# 第七話 ストーリー
## 一
「じゃあ、ちゃっちゃと、描いてよ」
鈴愛は、ソファの上で、肩を、薫の方に倒した。
薫は、ぴたりと背中を引いた。彼の襟元のボタンは、いつものように、首までかっちり、留まっていた。
俺は、軽く、笑った。
そして、鈴愛に向かって、人差し指を立てた。
「鈴愛——」と俺は言った。
「今お前が、そのテンションで話してるってことは——」
俺は、にやり、と口を歪めた。
「金欠ってことか?」
鈴愛は、苦笑いをして、片手を、ぱっと挙げた。
「うん! まじで金欠!」
「推しのイベントが、連続しててさ——」
「カード、止まりそうなんだよね〜」
彼女が「推し」と呼ぶのは、地下アイドルの、推し名を呟くだけで仕事が止まる種類の若い男たちだ。月に十二、三回の現場、遠征、特典会の物販、課金チェキ。鈴愛がパレットの前で目を死なせている時間と、ほぼ同等の時間を、彼女はライブハウスの一階フロアで過ごしていた。
絵描きとしての彼女と、現場のリピーターとしての彼女のあいだに、論理的な接続は、ない。
接続がないまま、彼女は両方を、生き延びていた。
「任せとけ」と俺は言った。
俺は、薫に、目を向けた。
「お前の名前使用料は、たっぷり、払うからな」
「よろしくね☆牧人っち」
鈴愛が、にこっと、笑った。
「ちょっと待てよ」
薫が、割って、入った。
俺と、鈴愛は、同時に、彼を見た。
「ちゃちゃっと、って——」と薫は言った。
「俺に、何を、描かせようとしてるんだ」
ああ、と俺は思った。
いい質問だ。
いま、ようやく、この男が、商売の入口に、片足を、踏み入れた。
「実際に、見た方が、早いな」
俺は、立ち上がった。
「こっちに、来い」
---
## 二
俺は、薫を、表のギャラリー空間まで、連れていった。
扉を一枚、抜けるだけで、空気の温度が、変わった。
事務スペースの、フローリングの軋む音と、コピー機のかすかな唸りが、消えた。
代わりに、白い、無音の、磁器のような空間が、広がっていた。
展示中の絵が、十数点、間接照明の下に、磁石で吊られたように、静かに、並んでいた。
ギャラリーの、いちばん奥の壁に——一枚の、大きな絵が、掛かっていた。
縦が二メートル、横が一メートル五十。サイズだけでも、充分な威圧があった。
画面の中心には、若い女の、横顔が、淡い色面で描かれていた。
その横顔の周囲を、幾何学的な、しかしどこか柔らかい、雲のようなものが、取り巻いていた。雲は、青と、紫と、淡いピンクのグラデーションで構成されていて、画面のあちこちに、きれいに整列した、論理回路めいた線が、走っていた。
絵の下には、小さなキャプションがあった。
——『ワンダリング・セルフ』
——小日向鈴愛
鈴愛は、絵から、五メートルほど離れた壁ぎわに、立っていた。
彼女自身は、自分の絵を、じっとは、見ていなかった。
むしろ、絵を背にして、ぼうっと、店の入口の方を、眺めていた。
「これが、鈴愛の絵だ」
俺は、薫に、紹介した。
薫は、絵の前に、立った。
彼の身体は、すぐに、絵を、見る姿勢に、切り替わった。
深夜の繁華街で、人混みを、スケッチしていた、あの背筋の角度。
膝を、わずかに曲げ、首を、半歩引いて、目線の角度を、二段階、変える。
絵の前で、彼の身体が「観察」のモードに入る瞬間は、いつ見ても、見ていて気持ちが、よかった。
「小日向鈴愛作——」
俺は、淀みなく、口上を、暗誦した。
「『ワンダリング・セルフ』」
「AIと人間の共存、そしてその中で、揺れ動く自己の存在を、テーマにした作品だ」
薫は、聞いていた。
「中心に描かれた、女の横顔は——」と俺は続けた。
「自己認識と、感情の象徴」
俺は、画面の周囲の、雲のような形状を、指で示した。
「その周囲を取り囲む、幾何学的な形状と、柔らかな雲は——」
「AIの、冷徹な論理性と——その流動的で、無限の知識を、表してる」
薫は、しばらく、絵に、見入っていた。
彼の目が、ある一点で、止まった。
そして、また、別の一点に、移った。
そして、もう一度、最初の一点に、戻った。
彼は、絵に、魅入られていた。
俺は、心のなかで、軽く、息を、吐いた。
よかった。
この絵が、薫の目に、効いている。
薫の目は、いままで、業界の絵を、ほぼ「いびつ」と切り捨ててきた。
その目に、この絵は——「いびつではない」と、判定された。
ひとつ目の、関門は、突破した。
「お前に書いてもらいたいのは——」
俺は、薫を振り返った。
「まずは、こういう、絵だ」
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## 三
「……そんな、二十歳そこそこの女の子の絵が——売れてるってのか?」
薫は、絵から、目を離さずに、訊いた。
「この大きさなら——値段は三百万って、ところか」
「三百万⁉」
薫の目が、初めて、鈴愛の方を、見た。
壁ぎわの鈴愛は、相変わらず、店の入口の方を、ぼんやり眺めていた。
頬には、まだ、緑の絵の具が、ほんのわずか、ついていた。
「もちろん——」と俺は言った。
「仮に、全く同じ絵を、お前が描いても」
「値段は、せいぜい、五万円って、ところだ」
「そ、そうか」
薫の声は、わずかに、低くなった。
「五万でも、嬉しいけど」
俺は、絵の方に、向き直った。
「絵は、大きさでも値段が、変わるからな」と俺は言った。
「五万は、絵の具やキャンバス等の——原価だと思って、構わない」
「だが、鈴愛の名は、そこに——」
俺は、もう一度、鈴愛を、見た。
「六十倍の付加価値を、つける」
鈴愛は、ぱっと、こちらを見て、ぱっと、目を逸らした。
恥じらっているのか、面倒なのか、判然としなかった。
たぶん、両方だった。
「なぜなら、鈴愛は——」
俺は、にやり、と笑った。
「あの、小日向文雄の、娘だからな」
薫の眉が、わずかに、寄った。
「小日向、文雄……」
彼は、口のなかで、その名前を、転がした。
「聞いたことあるような……」
「二〇〇〇年代、現代アートの、大家だよ」
俺は、両手を、ひろげた。
「でっかい、足が生えたトマトの絵とか、知らねえか?」
「カレーのCMとかにも、使われてたぜ」
薫の目が、少し、開いた。
「ああ——なんか、知ってるかも」
「だろ?」
小日向文雄。
日本の現代アートの、ある世代の、文字通りのアイコン。
平成の半ばに、新宿のビルの広告に、彼の足生えトマトが大きく刷られていた時期があって、俺の祖父は、その広告を見上げるたびに、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
祖父は、戦後すぐの日本画家を売り抜いた古い美術商で、俺の祖父にとって、小日向文雄のような戯画的な現代アートは、「絵じゃあない」というのが本音だった。
祖父が亡くなって、俺はその「絵じゃあないもの」で、店を、生き延びさせている。
悪いな、じいちゃん——と、俺は心のなかで、毎月、思っている。
薫は、絵を、見つめた。
それから、鈴愛を、見つめた。
「でも——」と薫は言った。
「有名な人の、娘ってだけで、高いのか?」
俺は、首を、振った。
「そうじゃ、ねえ」
「要は、鈴愛が——」
俺は、彼女のところまで、歩いていった。
彼女の隣に、立った。
彼女は、俺の方を、ちらりと見た。
「それだけのストーリーを、持ってるって、事なんだよ!」
「ストーリー——」
薫は、その単語を、口のなかで、ゆっくり、転がした。
「稀代のアーティスト、小日向文雄の——一粒種」
俺は、続けた。
「父の持っている、あらゆる技術を、習熟し」
「ジュニアアート会の、様々な賞を——総なめした、天才少女」
薫の頭のなかで、何かが、組み立てられているのが、見えた。
彼の目は、絵そのものを、もう見ていなかった。
絵の「向こう側」を、見ていた。
「さらに、画壇にデビュー後は——」と俺は言った。
「独自の世界観を、発揮し」
「AIと人間の調和をテーマにした作品は——父の作品をも越えようとする、野望を、隠さない」
俺は、鈴愛の肩に、軽く、手を、置いた。
薫の目が、絵から、彼女の肩のうえの俺の手に、移動した。
「そのストーリーこそ——」
俺は、ゆっくり、言った。
「鈴愛の、価値だ」
---
## 四
俺の手を、鈴愛は、ぱしっ、と払った。
「どーでもいいけどさ」
彼女は、急に、現実に戻った顔で、言った。
「なんか、飯食わせてくれない」
俺と、薫は、同時に、彼女を、見た。
「あんなさ、ストーリーだのなんだの、聞いてるだけで——」
彼女は、自分の、お腹を、軽く叩いた。
「お腹空くんだよね」
「……分かった」
俺は、ため息をついた。
ギャラリーから、徒歩二分の——ファミリーレストランに、俺たちは、移動した。
業界の人間とは、絶対に来ない店だった。来てはいけない店だった。だが、いまは、それでよかった。
白い空間のあとに、明るい蛍光灯と、スプーンの音と、ベル付きの呼び出しボタンの世界に出ると、頭が、すこし、軽くなる。
鈴愛は、メニューの隅から隅までを、五分かけて、走査した。
そして、オムライスと、ビーフカレーと、エビフライ盛り合わせと、和風キノコパスタを、注文した。
俺は、止めなかった。
鈴愛の食欲は、絵の話をした直後の方が、大きい。
絵を売るたびに、彼女は、ファミレスに、消えていた。
「あ、あんた、良いのかよ?」
オムライスを、半分くらい、すでに食べ終えている鈴愛に向かって、薫は、訊いた。
「何が⁉」
彼女の口元は、ケチャップで、汚れていた。
でも、目だけは、まっすぐ、薫を見ていた。
薫の様子が、いつもと、違っていた。
彼は、自分の取り皿を、半分、押しのけて、テーブルの上に肘をついていた。
「今のさ——」
薫は、言葉を、選んでいた。
「『すとーりー』ってヤツは——」
「あんたの、努力の証、だろ」
俺の口の中で、味噌汁の塩気が、一瞬、薄くなった。
薫の声には、何も持っていない人間が、何かを持っている人間を、責めるのではなく、心配する、ときの声があった。
「そんな感じで、俺なんかに——名前使われちゃったら」
「それが、台無しに、なるんじゃ、ないのか?」
鈴愛は、エビフライを、頬張りながら——薫を見た。
「おにーさん、お名前は?」
薫は、わずかに、戸惑った。
「宍戸……薫」
「へー」
彼女は、和風キノコパスタを、フォークで、くるくると、巻きはじめた。
「可愛い名前」
「顔も、可愛いしね」
薫の頬が、わずかに、強張った。
可愛い、という単語に、慣れていない男の顔だった。
「じゃあ、可愛い、薫ちゃんに——」
彼女は、フォークを、軽く、持ち上げた。
「教えてあげる」
「私ね……」
彼女は、にこ、と笑った。
「絵かくの、大っ嫌いなんだよね」
ぱしっ、と——薫の、フォークが、止まった。
次の瞬間、鈴愛は、フォークの先を、薫の鼻先に、突きつけた。
パスタは、フォークから、ほんの少し、ぶら下がっていた。
「あの絵だってねえ」
彼女は、薫を、見ていた。
「私は——」
「お父さんの、言いなりで、描かされた、だけだから」
彼女の声には、嘲りも、自虐も、なかった。
ただ、いま、目の前の卵焼きが甘いか辛いかを、報告するのと、同じ調子で、彼女は、それを言った。
薫は、ぴたり、と、止まった。
「嫌いなのに——」
彼女は、ハンバーグを、ナイフで、切り始めた。
「でけーし、色数多いし——描くの、まじで、地獄だった」
俺は——口を、開いた。
ここで、俺の出番だった。
「ストーリーは、あくまで——ストーリー」
俺は、ゆっくり、言った。
「真実とは、違う」
薫の目が、こちらを、見た。
「今の、俺や、鈴愛にとって——」
俺は、にやり、と笑った。
悪い顔だった。
「アートってのは——」
俺は、テーブルの上の、ジョッキの水滴を、指で、なぞった。
「金を稼ぐための、手段に、すぎねえ」
薫は、しばらく、何も、言わなかった。
彼は、ファミレスのテーブルのうえに、置いた両手を、握ったり、開いたりしていた。
握ったり、開いたりしながら、何かを、考えていた。
考えながら、彼は——ゆっくり、頷いた。
頷いた、わけじゃない、と思う。
ただ、彼の頭のなかで何かが修正されていた。
絵には、価値がある。
その価値は、絵そのものに、ある。
——というのが、彼の最初の理解だった。
その理解は、第三話の俺のギャラリーで、一度、修正された。
絵には、価値がある。
ただし、その価値は、絵そのものではなく——絵に、誰がどう値段をつけるかで、決まる。
——というのが、修正された、二つ目の理解だった。
いま、ファミレスの蛍光灯の下で、その二つ目の理解も、もう一度、修正された。
絵には、価値がある。
ただし、その価値は、絵に、つけられる、ストーリーで、決まる。
ストーリーは、真実では、ない。
真実では、ないから——絵そのものも、真実である必要は、ない。
鈴愛は、もう、エビフライを、二本目に、手をかけていた。
オムライスは、彼女の前で、すでに、皿の半分が、空いていた。
【第七話 了】




