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プロローグ:朱に染まる咆哮

 その夜、月は不気味なほどに赤かった。


「逃げろ! 決して振り返るな! 」


 父の怒号が、鼓膜を震わせる。

 いつも厳格だが温かかった父の顔は、今は見たこともない恐ろしい形相に変わっていた。

 額には血管が浮き出し、その瞳は獣のような鋭い光を放っている。

一族に伝わる「禁断の力」を無理やり引き出しているのだ。

 村を包むのは、のどかな夜の静寂ではない。

家々を焼き尽くす猛火の爆ぜる音。

肉を裂き、骨を砕く、生理的な嫌悪感を呼び起こす咀嚼音。

 そして、愛する隣人たちが、言葉にならない悲鳴を上げて絶命していく響きだ。


「……嫌だ、父さん!  俺も戦う! 」


 少年の手は、恐怖で小刻みに震えていた。

自分たちの一族には、戦うための特異な体質が備わっている。

 しかし、訓練も受けていない今の彼には、その力をどう引き出せばいいのかさえ分からなかった。


「馬鹿者が! 」


 父が、迫りくる「異形の影」の一体を、一太刀で両断した。

返り血を浴びながら、父は息子を力任せに突き飛ばす。


「お前が死ねば、我が血脈は絶える!  命を繋げ!  走れ! 」


 背後で、地響きのような足音が聞こえた。

家々を跨ぐほどの巨大な影。圧倒的な威圧感。

 それは、他の異形たちとは一線を画す、深淵の闇そのもののような存在だった。

 そいつが、退屈そうに指先を振るった。

それだけで。

一族最強の戦士であったはずの父の身体が、紙屑のように吹き飛ばされる。 


「父さん……っ!! 」


 立ち上がろうとした少年の目に映ったのは、崩れた壁の下で、鮮血に染まりながらもなお、その「闇」を睨みつける父の瞳だった。

父の口が、音もなく動く。 


——『行け』。


 理性が、本能が、心臓を叩く。

 「勝てない」「ここにいれば死ぬ」「父さんの犠牲を無駄にするな」。

 脳裏を埋め尽くす冷徹な正論と、魂を焼き焦がすような、卑怯な自分への嫌悪感。

 少年は、逃げた。

 喉がちぎれるほどに呼吸を乱し、ぬかるんだ土を蹴って、闇の中へと転がり込んだ。

 背後で、村が「消える」音がした。

 一族が守り続けてきた歴史も。

 父の教えも。

母が作ってくれた夕食の匂いも。

 すべてが、漆黒の炎の中に溶けていく。


(……殺してやる)


 肺が焼け、足の感覚がなくなるまで走り続けながら、彼は涙さえ出ない瞳で、背後に広がる絶望のあかを睨みつけた。


(殺してやる……あいつら。一匹残らず)

(あの、一番奥にいた黒い影を!!)


 逃げる背中に、冷たい夜風が突き刺さる。

 握りしめた拳には、力不足ゆえに爪が食い込み、血が滲んでいた。

その屈辱の痛みこそが。

 彼がこの先、地獄のような日々を生き抜くための唯一の灯火となることを、この時の彼はまだ知らない。

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