# 第八話 才能
## 一
「はぁ⁉」
翌朝、ギャラリーの事務スペースで、鈴愛は、薫を、まじまじと、見ていた。
「油絵を、描いたことないって?」
「ないけど?」
薫は、無表情に、答えた。
鈴愛は、深く、ため息をついた。
それから、頭をかきむしりながら、こちらを、振り返った。
「じゃあ、私の絵を、再現するなんて——無理じゃん」
「あーあ」と彼女は付け加えた。
「推しのイベント、迫ってるんだけどなあ」
「お前が、教えるんだよ」
俺は、淡々と、言った。
「七日間で、な」
「七日間⁉」
鈴愛は、椅子から、半分、跳び上がった。
「それこそ、無理よ」
「どれだけ、技法があると思ってんの⁉」
まあ、その反応は、想定内だった。
俺は、軽く、肩をすくめた。
「全てを教える必要は、ない」と俺は言った。
「お前の絵を、再現できるだけの——技術だけでいい」
「それだって、簡単じゃないわ!」
彼女の声は、悲鳴に、近かった。
「教えてくれよ、鈴愛」
薫が、口を、開いた。
鈴愛が、振り向いた。
「!」
「多分、出来ると思う」
薫の声には、ふだん通りの、不愛想と、淡々と、それから、いつもよりわずかに、自信の、混じった響きがあった。
彼自身は、それを、自信だとは思っていない、という顔だった。
ただ、できると、思った。
できると、思ったから、できる、と言った。
それだけの男の声だった。
「……君、本気で、言ってんの?」
鈴愛は、訝しんだ。
俺は、間に、入った。
「薫は、天才だぜ?」
俺は、にこやかに、言った。
「それだけは、保証する」
第四話の屋上で、俺が前田の前で初めて口にした、その単語を、俺はもう、ふだんの会話のなかで、自然に、口にできるようになっていた。
言うたびに、その単語が、地のうえに、ひとつずつ、足跡を、つけていく感じがした。
俺は、その足跡を、踏んで、商売を、進めていた。
鈴愛は、しばらく、薫を、見ていた。
見ていた目には、複雑な色が、走った。
半分は、職人の警戒。半分は、彼女自身が、ずっと「天才少女」と呼ばれてきた、その単語への、傷ついた違和感。
「……言っとくけど、教えるだけだからね」
彼女は、ぽつり、と、言った。
「結果は、補償しないよ」
「教えてくれるんだな?」
薫は、淡々と、念を押した。
「着いてきて」
彼女は、立ち上がった。
「私のアトリエに、いくから」
二人は、扉の方に、向かった。
薫は、自分のリュックを、肩に、掛け直した。
鈴愛は、エプロンを、外して、丸めて、トートバッグに、放り込んだ。
扉の前で、彼女は、一度、振り返った。
「牧人っち」と彼女は言った。
「何だ」
「ほんとに、七日で、いいんだね?」
「七日で、いい」
俺は、頷いた。
「いや、七日で、足りる、ってことに、お前がしてくれ」
彼女は、薄く、笑った。
「分かった」
扉が、閉まった。
二人の足音が、ギャラリーの裏口から、外に、出ていった。
俺は、椅子から、立ち上がった。
「さて——」
俺は、伸びを、ひとつ、した。
「俺も、動くと、するか」
---
## 二
ギャラリーの、別室の、社長デスク。
デスクのうえには、俺の手帳と、いくつかの資料、それから、コーヒーが、湯気を立てていた。
コーヒーは、ブラジル深煎り。鈴愛が、ファミレスに消えた朝に、俺が淹れる種類の豆だった。
俺は、スマホを、机の上に置いて、スピーカーモードで、ある番号を、呼び出した。
三コール、で、相手は、出た。
「天草さん——ご無沙汰しています」
「メールの件——」
受話口の向こうの声は、上品で、低かった。
「本当か?」
天草、というのは——天草信郎。五十二歳。
医療機器の輸入会社のオーナーで、現代アートの個人コレクターだ。十年前から、業界では「変なものを買う男」と呼ばれていた。変なもの、というのは、誰もまだ価値をつけていないものを、自分の鼻だけで、買う男、という意味だった。
俺の上得意のひとりであり、俺と祖父の代から、付き合いのある、数少ない客でもあった。
俺は、自信に満ちた笑みを、声に乗せた。
「ええ」と俺は言った。
「小日向鈴愛の作品を、次のオークションから——毎月、出品します」
「ほう」
「しかも、五点、完成予定です」
「五点⁉」
天草の声が、はっきりと、跳ねた。
「随分、遅筆なアーティストだったはずだが」
「優秀な——アシスタントを、見つけたんですよ」
「なるほど」
天草は、業界で四十年、絵を、見続けてきた男だった。
彼は、俺がいま、どういう種類のことを、企てているか、最後まで言わなくても、八割、察した。
察したうえで、彼は——乗ってくれる、種類の人間だった。
「ということで、まずは——」
俺は、声を、ひそめた。
「天草さんに、協力して欲しいんですよ」
「予想通り、値が上がった場合は——」
「最後の作品は、差し上げます」
「ほう」
天草の声に、楽しげな色が、にじんだ。
「それは、面白い」
「最初は、私が買おう」
彼は、続けた。
「ただし——」
声が、低くなった。
「予定通り、値段が上がらなければ——君に、買い取ってもらうぞ」
俺は、窓の外を、見た。
日本橋の路地裏に、四月の、淡い光が、降りていた。
「その心配は、いりませんよ」
俺は、ゆっくり、言った。
「必ずや——市場を、驚かせて、みせます」
「わかった」
通話が、切れた。
俺は、息を、吐いた。
第一手は、打った。
次の手は、別の電話だった。
俺は、もう一度、別の番号を、呼び出した。
二コール、で、相手は、出た。
「あ、牧人さん、ちっす」
軽い声だった。
鷹村一真。二十九歳。
現代アート専門のWebメディア『TOKYO ART REVIEW』の編集兼ライター。業界的には、無名に近いが、彼の書く記事には、独特の——熱があった。
無名のアーティストを、彼が「天才」と書くと、五百人くらいの読者が、その単語に反応する。
五百人。
たった、五百人だ。
だが、俺の商売には、その五百人で、充分だった。
「天草が、話に乗った」
俺は、簡潔に、伝えた。
「お前の、出番だ」
「マジっすか!」
一真の声が、跳ねた。
「任せてください!」
「いい記事、書くんで」
「頼むぞ」
通話を、切った。
俺は、椅子の背もたれに、深く、身体を、預けた。
窓の外の、四月の光は、いつのまにか、午前の角度を、超えていた。
準備は、すぐに、整う。
あとは、薫の手だ。
頼んだぞ、薫——と、俺は、心のなかで、呟いた。
---
## 三
その日からの七日間、俺は、アトリエに、足を、運ばなかった。
運ばなかったのは、信頼の表明、では、ない。
俺が顔を出すと、二人とも、本気が、出ない種類の、人間だったからだ。
鈴愛は、俺の前で「先生」をやることを、嫌がった。彼女には、彼女なりの、意地があった。
薫は、俺の前で「教えられる」ことを、嫌がった。彼にも、彼なりの、意地があった。
二人だけにしておいた方が、たぶん、早い。
それは、俺が、業界の若い作家と、ベテランのアシスタントを、何組か、組ませてきた、経験からの判断だった。
ただ、その七日間に、アトリエで、何が起きていたかについては——
あとから、鈴愛と、薫の両方から、断片的に、聞いた。
その断片を、俺なりに、繋ぎ合わせて、記録しておく。
鈴愛のアトリエは、清澄白河の、倉庫を改装した、古い建物の二階だった。
壁は、白く、塗ってあった。
床は、油絵の具と、テレピン油の染みで、何層にも、彩られていた。
北向きの大きな窓から、安定した光が、入ってきた。
壁ぎわには、キャンバスが、何枚も、立てかけてあった。
道具は——油絵の具のチューブ、パレット、ナイフ、筆、瓶、ぼろ布——すべて、所定の位置に、整列、ではなく、ランダムに、置いてあった。
ランダムだが、彼女には、その場所が、把握できている、種類のランダムだった。
その日、最初に、彼女が、薫に教えたのは——下地作りだった。
「まずは、下地作りから」と鈴愛は言った。
「ジェッソを使って、キャンバスに、下地を塗るの」
薫は、頷いた。
頷いて、彼女の動きを、じっと、観察した。
観察するときの、彼の目つきは、深夜の繁華街で、人混みを見ている、あの目つきだった。
鈴愛は、ジェッソの、白い粘りのある液体を、平筆に、たっぷり取って、キャンバスの上から、下に向けて、まんべんなく、塗った。
筆の動きは、無造作に、見えた。
しかし、その無造作さの中に、彼女が十年かけて身につけた、ある種の、リズムが、あった。
薫も、ジェッソを、平筆に、取った。
彼の筆の動きは、最初の三秒で、鈴愛の動きと、揃った。
鈴愛は、ちらり、と、薫の手元を、見た。
「……初めてにしては——悪くないわね」
彼女は、口のなかで、そう呟いた。
薫は、無言で、作業を、続けた。
次に、彼女が、教えたのは——色の混ぜ方だった。
「次は、色の混ぜ方よ」
彼女は、絵の具を、パレットに、出し始めた。
「基本的な、色彩理論は、知ってる?」
「一応」と薫は答えた。
「デザインは——仕事で、使うから」
「ふーん」
鈴愛は、絵の具の、チューブを、二本、ひねった。
「この色を作るには——これと、これを、混ぜて……」
彼女は、パレットのうえで、絵の具を、混ぜていた。
ターコイズを、わずかな黒で、暗くしていく工程だった。
量は、感覚で、決めていた。
彼女の手の中の、感覚で、決めていた。
それを、彼女は、薫の前で、ひとつずつ、口で、言葉に、変換していた。
薫は、その動きを、目で、追った。
それから、自分のパレットに、同じ二色を、絞り出した。
絞り出した量は、鈴愛のそれと、ほぼ、同じだった。
鈴愛の指の動きを、横目で見ながら、薫の指は、同じように、動いた。
数十秒、後。
鈴愛の眉が、わずかに、寄った。
彼女は、薫のパレットに、自分のパレットを、近づけた。
「……えっ」
彼女の口から、声が、漏れた。
「……全く、同じ色……?」
薫の、パレットのうえの、絵の具の塊と。
鈴愛の、パレットのうえの、絵の具の塊。
ふたつは、目視では、まったく区別の、つかない色だった。
光の角度を変えて、横から見ても——同じだった。
「そりゃ」
薫は、ふだんと、変わらない、声で、答えた。
「同じように、したからな」
鈴愛は、薫の顔を、まじまじと、見た。
彼女は、知っていた。
彼女自身が、十年かけて、辿り着いた「同じ色」を作るための、無数の細かい判断を。
絵の具のチューブの口の、開き方の角度。出すときの、指の力の入れ方。パレットのうえに、置く瞬間の、塊の形。混ぜるときの、ナイフの当てる角度。混ぜる回数。混ぜる方向。
その全部を、いま、薫は——彼女の動きを、横目で見て、再現したのだった。
「……薫」
鈴愛は、ぽつり、と言った。
「?」
「あんた、本当に——油絵、初めて?」
「初めてだけど?」
薫は、不思議そうに、答えた。
その日のことを——
あとから、鈴愛は、俺に、こう言った。
「あの瞬間ね」と、彼女は、フォークを、振りながら、笑っていた。
「あ、こいつ、私と、種族が、違うんだ、って思った」
【第八話 了】




