# 第六話 ゴースト
## 一
日本橋の路地裏。
KAGAYA Galleryの裏手にある、小さな事務スペース。
展示空間が「白い舞台」だとすれば、ここはその「楽屋」だった。
ふたつのデスク、書類棚、コピー機、簡易のキッチン。窓は北向きの小さな一枚で、入る光は控えめだ。展示空間と違って、床はただのフローリングで、靴のかかとが、こつこつ、と鳴る。
俺はそのうちのひとつのデスクに座って、ノートパソコンの画面を、じっと見ていた。
薫は、俺の斜め向かいの、ソファにいた。
彼は、なぜか、いつもより、姿勢がよかった。
膝の上に両手を置いて、俺の言葉を待っていた。
昨日の屋上から、まだ、丸一日も経っていない。
それでも、彼の目つきは、深夜の繁華街で、ガードレールに座って絵を描いていた頃とは、別の目つきになっていた。
「ネット——ライブオークション?」
薫は、俺が告げた単語を、口のなかで、転がした。
俺は、画面に、ある業者のライブオークション中継のスクリーンショットを、表示させた。
黒地のベース、白い文字、画面の真ん中には、いまリアルタイムに上昇中の入札価格がカウントアップされている。横には、その日の出品作家のサムネイルが、ずらりと並んでいた。
「ネットオークションに、ライブ性を持たせた——」
俺は、画面を、指で叩いた。
「今、最も値段が、上がりやすい場所だ」
俺は、にやりと笑った。
「それに、ネットだけだから——」
「色々、細工が、効くだろう?」
「細工?」
薫の眉が、わずかに、寄った。
「なんか、悪い顔してんな、てめえ」
俺は、否定しなかった。
悪い顔をしているのは、自覚していた。
「……まあ、時が来たら、教えるよ」
薫は、訝しんでいたが、深く突っ込んでは、こなかった。
いまの彼には、もっと、目の前の問題があった。
「それよりも、お前には、絵が描いてもらわなきゃ、ならねえ」
「そ、そうだ」
薫の背筋が、わずかに、伸びた。
「俺は——一体、どんな絵を、描けばいいんだ」
「まあ、実際に——」
俺は、別のタブを、開いた。
「オンラインカタログを、見た方が、早い」
「ほら、これが、今のトレンドだ」
画面のなかに、サムネイル画像が、ずらり、と現れた。
漫画調のキャラクター。
ポップな色使いの、二次元的なイラスト。
日本のアニメに似たタッチで、しかし、絵画として額装された、無数の作品。
値段の単位は、ほとんどが「百万」「千万」の桁だった。
薫は、画面に、顔を近づけた。
近づけて、しばらく、無言だった。
「……漫画みたいな絵が、多いな」
驚いた声だった。
「ああ」と俺は言った。
「村上隆以降、アニメや漫画をモチーフにした、日本の現代アートは、人気がある」
薫は、画面を、スクロールしていた。
スクロールしながら、ふと、ある作品の前で、止まった。
「って——」
彼の声に、わずかな、棘が、混じった。
「こんな絵が、入札価格、二十万からだと?」
「開始価格だからな」と俺は言った。
「もっと高値で、落札されることも、あるぞ」
彼の眉が、ぐっ、と寄った。
「信じられねえ!」
彼は、画面を指でつついた。
「こんなんだったら、いくらでも、描けるだろ」
俺は、答えなかった。
答える前に、彼は、続けた。
「それに、俺より、普通に漫画家に、描かせた方が、よくねえか?」
俺の眉が、わずかに、上がった。
「なぜ?」
「こんなんより、絵が上手い漫画家が、日本には、溢れてるじゃねえか」
薫は、声を、低くした。
「でも、そいつらの原稿料って——」
「一万から、精々三万って、聞いたぞ」
俺は、思わず、ふっ、と笑った。
「詳しいな」
俺は、彼の方を、見た。
「漫画家でも、目指してたのか?」
薫の表情が、ぴたり、と止まった。
止まり方には、覚えがあった。
深夜の繁華街で、最初に俺と目が合ったときの、止まり方だった。
他人に踏み込まれたくない領域に、踏み込まれたときの、人間の止まり方。
彼は、ぷいと、横を向いた。
「……昔な」
短い、二文字だった。
俺は、頭のなかで、いくつかの可能性を、瞬時に、走らせた。
彼の絵の上手さ、作画のスピード、独学であること、業界外であること、繁華街で深夜にスケッチしている孤独——その全部に、一本の線が、通る気がした。
彼は、漫画家を目指していた。
たぶん、目指して、何かが、上手くいかなかった。
その上手くいかなさが、彼を、夜の繁華街に、押し出した。
話したくない。
話したくないだろう。
なんだ? 話したくないのか?
俺は、心のなかで、そう呟いてから——口には、出さなかった。
代わりに、別の話を、機嫌取りのように、始めた。
「漫画家は、エンターテイナーだ」
俺は、声を、ふだんの調子に、戻した。
「現代アーティストとは、明確に区別されているのが、現状だ」
「それに、ジャパニーズポップの現代アートは、増えすぎて、新規参入は、かなり厳しい」
「だから——」
俺は、画面を、別のタブに、切り替えた。
「お前に書いてもらいたいのは、これじゃねえ」
「?」
薫は、横顔を、こちらに、戻した。
画面には、別の作品群が、表示されていた。
「もう一つの——」
俺は、画面を、指で叩いた。
「現代アートのトレンド」
「——抽象画だ」
薫は、振り向いた。
「抽象画……?」
---
## 二
画面には、いくつかの抽象画が、並んでいた。
強い色面、激しい筆致、ペンキを、画面に、ぶちまけたような、構図。
代表作のひとつとして、俺は、ある若手作家の絵を、拡大した。
「例えば——ジャデ・ファドジュティミの作品みたいな、やつだ」
俺は、その絵を、薫に、見せた。
「色と形で、感情を、ぶちまける——そんな感じの、作品だな」
薫は、画面を、じっと、見ていた。
見ていた目は、最初、訝しんでいた。
訝しんで、それから、半信半疑になり、それから、少し、苛立ち、そして——軽く、首を、振った。
「これとか——」
薫は、ぼそりと、言った。
「ただ、絵の具を、ぶちまけただけじゃ、ねえか?」
「いや」
俺は、首を、振った。
「ぶちまけているのは——感情だ」
俺は、画面を、もう一度、叩いた。
「現代アートは、画力じゃなく——感情の表現が、大事なんだよ」
薫は、しばらく、黙っていた。
黙ったまま、彼は、ソファから立ち上がって、俺の隣の、椅子に、腰を下ろした。
頭を、両手で、かきむしりながら、考え込んでいた。
何かを、考え込んでいる。
考え込んでいるが、その「何か」が、彼自身にも、まだ、形になっていない、という顔だった。
「どうした?」
俺は、訊いた。
薫は、しばらく、答えなかった。
それから、ぽつり、と言った。
「……お前、俺の画力を、評価して、誘ってくれたんだよな?」
「そりゃ、そうだ」
「でも——」
薫は、画面を、指した。
「今、狙ってるのは、こんな抽象画、だろ?」
「俺の画力——必要ないんじゃ、ねえか?」
俺の喉の奥で、ふっ、と、何かが、つかえた。
彼の質問は、まっとうな質問だった。
まっとうすぎて、嘘では返せない種類の質問だった。
俺は、少し、考えてから、答えた。
「そんなことは、ねえよ」
俺は、ゆっくり、続けた。
「画力は、ツールだ」
「画力があるか、ないかで、表現できる幅は、大きく、変わるんだ」
「実際、多くの有名な抽象画家は——」
俺は、薫の方を、見た。
「まず、写実的な技術を、完璧に、身につけた上で——そのスキルを、抽象的な表現に、発展させていってる」
薫の目は、まだ、納得していなかった。
納得していないが、聞いていた。
「現代アートの、アーティストだって——」
俺は、自信のある声で、言った。
その自信は、半分は本物で、半分は薫を支えるための、演出だった。
演出だが、嘘じゃ、なかった。
「高い画力が、必要だ」
「それが、俺の信念なんだよ」
薫は、しばらく、黙っていた。
それから、ぽつり、と訊いた。
「俺に——そんな作品が、作れるのか?」
「できるさ」
俺は、即答した。
「お前なら、できる」
薫は、まだ、不安そうだった。
「俺の絵が——売れるのか?」
「いや」
俺は、ためらわずに、答えた。
「売れないね」
薫の口から、空気が、漏れた。
「はっ……?」
「今のままじゃ、どんなに素晴らしい絵を描こうが——」
俺は、彼の目を、見た。
「無名の新人の作品は、売れない」
---
## 三
薫の手が、ノートパソコンの蓋を、上から、ぱたん、と、閉じた。
室内に、奇妙な、沈黙が、降りた。
彼は、ノートパソコンを、両手で、持ち上げた。
ゆっくりと、こちらに、向き直った。
目は、燃えていた。
「よーするに——」
彼の声は、低かった。
「お前は、俺を、おちょくってる、ってことか?」
「待て待て待て待て」
俺は、両手を、上げた。
俺のノートパソコンを、いま、振り上げられたら、修理代だけで、たぶん、毎月の返済の半分が、消える。
「言っただろ?」
俺は、続けた。
「必勝の、策があるって」
薫の手が、ノートパソコンを、止めた。
「まずは——」
俺は、にやりと、笑った。
「お前には」
「うちの、アーティストの、ゴーストを、やってもらう」
「ゴースト?」
薫は、ノートパソコンを、ゆっくりと、机に、戻した。
ちょうど、そのときだった。
ドアの外の、廊下で——足音が、聞こえた。
ヒールの音だった。
軽快で、規則的で、間隔の短い——明らかに、急いでいる、女の足音。
コッ、コッ、コッ、コッ。
その足音は、まっすぐに、こちらに、向かってきていた。
「お、丁度——来るところか?」
俺は、呟いた。
「?」
薫は、首を、傾げた。
次の瞬間、ドアが、勢いよく、開いた。
風圧で、書類棚の上の伝票が、わずかに、めくれた。
「おっひさし〜!」
飛び込んできたのは、二十二、三歳の女だった。
肩までの、明るく染めた髪を、真ん中分けにして、薄手のオーバーサイズのスウェットのうえに、油絵の絵の具がべったりついた、エプロンを掛けていた。エプロンの胸元には、こう書かれていた。
——KASHIMI KOHINATA
頬には、緑の絵の具が、ほんのちょっと、ついていた。
彼女は、それを、拭いていなかった。
「牧人っち、元気してた?」
彼女は、にこにこ、笑っていた。
薫が、目を、見開いた。
俺は、ドヤ顔を、した。
「まあな」
「な、なんだ⁉」
薫の声は、上ずっていた。
「誰だよ……」
俺は、椅子から、立ち上がった。
立ち上がって、彼女のほうに、軽く、手を、向けた。
「紹介する」
俺は、薫を、振り返った。
「こいつが——今日から、お前の"名前"になる、芸術家だ」
「??」
薫の眉は、寄ったまま、固まった。
「小日向鈴愛」
俺は、彼女を、薫に、紹介した。
「よろしくね☆」
鈴愛は、星の数だけテンションが上がった調子で、薫に、片手を、振った。
彼女は、勢いよく、薫の隣のソファに、ぼすん、と腰を下ろした。
薫の身体が、わずかに、跳ねた。
彼の襟元のボタンは、いつもどおり、首までかっちり、留まっていた。
「牧人っちが選んだってことは、相当描けるんでしょ?」
鈴愛は、薫の顔を、覗き込んだ。
彼女と、薫の顔の距離は、二十センチも、なかった。
「師匠とか、いるの? それとも、独学?」
薫は、答えなかった。
答える前に、俺が、横から、答えた。
「独学だよ」
俺は、笑った。
「こいつの絵を見たら——きっと、腰を抜かすぜ」
「へぇ〜!」
鈴愛の目が、輝いた。
「それなら、ちゃっちゃと、描いてみせてよ」
「どんな感じなのか、すごく、楽しみだわ!」
「……いや、まあ……その……」
薫は、明らかに、怯んでいた。
「ほらほら」
鈴愛は、彼の肩を、ぽんぽん、と叩いた。
「恥ずかしがってちゃ、アーティスト失格だよ!」
「ま、最初は誰でも、緊張するけどね〜」
薫は、彼女の勢いに、完全に、押されていた。
深夜の繁華街で、警官二人を相手に、不機嫌そのものを保っていた、あの男が——いま、ソファの上で、眼鏡をかけたモンゴロイドの大型動物を見るような顔で、鈴愛を、見つめていた。
俺は、それを見ながら、心のなかで、笑っていた。
いいぞ、と思った。
商売は、ここから、始まる。
【第六話 了】




