表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アート&マネー  作者: Zoo
4/11

#第四話 必要なもの

## 一


「牧人くんさあ」


 社長の声は、ずいぶんゆったりしていた。


 俺は、床のうえに正座していた。

 上半身は裸だった。左の乳首には、銀色の釣り針が、まだ刺さっていた。針の先から伸びた釣り糸は、空中に弧を描いて、十メートル先の机の前で——前田久郎の手のなかのリールに、収まっていた。


 社長の机の脇には、安物ではなさそうなネームプレートがあった。


 ——MED総合イベントアシスタント 社長 前田久郎


 MEDってMAEDAかよ、と俺は心のなかで毒づいた。

 毒づいても、左の乳首の痛みは引かなかった。


「久しぶりなのに、挨拶もねえのか」


 前田は、静かにそう言って——リールを、キリキリ、と巻いた。


「ぐああああああ」


 左の乳首が、わずかに、しかし容赦なく、引き寄せられた。

 肋骨の内側で、心臓が、ドンドンと鳴った。

 俺は、痛みより先に、頭のなかで、必死に状況を整理しようとしていた。


 前田久郎、四十代後半。

 半グレの親玉だ。

 渋谷界隈の半グレを取りまとめて、合法・非合法を問わず、いくつもの会社を経営している。

 俺がこの男の顔を最後に見たのは、五年前——いや、もっと前だ。あのとき俺はまだ、現代アートのギャラリーを構えていなかった。

 ガキだった。

 二十一歳、二十二歳、そのあたり。

 祖父が死んで、画廊をひとつ譲り受けて、けれどそれを動かす元手がなかった。日本画の在庫を売り抜くにも時間がかかる。改装の資金が要る。客のリストも要る。

 俺は、手っ取り早い金が欲しかった。

 だから、前田久郎の組織のいくつかの会社を、転々と渡り歩いた。情報商材、健康食品のマルチ、株のサイン配信、海外不動産の名義貸し——あの頃の俺は、何でもやった。何でもやって、稼いだ。

 稼いだ金で、KAGAYA Galleryを、現代アート専門に塗り替えた。

 誰にも、言ったことのない話だ。


 ——まさか、こいつもう、出所してたのかよ……‼


 俺が、前田久郎の組織から抜けたのは、ある事件がきっかけだった。

 前田が薬物の売買で逮捕されて、塀の向こうに消えた、そのどさくさだった。当時、俺がいたペーパーカンパニーは、登記上のオーナーが前田で、実印が金庫に置きっぱなしだった。

 俺はその金庫から、五千万円ほど抜いた。

 あれは、退職金だ、と自分に言い聞かせた。

 二度と顔を合わせない男から、二度と必要にされない金を、取った。それだけの話だ、と。


 その金で、俺は店を、生まれ変わらせた。

 白い壁、エポキシの床、間接照明、現代アートの絵——俺がいまの俺になったのは、あの五千万のおかげだった。


 その金の出所が、いま、俺の目の前で、リールを巻いていた。


 まさか、この会社が——前田の組織のひとつだったとは。

 知っていれば、店の前で薫を捕まえて、引き返した。

 知らなかった。

 知らなかった俺の落ち度だ。


 社長室の奥の壁には、巨大な魚拓が飾られていた。クエ、ヒラマサ、マグロ。それぞれの脇に、毛筆で日付と長さが書き添えられていた。最大のものは二メートルを超えていた。

 いま、俺は、その魚拓の隣に、四枚目の獲物として吊されようとしていた。


 社長室の入口の方で、薫の声が、わずかに震えていた。


「しゃ、社長は——こいつと知り合いなんですか……?」


 前田は、ちょっと遠い目をした。

 懐かしむ目だった。


「牧人はさ」と前田は言った。「俺の、違う会社にいたんだよ」

「俺が捕まってる間に、倒産しちまったんだけど……」


 前田の手が、もう一度、リールを巻いた。


「その時のどさくさで——五千万も、盗みやがった」


「ぐああああ」


 乳首から脳天に、痛みが、まっすぐに、突き抜けた。

 あれは盗んだのではなく、俺の働きへの正当な対価だった、と弁解したかった。

 だが、いま、ここで弁解するのは、頭がおかしい人間のすることだった。


 前田は、ゆっくりと立ち上がった。

 手にしたままの、釣り竿が、長い影を床に落とした。


「それだけじゃ、飽き足らず」と前田は言った。

「今度は、うちのスタッフまで、引き抜こうとか……」


 彼は、俺の前に、しゃがみ込んだ。

 俺の顔と、彼の顔の距離は、三十センチもなかった。

 彼の目は、笑っていなかった。

 笑っていなかったが、表情のすべてが、笑っているように見える種類の顔だった。


「一体何を、考えてんだ?」


 俺は、必死だった。

 いま、必死に喋らなければ、俺はもう、しゃべれない人間になる。


「ち、違うんですよ……」

「俺は、金をちゃんと、返すつもりで……‼」


 前田は、俺の目を、じっと、覗き込んだ。

 俺はその覗き込みに、自分の瞳が、震えるのを止められなかった。


「本当かぁ?」


 彼の口角が、わずかに、上がった。


「ま、それなら……」


 前田は、立ち上がりかけた。


「利子込みで」


 俺の頭のなかで、瞬時に、計算機が回った。

 五千万、五年、相場の利子で——一億か、二億か。

 前田の組織の利子は、相場じゃない。三億か、四億か、もっとか。

 俺は、いま、自分の銀行残高の桁を、すばやく数え直した。

 足りるか、足りないか。

 足りる、として、金庫に手をつければ、店の運転資金が消える。

 足りない、として——


「命で払ってくれや?」


 俺の頭のなかの計算機は、ぱちん、と止まった。


---


## 二


「嫌だああああああ! 許してくれえええ!」


 夜だった。

 いや、夜じゃない。朝の十時半だ。だが、俺の世界はもう夜だった。

 目隠しをされていた。

 上半身は、相変わらず、裸だった。

 左の乳首には、釣り針が、まだ刺さっていた。

 俺は、ビルの屋上に、立っていた。


 なぜ、俺がそこにいると分かるのかと言われれば——俺の足の裏に、外気のなかの、わずかなコンクリートの埃と、屋上特有の、湿った金属の感触があったからだ。

 風が吹いていた。

 春の、湿った、いい風だった。


「いい風吹いてるねえ」


 前田の声は、上機嫌だった。


「目隠し裸で屋上来ると、怖えだろ? 自分がどこにいるかわかんねえからな」


 俺は、頷くこともできなかった。

 頷けば、もう一度、リールが巻かれそうな気がした。


「前田さん、お願いだ」と俺は言った。

「殺さないでくれええ!」


 俺は、後ずさった。

 後ずさった瞬間、前田の声が、にっこり、と笑った。


「だったら気をつけろよ」

「あと一歩後ろに下がったら、落ちて死ぬぞ」


「ひいいいいいいい」


 俺は、そこで、ぴたりと止まった。


 目隠しのなかは、暗かった。

 暗いなかで、俺は、自分の背中の方向を、必死に推測しようとした。

 いま、俺の背中の二メートル先に、ビルの縁があるのか。

 それとも、二十メートル先まで、ただの屋上の床が続いているのか。

 判別する手段は、なかった。


 いや、ハッタリだ、と俺は思った。

 前科のある前田が、俺をいま、こんな目立つ場所で、本当に殺すわけがない。

 殺す気なら、もっと静かな場所で、もっと静かにやる。

 あの男は、商売人だ。脅すために、これをやっている。

 ハッタリだ。

 ハッタリのはずだ。


 ビン、と——俺の左の乳首の釣り糸が、引かれた。


「!」


 痛みは、考える時間を、奪った。

 俺は、引かれた方向に、よろよろと足を運んだ。


「いででででで!」


「おい、そっち行くなよ」と前田の声。「落ちちまうぞ?」


 俺の脳は、もう、推論を捨てていた。

 ハッタリ、ハッタリ、ハッタリ——その三文字を、頭のなかで唱えていたが、唱えるたびに、その文字の輪郭が、ぼやけていった。

 こんなことをするキ●ガイなら、本当に殺しかねねねええ——


「ほれえええええええ」


 前田が、もう一度、釣り糸を、強く、引いた。


「ぐっ」


 俺の右足が、空気を、踏んだ。


 屋上の縁の、コンクリートの段差に、つまずいた。

 俺の身体が、後ろに、傾いだ。


「あっ、やべ」


 前田の声が、ようやく、ハッタリの仮面を外した。

 仮面の下にあったのは、本気の、軽い、しかし正直な——「やってしまった」の声だった。


 俺の身体は、後ろに、倒れた。

 目隠しの暗がりのなかで、重力が、俺の背中を、地面のほうへ、引っ張りはじめた。


 ああ、と俺は思った。

 俺は、ここで、終わるんだ。

 二十六年。短かったな。

 じいちゃん、ごめんな。


 その瞬間——


 誰かの手が、俺の右手首を、ぐっ、と掴んだ。


 強い力だった。

 俺の体重を、半身だけで、引き上げる強さだった。

 俺は、屋上のへりで、宙づりになりながら、息を呑んだ。


 目隠しが、誰かの手によって、ずらされた。


 俺の目の前には——薫がいた。


 薫は、俺の腕を掴んだまま、ものすごい力で、引き上げてきた。

 彼の腕は、見た目より、ずっと、太かった。

 彼の表情は、必死だった。

 俺と目を合わせて、彼は、何も言わずに、俺を屋上の安全な側に、引き戻した。


 屋上の床のうえに、俺は、ようやく、両足で、立った。

 両足で立った瞬間、俺の左の乳首が、ぴり、と痛んだ。

 釣り針は、まだ、刺さっていた。


 前田と、新家と、鈴原が、三人とも、口を半開きにしていた。


 俺は、薫の方を、見た。


 薫は、肩で、息をしていた。

 俺の腕を引き上げた疲れか、それとも、自分が、いま、何をしたかへの動揺か。

 たぶん、両方だった。


 深夜の路地で、俺を置き去りに走り去ったのと、同じ男だった。

 そいつが、いま、俺の手を、掴んで、命を、引き戻していた。


---


## 三


「薫、お前何してんだ?」


 前田の声から、上機嫌が、ぴたりと消えていた。


「ゆ、許してやってくんないかな?」と薫は言った。

「こいつのこと」


 新家が、横から口を挟もうとした。


「ばか、宍戸——」


 前田は、それを片手で、止めた。


 社長は、薫を、しばらく、見ていた。

 見ていた目は、社長の目ではなかった。

 もっと、別の——昔から、その男のことを、よく知っている人間の目だった。


「そういや、お前ら、どういう関係だ?」


 俺と薫は、視線を、合わせなかった。

 合わせる前に、薫が、ぽつりぽつりと、説明し始めた。

 深夜の繁華街で、警官に職務質問されているところに、俺が割り込んだこと。俺がスケッチを見たこと。焼肉に連れていかれたこと。専属契約の話があったこと。逃げたこと。

 彼の説明は、淡々と、しかし、過不足なく、事実を伝えていた。


 前田は、聞き終えて——なるほど、と一言だけ言った。


 それから、俺の顔を、見た。


「情報商材やマルチ商品ばっかり売ってたお前が、ギャラリストねえ」


 俺は、何も、答えなかった。

 答えるべきこと、ではなかった。


「薫」と前田は言った。「こいつに騙されるな」

「こいつは、口先だけで生きてる、詐欺師なんだからよ」


 その一言で——俺のなかの、なにかが、立ち上がった。

 立ち上がる予定じゃなかった。立ち上がる場面でもなかった。

 だが、立ち上がってしまった。


「違う!」


 俺の声は、屋上の風のなかで、思ったより大きく、響いた。


「あ?」


 前田の眉が、わずかに、動いた。


「今は、違うんです」と俺は言った。

「ちゃんとギャラリーもあるし——」

「真っ当な、商売してるんです」


 真っ当、という言葉を、俺はいま、自分の口から、出した。

 出してから、自分でも、その語感に、わずかに、面食らった。

 俺はいつから「真っ当」という単語を、自分の側の言葉として、使えるようになっていたんだろう。


 前田は、俺を、上から下まで、舐めるように、見ていた。

 値踏みする目だった。


「ほう、だったら、金返せるよな?」

「金になるんだろ、芸術ってやつは?」


「今は、無理です」


 俺は、即答した。


「でも——」


 俺は、薫の方を、見た。


「こいつがいたら、できます」

「分かるんです」


 薫の眉が、わずかに、動いた。


「宍戸薫は——天才だから!」


 俺は、それを、初めて、声に出して言った。

 言ってから、自分でも、少し、はっとした。

 俺はそれまで、薫を「商売の素材」「未使用の鉱脈」「値段のついていない男」と、頭のなかでは何度も呼んでいた。

 だが、「天才」という単語を、口にしたのは、これが、初めてだった。


 前田は、ふっ、と、鼻で笑った。


「俺は、簡単に天才なんて言葉を吐くやつは、信用しねえ」


 彼は、ゆっくりと、俺の方に、歩いてきた。


「そもそも、お前は薫の何を知ってるんだ?」


---


## 四


 俺は、答えに、詰まりかけた。


 知ってることは、少なかった。

 深夜の繁華街でスケッチを描いていたこと。前田総合イベントアシスタントのアルバイトであること。安いシャツを着ていること。襟元のボタンを、首までかっちり留めていること。空腹で肉を奪うように食うこと。深夜の路地を、信じられない速さで走り抜けること。屋上で、絶望している男の手首を、躊躇なく掴めること。

 俺が薫について「知っている」のは、それくらいだった。


 だが、前田が、薫について「俺の知らないこと」を、話してくれた。


「ちょっとした事で気分が落ち込んで」と前田は言った。

「その辺のやつに、暴力振るうんだよ」


 薫が、わずかに、目を伏せた。

 その伏せ方は、罰の悪い、しかし、慣れた伏せ方だった。


「何度警察に迎えに行き」と前田は続けた。

「何度起訴され、何度、保釈金を払ったか?」


 その言葉に、新家と鈴原が、揃って、深く、頷いた。


 ふん、と俺は思った。

 暴力。

 ふん。


 俺の頭のなかで、なにかが、結ばれた。


「暴力が起きるのは——」


 俺は、声を出した。


「薫が創作をしている時ですよね」


 前田の眉が、ぴくり、と動いた。


「!?」


「!?」


 新家と鈴原も、俺と同じ顔になっていた。


「創作って——ほど大袈裟なもんじゃねえが」と前田は言った。

「チラシデザインを、してる時が多いな」


 新家と鈴原が、何度か頷いた。

 ああ、なるほど、と俺は心のなかで、もう一度、思った。


「彼にとっては、それも創作だったんです」


 薫が——息を、呑んだ。


 俺は、続けた。


「ジャクソン・ポロック」

「マーク・ロスコ」

「エドヴァルド・ムンク」

「フランシス・ベーコン」


 俺は、四人の画家の名前を、ゆっくりと、空気のうえに、並べた。

 その四人の名前が、屋上の風のなかで、ばらばらと、ほどけていった。

 前田は、それを聞いていた。

 彼が、その四人を、どこまで知っているかは、分からなかった。だが、聞いていた。

 半グレの親玉だが、彼は、人の話を聞ける人間だった。聞ける人間でなければ、組織の長は務まらない。


「多くの偉大なアーティストには——」と俺は言った。

「暴力的な、エピソードが、絶えない」


 俺は、空に向かって、ゆっくり、息を、吐いた。


「ゴッホが自分の耳を切り落とした事件は、知ってますよね?」


「ああ」と前田。


「優れた芸術家は——」


 俺は、薫の方を、見た。


「自分のなかのエネルギーを、抑え込むのに、いつもギリギリなんです」


 薫の表情が、わずかに、止まった。

 俺は、続けた。


「でも、そのエネルギーが、創作に向けば——」

「彼らは、次々と、傑作を、産み続ける」


 風が、また、吹いた。


「そして、先にあげたアーティストたちの傑作は——」

「今は、何十億、何百億円という価格で、取引されているじゃ無いですか⁉」


 前田は、何も、言わなかった。

 言わなかったが、彼は、考えていた。

 商売人の、考える顔だった。


「薫も——」


 俺は、もう一度、薫を、見た。


「そんな、大金を産む存在に、なれるはずです!」


 屋上の風のなかで、薫の襟元のボタンは、いつものように、首のところまで、きっちり、留まっていた。

 その襟元のすぐ下で、彼の鼓動が、わずかに、見える気がした。

 彼は、いま、自分が、自分以外の誰かによって、初めて、まっすぐな日本語で、説明されていた。

 暴力癖、ではなく。

 厄介者、でもなく。

 ——抑えきれない芸術家。

 その四文字で、説明されていた。


「だから——」


 俺は、前田の前に、両手をついた。

 両手をついて、頭を、深く下げた。


「薫を、俺に——預けてください!」


【第四話 了】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ