞬間、誇り高き星鉄の軍艦は数秒も持たなかった。
船体は凄まじい圧力によって捻じ曲げられ、押し潰され、無残な鉄屑へと変わっていく。
そして最後には――
宇宙の底なしの虚空へ、丸ごと呑み込まれた。
十秒にも満たない時間で。
オリュンポス神殿が誇る地域最精鋭のヴァンガード艦隊は、その砲門も、司令官たちも、そして彼らが抱いていた誇りさえも含めて、スリップストリームから完全に消滅した。
後に残されたのは――
完全に開かれた、静寂な航路だけだった。
何一つ邪魔するものはない。
何一つ、彼らの存在を示す残骸すらない。
その瞬間、サルゴンの視界の前にシステム通知が展開された。
清らかな普遍星光の文字が、静かに明滅する。
[通知:《究極属性:支配者の権能》による質量上書きが正常に実行されました。]
[記録:惑星戦闘巡洋艦20隻、および下位領域の有界魂8,500体が重力真空領域へ送り込まれました。スリップストリーム内に残留物は一切存在しません。]
[結果:オリュンポス領域・地域境界門の障害を排除しました。深宇宙スリップストリームを通過する航路が開放されました。]
サルゴンはゆっくりと左手を下ろした。
液体星鉄の指輪は、再び静かな休眠状態へと戻っていく。
それでも――
彼の表情には、何一つ変化がなかった。
いつもの無表情。
まるで何事も起きていないかのような、気怠げで感情の読めない瞳。
そのどこか『銀魂』のような独特の目つきに映っていたのは、眼下で静かに渦巻く漆黒のブラックホールだった。
それも今では、再び眠りにつくかのように、ゆっくりとその活動を弱めている。
サルゴンは一歩も動かなかった。
船長の玉座から立ち上がることすらなかった。
ただ左手を掲げ、概念そのものを支配した。
そして――
遠く離れた場所から、一隻の船を操るような感覚で、神域の大艦隊そのものを消し去った。
二十隻の軍艦。
八千五百の魂。
そして、一つの神域の誇り。
そのすべてが――
サルゴンが玉座から一歩も動くことなく、宇宙の深淵へと消えていった。
「こ……これが……概念質量上書き……」
コア・スピリットの鷹のアバターが、静かに呟いた。
青い星座の翼が、深い畏敬に震えている。
鷹は視線を前方へ向けた。
ほんの数瞬前まで、彼らの進路を塞いでいた誇り高き黄金の艦隊。
その姿は、もうどこにも存在しなかった。
「数マイル離れた場所から、敵艦そのものの船体質量を兵器として利用するとは……」
「下位領域の物理法則に対する若き主の権能は、もはや絶対へと近づいております」
副操舵席では、カエレンが完全に直立したまま立っていた。
虚ろな瞳は、目の前の航行コンソールだけを見つめている。
サルゴンの命令法による鉄のような精神支配。
その影響下にある彼には、驚愕という感情を抱くだけの精神的余裕すら存在しなかった。
ただ機械的に操舵レバーを調整し――
アル=ミラージュ号の船首を、前方に開かれた宇宙境界門へと正確に向けた。
サルゴンは暗黒のクッションへ頭を預け直した。
銀河を宿した虚無の瞳が、境界門の向こう側へと向けられる。
そこには、色彩を絶え間なく変化させる無数の星雲が広がっていた。
深宇宙のさらに内側。
未知なる領域が、彼らを待ち受けている。
「ヴァンガード艦隊が、自ら道を切り開いてくれたな」
サルゴンが冷たく呟いた。
静かな声が、星鉄の甲板全体へと響き渡る。
「舵の拘束を解除しろ」
「奴らの領域を、そのまま通り抜ける」
サルゴンの銀河の瞳が、遠くの星々を見つめる。
「エオン神どもも、すぐに理解するだろう」
「自分たちの築いた壁では――」
「虚無を止めることなどできないと」
「命令を受領しました、至高主よ」
コア・スピリットが応答する。
次の瞬間、鷹の姿が光へと分解された。
一筋の青白い光線となったその存在は、そのまま主帆柱へと一直線に飛び込んでいく。
アル=ミラージュ号が、低く荘厳な唸り声を上げた。
巨大なダークマター製の帆が、開け放たれたスリップストリームの高速潮流を捉える。
そして――
最大過駆動エンジンが、静かに、滑らかに始動した。
ズゥゥゥン……。
巨 大な黒曜石の巡洋艦が、前方へと滑るように加速する。
先ほどまで存在していた巨大なブラックホールの傍らを、何事もなかったかのように通過していく。
そのままアル=ミラージュ号は、無限多元宇宙のさらに奥深く――
誰一人として地図に記したことのない未知の領域へと消えていった。
背後に残されたのは――
静寂に包まれた、空っぽの境界領域だけだった。




