五重の認可
静かで追跡不能な《ヴォイド・ドリフト》の折り畳みが、音もなく解除された。
《アル=ミラージュ》は不気味なほど滑らかに姿を現し、その巨大な黒曜石の船体が《エーテル海》の物質界へと再び切り込んでいく。
その座標は冷たく、孤立していた。《ネクサス》の活発な交易航路からも、中央天界の監視アレイからも完全に切り離された場所。
ここでは、液体の星明かりのような星流が、深い憂いを帯びた真夜中の青と重い灰色に染まりながら、巨大で静寂に包まれた墓場の中をゆっくりと流れていた。
そこに浮かんでいるのは、砕け散った月々、死に絶えた資源小惑星、そして遥か古代に忘れ去られた巨大な遺跡の骨格だった。
サルゴンは、巨大な黒曜石の玉座に静かに腰掛けていた。
その姿勢は完全に力が抜けており、暗黒の石で造られた背もたれにわずかに身を預けている。
長く乱れた白髪は、精巧な黄金のヘッドバンドの周囲に自然に垂れ、その中央に埋め込まれた紫水晶の宝珠が、死んだ星団から漏れる弱々しい光の下で淡く輝いていた。
左手には、液体のように流動する星金属の指輪――《至高者の印章:ニヒル》が嵌められている。
その内部では、小さな銀河がゆっくりと計算するような円を描きながら回転し、底知れぬ静かな共鳴音を響かせていた。
「至高者様」
機械仕掛けの鷹の姿をした《コア・スピリット》のアバターが、サルゴンの玉座の高い背もたれに直接現れた。
青い星座で構成された翼が、音もなく形を変えている。
「《ヴォイド・ドリフト》シークエンスは完全でした。我々は未踏の境界領域――《黒曜の深淵》へ、完全に侵入することに成功しています」
機械仕掛けの鷹は静かに周囲を見渡した。
「この宙域において、《三天界》、および管轄区域の《アーコン》から発信されている追跡ラインは……ゼロです」
サルゴンは答えなかった。
その顔には、いつもの感情のない、完全なる冷淡さが浮かんでいた。
漆黒の《ヴォイド・アイズ》が、船の手すりの向こうに広がる、砕けた石塊が浮遊する巨大な墓場をゆっくりと見渡す。
サルゴンの《原初意識》にとって、この死んだ宙域の完全な静寂は、下層港に存在する騒がしい市場などより遥かに心地よいものだった。
――ブゥゥゥン。
突然、船内の甲板に刻まれていた紫色のルーンが、鋭く脈動する警告灯を放った。
副操舵席では、カエレンの両手が操舵装置を固く握り締める。
その虚ろな瞳は、サルゴンの《支配法則》による強制的な鎮静状態の中、コンソール上に次々と展開されていくデータの流れを追っていた。
【警告:死んだ小惑星帯内部に複数の空間移動を検知。】
【目標確認:中級偵察巡洋艦三隻。《ブラック・ヴァンガード海賊団》所属。】
【通告:敵艦が戦闘陣を展開。船体迎撃のため、高周波空間銛が発射されました。】
砕けた月の巨大な影の向こうから、三隻の錆びた赤褐色の鉄製戦艦が姿を現した。
その船体は粗末な棘で覆われ、低位の土属性元素魔法による防御ルーンが無数に刻まれている。
そして、掲げられていたのは――砕けた髑髏の旗。
彼らは星潮に群がるハゲタカ。
《プライム・アクシス》の主要な流れから外れ、迷い込んだ船を狙う、異次元の宇宙海賊たちだった。
彼らの目には、遮蔽を解除して姿を晒した《アル=ミラージュ》の荘厳な黒曜石の船体が、究極の獲物に見えていた。
伝説級の遺物船。
奪い取るために、目の前へ転がり込んできた莫大な財宝。
――ズドン!
――ズドン!
――ズドン!
三本の巨大な鎖が、液体の星明かりを切り裂いて飛来した。
それぞれ全長一マイルにも及ぶ、重厚なコズミック・アイアン製の鎖。
先端に取り付けられた鉤爪状の銛は、暗黒の元素雷光を迸らせながら、開けた虚空を一直線に突き進む。
狙いは、サルゴンの船のマスト。
その船体を強制的に停止させ、こちらへ引きずり寄せるつもりだった。
「至高者様」
コア・スピリットの鷹が声を発した。
その声は鋭く、機械的な分析音へと変化していた。
「海賊船は我々の現在位置から正確に四マイル離れています。低位拘束魔法を使用し、船体外殻の木材へ物理的な固定を試みています」
わずかな間。
「主星金属砲を起動いたしましょうか?」
サルゴンは玉座から動かなかった。
暗黒のクッションに寄りかかった姿勢すら変えない。
やがて彼は、ゆっくりと、そして億劫そうに左手を持ち上げた。
石造りの肘掛けに肘を置いたまま、白く細い一本の指を、広大な星の海へ向ける。
「必要ない」
サルゴンの静かな声が、静寂に包まれた星金属の甲板へと響いた。
「――《究極属性:ソヴリン・ヴォイド》。」
その法則が発動した瞬間。
彼の指に嵌められた液体星金属の指輪が、目を焼くほどの深いネオン・バイオレットの輝きを放った。
《ニヒルの至高印》が激しく脈動する。
それは単なる装飾品ではない。
概念そのものへ干渉するための、直接的な増幅器だった。
普段ならサルゴンの指先に現れる、微細な《無》の火花。
しかし今回は――
火花ではなかった。
それは一瞬にして爆発的な拡大を開始した。
物理的な射程という概念そのものを無視しながら、巨大な波となって外側へ広がっていく。
五重に拡張する《ヴォイド・ウェーブ》が、目に見えない静寂のドームとなって星の海を駆け抜けた。
一マイル。
二マイル。
そして――四マイル。
一ミリ秒にも満たない時間で、虚無の波は三本のコズミック・アイアン製巨大鎖を完全に飲み込み、銛の先端を消し去り、その奥に存在する三隻の海賊戦艦までも包み込んだ。
音はなかった。
轟音もなかった。
鉄が砕け散ることもなかった。
死にゆく者たちの叫び声すら存在しなかった。
ただ――
静かな《無》だけが、そこにあった。
半透明の紫黒色の波が海賊艦隊に触れた瞬間――
彼らの物理的な存在という《概念》そのものが、瞬時に「存在しなかったもの」へと書き換えられた。
全長一マイルにも及ぶ鉄の鎖は、空中で絶対的な空白へと溶けて消えた。
三隻の巨大な重装甲戦艦も、塵になったわけではない。
溶けたわけでもない。
それらが建造され、乗組員を乗せ、そしてこの宙域へと出航したという――その《歴史的事実》そのものが、宇宙の時間軸から体系的に削除されたのだ。
わずか四マイル先に存在していた空間は、瞬時に完全な静寂へと置き換えられた。
そこには、ただ空っぽの液体星明かりが静かに流れているだけだった。
襲撃部隊全体。
その魂。
魔力核。
武器。
すべてが、一息の間に完全かつ完璧に存在から消去された。
サルゴンの眼前に、システム通知が展開される。
星明かりのように澄んだ文字が、静かに点滅していた。
【通知:《究極属性:ソヴリン・ヴォイド》が指定領域の消去に成功しました。】
【増幅器稼働:《至高者の印章:ニヒル》が作戦上の消去範囲を500%拡張しました。】
【結果:海賊巡洋艦3隻、および下位領域の有魂者420名を局所宇宙マトリクスから完全に抹消しました。残留物――ゼロ。】
サルゴンはゆっくりと左手を下ろした。
指輪の内部で回転していた紫黒色の小さな銀河が、再びゆっくりと気怠げな回転へ戻っていく。
その表情には、一切の変化がなかった。
《黒曜の深淵》に浮かぶ冷たく遠い星雲を、その銀河のような瞳が静かに映している。
彼は玉座に座った姿勢を一切変えることなく、数マイル離れた場所に存在していた一つの襲撃艦隊を消し去ったのだ。
「こ……これが……《五重の消去》……」
コア・スピリットの鷹のアバターが、かすかに震える声で呟いた。
その星座で構成された翼が、深い畏敬と存在そのものへの恐怖が入り混じったように震えている。
鷹は、つい先ほどまで海賊艦隊が潜んでいた完全な空白の宙域を見つめた。
「これほどの距離から……物質そのものを消去する……たった一本の指で……」
その機械的な声に、わずかな震えが混じる。
「《至高者の印章》の力が、若様の《権能》と完全に同期しています。」
副操舵席では、カエレンがゆっくりと、一定のリズムで息を吐いた。
その虚ろな瞳は、何も映していないコンソールのデータ画面を見つめている。
サルゴンの絶対法則によって思考そのものを制限されている彼には、今目の前で起きた恐ろしい奇跡を疑問に思うだけの精神的余地すらなかった。
ただ一つだけ理解している。
――自分の主の手は、もはや絶対的な領域に達している。
サルゴンは目を閉じた。
そして再び、その意識を船の航行マトリクスへと繋げていく。
「コア・スピリット」
サルゴンが静かに命じる。
その声には、真の支配者に相応しい、揺るぎない威厳が宿っていた。
「ハゲタカは片付いた。さらに深く《深淵》へ進め」
一拍。
「この独立領域内で、最も近い隠された資源惑星を探せ。より広大な宇宙が、《虚無》が最初の門を開いたことに気づく前に、原初の時空元素を培養する。」
「命令を受領しました、至高者様」
機械仕掛けの鷹が応答する。
その星座で構成された姿が光の奔流へと変わり、黒曜石の甲板中央へ向かって一直線に飛び去っていく。
《アル=ミラージュ》が、低く満足げな駆動音を響かせた。
流動するダークマターから織り上げられた巨大な帆が、独立領域を流れる重く、ゆっくりとした星潮を捉える。
そして船は――
《黒曜の深淵》の、さらに深い闇へと静かに進んでいった。
船体に刻まれた輝く紫色のルーンが、サルゴンの鼓動と完全に同期するように脈動した。
荘厳な星金属の船は、静寂に包まれた石の墓場を滑るように進み、やがて未踏の星の海が生み出す守護のような深い闇の影へと溶け込んでいった。




