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アート&マネー  作者: Zoo
9/11

# 第九話 ギャラリー巡り

## 一


 あの七日間で、何が起きていたかを、俺はあとで、二人から、別々に、聞いた。


 別々に聞いたから、二人の話は、ところどころ、食い違っていた。

 鈴愛の話には、薫を「天才」と呼ぶ部分が多かった。

 薫の話には、鈴愛を「先生」と呼ぶ部分が多かった。

 二人とも、自分の側を、控えめに、語っていた。

 俺は、その控えめさの差分を、書き起こすつもりは、ない。

 ただ、起きたことを、できるだけ、忠実に、再構成して、ここに、置く。


 起きていたのは——五日目の、午後だった。


 清澄白河のアトリエに、いつもの北向きの光が、入っていた。

 四月の光は、午後二時を、過ぎてから、いちばん、安定する。

 絵を描くのに、最適な、光だった。


 薫は、自分のキャンバスの前に、立っていた。

 筆を、持って、無心に、動かしていた。

 彼の身体は、最初の日から、ずっと、同じ姿勢だった。

 膝を、わずかに曲げ、首を、半歩引いて、目線の角度を、二段階、変える。

 深夜の繁華街で、人混みを、スケッチしていた、あの姿勢。

 道具が、鉛筆から、油絵筆に、変わっただけだった。


 鈴愛は、自分のキャンバスの前から、すこし、離れていた。

 筆は、もう、止まっていた。

 彼女は、薫を、立って、観察していた。


 薫のキャンバスには——隣の鈴愛のキャンバスに描かれている作品が、見事に、再現されていた。


 全く同じ、構図。

 全く同じ、色面。

 全く同じ、筆の重ね方。

 画面の右下、雲のようなグラデーションの、ある一点に、かすかに浮かぶ、白い、光のにじみ——その滲みまで、再現されていた。


 鈴愛は、自分の心のなかで、こう、独り言を言っていた。


 ——おいおい、冗談じゃないんですけど。

 ——たった五日で、私の絵の、パーフェクトコピーを、作られちゃったんですが。


 彼女は、自分の胸のうえで、何度か、深呼吸を、した。

 胸のうえで、深呼吸する癖が、彼女にはあった。中学のころ、父親に怒鳴られながら絵を描いていた頃の、習慣だった。


「鈴愛」


 薫が、振り向きもせずに、訊いた。


「次は、どれを描く?」


 その口調は、当然のように——次の課題を、求めていた。


 鈴愛は、一瞬、気圧された。

 次は——という言葉を、薫は、まるで、五十問の漢字テストの三十問目を解き終えた小学生のように、口にした。

 彼にとって、ここまでは、難しい問題ではなかった。

 彼にとっての、難しい問題は——別の場所に、あった。


 鈴愛は、諦めたように、笑った。


「じゃあさ——」


 彼女は、肩を、すくめた。


「次は、自分の描きたいものを——描いてみてよ」


「……描きたいもの?」


 薫の声が、はじめて、止まった。


「なんでもいいよ、天才くん」


 鈴愛は、軽く、続けた。


「君なら、なんでも、描ける」


 薫は、しばらく、答えなかった。

 しばらく、というのは——たぶん、五秒。

 その五秒のあいだに、彼の頭のなかで、何かが、回転していた。


「描きたいもの——ない」


 彼は、言った。


 ぽつり、と、低い声だった。


「俺は、見たものを、見たまましか、描けないよ」


 鈴愛の口が、わずかに、開いた。


---


## 二


「いやいや、いやいや」


 彼女は、声を、出した。


「なんでもいいんだよ」


 薫は、答えなかった。


 鈴愛は、しばらく、彼の横顔を、見ていた。

 考えていた。

 考えてから、彼女は、ある決断を、した。


「じゃあ——」


 彼女は、アトリエの隅にあった、テーブルの上の、花瓶を、指した。

 白磁の、シンプルな花瓶。なかには、その日の朝、彼女が、コンビニで買ってきた、ガーベラが、三本、挿してあった。


「この花瓶を——描いてみてよ」

「見たまんまで」


 薫は、頷いた。


「ただし——」


 鈴愛は、人差し指を、立てた。


「私が教えた技法を、使ってね」

「タッチや、色の重ね方も、意識して」


「……分かった」


 薫は、新しいキャンバスを、用意した。

 花瓶の、置かれている位置は、動かさなかった。

 彼は、その位置から、二メートル離れた場所に、イーゼルを、立てた。

 目を、細めて、彼は、花瓶を、観察し始めた。


 観察。

 観察。

 観察。


 観察の時間は、あの繁華街で、人混みを見ているときと、同じ濃度だった。

 彼の目のなかに、花瓶の、輪郭の細部、白磁の艶の角度、ガーベラの花弁の、微妙な反り、葉の影、テーブルの木目、それらが、すべて、整理されながら、入っていく。


 観察を、終えると、彼は、木炭で、軽く、アウトラインを、描き始めた。

 線は、迷いなかった。


 鈴愛は、それを、興味深そうに、見ていた。

 最初は——上手い、と、思った。

 脱帽するくらい、上手かった。

 彼女は、画家として、薫の構図の取り方に、瑕疵を、見つけられなかった。

 次に、薫は、パレットナイフで、絵の具を、取り始めた。

 混色を、始めた。

 白磁の艶のなかに、わずかに含まれる、青の冷たさを、彼は、的確に、再現した。

 ガーベラの花弁の、ピンクの濃淡を、彼は、二段階の重ね塗りで、表現した。

 葉の緑の、絶妙な、明度の落としかたも、完璧だった。


 彼は、淡々と、描いた。

 四十分、ほどで——彼は、筆を、置いた。


「いちおう」


 彼は、振り返った。


「みたまんま、描いたんだけど」


 鈴愛は、彼のキャンバスの前に、立った。


 立って——。


 あれ? と思った。


 彼女の口の中で、その「あれ?」は、最初、声に、ならなかった。

 声に、ならない種類の、ぼんやりとした、違和感だった。


 完成された絵は——たしかに、上手かった。

 デッサンは、取れていた。

 色も、再現されていた。

 技法も、彼女が教えた通りに、使われていた。


 なのに——なんていうか。


 その絵は、見ていて、心が、まったく、動かなかった。

 花瓶が、そこに、ある。ガーベラが、そこに、ある。それだけ。

 画面のどこにも、見るべき「点」が、なかった。

 画面のどこにも、奥行きを感じる「層」が、なかった。

 平坦だった。

 絶望的に、平坦だった。


 例えるなら——下手な写真家が、撮った、写真。

 被写体は、ちゃんと写っている。ピントも合っている。露出も正確。なのに、その写真には、誰の心も、揺さぶる力が、ない。

 なぜ、それを撮ったのかが、分からない種類の写真だった。


「……たしかに」


 鈴愛は、ゆっくり、口を、開いた。


「薫くんには、こう、見えてるんだよね」

「うん」


 彼女は、彼の絵を、もう一度、眺めた。

 それから、彼の顔を、見た。


「君——」


 彼女は、深く、息を、吸った。


「絶望的に、美的センスがないわ」


 薫の表情が、止まった。

 止まったが、傷ついていなかった。

 傷ついた、というには、彼は、自分の絵に、なんの自負も、なかった。

 ただ、ショックだけが、彼の表情の表面に、薄く、出ていた。

 ショック、というより——困惑だった。


---


## 三


「もちろん、描写力は——脅威的よ」


 鈴愛は、続けた。

 彼女の声には、もう、軽口は、なかった。

 彼女が、画家として、画家に、対して、語る声に、変わっていた。


「しっかりとした、デッサンや、色彩の再現も、完璧」

「でも……」


 彼女は、絵を、もう一度、指した。


「全体的に、平坦で、深みがないの」

「例えるなら——下手な写真家が、撮ったような、写真」


 薫の眉が、わずかに、寄った。

 すこし、ムッと、していた。


「言っただろ?」と薫は、言った。

「俺は、見たまましか、描けないって」


 鈴愛は、首を、振った。


「絵画は——」


 彼女は、ゆっくり、言った。


「単に、見たものを、再現するだけ、じゃないわ」

「そこに——自分の感じたものや、表現したいものを、こめることが、大切なの」


 薫は、答えなかった。

 答え方が、分からなかった、という顔だった。

 彼にとって——「自分の感じたものを、こめる」という行為が、何を、意味するのか。

 それを、彼は、ふだん、やっていなかった。

 深夜の繁華街で、彼が、人混みを、スケッチしているときに、彼は、ただ、見えているものを、紙のうえに、転写していた。

 転写するときに、彼の心が、動いていたかどうか——彼自身、はっきりとは、答えられなかった。

 心が動いていた、と思えば、動いていた、気もする。

 心が動いていなかった、と思えば、動いていなかった、気もする。


 彼は、自分のなかに、何を、感じていたか、を、まだ、知らなかった。


 鈴愛は、その彼の困惑を——眺めていた。


 眺めながら、彼女は、心のなかで、こう、呟いていた。


 ——天才的な、画力を持つ、反面。

 ——美術的な、センスが、一切、感じられない。


 彼女は、画家として、こんな人間に、出会ったことが、なかった。

 画力とセンスは、たいてい、比例して、伸びていく。

 画力が高ければ、対象を見る目が育っているはずで、対象を見る目が育てば、表現したいものが、湧いてくるはずで、表現したいものが湧けば、それを画面に込める方法を、学ぶはずだった。

 ところが、薫は——画力だけが、突出して、高かった。

 画力だけが。

 他は、まるで、空白だった。


 その空白を、見ているうちに——鈴愛は、薫に、引き込まれた。


 彼女のなかの、画家としての、好奇心が、立ち上がった。


 ——一体、この人は……。


「薫」


 彼女は、呼びかけた。


「ちょっと、デートに——行こうか?」


「で、デート⁉」


 薫の声が、ひっくり返った。


 鈴愛は、彼の動揺を、見て、にやり、と笑った。


「あら——デートしたこと、ないの?」


「ねーよ」


 薫は、即答した。


「じゃあ——」


 彼女は、もう、トートバッグを、肩に、掛けていた。


「私と、ギャラリー巡りに——行こうよ」


「はっきり、言って——」


 彼女は、続けた。


「君は、天才だけど、センスがない」

「そして——センスを磨くには」


 彼女は、薫を、見た。


「本物を、見るのが、一番なのよ」


---


## 四


 俺が、アトリエに、顔を出したのは、ちょうど、その瞬間だった。


 扉を、開けた。

 扉のすぐ向こうで——鈴愛が、トートバッグを肩に掛けて、出てくるところだった。

 その後ろに——薫が、続いていた。


「よう、お前ら——」


 俺は、言いかけた。


「進捗は、どうだ」


 二人とも、答えなかった。

 答える前に、俺の目が、彼らの背後の、二つのキャンバスを、捉えた。


 左のキャンバスには——鈴愛の、絵があった。

 右のキャンバスには——薫の、絵があった。


 二つは、ほとんど、見分けが、つかなかった。

 全く同じ、構図。

 全く同じ、色面。

 全く同じ、筆の重ね方。


「おー」


 俺の口から、声が、漏れた。


「これ、薫が——描いたのか……」


 俺は、薫の絵に、近づいた。

 近づいた瞬間に——もうひとつ、別のキャンバスが、目に入った。

 花瓶の絵。


 その絵を、目に入れた瞬間、俺は——わずかに、立ち止まった。

 上手い、絵だった。

 しかし——魅力が、ない、絵だった。

 不思議な絵だった。

 俺は、業界で五年、絵を見てきた。だが、こんな種類の、空白を抱えた絵は、見たことが、なかった。

 画力だけが、ある。

 画力以外は、ない。

 言葉に、しにくい、種類の、絵だった。


「ってお前ら——」


 俺は、振り返った。

 その時には、二人は、もう、扉の外に、出ていた。


「どこ行くんだ⁉」


 鈴愛が、振り返って、にこ、と笑った。


「薫と、デートに行くの」


 俺の頭のなかで、半秒、空白が、できた。


「じゃあね」


 扉が、ばたん、と、閉まった。


 二人の足音が、階段を、降りていった。

 階段の途中で、薫の声が、聞こえた。


「デート、じゃ、ねえだろ」


「いいの、いいの」と鈴愛の声。

「私が、デートって、言ってるんだから——デートなの」


 足音は、やがて、消えた。


 アトリエには、俺だけが、残された。

 鈴愛のキャンバスと。

 薫のコピーのキャンバスと。

 花瓶の、空白の絵と。

 ガーベラの、三本の花と——。

 それから、俺一人。


 俺は、しばらく、立ち尽くしていた。


「あいつら——」


 俺は、ぽつり、と、呟いた。


「デキたのか?」


 四月の、午後の、安定した光が、北向きの窓から、降りていた。

 花瓶のなかのガーベラが、その光のなかで、ほんのわずかに、揺れていた。

 俺の知らない時間が、二人のあいだで、もう、流れ始めていた。


【第九話 了】

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