# 第十一話 アトリエ
## 一
翌日の昼前、二人は、松濤の住宅街に、いた。
松濤は、渋谷の、ハチ公口の喧噪から、半径五百メートル以内とは、思えない、別の街だった。
道幅は、突然、広くなる。歩道は、整っている。表札のかかった、低層の邸宅が、塀の向こうに静かに並んでいる。電線は、地中に埋まっていて、空が、ぽっかり、見える。
二人が立っているのは、その住宅街の、奥の方の、一軒の、洋館の前だった。
壁は、白い、漆喰仕上げ。
屋根は、緑青を吹いた、銅板の、寄棟。
正面には、深い庇のついた、木製の玄関ポーチ。
昭和の半ばに建てられた、戦後すぐの輸入建材を使った、流行の終わりかけの洋館だった。
手入れは、行き届いていなかった。
漆喰の壁には、所々、雨だれの黒い跡が走り、玄関ポーチの木は、ささくれている。
明らかに、誰も、住んでいない、家だった。
「ここがパパの、アトリエ……」
鈴愛は、玄関の前で、立ち止まっていた。
「入るのは、久しぶりね」
「でっけー家」
薫は、率直に、言った。
「うん」
彼女は、頷いた。
頷きながら、ゆっくり、鞄から、鍵を、取り出した。
鍵穴に、鍵を、差し込んだ。
鍵は、小さく、抵抗してから——カチン、と、回った。
扉を、開けた。
彼女が、最初に、感じたのは、空気の、温度だった。
外の四月の空気よりも、室内の方が、ひんやりとしていた。
北側の、湿気が、籠もっていた。
次に、感じたのは、油のにおい。
テレピンと、ボイル油と、それから、画家の汗の、複合した、独特のにおい。
もう、一年以上、誰も、絵を描いていない部屋なのに——においは、まだ、消えていなかった。
薫は、扉の内側に、足を、踏み入れた。
踏み入れた瞬間——彼の身体が、止まった。
部屋は、広かった。
吹き抜けで、天井が、高かった。
元々は、ドローイングルームだったらしい広間に、いつのまにか、画家のアトリエとしての機能が、上書きされていた。
大きなキャンバスが、壁ぎわに、何枚も、立てかけてあった。
もっと小さな絵が、無造作に、何十枚と、積み上げられていた。
大きいものは、床から天井近くまで、届いていた。
小さいものは、キッチンの、ステンレスの作業台のうえにまで、置いてあった。
「すげえ……」
薫は、目を、見開いた。
「これ、全部、小日向文雄の絵なのか?」
「うん」
鈴愛は、頷いた。
「だけど、ここにあるのは——全て、未完成品よ」
「!」
薫は、ゆっくり、近くの絵に、近づいた。
それは、確かに、未完成だった。
キャンバスの右半分は、丹念に描き込まれているのに——左半分は、白い下地のまま、放置されていた。
別の絵では、構図の中心の人物だけが、緻密に描かれて、その周囲は、走り書きの線だけだった。
また別の絵では、色だけが、置かれていて、線が、まだ、入っていなかった。
「ほんとだ」
薫は、ぽつり、と、言った。
「どれも、描きかけ、ばかりだ」
彼の視線は、別の絵に、移った。
そして、また別の絵に、移った。
そのあいだ中、彼の身体は、深夜の繁華街で人混みを観察するときの、あの姿勢になっていた。
鈴愛は、彼の隣で、ゆっくり、説明した。
「完成品は——ほとんど、海外の美術館にあるわ」
「日本には、これくらいしか、残ってないの」
「にしても、数が多いな」
薫は、率直に、言った。
「途中で、投げ出しすぎじゃね?」
鈴愛は、ふっ、と、笑った。
笑いには、苦みが、混じっていた。
「常々、パパは言ってたわ」
彼女は、ゆっくり、続けた。
「真のアートは——」
「創造の苦しみを、乗り越えた先にしか、存在しないって」
薫は、しばらく、聞いていた。
「ここにあるのは——」と鈴愛は言った。
「パパが、その創造の苦しみを、乗り越えられなかった、作品よ」
彼女は、室内を、見渡した。
「天才だ、なんだと言われていても——」
「パパにも、超えられない壁が、沢山あったのよ」
彼女の口角が、わずかに、ゆるんだ。
「そういう意味では——ここにあるのは」
「等身大の、小日向文雄、そのもの——かもしれない」
薫は、頷きはしなかった。
頷く前に、彼の目が、すでに、別の絵に、移っていた。
「どう」
鈴愛は、訊いた。
「何か、参考に、なるかな?」
「ありがとう、鈴愛」
薫は、絵から、目を、離さずに、答えた。
「俺が、見たかったのは——そういうやつだ」
---
## 二
薫は、その日、何時間も、未完成の絵の前で、過ごした。
最初の三十分は、ぐるりと、全体を、回って歩いた。
次の一時間は、特に気になる、数枚の前で、長く立ち止まった。
さらに次の一時間は、しゃがみ込んで、低い位置にある絵を、覗き込んだ。
もう一時間は、椅子のうえに登って、高い位置の絵を、近くから、観察した。
鈴愛は、その間ずっと、彼を、見ていた。
見ていた、という言葉は、正確じゃない。
彼女は、自分の心の、ある場所を、開けたまま、薫の背中を、見ていた。
彼女は、心のなかで、こう、独り言を、言っていた。
——私はね。
——これを見て、描く事が、怖くなったのよ。
彼女は、若い頃に、何度か、この部屋に、足を踏み入れたことがあった。
そのたびに、こう、思った。
——私には、こんなに沢山の挑戦をする、勇気もない。
——苦しみを、乗り越える、自信もない。
——一生かけて、こんなに大量の、未完成を、生み出す、根性もない。
——私は、私の父の、影にも、なれない。
その自覚と、引き換えに——彼女は、筆を、置いた。
筆を置くと、ふしぎなことに、絵を、見ることも、楽しくなくなった。
絵が、楽しくなくなると、世界の、別の場所に、楽しみを、探した。
地下アイドルのライブハウスは、そういう、別の場所のひとつだった。
絵で動かなかった彼女の心は——リズムと、汗と、コールと、推しの目線で、動くように、なった。
その自分のことを、彼女は、誰にも、説明したことがなかった。
牧人にも、母にも、いない父にも、説明していなかった。
いま、薫が——未完成の絵の前で、長く立ち止まっているのを、後ろから、見ていながら、彼女は、彼に、それを、説明したくなった。
説明したい、わけじゃ、なかった。
説明できる、ような気がした、というだけだった。
薫は——どう、感じているんだろう。
彼女が、そう思った瞬間——薫が、振り向いた。
「鈴愛……」
彼の声は、いつもと、変わらなかった。
「小日向文雄ってのは——」
彼は、ゆっくり、言った。
「天才だったんだなあ」
「!」
鈴愛は、息を、呑んだ。
「よく、こんな発想、出てくると思うもん」
薫は、絵の前に、もう一度、向き直った。
「何、考えてたんだろ」
鈴愛は、しばらく、答えなかった。
「そうね」
彼女は、ようやく、答えた。
「父のファンは、皆、そう言うわ」
「でも、父は——その裏側で、どれほど……」
「苦しんでいたんだろ?」
薫は、彼女の言葉を、遮った。
鈴愛の頬が、わずかに、強張った。
「う、うん」
「だけど——」
薫は、振り返らなかった。
振り返らないまま、彼は、続けた。
「お前の父ちゃんが、苦しんでいたのは——」
「その『創造の苦しみ』とやらじゃ、ないと思うぜ」
「じゃあ、何を、苦しんでたって、いうのよ?」
「画力じゃないかな?」
「はあ?」
鈴愛の声が、跳ねた。
「あなた、さっき、小日向文雄は、天才って——」
「天才的な、アイデア力」
薫は、絵を、指した。
「でも、それを、成し遂げる、技術力が、足りなかった」
「とか、そんなんじゃ、ねえ?」
「!」
鈴愛の口が、わずかに、開いた。
彼女は、そんな分析を、誰からも——聞いたことが、なかった。
業界の評論家は、皆、彼女の父を「創造の苦しみ」と「孤独な天才」の言葉で、語った。
彼女の母は、「あの人は、神様に近すぎた」と言った。
弟子たちは、「先生は、俺たちには、見えてないものを、見ていた」と言った。
誰も、彼女の父について——「画力が、足りなかった」とは、言わなかった。
薫は、ある一枚の絵に、近づいた。
抽象画だった。
大きな色面と、力強い、しかし、ところどころ、迷いの見える、線が、入っていた。
「ただ、この抽象画——」
彼は、線を、指でなぞる、ような仕草をした。
「筆運びや、色の塗り方が、雑な部分がある」
「線の取り方に——苦戦を、感じる部分も、ある」
彼の指は、確かに——画家の指だった。
「つまり——」
彼は、振り返った。
「イメージ通りに作れる作品も、あるけれど」
「ダメな時も、いっぱい、あったんだよ」
鈴愛は、立ち尽くした。
「鈴愛が、言ってたんじゃないか」
薫は、ゆっくり、続けた。
「ここには——等身大の、小日向文雄が、あるって」
---
## 三
しばらく、鈴愛は、何も、言わなかった。
それから——プッ、と、吹き出した。
「なんだよ?」
薫は、訝しんだ。
「いや」
彼女は、笑いを、抑えながら、続けた。
「世界的画家に対して、絵が下手くそって」
「しかも、その娘に、それをいうなんて——」
「肝が、太いなーと、思って」
「下手くそなんて——言ってないじゃないか」
薫は、口を、尖らせた。
「発想力は、褒めてるし」
「いいのよ」
鈴愛は、首を、振った。
「創作に必要なのは、率直な意見よ」
「それに、父は、確かに、画力に、悩んでたのかもね」
彼女は、絵の方を、見た。
「だから、私に、幼い頃から——本物の画力を、身につけさせようとしていたのかも」
彼女の目に、わずかに、何かが、光った。
「父にもし——君のような画力が、あったら」
「もっと、苦しまずに、沢山の作品を、発表していた、かもね」
彼女は、ぼんやりと、未完成の絵たちを、見渡した。
しばらく、そうしてから——彼女の表情が、ふっ、と、変わった。
「あ、そうだ」
彼女は、薫に、向き直った。
「このアトリエのこと——」
「牧人っちには、絶対に、言わないでね」
「? 突然、どうしたんだよ」
「もし、知られたら——」
彼女は、声を、低くした。
「この絵を、君に完成させろって、言うに決まってるわ」
薫は、しばらく、考えた。
「でも——」
彼は、率直に、訊いた。
「そっちの方が、早いんじゃないか?」
「鈴愛の絵を、新しく描くより、楽だろ」
「だめよ!」
彼女は、首を、振った。
「父が亡くなった後に、誰かが仕上げたって——」
「インクの乾き方で、バレるの」
「贋作扱いされるわ」
「贋作……」
「だからね——」
彼女は、強い目で、薫を、見た。
「絶対よ」
「分かった」
薫は、頷いた。
その瞬間——
アトリエの扉が、ばたん、と、開いた。
冷たい空気の塊が、外から、室内に、流れ込んできた。
その塊の真ん中で——俺が、満面の、笑みを、浮かべていた。
「いやいやいや」
俺は、両手を、ひろげた。
「まさか、お宝発見とはな!」
鈴愛が、跳び上がった。
「牧人っち⁉」
「どうして、ここに……!」
薫は——驚かなかった。
驚かずに、ぼそりと、言った。
「俺の携帯に、位置情報アプリが、入ってる」
「はぁ⁉」
鈴愛は、薫を、振り返った。
「逃げた時用に、入れられたんだよ」
薫は、ジーンズのポケットから、自分のスマホを、取り出した。
画面のなかには、きれいな、地図のアプリの画面が、開いていた。
地図のうえで、彼の現在地に、青い点が、ぴかっと、点滅していた。
「逃げねーって、言ったのに」
彼は、ぼそぼそ、と、付け加えた。
俺は、笑った。
笑いながら、室内を、ぐるりと、見回した。
大きなキャンバス、小さなキャンバス、未完成の絵、未完成の絵、未完成の絵——。
俺の頭のなかで、すでに、計算機が、回り始めていた。
【第十一話 了】




