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アート&マネー  作者: Zoo
11/14

# 第十一話 アトリエ


## 一


 翌日の昼前、二人は、松濤の住宅街に、いた。


 松濤は、渋谷の、ハチ公口の喧噪から、半径五百メートル以内とは、思えない、別の街だった。

 道幅は、突然、広くなる。歩道は、整っている。表札のかかった、低層の邸宅が、塀の向こうに静かに並んでいる。電線は、地中に埋まっていて、空が、ぽっかり、見える。

 二人が立っているのは、その住宅街の、奥の方の、一軒の、洋館の前だった。


 壁は、白い、漆喰仕上げ。

 屋根は、緑青を吹いた、銅板の、寄棟。

 正面には、深い庇のついた、木製の玄関ポーチ。

 昭和の半ばに建てられた、戦後すぐの輸入建材を使った、流行の終わりかけの洋館だった。

 手入れは、行き届いていなかった。

 漆喰の壁には、所々、雨だれの黒い跡が走り、玄関ポーチの木は、ささくれている。

 明らかに、誰も、住んでいない、家だった。


「ここがパパの、アトリエ……」


 鈴愛は、玄関の前で、立ち止まっていた。


「入るのは、久しぶりね」


「でっけー家」


 薫は、率直に、言った。


「うん」


 彼女は、頷いた。

 頷きながら、ゆっくり、鞄から、鍵を、取り出した。

 鍵穴に、鍵を、差し込んだ。

 鍵は、小さく、抵抗してから——カチン、と、回った。


 扉を、開けた。


 彼女が、最初に、感じたのは、空気の、温度だった。

 外の四月の空気よりも、室内の方が、ひんやりとしていた。

 北側の、湿気が、籠もっていた。

 次に、感じたのは、油のにおい。

 テレピンと、ボイル油と、それから、画家の汗の、複合した、独特のにおい。

 もう、一年以上、誰も、絵を描いていない部屋なのに——においは、まだ、消えていなかった。


 薫は、扉の内側に、足を、踏み入れた。


 踏み入れた瞬間——彼の身体が、止まった。


 部屋は、広かった。

 吹き抜けで、天井が、高かった。

 元々は、ドローイングルームだったらしい広間に、いつのまにか、画家のアトリエとしての機能が、上書きされていた。

 大きなキャンバスが、壁ぎわに、何枚も、立てかけてあった。

 もっと小さな絵が、無造作に、何十枚と、積み上げられていた。

 大きいものは、床から天井近くまで、届いていた。

 小さいものは、キッチンの、ステンレスの作業台のうえにまで、置いてあった。


「すげえ……」


 薫は、目を、見開いた。


「これ、全部、小日向文雄の絵なのか?」


「うん」


 鈴愛は、頷いた。


「だけど、ここにあるのは——全て、未完成品よ」


「!」


 薫は、ゆっくり、近くの絵に、近づいた。


 それは、確かに、未完成だった。

 キャンバスの右半分は、丹念に描き込まれているのに——左半分は、白い下地のまま、放置されていた。

 別の絵では、構図の中心の人物だけが、緻密に描かれて、その周囲は、走り書きの線だけだった。

 また別の絵では、色だけが、置かれていて、線が、まだ、入っていなかった。


「ほんとだ」


 薫は、ぽつり、と、言った。


「どれも、描きかけ、ばかりだ」


 彼の視線は、別の絵に、移った。

 そして、また別の絵に、移った。

 そのあいだ中、彼の身体は、深夜の繁華街で人混みを観察するときの、あの姿勢になっていた。


 鈴愛は、彼の隣で、ゆっくり、説明した。


「完成品は——ほとんど、海外の美術館にあるわ」

「日本には、これくらいしか、残ってないの」


「にしても、数が多いな」


 薫は、率直に、言った。


「途中で、投げ出しすぎじゃね?」


 鈴愛は、ふっ、と、笑った。

 笑いには、苦みが、混じっていた。


「常々、パパは言ってたわ」


 彼女は、ゆっくり、続けた。


「真のアートは——」

「創造の苦しみを、乗り越えた先にしか、存在しないって」


 薫は、しばらく、聞いていた。


「ここにあるのは——」と鈴愛は言った。

「パパが、その創造の苦しみを、乗り越えられなかった、作品よ」


 彼女は、室内を、見渡した。


「天才だ、なんだと言われていても——」

「パパにも、超えられない壁が、沢山あったのよ」


 彼女の口角が、わずかに、ゆるんだ。


「そういう意味では——ここにあるのは」

「等身大の、小日向文雄、そのもの——かもしれない」


 薫は、頷きはしなかった。

 頷く前に、彼の目が、すでに、別の絵に、移っていた。


「どう」


 鈴愛は、訊いた。


「何か、参考に、なるかな?」


「ありがとう、鈴愛」


 薫は、絵から、目を、離さずに、答えた。


「俺が、見たかったのは——そういうやつだ」


---


## 二


 薫は、その日、何時間も、未完成の絵の前で、過ごした。


 最初の三十分は、ぐるりと、全体を、回って歩いた。

 次の一時間は、特に気になる、数枚の前で、長く立ち止まった。

 さらに次の一時間は、しゃがみ込んで、低い位置にある絵を、覗き込んだ。

 もう一時間は、椅子のうえに登って、高い位置の絵を、近くから、観察した。


 鈴愛は、その間ずっと、彼を、見ていた。


 見ていた、という言葉は、正確じゃない。

 彼女は、自分の心の、ある場所を、開けたまま、薫の背中を、見ていた。


 彼女は、心のなかで、こう、独り言を、言っていた。


 ——私はね。

 ——これを見て、描く事が、怖くなったのよ。


 彼女は、若い頃に、何度か、この部屋に、足を踏み入れたことがあった。

 そのたびに、こう、思った。

 ——私には、こんなに沢山の挑戦をする、勇気もない。

 ——苦しみを、乗り越える、自信もない。

 ——一生かけて、こんなに大量の、未完成を、生み出す、根性もない。

 ——私は、私の父の、影にも、なれない。


 その自覚と、引き換えに——彼女は、筆を、置いた。

 筆を置くと、ふしぎなことに、絵を、見ることも、楽しくなくなった。

 絵が、楽しくなくなると、世界の、別の場所に、楽しみを、探した。

 地下アイドルのライブハウスは、そういう、別の場所のひとつだった。

 絵で動かなかった彼女の心は——リズムと、汗と、コールと、推しの目線で、動くように、なった。


 その自分のことを、彼女は、誰にも、説明したことがなかった。

 牧人にも、母にも、いない父にも、説明していなかった。

 いま、薫が——未完成の絵の前で、長く立ち止まっているのを、後ろから、見ていながら、彼女は、彼に、それを、説明したくなった。

 説明したい、わけじゃ、なかった。

 説明できる、ような気がした、というだけだった。


 薫は——どう、感じているんだろう。


 彼女が、そう思った瞬間——薫が、振り向いた。


「鈴愛……」


 彼の声は、いつもと、変わらなかった。


「小日向文雄ってのは——」


 彼は、ゆっくり、言った。


「天才だったんだなあ」


「!」


 鈴愛は、息を、呑んだ。


「よく、こんな発想、出てくると思うもん」


 薫は、絵の前に、もう一度、向き直った。


「何、考えてたんだろ」


 鈴愛は、しばらく、答えなかった。


「そうね」


 彼女は、ようやく、答えた。


「父のファンは、皆、そう言うわ」

「でも、父は——その裏側で、どれほど……」


「苦しんでいたんだろ?」


 薫は、彼女の言葉を、遮った。


 鈴愛の頬が、わずかに、強張った。


「う、うん」


「だけど——」


 薫は、振り返らなかった。

 振り返らないまま、彼は、続けた。


「お前の父ちゃんが、苦しんでいたのは——」

「その『創造の苦しみ』とやらじゃ、ないと思うぜ」


「じゃあ、何を、苦しんでたって、いうのよ?」


「画力じゃないかな?」


「はあ?」


 鈴愛の声が、跳ねた。


「あなた、さっき、小日向文雄は、天才って——」


「天才的な、アイデア力」


 薫は、絵を、指した。


「でも、それを、成し遂げる、技術力が、足りなかった」

「とか、そんなんじゃ、ねえ?」


「!」


 鈴愛の口が、わずかに、開いた。


 彼女は、そんな分析を、誰からも——聞いたことが、なかった。

 業界の評論家は、皆、彼女の父を「創造の苦しみ」と「孤独な天才」の言葉で、語った。

 彼女の母は、「あの人は、神様に近すぎた」と言った。

 弟子たちは、「先生は、俺たちには、見えてないものを、見ていた」と言った。

 誰も、彼女の父について——「画力が、足りなかった」とは、言わなかった。


 薫は、ある一枚の絵に、近づいた。

 抽象画だった。

 大きな色面と、力強い、しかし、ところどころ、迷いの見える、線が、入っていた。


「ただ、この抽象画——」


 彼は、線を、指でなぞる、ような仕草をした。


「筆運びや、色の塗り方が、雑な部分がある」

「線の取り方に——苦戦を、感じる部分も、ある」


 彼の指は、確かに——画家の指だった。


「つまり——」


 彼は、振り返った。


「イメージ通りに作れる作品も、あるけれど」

「ダメな時も、いっぱい、あったんだよ」


 鈴愛は、立ち尽くした。


「鈴愛が、言ってたんじゃないか」


 薫は、ゆっくり、続けた。


「ここには——等身大の、小日向文雄が、あるって」


---


## 三


 しばらく、鈴愛は、何も、言わなかった。

 それから——プッ、と、吹き出した。


「なんだよ?」


 薫は、訝しんだ。


「いや」


 彼女は、笑いを、抑えながら、続けた。


「世界的画家に対して、絵が下手くそって」

「しかも、その娘に、それをいうなんて——」

「肝が、太いなーと、思って」


「下手くそなんて——言ってないじゃないか」


 薫は、口を、尖らせた。


「発想力は、褒めてるし」


「いいのよ」


 鈴愛は、首を、振った。


「創作に必要なのは、率直な意見よ」

「それに、父は、確かに、画力に、悩んでたのかもね」


 彼女は、絵の方を、見た。


「だから、私に、幼い頃から——本物の画力を、身につけさせようとしていたのかも」


 彼女の目に、わずかに、何かが、光った。


「父にもし——君のような画力が、あったら」

「もっと、苦しまずに、沢山の作品を、発表していた、かもね」


 彼女は、ぼんやりと、未完成の絵たちを、見渡した。

 しばらく、そうしてから——彼女の表情が、ふっ、と、変わった。


「あ、そうだ」


 彼女は、薫に、向き直った。


「このアトリエのこと——」

「牧人っちには、絶対に、言わないでね」


「? 突然、どうしたんだよ」


「もし、知られたら——」


 彼女は、声を、低くした。


「この絵を、君に完成させろって、言うに決まってるわ」


 薫は、しばらく、考えた。


「でも——」


 彼は、率直に、訊いた。


「そっちの方が、早いんじゃないか?」

「鈴愛の絵を、新しく描くより、楽だろ」


「だめよ!」


 彼女は、首を、振った。


「父が亡くなった後に、誰かが仕上げたって——」

「インクの乾き方で、バレるの」

「贋作扱いされるわ」


「贋作……」


「だからね——」


 彼女は、強い目で、薫を、見た。


「絶対よ」


「分かった」


 薫は、頷いた。


 その瞬間——


 アトリエの扉が、ばたん、と、開いた。


 冷たい空気の塊が、外から、室内に、流れ込んできた。

 その塊の真ん中で——俺が、満面の、笑みを、浮かべていた。


「いやいやいや」


 俺は、両手を、ひろげた。


「まさか、お宝発見とはな!」


 鈴愛が、跳び上がった。


「牧人っち⁉」

「どうして、ここに……!」


 薫は——驚かなかった。

 驚かずに、ぼそりと、言った。


「俺の携帯に、位置情報アプリが、入ってる」


「はぁ⁉」


 鈴愛は、薫を、振り返った。


「逃げた時用に、入れられたんだよ」


 薫は、ジーンズのポケットから、自分のスマホを、取り出した。

 画面のなかには、きれいな、地図のアプリの画面が、開いていた。

 地図のうえで、彼の現在地に、青い点が、ぴかっと、点滅していた。


「逃げねーって、言ったのに」


 彼は、ぼそぼそ、と、付け加えた。


 俺は、笑った。

 笑いながら、室内を、ぐるりと、見回した。

 大きなキャンバス、小さなキャンバス、未完成の絵、未完成の絵、未完成の絵——。


 俺の頭のなかで、すでに、計算機が、回り始めていた。


【第十一話 了】

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