# 第十話 練習
## 一
二人がアトリエを出てから、その日の夕方までに何があったかを、俺はまた、あとで聞いた。
今度は、薫の方が、ぽつりぽつりと、よく話した。
彼の話は、ふだんに比べて——倍くらい、長かった。
二人は、清澄白河から、地下鉄に乗った。
鈴愛は、改札の前で、スマホを、ピっと、かざした。
「東京ってさ」と彼女は言った。
「デートするような駅には、大抵、沢山のギャラリーがあるんだよね」
地下鉄の車内。
昼下がりの半蔵門線は、空いていた。
二人並んで座った吊革広告の下で、彼女は、続けた。
「だからさ——」
「本来、ギャラリー巡りって、映画館行くぐらい、メジャーなデートに、なってもおかしくないと、思うの」
「メジャーなデートなあ……」
薫は、薄く、相槌を打った。
彼は、デート、という単語を、まだ、自分のなかで処理しきれていなかった。
「それに、同じギャラリーでも——」
「季節によって、企画展は、大きく変わったりするから」
「一年中、楽しめるわ」
地下鉄は、渋谷で、止まった。
二人は、降りた。
昼の渋谷は、ハチ公口の方から、人波が、波のうねりのように押し寄せていた。
二人は、その流れに、逆らいながら、道玄坂の方へ、上がっていった。
「渋谷は、若者の街だから——」と鈴愛は言った。
「新進気鋭のアーティストが、多いの」
「牧人っちが求めているのとは、違うかもしれないけど」
彼女は、薫を、振り返った。
「まずは、アートってのを、楽しむ練習から——始めましょう」
「……練習?」
薫は、首を、傾げた。
「そう」
鈴愛は、頷いた。
「練習」
彼女は、坂を、登る速度を、緩めなかった。
歩くのが、速かった。
薫の足が、わずかに、遅れそうになった。
「歩くの、速っ!」
「いいのよ、こんな感じで」
彼女は、振り返らずに、答えた。
「とにかく、数を見る」
彼女は、坂の途中の、小さなビルの、地階に、薫を、引きずり込んだ。
扉のうえに、控えめなプレートで、ギャラリーの名が、刻まれていた。
階段を、降りた先には、白い、四角い空間が、広がっていた。
壁には、いくつかの作品が、間隔を空けて、掛けてあった。
薫は、入った瞬間、口を、開いた。
「ヘンテコな作品ばかりだな」
鈴愛は、笑った。
「ここのギャラリーは、特に挑戦的なものが、多いわね」
「気になるものは、ある?」
薫は、ぐるりと、首を、回した。
絵が、何枚か、立体作品が、いくつか、並んでいた。
彼の視線が、ある一点で、止まった。
「絵じゃないけど——これ……」
部屋の中央に——大きな、人形が、置いてあった。
高さ、二メートル近くの、ヒビだらけの、人形だった。
遠目には、人間の形をしているように見えた。
近づくと、それは——無数の、卵の殻で、できていた。
卵の殻が、何百、何千と、貼り合わされて、人間の形を、構成していた。
卵の殻の表面には、もとから入っているヒビが、そのまま、残されていた。
その全体が、ひとつの、巨大な、ヒビ割れた、人間だった。
薫は、それを、見上げた。
「キモッ⁉」
彼の口から、声が、漏れた。
「って——思っただけ、だけど」
「それで、いいのよ!」
鈴愛は、両手を、ぱん、と叩いた。
薫は、振り返った。
「君は、いま——」
鈴愛は、にっこり、笑った。
「キモって、感情が、動いた」
「すなわち、感動した」
「……感動?」
「感情を動かすことが——」
彼女は、ゆっくり、言った。
「アートの、目的なのよ」
---
## 二
彼女は、人形の脇の、小さな、立て看板を、指した。
「感情、心を動かされる作品を、見つけたら——」
「次は、ステイトメントを、見るの」
「ステイトメント?」
「そう」
立て看板には、長い文章が、印刷されていた。
彼女は、その看板の前に、立った。
「作者の意図や、何を表現したかったかの、解説文みたいなものね」
看板には、こう、書かれていた。
——『存在のひび割れ』
——作者:羽柴キヨノブ
——本作は、千個の卵の殻を使い、人間の形を模した彫像です。卵の殻は生命の象徴でありながら、限りなく脆い素材です。その無数のひび割れが、私たちの内面に潜む傷や不完全さを象徴しています。
——人は完璧を求めるほどに壊れやすく、ひびが生まれることで真の強さや美しさが現れます。本作は「傷つきながらも立ち上がる人間の存在」を視覚化したものです。
——観る者に問いかけます。あなたの存在は、何で構築されているのか?
薫は、看板の文を、最初から最後まで、ゆっくりと、読んだ。
読み終えてから、彼は、もう一度、人形を、見た。
人形の卵の殻のヒビは、看板を読む前と、読んだ後で——わずかに、別の表情に、見えていた。
「あなたの、存在は、何で、構築されているか——」と鈴愛は、ゆっくり言った。
「だってさ」
「なにか、さらに、感じる事は、ある?」
薫は、しばらく、答えなかった。
考えていた。
「……絵を、描いている時——」
ぽつり、と、彼は、言った。
「自分自身が、自分以外の何かに、なっている、気がする」
鈴愛が、すこし、驚いた顔を、した。
「そんなふうに——」
彼女は、にこ、と笑った。
「自分の何かを、重ねるのも、ありね」
彼女は、立て看板から、離れた。
「以上、アートの楽しみ方の、練習でした」
彼女は、薫を、振り返った。
「さ、次行こう、次」
「なんか、あっさりしてるな」
薫の声には、少し、不満が、混じっていた。
「アートなんて、その程度のものなのよ」と鈴愛は言った。
「まず、アートで、自分の心が、どう動くのかを、楽しむ」
「さらに、その作品が、どうして作られたか、作者の意図を知る事で——二度、楽しむ」
彼女は、二本、指を、立てた。
「せいぜい、そんなもの」
「その中で、自分が好きと、思える作品を、見つけて——場合によっては、手元に置いておく」
彼女は、もう、次のギャラリーに、向かう足音だった。
二人は、その日、四つほどのギャラリーを、回った。
歩きながら、鈴愛は、薫に、こう、言った。
「あと、薫が——もし、センスを、身につけたいなら」
「とにかく、良い絵をたくさん、見る事」
彼女は、ゆっくり、続けた。
「センスってのは、基本——若い時のインプットから、しか養われないから」
薫は、しばらく、無言で、歩いていた。
歩きながら、彼は、訊いた。
「鈴愛は——絵を描くのが、嫌いなんだよな」
鈴愛の足が、わずかに、止まった。
「でも、ギャラリーは、楽しめるのか?」
彼女は、しばらく、答えなかった。
「楽しめないよ」
ぽつり、と、彼女は、答えた。
「だって——」
彼女は、坂の上の、空を、見上げた。
「心が、まったく、うごかないもの」
薫は、何も、言わなかった。
言わない時間が、長かった。
「……ご飯、行こうっか」
鈴愛は、ぱっと、笑った。
---
## 三
二人は、渋谷の、ハンバーガースタンドに、入った。
俺の知らない店だった。鈴愛が、推しの現場帰りに、よく、寄る店らしかった。
二人は、窓際の、二人がけの、テーブルに、並んで座った。
鈴愛は、パンケーキを、頼んだ。アボカドベーコンの、塩味の方。彼女は、食事のときに、甘いものより、塩味のものを、好んだ。
薫は、テリヤキバーガーを、頼んだ。
「昔は——」
鈴愛は、パンケーキを、ナイフで、切り始めた。
「私も、アートを見るのは、好きだったわ」
薫は、聞いていた。
「ドキドキする絵、とにかく良いって思える絵が——」
「たくさん、あった」
彼女は、ナイフを、止めずに、続けた。
「でも、ある時から——私は、パパの描くマシーンに、なった」
「描く——マシーン?」
「そう」
彼女は、頷いた。
「その日から、パパが見ろ、という絵だけを見て——」
「パパと同じものを、描いた」
「そうしたら——」と彼女は言った。
「いつのまにか、絵を見ても、心がうごかなく、なっちゃった」
彼女は、パンケーキの、最初の一切れを、口に、運んだ。
咀嚼した。
咀嚼してから、彼女は、笑った。
「って——」
彼女は、薫を、見た。
「薫も、牧人の描く、マシーンだもんね」
「同じか」
「アートなんか、嫌いになるかも」
「そんな事は、ないと思うけど」
薫は、即答した。
「そう?」
鈴愛の眉が、わずかに、上がった。
「だって、今日、楽しかったし」
鈴愛は——フォークを、止めた。
「……」
彼女は、しばらく、彼の横顔を、見ていた。
それから、ふっ、と、笑った。
「まあ、こんなに可愛いお姉さんと、デートなんて、初めてだもんね」
「そりゃ、楽しいかあ」
「ちがっ!」
薫の声が、上ずった。
「いや、もちろん、鈴愛と過ごすのは——楽しいけど」
「君、そういうのは、言えるんだ」
鈴愛は、にやにやしていた。
「意外に、モテるでしょ?」
「ちがっ、てるって⁉」
薫の頬が、わずかに、赤くなった。
「ごめんごめん」
鈴愛は、両手を、ひらひら、振った。
薫は、ハンバーガーを、二、三回、噛み下してから——もう一度、口を、開いた。
「アートは、見るのも、楽しいよ」
彼は、彼女を、見た。
「俺、もっと、もっと、見たい」
鈴愛が、頷いた。
「特に——」
薫は、続けた。
「小日向文雄の作品が、見たい」
鈴愛の手が、ぴたり、と、止まった。
「鈴愛に、絵を教えてくれた人なんだろ?」と薫は言った。
「それを見たら——」
彼は、ゆっくり、言葉を、選んだ。
「お前の絵も——描けるかもしれない」
鈴愛は、しばらく、彼を、見ていた。
見ていた目は——複雑だった。
半分は、画家としての、好奇心。
半分は、娘としての、ためらい。
もう半分は——画家でも娘でもない、二十二歳の、人間としての、何か。
その三分の三を、彼女は、しばらく、もてあましていた。
それから——彼女は、決断した、顔を、した。
「いいよ」
彼女は、フォークを、置いた。
「明日——」
彼女は、続けた。
「あなたを、パパのアトリエに、連れていくわ」
【第十話 了】




