# 第十二話 破却
## 一
「この絵は、売らないだあ?」
俺の声は、アトリエの天井に、ぶつかって、跳ね返ってきた。
松濤の住宅街に建つ、緑青を吹いた銅板屋根の、古い洋館。
その吹き抜けの広間に、いま、俺と、鈴愛と、薫が、立っていた。
部屋の中には、未完成のキャンバスが、無数に、並んでいた。
大きいものは、床から天井近くまで届いていた。
小さいものは、ステンレスの作業台にまで、置いてあった。
俺の頭のなかでは、それぞれの絵に、すでに、薄い値札が、貼り付いていた。
あの抽象画は、海外オークションで——四百万。
そっちの構図のしっかりした半身像は——七百万。
あの飛び抜けた色面は、もし完成すれば——一千万を超える。
全部で、ざっと——億の単位の話だった。
その絵を、いま、目の前の女が「売らない」と言った。
「当たり前でしょ」
鈴愛は、両手を、腰に、当てていた。
「未完成品を、売ったりなんかしたら——」
「周りから、何て言われるか」
彼女の隣で、薫は、いたたまれない顔を、していた。
彼の襟元のボタンは、いつものように、首までかっちり、留まっていた。
「へー」
俺は、わざと、軽く、答えた。
「意外に、世間体、気にしてるんだ?」
鈴愛が、両手を、強く、握った。
「母も、私もね!」
彼女は、挑むように、続けた。
「これでも、小日向文雄の家族ってことで——」
「結構、苦労してんのよ」
俺は、ふっ、と、息を、吐いた。
吐きながら、室内を、もう一度、ぐるりと、見渡した。
「でも——」と俺は言った。
「都内の一等地を、占領してるだけの絵なんて」
「もったいない、だろ?」
俺は、にやり、と笑った。
そして、勝負手を、出した。
「いっそ——」
俺は、彼女の方を、指した。
「これを、鈴愛、お前の作品として、仕上げて、売り出せばいい」
「だから、無理だって……」
「そうかな⁉」
俺は、続けた。
「むしろ——」
「未完成の作品を、父の意思を継いだ子が、完成させたって話は、世間的に、美談だろ?」
俺の頭のなかで、その美談の、メディア掲載のシナリオが、すでに、組み立てられていた。
Webメディア『TOKYO ART REVIEW』の鷹村一真に、取材依頼を入れる。タイトルは「天才の遺志を継ぐ、娘の挑戦」。中堅の女性誌に、見開きで、母子の共同インタビュー。場合によっては、地上波の朝の情報番組に、十分のVTRを乗せる。
そこまで組み立て終えるのに、俺の頭のなかで、たぶん、三秒くらい、しか、かからなかった。
「これで——世間体の問題は、クリア」
「さらに、値段も、跳ね上がる」
「で、でも——」
鈴愛は、ためらった。
「鈴愛——」
俺は、彼女に、一歩、近づいた。
「実際に、お前も、金が必要なんだろ?」
彼女の眉が、わずかに、寄った。
「(俺もだけど)」
俺は、小さく、付け加えた。
「!」
鈴愛の口元が、強張った。
「そうなのか?」
薫が、率直に、訊いた。
「だから——」
鈴愛は、誤魔化す、ように、笑った。
「ちょっと、推し活が、ね」
「そうじゃ、ねーろ?」
俺は、容赦せず、突っ込んだ。
「多額の、相続税に——」
俺は、ひとつずつ、指を、折った。
「隠れた、父の借金」
「お母さんも、結構、苦労してるよな?」
鈴愛の顔から、笑みが、消えた。
「ちなみに——」
俺は、続けた。
「この物件も、登記は、お前の叔父のもの」
「!」
「!」
今度は、薫まで、驚いた顔を、した。
「描きかけ、ばかりとはいえ——ほぼ完成品も、ある」
「これを、売らないって、のは——」
俺は、言葉を、選びながら、続けた。
「万が一、これが、完成品とみなされた場合——」
俺は、彼女の目を、見た。
「お前ら親子には、莫大な相続税が、さらにかかる」
「!」
「だから——」
俺は、にやり、と笑った。
「こうして、叔父の持っていた、空き家に——」
「隠してあったんだろ?」
---
## 二
鈴愛は、何も、言わなかった。
言えなかった、と言うべきだった。
俺の言ったことは、全部、図星だった。
相続税の話も、母の借金の話も、叔父の名義の話も、全部、当たっていた。
俺は、業界に身を置いて十年弱、客の家庭の事情を、嗅ぎ取る能力だけは、磨いてきた。
今回も、ひと月、調べた。
調べた範囲を、いま、ひとつずつ、ぶちまけた。
俺は、勝った、と思っていた。
ドヤ顔を、していた。
次の一手で、彼女を、納得させて、絵を全部、こちらに、持ち帰る。
その手筈を、頭のなかで、組み立てている、最中だった。
その瞬間——
俺の右のスネに、ガッ、と、激痛が、走った。
「痛ってーー‼」
俺は、その場に、しゃがみ込んだ。
しゃがみ込みながら、見上げると——薫が、長い、木の画材棒を、両手で、握っていた。
彼の表情は、いつもの不機嫌な顔よりも、もう、二段階くらい、低い、目つきだった。
「何すんだよ! 薫!」
俺は、声を、荒げた。
「人の弱みを、見つけて——」
薫は、画材棒を、下ろしながら、言った。
「人を、動かそうとするなよ」
「見ていて、気分が、悪い」
「いや、俺は——そんなつもりは……」
俺は、口を、開きかけて、止まった。
薫の目を、見ていた。
その目は、俺の知っている、薫の目だった。
深夜の繁華街で、佐渡の頬を殴ろうとしたとき。
ガードレールに座って、人混みをスケッチしていたとき。
屋上で、釣り糸に引きずられている俺の手首を、掴んだとき。
あの目だった。
あいつは、自分のなかの、ある一点を、踏み越えられた瞬間に——身体が、勝手に、動く男だった。
いま、俺は、その一点を、踏み越えた、らしかった。
俺は、頭のなかで、ある場面を、思い出した。
第四話の、屋上の話を、思い出した。
前田が、薫の胸ぐらを掴んで、「お前みたいに、安く使えるバイトを」と、にやにやしていた、あの場面。
あのとき、薫は、前田に「弱みで、人を動かされる」のが、どれほど、嫌か、骨身に染みて、知っていた。
ああ——と、俺は、思った。
薫も、前田に、そうやって、使われてた、んだっけ。
俺は、立ち上がった。
立ち上がったが、もう、ドヤ顔は、できなかった。
「いいよ」
鈴愛が、口を、開いた。
「牧人っちの、言うとおり、だもん」
彼女は、薫の方を、見た。
見た目は、感謝の目だった。
彼女は、薫が、彼女の弱みを、自分のものとして、受け止めてくれた、ことを、見ていた。
「だ、だよな」
俺は、慌てて、空気を、戻そうとした。
「じゃあ、薫、お前と、鈴愛で、完成させて——」
「でも——」
鈴愛が、首を、振った。
「それも、無理」
「!」
「税務署は、甘くない」と彼女は言った。
「どっち道、遺産隠しだって、言われるわ」
「実際、当時、残っていた父のお弟子さんと——」
「完成を、試みた事があったけど」
「顧問税理士も、危ないって」
彼女は、ふっ、と、ため息をついた。
「うちの父は——結構、無茶な節税を、繰り返してて」
「税務署に、マークされていたから、もあるけどね」
「マジかよ」
俺は、頭を、抱えた。
「参ったな」
「せっかく、お宝が、手に入ったと思ったのに」
俺は、未完成の絵たちを、もう一度、見渡した。
億の絵が、目の前に、あるのに——売れない。
完成させても、売れない。
売れない億が、ここに、無音で、積み上がっていた。
だが——
このまま、指を、咥えてるわけにも、いかなかった。
その時——
「って、お前、何してる!」
俺が、声を、上げた。
---
## 三
薫が——一枚の、キャンバスを、両手で、振り上げていた。
大判の、抽象画だった。
彼の正面の、いちばん近くにあった、未完成の一枚。
彼は、振り上げた、その絵を、見ていた。
見ていた目は——澄んでいた。
「この絵で、みんなが、不幸になるなら——」
彼は、ぽつり、と、言った。
「こんな絵」
「やめて、薫!」
鈴愛の声。
「やめろー、薫!」
俺の声。
二つの声は、間に、合わなかった。
バリィッ——
絵は、薫の両手のあいだで、見事に、引き裂かれた。
キャンバスの、強靭な麻布が、画材の油絵の具とともに、二つに、ちぎれた。
切断面では、絵の具が、ぱらぱら、と、剥がれて、床のうえに、落ちた。
絵は、もう、絵じゃ、なかった。
ただの、二枚の、破れた、布だった。
部屋に、沈黙が、降りた。
窓から、四月の昼の光が、黙って、入っていた。
「ほら——」
薫は、自分の手のなかの、二枚の布を、見せた。
「これで、問題、ない」
鈴愛が——膝から、崩れ落ちた。
その場に、ぺたり、と、座り込んだ。
彼女の口は、半開きで、何も、言わなかった。
俺は——固まっていた。
俺の頭のなかで、つい一秒前まで、四百万の値札が、貼り付いていた絵が、二枚の、ぼろ布になっていた。
その光景の、変換速度に——俺の脳の処理が、追いつけなかった。
俺の口から、言葉に、ならない、音が、漏れた。
俺は、心のなかで——一行、書きつけた。
——だめだ。
——こいつは、俺の手に、負えないモンスターだ。
薫は、悪びれた様子も、なかった。
「でさー」
彼は、振り返った。
破れた絵を、両手で、軽く、持ち上げて。
「これを、素材にして——アートを、作るってのは、どうかな」
「!!」
俺の頭のなかで——半秒、空白が、できた。
「もっと、でっかいキャンバスに、これを、貼ってさ」
彼は、続けた。
「できれば——半分以上の、白い部分を……」
彼は、鈴愛の方を、見た。
「鈴愛が、描く」
「もちろん、俺も、手伝う」
彼は、もう一度、破れた絵を、軽く、振った。
「で、出来上がった、その絵は——」
彼は、ゆっくり、言った。
「鈴愛が描いた、現代アートって——言えるんじゃ、ねえか?」
「ばか——」
俺は、口を、開きかけた。
「そんなものが——」
しかし——その俺の言葉を、鈴愛が、遮った。
「つまり——」
彼女は、まだ、床のうえに、座り込んでいた。
座り込んだまま、彼女は、薫の手のなかの、破れた絵を、見ていた。
見ていた目に——何かが、灯っていた。
「父の絵を——」
彼女は、ゆっくり、言った。
「破ったものを——再利用……」
「え?」
俺は、彼女の声を、聞き返した。
「それって——」
鈴愛が、立ち上がった。
立ち上がった瞬間、彼女の目は——鈴愛のいつもの、地下アイドル現場で、推しのコールを叫ぶときの、爛々とした目に、なっていた。
「すっごく、アートだよ!」
「だろ!」
薫が、応じた。
俺は——まだ、ついていけて、いなかった。
「え?」
俺の口から、それ以外の、言葉が、出なかった。
二人は、もう、こちらを、見ていなかった。
破れた絵を、二人で、持ち寄って、アトリエの広間の中央で、向かい合っていた。
鈴愛が、構図の話を、していた。
薫が、コラージュの貼り方を、提案していた。
二人の口から、それまで、二人とも一度も、口にしなかった種類の単語が、転がり始めていた。
——マチエール。
——コンセプト。
——リレーショナル。
俺の知らない言語で、二人は、話し始めていた。
俺は——立ち尽くしていた。
俺の頭のなかで、計算機は、もう、動いていなかった。
計算機の代わりに、なにかもっと、別の感覚が、動き始めていた。
その感覚に、俺は、まだ、名前を、つけられなかった。
ただ、ひとつだけ、はっきりと、感じていることが、あった。
俺がいま、見ているこの光景は——
俺が「見つけた」つもりだった、宍戸薫が——
俺の知らない場所まで、勝手に、走り出していく、瞬間だった。
【第十二話 了】




