#第五話 返済プラン
## 一
「だから、薫を俺に——預けてください!」
屋上のコンクリートに、俺の額がついた。
三月の冷えたコンクリートは、額の皮膚を、一瞬で奪っていく種類の冷たさだった。
頭を下げた状態のまま、俺は、目だけを、薄く開けた。
そこからは、前田の革靴の、爪先しか、見えなかった。
「……」
前田は、答えなかった。
答えない時間が、長かった。
時間にして、たぶん、三秒。だが、その三秒が、俺の人生のなかで、いままでで、いちばん長い三秒だった。
俺の左の乳首には、まだ、釣り針が刺さっていた。痛みは、もう、感覚として処理されていなかった。痛みではなく、ただ「そういう状態」になっていた。
屋上の風が、強くなった。
遠くで、首都高の音が、低く、唸っていた。
ゆっくりと、前田が、口を開いた。
「……ダメだ!」
「!」
薫の顔が、跳ねた。
俺の頭頂部に、その視線が、突き刺さるのを、感じた。
「薫は、一生、俺の元で働いてもらう」
「!」
俺は、頭を、上げた。
いや、上げかけて、半分のところで止めた。
動かす権利を、まだ、与えられていなかった。
「なんで——」
ぽつり、と、薫の声が、漏れた。
「なんで、俺なんですか」
その声には、いままで聞いたことのない、薫の——子供の頃から繰り返してきたかもしれない問いの、響きがあった。
前田は、肩を、すくめた。
「お前みたいに、安く使えるバイトを、手放すのは——」
「もったいねえ、だろ?」
彼は、軽い口調で、そう言った。
しかし——薫は、その軽さを、信じなかった。
「……前から思って、たんですけど」
薫の声は、低かった。
「それ——嘘ですよね?」
「!」
前田の眉が、わずかに、動いた。
俺も、頭を上げる手前で、止まった。
俺の目の前で、いま、何かが、起きようとしていた。
「出してもらった保釈金、罰金、和解金、借金の肩代わり……」
薫は、ひとつずつ、数えていった。
「社長——大赤字、ですよね?」
屋上に、沈黙が降りた。
風だけが、ぐるりと、屋上を、一周した。
俺は、そこで、ようやく、頭を上げた。
上げて、薫の横顔を、見た。
彼の横顔は、覚悟の決まった人間の横顔だった。
ああ、と俺は思った。
こいつ、自分がどれだけ、社長にとって「割に合わない」存在か、ずっと前から、知っていたんだ。
知っていて、毎日、あの机のうえを、定規で測ったように整頓していたんだ。
知っていて、襟元のボタンを、首まできっちり留めていたんだ。
知っていて、深夜のサビ残を、続けていたんだ。
あれは、奴隷の従順さではなかった。
返せない借りを、返せないまま、せめて勤勉に働くことで、収支のバランスを取ろうとしていた、男の——意地だった。
前田の表情が、わずかに、ゆらいだ。
「……お前が、金のことを、気にする必要は、ねえ」
彼は、声を、低くした。
「とにかく俺の、そばにいれば、いいんだ」
——そばに、いれば。
俺の頭のなかで、何かが、軋んだ。
なんだ、こいつら。
どういう、関係だ。
半グレの親玉と、その会社のアルバイト。社長と従業員。雇用と被雇用。
その関係性の枠のなかには、収まらない、なにかが——いま、屋上の風のうえに、立っていた。
「……社長」
薫は、言った。
声には、もう、迷いがなかった。
「俺、会社辞めます……‼」
「なんだと?」
前田の口調が、変わった。
「おいおいおい‼」
彼は、薫に、詰め寄った。
「お前、ちゃんと話聞いてたか⁉」
彼の手が、薫のシャツの胸ぐらを、ぐっ、と掴んだ。
「お前は絶対に、手放さねえって——」
「言ったよなぁ⁉」
---
## 二
「そもそもお前に——」
前田の声は、いままでで、いちばん、本気だった。
「会社を辞める権利なんぞ、あるわきゃねえだろ!」
「いままで、いくらお前に、使ってきたと、思ってる⁉」
薫の足の裏が、屋上の床から、わずかに、浮いていた。
俺は——立ち上がった。
「……金のことは、今、気にしなくていい、っていいましたよね」
俺の声は、自分でも驚くほど、平静だった。
頭は、冷えていた。
商売の頭が、戻ってきていた。
前田の首が、ぎりっ、と、こちらに、回った。
「うるせえぞ、黙ってろ‼」
「!」
彼の声は、いままでで、いちばん、低かった。
「俺と薫の間に、割り込むんじゃねえ‼」
俺は——一歩、後ろに、下がった。
下がってしまった。
下がった自分を、頭のなかで、もう一度、叱った。
ここで下がるな、加賀谷牧人。
ここで下がったら、お前は、また、口先だけの男に戻るぞ。
前田は、俺を一秒だけ睨んでから、薫の方に、向き直った。
「恩も返さねえで、俺のそばから、消える⁉」
彼の声は、震えていた。
怒りで、ではなかった。
もっと、別の、湿った震え方だった。
「そんなことを、俺が、許すと思ってんのか⁉」
薫は、締め上げられて、苦しげに、息を吐いていた。
吐きながら、それでも、声を、絞り出した。
「恩は……金で返します……‼」
「……何?」
前田の手が、止まった。
薫の目は、燃えていた。
俺は、それを、初めて見た。
「そいつと一緒に……」
薫は、俺を、ちらりと見た。
「何倍にもして……‼」
前田の喉の奥で、低い音が、鳴った。
それは、笑いの寸前の音か、舌打ちの寸前の音か、判別できなかった。
ちっ。
舌打ちだった。
前田は、薫を、ぽいと、投げ捨てた。
薫が、コンクリートの床に、肩から、落ちた。
屋上に、軽い音が、跳ねた。
「牧人……」
前田は、こちらを向いた。
「お前のせいで——」
彼の口元が、ゆがんでいた。
歪み方は、怒りでも、嘲りでもなかった。
いままで、俺が見たことのない、種類の歪み方だった。
「薫が、反抗的に、なっちまったよ」
彼は、ふっ、と、息を、吐いた。
「飼い犬に手を、噛まれた気分だ」
俺は、答えなかった。
答えるべき、台詞ではなかった。
その代わりに、薫が、ゆっくりと、立ち上がった。
肩を払って、膝を払って、それから、深く、頭を下げた。
「無礼な、言い方で、すみません……」
彼は、頭を上げて、続けた。
「でも、俺——そいつと、やってみたくて……」
前田が、低く、訊いた。
「……こいつの、何が、気に入った?」
薫は、しばらく、俺の方を、見ていた。
見ていた目に、迷いはなかった。
懇願するような、声で、彼は言った。
「……俺を……」
ひとつ、間。
「見つけてくれたんです」
俺の——胸のうえで。
なにかが、わずかに、軋んだ。
軋んだのは、左の乳首の、釣り針の刺さった皮膚ではなかった。
もう少し、深いところだった。
俺は、いままで、自分が、誰かを「見つけた」と思っていた。
深夜の繁華街で、ガードレールに座って絵を描いている男を、俺は「発見した」と。
商売人の発見だった。値段がついていない鉱脈を、掘り当てた、と。
それが——薫の方からは、「見つけてもらった」と、言われていた。
そういう、ことだったのか。
俺は、自分が「見つけた」と思っていたが、薫は、自分が「見つけられた」と思っていた。
同じ出来事を、二人は、別の方向から、別の言葉で、覚えていた。
商売の言葉と、別の言葉が——いま、屋上の上で、はじめて、すれ違った。
---
## 三
「……お前を、見つけた?」
前田は、ゆっくりと、繰り返した。
その口調は、いままでで、いちばん、静かだった。
「俺……」薫は、続けた。
「いつも、人混みの中で、スケッチしてて……」
「話しかける奴なんて、警官くらいしか、いなくて……」
彼の声は、初めて、薫が、自分のことを、自分の言葉で、話していた。
「でも、昨日は——初めて、それ以外のやつが……」
「そいつが話しかけてきて……」
彼は、俺の方を、もう一度、見た。
「俺の絵を、見てくれて……」
「俺の才能を、見てくれて……‼」
屋上に、また、風が、吹いた。
前田は、しばらく、薫を、じっと、見ていた。
それから、俺の方を、見た。
「……言っとくが、こいつは、正真正銘の、クズだぞ」
「……わかってます」
薫は、頷いた。
「でも、そいつの言葉には——"夢"が、ある」
俺の左の乳首の釣り針が、もう一度、ぴり、と痛んだ。
今度の痛みは、なんだか、違う質の痛みだった。
「なら、俺——騙されてみたい……‼」
前田が、深々と、ため息をついた。
彼の肩が、わずかに、落ちた。
「……俺の可愛い薫が」と前田は言った。
「タチの悪い詐欺師に、引っ掛かっちまった……」
「騙すつもりなんか、ないっすよ」
俺は、口を、挟んだ。
前田は、俺を、上目遣いに、見た。
「……そうかい」
彼は、薄く、笑った。
「ならまずは、借金を、返してもらおうか」
俺は、頷いた。
「二人合わせて、きっちり——一億」
前田は、指を、二本、立てた。
「毎月、千万の、十回払いで、どうだ?」
俺の隣で、薫が、息を、呑んだ。
「億……⁉」
彼の声には、純粋な驚愕があった。
数字の単位そのものに、驚いていた。
俺は、薫の表情を、横目で見ながら、頭のなかで、すばやく、計算していた。
毎月一千万。
半分はオークションでの上振れ、残り半分は、現金回収の早い既存客。
一千万——回せる、額だ。
回せる、はずだ。
「どうした? うちじゃ、これでも——随分、優しい方の返済プランだぜ?」
前田は、にやりと笑った。
「分かってます」と俺は言った。
「他の条件は?」
「……別に?」
前田は、肩をすくめた。
「ただ、守れねえ時は——次こそ、死んでもらう」
彼は、満面の、笑みを浮かべた。
「それだけだ」
---
## 四
ビルから、出てきたとき、外は、昼だった。
屋上で受けた風と違って、地上の風には、町の匂いが混じっていた。
ラーメン屋の出汁。コンビニの袋のナイロン。タクシーの排気。
俺は、そのなかで、ゆっくりと、息を吸った。
自分が、生きていることを、いまさら、確認した。
「いやぁ〜」
俺は、自分の左の乳首を、シャツの上から、軽く撫でた。
まだ、ぴり、と、痛んだ。
「マジで殺されるかと、思ったぜ」
薫は、俺の半歩うしろを、歩いていた。
彼の表情には、まだ、屋上の名残が、残っていた。
「毎月一千万なんて、払えるのかよ」
「お前がいなきゃ、無理だな」と俺は言った。
「三ヶ月、持たねえ」
薫の足が、わずかに、止まった。
「俺は、何をすればいい」と彼は言った。
「どうすれば、稼げるんだよ?」
「ふむ」
俺は、空を、見上げた。
「さて、どうすっかな……」
俺は、考えるふりを、した。
考えるふりを、したわけじゃない。本当に、考えていた。
ただ、ふりとして、見えた。
「……?」
薫の声が、止まった。
「……?」
彼は、俺の顔を、覗き込んだ。
「いや!」と薫は言った。「ちょっと待てよ!」
「なんだよ、今の間」
「間?」
俺は、首を、ひねった。
「お前——」
薫の声に、わずかな、不安の影が、混じった。
「何かプラン、あるんだろ」
「言ってたじゃねえか、とっておきのアイデアがあるって」
ああ、と俺は思った。
あれか。
俺の頭のなかで、第三話の、深夜のギャラリーの一場面が、よみがえった。
契約書を、ばん、と叩きつけて、俺はあのとき、こう言ったのだった。
——じつはな、俺に、一攫千金、間違いなしのアイデアがあるんだ。
——お前の技術と、速度があれば、それが実現できる。
俺は、肩を、すくめた。
「あーーー、あれか」
「ああ、それだよ」
「あれは——」
俺は、にやりと、笑った。
「サインさせるための、ハッタリだ」
「は?」
薫は、目を、見開いた。
「まあ、まずは焼肉でも食いながら、色々考えようぜ?」
俺は、彼の肩を、ぽんと、叩いた。
「う、嘘だろ……」
薫の声には、いままで聞いたことのない種類の、純粋な、絶望が、混じっていた。
「お前——あんなに、自信たっぷりだったじゃねか……」
驚愕の顔だった。
屋上で、釣り糸を引かれていたときの俺の顔と、比べても、勝るとも劣らない、絶望の顔だった。
「大丈夫だよ」と俺は言った。
「お前の才能と、俺の頭脳——二つが合わされば、最強だからよ」
薫の頭のなかで、何かが、回想されているのが、見えた。
屋上で前田が言った、ひとつの台詞が、彼のなかで、再生されていた。
——薫、こいつに騙されるな。
——こいつは、口先だけで生きてる、詐欺師なんだからよ。
彼の目が、俺を、もう一度、見た。
その目は、いま、はじめて、本当に「騙されているかも」と思っている目だった。
俺は、笑った。
「なんてな」
「!」
「もちろん、プランはあるさ」
俺は、にやりと笑った。
「必勝のな」
【第五話 了】




