第一章:再起の産声と泥の三ヶ月
意識は、泥のような暗闇の底にあった。走っていた。ずっと、走っていたはずだ。
喉は干らび、焼けた肺からは血の味がした。
足の裏の皮が剥げようとも、立ち止まればあの「黒い影」に心臓を握りつぶされるような気がして、ただ前だけを見ていた。
*
(……まだ、生きてるのか……?)
不意に、微かな振動が伝わってきた。規則的な、ゴトゴトという音。
まぶたを開けようとしたが、鉛のように重い。
鼻腔をくすぐったのは、焦げた火の匂いではない。
鼻の奥がツンとするような野草の香りと、何かを煮込んだ、たまらなく甘やかで香ばしい匂いだった。
「……あ……」
枯れ果てた声が、わずかに漏れる。
「お、気づいたか。しぶといもんだな、坊主」
低く、落ち着いた声が降ってきた。
重い視界をこじ開けると、そこには天幕の揺れる馬車の荷台と、パイプをくゆらせながらこちらを覗き込む、恰幅の良い男の姿があった。
「ここは……」
「街道のど真ん中だ。 見つけた時は死体かと思ったが……その歳でよく保ったもんだ」
男は手際よく、小鍋から木皿へスープを注ぎ、少年の口元へ運んだ。
「飲め。一気に飲むと戻すぞ。少しずつだ」
温かな液体が喉を通る。
野菜の甘みと、肉の脂の旨味が、乾ききった身体に染み渡っていく。
それと同時に止まっていた涙が、熱い塊となって溢れ出した。
家族を、村を、すべてを失ったという実感が、スープの温かさと共に出口を見つけたようだった。
「……全部、なくなったんだ」
スープを飲み干し、少年はぽつりぽつりと話し始めた。
魔族に襲われたこと。父が盾になって逃がしてくれたこと。自分が弱かったこと。
男は否定も同情もせず、ただ静かに聞いていた。
「……そうか。バツが悪いところで拾っちまったもんだ。お前さんを放置して、後で無惨な骸を見つけるのは、俺の寝覚めが悪すぎる」
少年は、男の顔を睨むように見上げた。
「……同情してほしいわけじゃない。俺は……」
「分かっているさ。その目は、助けを求めているヤツの目じゃない」
男は不敵に笑い、自分を指さした。
「俺はこれでも名の知れた商人でな。名前は……まあ、今はいい。今からカルトワへ行く。復興中の街だがそこそこ大きいぞ。そこまで連れて行ってやろう。一文無しのガキを放り出しても、商売の神様に顔向けできんからな」
*
数日後、馬車は活気あふれる街の正門を潜った。
石畳の音、人々の喧騒。村の静けさとは正反対の、命の熱。
主人は少年を、街で一番賑やかな酒場へと連れて行った。
「食え。これが最後のご馳走だ」
並べられたのは、村では見たこともないような豪華な肉料理だった。
「いいか、坊主。復讐だろうが何だろうが、命がなけりゃ始まらない。まずは『ギルド』へ行け。あそこなら仕事も、この世界の汚い情勢も嫌というほど手に入る」
主人はそう言うと、ずっしりと重い袋をテーブルに置いた。
「これは……? 」
「宿代と、当面の生活費だ。貸しにしておく。いつかお前が立派な『何者か』になった時、利子を付けて返せ」
少年は、その袋を震える手で握りしめた。
「……必ず、返します。……必ず」
「ああ、期待してるぜ。……まずは、そのひょろひょろの身体に肉をつけるこった」
商人の背中を見送りながら、少年は街の掲示板に目を向けた。
そこには、自分にはまだ縁遠い、しかし、いつか必ず辿り着かねばならない言葉が並んでいた。
『魔族襲来の警告』
『勇者、王都にて選抜』
彼の、長く孤独な戦いが、ここから始まろうとしていた。
***
「……あいつ、また来てるぜ」
「12歳だろ? どこかの避難民か何かか」
ギルドの酒場に溜まる冒険者たちの視線は、冷ややかだった。
商人の主人が残してくれた生活費は、確実に削られていた。
このままでは路頭に迷う。何より、何もせずにいれば、あの夜の炎が頭から離れないのだ。
少年は掲示板の前に立っていた。
端が少し破れた、古い羊皮紙が目に留まる。
『緊急募集:外壁修繕作業。年齢・資格不問。やる気と体力のみ。』
誰もが避ける、終わりの見えない肉体労働。
少年は迷わずその紙を引き剥がし、受付のカウンターへ叩きつけた。
「……これ、やりたい」
受付の女性は、眉をひそめた。
「坊や。あんたみたいな細い腕じゃ、一日持たずに泣き言を言うのがオチよ。帰りなさい」
「できる」
少年は受付の視線を真っ向から射抜いた。
その瞳の奥にある、氷のように冷たく、しかし消えることのない「執念」の炎に、女性は一瞬息を呑んだ。
「……分かったわ。けど、親方が首を縦に振らなきゃそれまでよ」
*
正門横の修繕現場。
そこには、岩のような筋肉を持つ男たちが、土煙の中で怒鳴り合っていた。
「親方! なんだそのガキは! 」
巨漢の親方が、重い槌を地面に置いてこちらを睨みつけた。
「帰れ。遊び場じゃねえんだ。石に潰されて死にたいか」
「三日、やらせてほしい」
少年は、一歩踏み出した。
「三日やって、俺が使えないと思ったら、一銭もいらない。追い出してくれて構わない。……でも、やれる。やらなきゃいけないんだ」
親方は鼻で笑った。
「いいだろう、そこまで言うなら三日だけだ。弱音を吐いたら即座に叩き出す。分かったな! 」
*
それから、三ヶ月。
少年の生活は、夜明け前の修繕から始まり、泥にまみれて終わる毎日となった。
最初は石一つ運ぶのにもよろけていた。
手のひらは血にまみれ、何度も心が折れそうになった。
だが、彼は休まなかった。
重い石を運ぶたび、身体に負荷がかかるたび、彼は自分に言い聞かせた。
(強くならなきゃいけない。あの影を殺せるくらい、強く……)
三ヶ月が経つ頃。
職人たちの誰もが彼を「坊主」ではなく、一人の「職人」として扱うようになっていた。
少年の身体には、引き締まった筋肉がつき始めていた。
だが、平穏な時間は、その「音」によって終わりを告げる。
勇者が王都から旅立ったという噂が街に届いた、その日のことだった。
**——ドォォォォンッ!!**
昨日、彼が自らの手で積み上げたばかりの石壁が。
暴力的な魔力によって、外側から爆ぜた。




