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アート&マネー  作者: Zoo
12/14

# 第十二話 破却

## 一


「この絵は、売らないだあ?」


 俺の声は、アトリエの天井に、ぶつかって、跳ね返ってきた。


 松濤の住宅街に建つ、緑青を吹いた銅板屋根の、古い洋館。

 その吹き抜けの広間に、いま、俺と、鈴愛と、薫が、立っていた。

 部屋の中には、未完成のキャンバスが、無数に、並んでいた。

 大きいものは、床から天井近くまで届いていた。

 小さいものは、ステンレスの作業台にまで、置いてあった。

 俺の頭のなかでは、それぞれの絵に、すでに、薄い値札が、貼り付いていた。

 あの抽象画は、海外オークションで——四百万。

 そっちの構図のしっかりした半身像は——七百万。

 あの飛び抜けた色面は、もし完成すれば——一千万を超える。

 全部で、ざっと——億の単位の話だった。


 その絵を、いま、目の前の女が「売らない」と言った。


「当たり前でしょ」


 鈴愛は、両手を、腰に、当てていた。


「未完成品を、売ったりなんかしたら——」

「周りから、何て言われるか」


 彼女の隣で、薫は、いたたまれない顔を、していた。

 彼の襟元のボタンは、いつものように、首までかっちり、留まっていた。


「へー」


 俺は、わざと、軽く、答えた。


「意外に、世間体、気にしてるんだ?」


 鈴愛が、両手を、強く、握った。


「母も、私もね!」


 彼女は、挑むように、続けた。


「これでも、小日向文雄の家族ってことで——」

「結構、苦労してんのよ」


 俺は、ふっ、と、息を、吐いた。

 吐きながら、室内を、もう一度、ぐるりと、見渡した。


「でも——」と俺は言った。

「都内の一等地を、占領してるだけの絵なんて」

「もったいない、だろ?」


 俺は、にやり、と笑った。

 そして、勝負手を、出した。


「いっそ——」


 俺は、彼女の方を、指した。


「これを、鈴愛、お前の作品として、仕上げて、売り出せばいい」


「だから、無理だって……」


「そうかな⁉」


 俺は、続けた。


「むしろ——」

「未完成の作品を、父の意思を継いだ子が、完成させたって話は、世間的に、美談だろ?」


 俺の頭のなかで、その美談の、メディア掲載のシナリオが、すでに、組み立てられていた。

 Webメディア『TOKYO ART REVIEW』の鷹村一真に、取材依頼を入れる。タイトルは「天才の遺志を継ぐ、娘の挑戦」。中堅の女性誌に、見開きで、母子の共同インタビュー。場合によっては、地上波の朝の情報番組に、十分のVTRを乗せる。

 そこまで組み立て終えるのに、俺の頭のなかで、たぶん、三秒くらい、しか、かからなかった。


「これで——世間体の問題は、クリア」

「さらに、値段も、跳ね上がる」


「で、でも——」


 鈴愛は、ためらった。


「鈴愛——」


 俺は、彼女に、一歩、近づいた。


「実際に、お前も、金が必要なんだろ?」


 彼女の眉が、わずかに、寄った。


「(俺もだけど)」


 俺は、小さく、付け加えた。


「!」


 鈴愛の口元が、強張った。


「そうなのか?」


 薫が、率直に、訊いた。


「だから——」


 鈴愛は、誤魔化す、ように、笑った。


「ちょっと、推し活が、ね」


「そうじゃ、ねーろ?」


 俺は、容赦せず、突っ込んだ。


「多額の、相続税に——」


 俺は、ひとつずつ、指を、折った。


「隠れた、父の借金」

「お母さんも、結構、苦労してるよな?」


 鈴愛の顔から、笑みが、消えた。


「ちなみに——」


 俺は、続けた。


「この物件も、登記は、お前の叔父のもの」


「!」


「!」


 今度は、薫まで、驚いた顔を、した。


「描きかけ、ばかりとはいえ——ほぼ完成品も、ある」

「これを、売らないって、のは——」


 俺は、言葉を、選びながら、続けた。


「万が一、これが、完成品とみなされた場合——」


 俺は、彼女の目を、見た。


「お前ら親子には、莫大な相続税が、さらにかかる」


「!」


「だから——」


 俺は、にやり、と笑った。


「こうして、叔父の持っていた、空き家に——」

「隠してあったんだろ?」


---


## 二


 鈴愛は、何も、言わなかった。


 言えなかった、と言うべきだった。

 俺の言ったことは、全部、図星だった。

 相続税の話も、母の借金の話も、叔父の名義の話も、全部、当たっていた。

 俺は、業界に身を置いて十年弱、客の家庭の事情を、嗅ぎ取る能力だけは、磨いてきた。

 今回も、ひと月、調べた。

 調べた範囲を、いま、ひとつずつ、ぶちまけた。


 俺は、勝った、と思っていた。

 ドヤ顔を、していた。

 次の一手で、彼女を、納得させて、絵を全部、こちらに、持ち帰る。

 その手筈を、頭のなかで、組み立てている、最中だった。


 その瞬間——


 俺の右のスネに、ガッ、と、激痛が、走った。


「痛ってーー‼」


 俺は、その場に、しゃがみ込んだ。

 しゃがみ込みながら、見上げると——薫が、長い、木の画材棒を、両手で、握っていた。

 彼の表情は、いつもの不機嫌な顔よりも、もう、二段階くらい、低い、目つきだった。


「何すんだよ! 薫!」


 俺は、声を、荒げた。


「人の弱みを、見つけて——」


 薫は、画材棒を、下ろしながら、言った。


「人を、動かそうとするなよ」

「見ていて、気分が、悪い」


「いや、俺は——そんなつもりは……」


 俺は、口を、開きかけて、止まった。


 薫の目を、見ていた。

 その目は、俺の知っている、薫の目だった。

 深夜の繁華街で、佐渡の頬を殴ろうとしたとき。

 ガードレールに座って、人混みをスケッチしていたとき。

 屋上で、釣り糸に引きずられている俺の手首を、掴んだとき。

 あの目だった。

 あいつは、自分のなかの、ある一点を、踏み越えられた瞬間に——身体が、勝手に、動く男だった。


 いま、俺は、その一点を、踏み越えた、らしかった。


 俺は、頭のなかで、ある場面を、思い出した。

 第四話の、屋上の話を、思い出した。

 前田が、薫の胸ぐらを掴んで、「お前みたいに、安く使えるバイトを」と、にやにやしていた、あの場面。

 あのとき、薫は、前田に「弱みで、人を動かされる」のが、どれほど、嫌か、骨身に染みて、知っていた。


 ああ——と、俺は、思った。


 薫も、前田に、そうやって、使われてた、んだっけ。


 俺は、立ち上がった。

 立ち上がったが、もう、ドヤ顔は、できなかった。


「いいよ」


 鈴愛が、口を、開いた。


「牧人っちの、言うとおり、だもん」


 彼女は、薫の方を、見た。

 見た目は、感謝の目だった。

 彼女は、薫が、彼女の弱みを、自分のものとして、受け止めてくれた、ことを、見ていた。


「だ、だよな」


 俺は、慌てて、空気を、戻そうとした。


「じゃあ、薫、お前と、鈴愛で、完成させて——」


「でも——」


 鈴愛が、首を、振った。


「それも、無理」


「!」


「税務署は、甘くない」と彼女は言った。

「どっち道、遺産隠しだって、言われるわ」

「実際、当時、残っていた父のお弟子さんと——」

「完成を、試みた事があったけど」

「顧問税理士も、危ないって」


 彼女は、ふっ、と、ため息をついた。


「うちの父は——結構、無茶な節税を、繰り返してて」

「税務署に、マークされていたから、もあるけどね」


「マジかよ」


 俺は、頭を、抱えた。


「参ったな」

「せっかく、お宝が、手に入ったと思ったのに」


 俺は、未完成の絵たちを、もう一度、見渡した。

 億の絵が、目の前に、あるのに——売れない。

 完成させても、売れない。

 売れない億が、ここに、無音で、積み上がっていた。


 だが——

 このまま、指を、咥えてるわけにも、いかなかった。


 その時——


「って、お前、何してる!」


 俺が、声を、上げた。


---


## 三


 薫が——一枚の、キャンバスを、両手で、振り上げていた。


 大判の、抽象画だった。

 彼の正面の、いちばん近くにあった、未完成の一枚。


 彼は、振り上げた、その絵を、見ていた。

 見ていた目は——澄んでいた。


「この絵で、みんなが、不幸になるなら——」


 彼は、ぽつり、と、言った。


「こんな絵」


「やめて、薫!」


 鈴愛の声。


「やめろー、薫!」


 俺の声。


 二つの声は、間に、合わなかった。


 バリィッ——


 絵は、薫の両手のあいだで、見事に、引き裂かれた。

 キャンバスの、強靭な麻布が、画材の油絵の具とともに、二つに、ちぎれた。

 切断面では、絵の具が、ぱらぱら、と、剥がれて、床のうえに、落ちた。


 絵は、もう、絵じゃ、なかった。

 ただの、二枚の、破れた、布だった。


 部屋に、沈黙が、降りた。

 窓から、四月の昼の光が、黙って、入っていた。


「ほら——」


 薫は、自分の手のなかの、二枚の布を、見せた。


「これで、問題、ない」


 鈴愛が——膝から、崩れ落ちた。

 その場に、ぺたり、と、座り込んだ。

 彼女の口は、半開きで、何も、言わなかった。


 俺は——固まっていた。

 俺の頭のなかで、つい一秒前まで、四百万の値札が、貼り付いていた絵が、二枚の、ぼろ布になっていた。

 その光景の、変換速度に——俺の脳の処理が、追いつけなかった。


 俺の口から、言葉に、ならない、音が、漏れた。


 俺は、心のなかで——一行、書きつけた。


 ——だめだ。

 ——こいつは、俺の手に、負えないモンスターだ。


 薫は、悪びれた様子も、なかった。


「でさー」


 彼は、振り返った。


 破れた絵を、両手で、軽く、持ち上げて。


「これを、素材にして——アートを、作るってのは、どうかな」


「!!」


 俺の頭のなかで——半秒、空白が、できた。


「もっと、でっかいキャンバスに、これを、貼ってさ」


 彼は、続けた。


「できれば——半分以上の、白い部分を……」


 彼は、鈴愛の方を、見た。


「鈴愛が、描く」

「もちろん、俺も、手伝う」


 彼は、もう一度、破れた絵を、軽く、振った。


「で、出来上がった、その絵は——」


 彼は、ゆっくり、言った。


「鈴愛が描いた、現代アートって——言えるんじゃ、ねえか?」


「ばか——」


 俺は、口を、開きかけた。


「そんなものが——」


 しかし——その俺の言葉を、鈴愛が、遮った。


「つまり——」


 彼女は、まだ、床のうえに、座り込んでいた。

 座り込んだまま、彼女は、薫の手のなかの、破れた絵を、見ていた。

 見ていた目に——何かが、灯っていた。


「父の絵を——」


 彼女は、ゆっくり、言った。


「破ったものを——再利用……」


「え?」


 俺は、彼女の声を、聞き返した。


「それって——」


 鈴愛が、立ち上がった。

 立ち上がった瞬間、彼女の目は——鈴愛のいつもの、地下アイドル現場で、推しのコールを叫ぶときの、爛々とした目に、なっていた。


「すっごく、アートだよ!」


「だろ!」


 薫が、応じた。


 俺は——まだ、ついていけて、いなかった。


「え?」


 俺の口から、それ以外の、言葉が、出なかった。


 二人は、もう、こちらを、見ていなかった。

 破れた絵を、二人で、持ち寄って、アトリエの広間の中央で、向かい合っていた。

 鈴愛が、構図の話を、していた。

 薫が、コラージュの貼り方を、提案していた。

 二人の口から、それまで、二人とも一度も、口にしなかった種類の単語が、転がり始めていた。

 ——マチエール。

 ——コンセプト。

 ——リレーショナル。


 俺の知らない言語で、二人は、話し始めていた。


 俺は——立ち尽くしていた。


 俺の頭のなかで、計算機は、もう、動いていなかった。

 計算機の代わりに、なにかもっと、別の感覚が、動き始めていた。

 その感覚に、俺は、まだ、名前を、つけられなかった。


 ただ、ひとつだけ、はっきりと、感じていることが、あった。


 俺がいま、見ているこの光景は——

 俺が「見つけた」つもりだった、宍戸薫が——

 俺の知らない場所まで、勝手に、走り出していく、瞬間だった。


【第十二話 了】

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