星鋼の秘蔵庫
《アル=ミイラージュ》の深く規則正しい宇宙機関の鼓動だけが、広大なる《プライム・アクシス》の未踏領域に静かに響いていた。
バビロン港で《アイアン・ラティス》の封鎖網を難なく消し去った漆黒の星鋼巨艦は、今や深紫と輝く藍色の星海の潮流を切り裂きながら、悠然と航行を続けている。
純粋な暗黒物質で織り上げられた巨大な帆は、宇宙の虚空を静かに受けて波打ち、周囲に満ちる星光を吸収することで、修復されたばかりの艦内エネルギー・マトリクスを安定して維持していた。
副操舵席では、カエレンが装飾彫像のように微動だにせず立っている。
両手は操舵装置をしっかりと握り締め、その精神は【究極属性:《支配者の権能》】がもたらす絶対的な静穏の法則のもと、完全な安寧へと沈み込んでいた。
サルゴンは後部指揮甲板の黒曜石の玉座から、ゆっくりと立ち上がる。
乱れた長い白髪が、額に美しく収まる黄金の額冠へと静かに触れ、その中央に埋め込まれた紫水晶は、遠方を流れる星雲の淡い光を受けて神秘的な輝きを放っていた。
彼は背後を振り返らない。
遥か彼方で小さくなっていく中立港の空間断裂へ、視線を向けることすらなかった。
その意識は内へと向けられ、自らの新たに覚醒した《意識》の複雑な構造回廊を静かに巡っていた。
――システム。
サルゴンの思念は、揺るぎない帝王の冷厳さを帯びて響く。
艦内構造の詳細環境診断を実行しろ。
第一保管庫群の封印を解除せよ。
【通知:異次元虚空艦《アル=ミイラージュ》の完全構造診断を開始します……】
【ヴォイド・ドライブ稼働率:九一・〇三%(安定)。全主要推進機関および空間折り畳み舵は最高効率で稼働中。】
【通知:船長居室の地下より、隠された亜空間封印を検知しました。封印の暗号構造は、《唯一の根源》の古代宇宙署名と一致しています。】
【警告:公開済み記録数が基準目標値へ到達しました。システムは封印の解除権限を取得。《星鋼の秘蔵庫》を開放します。】
サルゴンは主甲板から星鋼製の滑らかな階段をゆっくりと下り、重厚な黒曜石のアーチをくぐって船長居室へ足を踏み入れた。
その部屋は広大だった。
優雅な石柱が並び、重厚な黒い絹の帳が外宇宙の眩い輝きを完全に遮断している。
壁面へ刻まれた幾何学紋様のルーンからは淡い紫光が静かに流れ出し、その空間には王族の聖域を思わせる静謐で荘厳な空気が満ちていた。
――パサッ。
――パサッ。
澄み切った鈴音とともに、コア・スピリットの機械仕掛けの鷹のアバターがサルゴンの正面へ姿を現す。
青く輝く星座の翼が薄暗い室内でゆっくりと広がり、その鳥のような頭部は深く、絶対の敬意を込めて垂れた。
「我が君。」
コア・スピリットの声が、直接サルゴンの《意識》へ響く。
「主機関は《星霊エーテル・コア》による補給を完了し、艦の下位論理マトリクスは完全に復元されました。
中央保管庫――《星鋼の秘蔵庫》は、あなた様のご到着をお待ちしております。
この保管庫は、あなた様が下位世界という檻を打ち破り、真なる主権を得るその時まで、お母上様の御意志により封印されておりました。」
サルゴンは部屋の中央で足を止めた。
何も語らない。
ただ、自らの存在そのものを静かに広げていく。
胸奥で眠る原初の火花が、この部屋の中枢コア・マトリクスと直接共鳴する。
――バキンッ。
鋭い金属音が、静まり返った室内へ響き渡る。
サルゴンの正面に広がる磨き上げられた黒曜石の床石が、突如として左右へ滑るように開き始めた。
その下から現れたのは、極めて濃密な紫の輝きを放つ、深く垂直に伸びた光の縦穴だった。
やがてその深淵から、継ぎ目ひとつない純白の星光ダイヤモンドで造られた重厚な台座が、ゆっくりと上昇してくる。
台座はサルゴンの腰の高さで静かに停止した。
その星光ダイヤモンドの台座の上には――
ひとつの、常識を超越した神器が静かに安置されていた。
それは、重厚で悠久の時を刻んだ指輪だった。
未知の液状星鋼から鍛えられたその黒き金属は、まるで周囲の燭光そのものを歪めるかのように静かに揺らめいている。
その表面には、《アル=ミイラージュ》の船体を覆うものと同じ原初の幾何学紋様が精緻に刻み込まれていた。
指輪の中央には、一切加工されていない完全無欠の宇宙宝石が嵌め込まれている。
しかし、その宝石には色という概念が存在しなかった。
覗き込めば見えるのは、底知れぬ紫黒の虚無だけで構成された極小銀河。
それは、サルゴン自身の虚無の瞳と寸分違わぬ姿だった。
【通知:アイテムを識別しました――《主権の印章:ニヒル》。】
【等級:無限原初級(成長型)。】
【アイテム説明:時空という概念が宇宙の織物へ刻まれる以前に鍛造された太古の宇宙遺物。虚無の法則を概念的に増幅するための主権媒体。】
【現在解放済み効果:《究極属性:《主権の虚無》》の空間有効範囲を五倍へ拡張。さらに、あらゆる外部《イオン神》および《三天》の監視マトリクスから完全に切り離された、独立無限亜空間《ヴォイド領域》を使用者へ付与。】
サルゴンは静かに左手を伸ばした。
白く細い指先が、宙へ浮かぶ遺物へゆっくりと近づいていく。
その肌が液状星鋼へ触れた瞬間――。
漆黒の指輪は激しく震え、音なき鋭い虚無の波動を放った。
その衝撃は室内の帳を静かに揺らしていく。
だが、指輪は彼を拒まなかった。
むしろ液体のように溶け、その姿を自在に変えながらサルゴンの中指へぴたりと巻き付き、やがて冷たく重厚な《絶対主権》の指輪として静かに固定された。
その瞬間。
未精製の宇宙情報が濁流となってサルゴンの《意識》へ流れ込む。
彼の精神世界は一気に拡張され、《エーテル海》の認識範囲は数千光年先まで広がった。
彼は感じ取る。
次元に走るあらゆる微細な亀裂を。
虚空を流れる無数の星光潮流を。
そして独立勢力の支配下にある幾つもの近隣多元宇宙が存在する正確な座標を。
「《ニヒルの印章》が、真なる主を認めました。」
コア・スピリットの鷹が、深い敬意を込めて告げる。
星座の翼は歓喜に震えるように淡く脈動していた。
「この遺物が起動したことで、《アル=ミイラージュ》は《ヴォイド・ドリフト》を実行可能となりました。
これは《三天》および各地の《イオン神》が展開する追跡網を完全に迂回する、完全不可追跡型の空間跳躍です。
我らは、彼らの視界そのものから完全に姿を消すことができます。」
サルゴンは静かに左手を持ち上げた。
指にはめられた《ニヒルの印章》の中心では、底なしの紫黒の極小銀河が静かに回転を続けている。
その表情に感情はなかった。
絶対的な冷徹さと容赦のなさだけを湛えた、何者にも読み取ることのできない無機質な眼差し。
――システム。
サルゴンの命令が、精神世界の静寂へ響く。
《ニヒルの印章》が示す新たな宇宙座標へ航法マトリクスを同期しろ。
最初の《ヴォイド・ドリフト》を開始する準備を整えよ。
【通知:《主権の印章:ニヒル》と艦の航法マトリクスを同期中……10%……60%……100%。】
【同期完了。現在活動中の地域統治者の管轄外に位置する、未踏の独立多元宇宙領域を確認しました。】
【《ヴォイド・ドリフト》シーケンスを開始します……。艦は《プライム・アクシス》航流を離脱し、未踏深域の星潮流へ移行します。】
サルゴンは静かに身を翻した。
紫と金の刺繍が施された商人用の長衣が、黒曜石の床を優雅になびきながら揺れる。
そのまま主甲板へ戻ると、壮麗なる船長の玉座へ再び腰を下ろした。
銀河を宿す漆黒の双眸は、船首の彼方へ果てしなく広がる液体の星明かりの大海原を静かに見つめている。
「カエレン。」
サルゴンは穏やかな声で命じた。
その一言に宿る《支配者の権能》の法則は、忠実なる従者の身体を自然に導いていく。
「《ニヒルの印章》の航行機構を起動しろ。
未知なる闇へと踏み込む。」
「承知いたしました。我が君。」
カエレンは恐怖の欠片すら宿さぬ平坦な声で応えると、主推進レバーを迷いなく最後まで押し込んだ。
今回は、《アル=ミイラージュ》は流星のように加速しなかった。
その代わり、《ニヒルの印章》が絶対的な紫光を放った瞬間――。
艦首の正面で、純粋なる漆黒の無が空間そのものを引き裂いた。
音なき巨大な亀裂が静かに開き、その向こうには完全なる虚無だけが広がっている。
漆黒の巨艦《アル=ミイラージュ》は、その裂け目へ吸い込まれるように滑らかに進み、暗黒物質で織られた帆もまた、絶対真空の彼方へと静かに姿を消していった。
そして、瞬きをするよりも早く。
空間の裂け目は音もなく閉じる。
《エーテル海》のその一帯には、静寂だけが残された。
まるで、主権者とその艦が港の歴史に一度たりとも存在したことなど、最初からなかったかのように。
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