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アート&マネー  作者: Zoo
5/10

#第五話 返済プラン

## 一


「だから、薫を俺に——預けてください!」


 屋上のコンクリートに、俺の額がついた。

 三月の冷えたコンクリートは、額の皮膚を、一瞬で奪っていく種類の冷たさだった。

 頭を下げた状態のまま、俺は、目だけを、薄く開けた。

 そこからは、前田の革靴の、爪先しか、見えなかった。


「……」


 前田は、答えなかった。


 答えない時間が、長かった。

 時間にして、たぶん、三秒。だが、その三秒が、俺の人生のなかで、いままでで、いちばん長い三秒だった。

 俺の左の乳首には、まだ、釣り針が刺さっていた。痛みは、もう、感覚として処理されていなかった。痛みではなく、ただ「そういう状態」になっていた。

 屋上の風が、強くなった。

 遠くで、首都高の音が、低く、唸っていた。


 ゆっくりと、前田が、口を開いた。


「……ダメだ!」


「!」


 薫の顔が、跳ねた。

 俺の頭頂部に、その視線が、突き刺さるのを、感じた。


「薫は、一生、俺の元で働いてもらう」


「!」


 俺は、頭を、上げた。

 いや、上げかけて、半分のところで止めた。

 動かす権利を、まだ、与えられていなかった。


「なんで——」


 ぽつり、と、薫の声が、漏れた。


「なんで、俺なんですか」


 その声には、いままで聞いたことのない、薫の——子供の頃から繰り返してきたかもしれない問いの、響きがあった。


 前田は、肩を、すくめた。


「お前みたいに、安く使えるバイトを、手放すのは——」

「もったいねえ、だろ?」


 彼は、軽い口調で、そう言った。


 しかし——薫は、その軽さを、信じなかった。


「……前から思って、たんですけど」


 薫の声は、低かった。


「それ——嘘ですよね?」


「!」


 前田の眉が、わずかに、動いた。


 俺も、頭を上げる手前で、止まった。

 俺の目の前で、いま、何かが、起きようとしていた。


「出してもらった保釈金、罰金、和解金、借金の肩代わり……」


 薫は、ひとつずつ、数えていった。


「社長——大赤字、ですよね?」


 屋上に、沈黙が降りた。

 風だけが、ぐるりと、屋上を、一周した。


 俺は、そこで、ようやく、頭を上げた。

 上げて、薫の横顔を、見た。

 彼の横顔は、覚悟の決まった人間の横顔だった。


 ああ、と俺は思った。

 こいつ、自分がどれだけ、社長にとって「割に合わない」存在か、ずっと前から、知っていたんだ。

 知っていて、毎日、あの机のうえを、定規で測ったように整頓していたんだ。

 知っていて、襟元のボタンを、首まできっちり留めていたんだ。

 知っていて、深夜のサビ残を、続けていたんだ。

 あれは、奴隷の従順さではなかった。

 返せない借りを、返せないまま、せめて勤勉に働くことで、収支のバランスを取ろうとしていた、男の——意地だった。


 前田の表情が、わずかに、ゆらいだ。


「……お前が、金のことを、気にする必要は、ねえ」


 彼は、声を、低くした。


「とにかく俺の、そばにいれば、いいんだ」


 ——そばに、いれば。


 俺の頭のなかで、何かが、軋んだ。

 なんだ、こいつら。

 どういう、関係だ。

 半グレの親玉と、その会社のアルバイト。社長と従業員。雇用と被雇用。

 その関係性の枠のなかには、収まらない、なにかが——いま、屋上の風のうえに、立っていた。


「……社長」


 薫は、言った。

 声には、もう、迷いがなかった。


「俺、会社辞めます……‼」


「なんだと?」


 前田の口調が、変わった。


「おいおいおい‼」


 彼は、薫に、詰め寄った。


「お前、ちゃんと話聞いてたか⁉」


 彼の手が、薫のシャツの胸ぐらを、ぐっ、と掴んだ。


「お前は絶対に、手放さねえって——」

「言ったよなぁ⁉」


---


## 二


「そもそもお前に——」


 前田の声は、いままでで、いちばん、本気だった。


「会社を辞める権利なんぞ、あるわきゃねえだろ!」

「いままで、いくらお前に、使ってきたと、思ってる⁉」


 薫の足の裏が、屋上の床から、わずかに、浮いていた。


 俺は——立ち上がった。


「……金のことは、今、気にしなくていい、っていいましたよね」


 俺の声は、自分でも驚くほど、平静だった。

 頭は、冷えていた。

 商売の頭が、戻ってきていた。


 前田の首が、ぎりっ、と、こちらに、回った。


「うるせえぞ、黙ってろ‼」


「!」


 彼の声は、いままでで、いちばん、低かった。


「俺と薫の間に、割り込むんじゃねえ‼」


 俺は——一歩、後ろに、下がった。

 下がってしまった。

 下がった自分を、頭のなかで、もう一度、叱った。

 ここで下がるな、加賀谷牧人。

 ここで下がったら、お前は、また、口先だけの男に戻るぞ。


 前田は、俺を一秒だけ睨んでから、薫の方に、向き直った。


「恩も返さねえで、俺のそばから、消える⁉」


 彼の声は、震えていた。

 怒りで、ではなかった。

 もっと、別の、湿った震え方だった。


「そんなことを、俺が、許すと思ってんのか⁉」


 薫は、締め上げられて、苦しげに、息を吐いていた。

 吐きながら、それでも、声を、絞り出した。


「恩は……金で返します……‼」


「……何?」


 前田の手が、止まった。


 薫の目は、燃えていた。

 俺は、それを、初めて見た。


「そいつと一緒に……」


 薫は、俺を、ちらりと見た。


「何倍にもして……‼」


 前田の喉の奥で、低い音が、鳴った。

 それは、笑いの寸前の音か、舌打ちの寸前の音か、判別できなかった。


 ちっ。


 舌打ちだった。


 前田は、薫を、ぽいと、投げ捨てた。


 薫が、コンクリートの床に、肩から、落ちた。

 屋上に、軽い音が、跳ねた。


「牧人……」


 前田は、こちらを向いた。


「お前のせいで——」


 彼の口元が、ゆがんでいた。

 歪み方は、怒りでも、嘲りでもなかった。

 いままで、俺が見たことのない、種類の歪み方だった。


「薫が、反抗的に、なっちまったよ」


 彼は、ふっ、と、息を、吐いた。


「飼い犬に手を、噛まれた気分だ」


 俺は、答えなかった。

 答えるべき、台詞ではなかった。


 その代わりに、薫が、ゆっくりと、立ち上がった。

 肩を払って、膝を払って、それから、深く、頭を下げた。


「無礼な、言い方で、すみません……」


 彼は、頭を上げて、続けた。


「でも、俺——そいつと、やってみたくて……」


 前田が、低く、訊いた。


「……こいつの、何が、気に入った?」


 薫は、しばらく、俺の方を、見ていた。

 見ていた目に、迷いはなかった。


 懇願するような、声で、彼は言った。


「……俺を……」


 ひとつ、間。


「見つけてくれたんです」


 俺の——胸のうえで。

 なにかが、わずかに、軋んだ。

 軋んだのは、左の乳首の、釣り針の刺さった皮膚ではなかった。

 もう少し、深いところだった。


 俺は、いままで、自分が、誰かを「見つけた」と思っていた。

 深夜の繁華街で、ガードレールに座って絵を描いている男を、俺は「発見した」と。

 商売人の発見だった。値段がついていない鉱脈を、掘り当てた、と。

 それが——薫の方からは、「見つけてもらった」と、言われていた。


 そういう、ことだったのか。

 俺は、自分が「見つけた」と思っていたが、薫は、自分が「見つけられた」と思っていた。

 同じ出来事を、二人は、別の方向から、別の言葉で、覚えていた。


 商売の言葉と、別の言葉が——いま、屋上の上で、はじめて、すれ違った。


---


## 三


「……お前を、見つけた?」


 前田は、ゆっくりと、繰り返した。

 その口調は、いままでで、いちばん、静かだった。


「俺……」薫は、続けた。

「いつも、人混みの中で、スケッチしてて……」

「話しかける奴なんて、警官くらいしか、いなくて……」


 彼の声は、初めて、薫が、自分のことを、自分の言葉で、話していた。


「でも、昨日は——初めて、それ以外のやつが……」

「そいつが話しかけてきて……」


 彼は、俺の方を、もう一度、見た。


「俺の絵を、見てくれて……」

「俺の才能を、見てくれて……‼」


 屋上に、また、風が、吹いた。


 前田は、しばらく、薫を、じっと、見ていた。

 それから、俺の方を、見た。


「……言っとくが、こいつは、正真正銘の、クズだぞ」


「……わかってます」


 薫は、頷いた。


「でも、そいつの言葉には——"夢"が、ある」


 俺の左の乳首の釣り針が、もう一度、ぴり、と痛んだ。

 今度の痛みは、なんだか、違う質の痛みだった。


「なら、俺——騙されてみたい……‼」


 前田が、深々と、ため息をついた。

 彼の肩が、わずかに、落ちた。


「……俺の可愛い薫が」と前田は言った。

「タチの悪い詐欺師に、引っ掛かっちまった……」


「騙すつもりなんか、ないっすよ」


 俺は、口を、挟んだ。


 前田は、俺を、上目遣いに、見た。


「……そうかい」


 彼は、薄く、笑った。


「ならまずは、借金を、返してもらおうか」


 俺は、頷いた。


「二人合わせて、きっちり——一億」


 前田は、指を、二本、立てた。


「毎月、千万の、十回払いで、どうだ?」


 俺の隣で、薫が、息を、呑んだ。


「億……⁉」


 彼の声には、純粋な驚愕があった。

 数字の単位そのものに、驚いていた。

 俺は、薫の表情を、横目で見ながら、頭のなかで、すばやく、計算していた。

 毎月一千万。

 半分はオークションでの上振れ、残り半分は、現金回収の早い既存客。

 一千万——回せる、額だ。

 回せる、はずだ。


「どうした? うちじゃ、これでも——随分、優しい方の返済プランだぜ?」


 前田は、にやりと笑った。


「分かってます」と俺は言った。

「他の条件は?」


「……別に?」


 前田は、肩をすくめた。


「ただ、守れねえ時は——次こそ、死んでもらう」


 彼は、満面の、笑みを浮かべた。


「それだけだ」


---


## 四


 ビルから、出てきたとき、外は、昼だった。


 屋上で受けた風と違って、地上の風には、町の匂いが混じっていた。

 ラーメン屋の出汁。コンビニの袋のナイロン。タクシーの排気。

 俺は、そのなかで、ゆっくりと、息を吸った。

 自分が、生きていることを、いまさら、確認した。


「いやぁ〜」


 俺は、自分の左の乳首を、シャツの上から、軽く撫でた。

 まだ、ぴり、と、痛んだ。


「マジで殺されるかと、思ったぜ」


 薫は、俺の半歩うしろを、歩いていた。

 彼の表情には、まだ、屋上の名残が、残っていた。


「毎月一千万なんて、払えるのかよ」


「お前がいなきゃ、無理だな」と俺は言った。

「三ヶ月、持たねえ」


 薫の足が、わずかに、止まった。


「俺は、何をすればいい」と彼は言った。

「どうすれば、稼げるんだよ?」


「ふむ」


 俺は、空を、見上げた。


「さて、どうすっかな……」


 俺は、考えるふりを、した。

 考えるふりを、したわけじゃない。本当に、考えていた。

 ただ、ふりとして、見えた。


「……?」


 薫の声が、止まった。


「……?」


 彼は、俺の顔を、覗き込んだ。


「いや!」と薫は言った。「ちょっと待てよ!」

「なんだよ、今の間」


「間?」


 俺は、首を、ひねった。


「お前——」


 薫の声に、わずかな、不安の影が、混じった。


「何かプラン、あるんだろ」

「言ってたじゃねえか、とっておきのアイデアがあるって」


 ああ、と俺は思った。

 あれか。


 俺の頭のなかで、第三話の、深夜のギャラリーの一場面が、よみがえった。

 契約書を、ばん、と叩きつけて、俺はあのとき、こう言ったのだった。

 ——じつはな、俺に、一攫千金、間違いなしのアイデアがあるんだ。

 ——お前の技術と、速度があれば、それが実現できる。


 俺は、肩を、すくめた。


「あーーー、あれか」


「ああ、それだよ」


「あれは——」


 俺は、にやりと、笑った。


「サインさせるための、ハッタリだ」


「は?」


 薫は、目を、見開いた。


「まあ、まずは焼肉でも食いながら、色々考えようぜ?」


 俺は、彼の肩を、ぽんと、叩いた。


「う、嘘だろ……」


 薫の声には、いままで聞いたことのない種類の、純粋な、絶望が、混じっていた。


「お前——あんなに、自信たっぷりだったじゃねか……」


 驚愕の顔だった。

 屋上で、釣り糸を引かれていたときの俺の顔と、比べても、勝るとも劣らない、絶望の顔だった。


「大丈夫だよ」と俺は言った。

「お前の才能と、俺の頭脳——二つが合わされば、最強だからよ」


 薫の頭のなかで、何かが、回想されているのが、見えた。

 屋上で前田が言った、ひとつの台詞が、彼のなかで、再生されていた。


 ——薫、こいつに騙されるな。

 ——こいつは、口先だけで生きてる、詐欺師なんだからよ。


 彼の目が、俺を、もう一度、見た。

 その目は、いま、はじめて、本当に「騙されているかも」と思っている目だった。


 俺は、笑った。


「なんてな」


「!」


「もちろん、プランはあるさ」


 俺は、にやりと笑った。


「必勝のな」


【第五話 了】

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