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アート&マネー  作者: Zoo
8/10

# 第八話 才能


## 一


「はぁ⁉」


 翌朝、ギャラリーの事務スペースで、鈴愛は、薫を、まじまじと、見ていた。


「油絵を、描いたことないって?」


「ないけど?」


 薫は、無表情に、答えた。


 鈴愛は、深く、ため息をついた。

 それから、頭をかきむしりながら、こちらを、振り返った。


「じゃあ、私の絵を、再現するなんて——無理じゃん」


「あーあ」と彼女は付け加えた。

「推しのイベント、迫ってるんだけどなあ」


「お前が、教えるんだよ」


 俺は、淡々と、言った。


「七日間で、な」


「七日間⁉」


 鈴愛は、椅子から、半分、跳び上がった。


「それこそ、無理よ」

「どれだけ、技法があると思ってんの⁉」


 まあ、その反応は、想定内だった。

 俺は、軽く、肩をすくめた。


「全てを教える必要は、ない」と俺は言った。

「お前の絵を、再現できるだけの——技術だけでいい」


「それだって、簡単じゃないわ!」


 彼女の声は、悲鳴に、近かった。


「教えてくれよ、鈴愛」


 薫が、口を、開いた。


 鈴愛が、振り向いた。


「!」


「多分、出来ると思う」


 薫の声には、ふだん通りの、不愛想と、淡々と、それから、いつもよりわずかに、自信の、混じった響きがあった。

 彼自身は、それを、自信だとは思っていない、という顔だった。

 ただ、できると、思った。

 できると、思ったから、できる、と言った。

 それだけの男の声だった。


「……君、本気で、言ってんの?」


 鈴愛は、訝しんだ。


 俺は、間に、入った。


「薫は、天才だぜ?」


 俺は、にこやかに、言った。


「それだけは、保証する」


 第四話の屋上で、俺が前田の前で初めて口にした、その単語を、俺はもう、ふだんの会話のなかで、自然に、口にできるようになっていた。

 言うたびに、その単語が、地のうえに、ひとつずつ、足跡を、つけていく感じがした。

 俺は、その足跡を、踏んで、商売を、進めていた。


 鈴愛は、しばらく、薫を、見ていた。

 見ていた目には、複雑な色が、走った。

 半分は、職人の警戒。半分は、彼女自身が、ずっと「天才少女」と呼ばれてきた、その単語への、傷ついた違和感。


「……言っとくけど、教えるだけだからね」


 彼女は、ぽつり、と、言った。


「結果は、補償しないよ」


「教えてくれるんだな?」


 薫は、淡々と、念を押した。


「着いてきて」


 彼女は、立ち上がった。


「私のアトリエに、いくから」


 二人は、扉の方に、向かった。

 薫は、自分のリュックを、肩に、掛け直した。

 鈴愛は、エプロンを、外して、丸めて、トートバッグに、放り込んだ。

 扉の前で、彼女は、一度、振り返った。


「牧人っち」と彼女は言った。


「何だ」


「ほんとに、七日で、いいんだね?」


「七日で、いい」


 俺は、頷いた。


「いや、七日で、足りる、ってことに、お前がしてくれ」


 彼女は、薄く、笑った。


「分かった」


 扉が、閉まった。

 二人の足音が、ギャラリーの裏口から、外に、出ていった。


 俺は、椅子から、立ち上がった。


「さて——」


 俺は、伸びを、ひとつ、した。


「俺も、動くと、するか」


---


## 二


 ギャラリーの、別室の、社長デスク。


 デスクのうえには、俺の手帳と、いくつかの資料、それから、コーヒーが、湯気を立てていた。

 コーヒーは、ブラジル深煎り。鈴愛が、ファミレスに消えた朝に、俺が淹れる種類の豆だった。

 俺は、スマホを、机の上に置いて、スピーカーモードで、ある番号を、呼び出した。


 三コール、で、相手は、出た。


「天草さん——ご無沙汰しています」


「メールの件——」


 受話口の向こうの声は、上品で、低かった。


「本当か?」


 天草、というのは——天草信郎。五十二歳。

 医療機器の輸入会社のオーナーで、現代アートの個人コレクターだ。十年前から、業界では「変なものを買う男」と呼ばれていた。変なもの、というのは、誰もまだ価値をつけていないものを、自分の鼻だけで、買う男、という意味だった。

 俺の上得意のひとりであり、俺と祖父の代から、付き合いのある、数少ない客でもあった。


 俺は、自信に満ちた笑みを、声に乗せた。


「ええ」と俺は言った。

「小日向鈴愛の作品を、次のオークションから——毎月、出品します」


「ほう」


「しかも、五点、完成予定です」


「五点⁉」


 天草の声が、はっきりと、跳ねた。


「随分、遅筆なアーティストだったはずだが」


「優秀な——アシスタントを、見つけたんですよ」


「なるほど」


 天草は、業界で四十年、絵を、見続けてきた男だった。

 彼は、俺がいま、どういう種類のことを、企てているか、最後まで言わなくても、八割、察した。

 察したうえで、彼は——乗ってくれる、種類の人間だった。


「ということで、まずは——」


 俺は、声を、ひそめた。


「天草さんに、協力して欲しいんですよ」

「予想通り、値が上がった場合は——」

「最後の作品は、差し上げます」


「ほう」


 天草の声に、楽しげな色が、にじんだ。


「それは、面白い」

「最初は、私が買おう」


 彼は、続けた。


「ただし——」


 声が、低くなった。


「予定通り、値段が上がらなければ——君に、買い取ってもらうぞ」


 俺は、窓の外を、見た。

 日本橋の路地裏に、四月の、淡い光が、降りていた。


「その心配は、いりませんよ」


 俺は、ゆっくり、言った。


「必ずや——市場を、驚かせて、みせます」


「わかった」


 通話が、切れた。


 俺は、息を、吐いた。

 第一手は、打った。

 次の手は、別の電話だった。


 俺は、もう一度、別の番号を、呼び出した。

 二コール、で、相手は、出た。


「あ、牧人さん、ちっす」


 軽い声だった。


 鷹村一真。二十九歳。

 現代アート専門のWebメディア『TOKYO ART REVIEW』の編集兼ライター。業界的には、無名に近いが、彼の書く記事には、独特の——熱があった。

 無名のアーティストを、彼が「天才」と書くと、五百人くらいの読者が、その単語に反応する。

 五百人。

 たった、五百人だ。

 だが、俺の商売には、その五百人で、充分だった。


「天草が、話に乗った」


 俺は、簡潔に、伝えた。


「お前の、出番だ」


「マジっすか!」


 一真の声が、跳ねた。


「任せてください!」

「いい記事、書くんで」


「頼むぞ」


 通話を、切った。


 俺は、椅子の背もたれに、深く、身体を、預けた。

 窓の外の、四月の光は、いつのまにか、午前の角度を、超えていた。


 準備は、すぐに、整う。

 あとは、薫の手だ。


 頼んだぞ、薫——と、俺は、心のなかで、呟いた。


---


## 三


 その日からの七日間、俺は、アトリエに、足を、運ばなかった。


 運ばなかったのは、信頼の表明、では、ない。

 俺が顔を出すと、二人とも、本気が、出ない種類の、人間だったからだ。

 鈴愛は、俺の前で「先生」をやることを、嫌がった。彼女には、彼女なりの、意地があった。

 薫は、俺の前で「教えられる」ことを、嫌がった。彼にも、彼なりの、意地があった。

 二人だけにしておいた方が、たぶん、早い。

 それは、俺が、業界の若い作家と、ベテランのアシスタントを、何組か、組ませてきた、経験からの判断だった。


 ただ、その七日間に、アトリエで、何が起きていたかについては——

 あとから、鈴愛と、薫の両方から、断片的に、聞いた。

 その断片を、俺なりに、繋ぎ合わせて、記録しておく。


 鈴愛のアトリエは、清澄白河の、倉庫を改装した、古い建物の二階だった。

 壁は、白く、塗ってあった。

 床は、油絵の具と、テレピン油の染みで、何層にも、彩られていた。

 北向きの大きな窓から、安定した光が、入ってきた。

 壁ぎわには、キャンバスが、何枚も、立てかけてあった。

 道具は——油絵の具のチューブ、パレット、ナイフ、筆、瓶、ぼろ布——すべて、所定の位置に、整列、ではなく、ランダムに、置いてあった。

 ランダムだが、彼女には、その場所が、把握できている、種類のランダムだった。


 その日、最初に、彼女が、薫に教えたのは——下地作りだった。


「まずは、下地作りから」と鈴愛は言った。

「ジェッソを使って、キャンバスに、下地を塗るの」


 薫は、頷いた。

 頷いて、彼女の動きを、じっと、観察した。

 観察するときの、彼の目つきは、深夜の繁華街で、人混みを見ている、あの目つきだった。


 鈴愛は、ジェッソの、白い粘りのある液体を、平筆に、たっぷり取って、キャンバスの上から、下に向けて、まんべんなく、塗った。

 筆の動きは、無造作に、見えた。

 しかし、その無造作さの中に、彼女が十年かけて身につけた、ある種の、リズムが、あった。


 薫も、ジェッソを、平筆に、取った。

 彼の筆の動きは、最初の三秒で、鈴愛の動きと、揃った。


 鈴愛は、ちらり、と、薫の手元を、見た。


「……初めてにしては——悪くないわね」


 彼女は、口のなかで、そう呟いた。


 薫は、無言で、作業を、続けた。


 次に、彼女が、教えたのは——色の混ぜ方だった。


「次は、色の混ぜ方よ」


 彼女は、絵の具を、パレットに、出し始めた。


「基本的な、色彩理論は、知ってる?」


「一応」と薫は答えた。

「デザインは——仕事で、使うから」


「ふーん」


 鈴愛は、絵の具の、チューブを、二本、ひねった。


「この色を作るには——これと、これを、混ぜて……」


 彼女は、パレットのうえで、絵の具を、混ぜていた。

 ターコイズを、わずかな黒で、暗くしていく工程だった。

 量は、感覚で、決めていた。

 彼女の手の中の、感覚で、決めていた。

 それを、彼女は、薫の前で、ひとつずつ、口で、言葉に、変換していた。


 薫は、その動きを、目で、追った。

 それから、自分のパレットに、同じ二色を、絞り出した。

 絞り出した量は、鈴愛のそれと、ほぼ、同じだった。

 鈴愛の指の動きを、横目で見ながら、薫の指は、同じように、動いた。


 数十秒、後。


 鈴愛の眉が、わずかに、寄った。

 彼女は、薫のパレットに、自分のパレットを、近づけた。


「……えっ」


 彼女の口から、声が、漏れた。


「……全く、同じ色……?」


 薫の、パレットのうえの、絵の具の塊と。

 鈴愛の、パレットのうえの、絵の具の塊。

 ふたつは、目視では、まったく区別の、つかない色だった。

 光の角度を変えて、横から見ても——同じだった。


「そりゃ」


 薫は、ふだんと、変わらない、声で、答えた。


「同じように、したからな」


 鈴愛は、薫の顔を、まじまじと、見た。


 彼女は、知っていた。

 彼女自身が、十年かけて、辿り着いた「同じ色」を作るための、無数の細かい判断を。

 絵の具のチューブの口の、開き方の角度。出すときの、指の力の入れ方。パレットのうえに、置く瞬間の、塊の形。混ぜるときの、ナイフの当てる角度。混ぜる回数。混ぜる方向。

 その全部を、いま、薫は——彼女の動きを、横目で見て、再現したのだった。


「……薫」


 鈴愛は、ぽつり、と言った。


「?」


「あんた、本当に——油絵、初めて?」


「初めてだけど?」


 薫は、不思議そうに、答えた。


 その日のことを——

 あとから、鈴愛は、俺に、こう言った。


「あの瞬間ね」と、彼女は、フォークを、振りながら、笑っていた。

「あ、こいつ、私と、種族が、違うんだ、って思った」


【第八話 了】

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