#第四話 必要なもの
## 一
「牧人くんさあ」
社長の声は、ずいぶんゆったりしていた。
俺は、床のうえに正座していた。
上半身は裸だった。左の乳首には、銀色の釣り針が、まだ刺さっていた。針の先から伸びた釣り糸は、空中に弧を描いて、十メートル先の机の前で——前田久郎の手のなかのリールに、収まっていた。
社長の机の脇には、安物ではなさそうなネームプレートがあった。
——MED総合イベントアシスタント 社長 前田久郎
MEDってMAEDAかよ、と俺は心のなかで毒づいた。
毒づいても、左の乳首の痛みは引かなかった。
「久しぶりなのに、挨拶もねえのか」
前田は、静かにそう言って——リールを、キリキリ、と巻いた。
「ぐああああああ」
左の乳首が、わずかに、しかし容赦なく、引き寄せられた。
肋骨の内側で、心臓が、ドンドンと鳴った。
俺は、痛みより先に、頭のなかで、必死に状況を整理しようとしていた。
前田久郎、四十代後半。
半グレの親玉だ。
渋谷界隈の半グレを取りまとめて、合法・非合法を問わず、いくつもの会社を経営している。
俺がこの男の顔を最後に見たのは、五年前——いや、もっと前だ。あのとき俺はまだ、現代アートのギャラリーを構えていなかった。
ガキだった。
二十一歳、二十二歳、そのあたり。
祖父が死んで、画廊をひとつ譲り受けて、けれどそれを動かす元手がなかった。日本画の在庫を売り抜くにも時間がかかる。改装の資金が要る。客のリストも要る。
俺は、手っ取り早い金が欲しかった。
だから、前田久郎の組織のいくつかの会社を、転々と渡り歩いた。情報商材、健康食品のマルチ、株のサイン配信、海外不動産の名義貸し——あの頃の俺は、何でもやった。何でもやって、稼いだ。
稼いだ金で、KAGAYA Galleryを、現代アート専門に塗り替えた。
誰にも、言ったことのない話だ。
——まさか、こいつもう、出所してたのかよ……‼
俺が、前田久郎の組織から抜けたのは、ある事件がきっかけだった。
前田が薬物の売買で逮捕されて、塀の向こうに消えた、そのどさくさだった。当時、俺がいたペーパーカンパニーは、登記上のオーナーが前田で、実印が金庫に置きっぱなしだった。
俺はその金庫から、五千万円ほど抜いた。
あれは、退職金だ、と自分に言い聞かせた。
二度と顔を合わせない男から、二度と必要にされない金を、取った。それだけの話だ、と。
その金で、俺は店を、生まれ変わらせた。
白い壁、エポキシの床、間接照明、現代アートの絵——俺がいまの俺になったのは、あの五千万のおかげだった。
その金の出所が、いま、俺の目の前で、リールを巻いていた。
まさか、この会社が——前田の組織のひとつだったとは。
知っていれば、店の前で薫を捕まえて、引き返した。
知らなかった。
知らなかった俺の落ち度だ。
社長室の奥の壁には、巨大な魚拓が飾られていた。クエ、ヒラマサ、マグロ。それぞれの脇に、毛筆で日付と長さが書き添えられていた。最大のものは二メートルを超えていた。
いま、俺は、その魚拓の隣に、四枚目の獲物として吊されようとしていた。
社長室の入口の方で、薫の声が、わずかに震えていた。
「しゃ、社長は——こいつと知り合いなんですか……?」
前田は、ちょっと遠い目をした。
懐かしむ目だった。
「牧人はさ」と前田は言った。「俺の、違う会社にいたんだよ」
「俺が捕まってる間に、倒産しちまったんだけど……」
前田の手が、もう一度、リールを巻いた。
「その時のどさくさで——五千万も、盗みやがった」
「ぐああああ」
乳首から脳天に、痛みが、まっすぐに、突き抜けた。
あれは盗んだのではなく、俺の働きへの正当な対価だった、と弁解したかった。
だが、いま、ここで弁解するのは、頭がおかしい人間のすることだった。
前田は、ゆっくりと立ち上がった。
手にしたままの、釣り竿が、長い影を床に落とした。
「それだけじゃ、飽き足らず」と前田は言った。
「今度は、うちのスタッフまで、引き抜こうとか……」
彼は、俺の前に、しゃがみ込んだ。
俺の顔と、彼の顔の距離は、三十センチもなかった。
彼の目は、笑っていなかった。
笑っていなかったが、表情のすべてが、笑っているように見える種類の顔だった。
「一体何を、考えてんだ?」
俺は、必死だった。
いま、必死に喋らなければ、俺はもう、しゃべれない人間になる。
「ち、違うんですよ……」
「俺は、金をちゃんと、返すつもりで……‼」
前田は、俺の目を、じっと、覗き込んだ。
俺はその覗き込みに、自分の瞳が、震えるのを止められなかった。
「本当かぁ?」
彼の口角が、わずかに、上がった。
「ま、それなら……」
前田は、立ち上がりかけた。
「利子込みで」
俺の頭のなかで、瞬時に、計算機が回った。
五千万、五年、相場の利子で——一億か、二億か。
前田の組織の利子は、相場じゃない。三億か、四億か、もっとか。
俺は、いま、自分の銀行残高の桁を、すばやく数え直した。
足りるか、足りないか。
足りる、として、金庫に手をつければ、店の運転資金が消える。
足りない、として——
「命で払ってくれや?」
俺の頭のなかの計算機は、ぱちん、と止まった。
---
## 二
「嫌だああああああ! 許してくれえええ!」
夜だった。
いや、夜じゃない。朝の十時半だ。だが、俺の世界はもう夜だった。
目隠しをされていた。
上半身は、相変わらず、裸だった。
左の乳首には、釣り針が、まだ刺さっていた。
俺は、ビルの屋上に、立っていた。
なぜ、俺がそこにいると分かるのかと言われれば——俺の足の裏に、外気のなかの、わずかなコンクリートの埃と、屋上特有の、湿った金属の感触があったからだ。
風が吹いていた。
春の、湿った、いい風だった。
「いい風吹いてるねえ」
前田の声は、上機嫌だった。
「目隠し裸で屋上来ると、怖えだろ? 自分がどこにいるかわかんねえからな」
俺は、頷くこともできなかった。
頷けば、もう一度、リールが巻かれそうな気がした。
「前田さん、お願いだ」と俺は言った。
「殺さないでくれええ!」
俺は、後ずさった。
後ずさった瞬間、前田の声が、にっこり、と笑った。
「だったら気をつけろよ」
「あと一歩後ろに下がったら、落ちて死ぬぞ」
「ひいいいいいいい」
俺は、そこで、ぴたりと止まった。
目隠しのなかは、暗かった。
暗いなかで、俺は、自分の背中の方向を、必死に推測しようとした。
いま、俺の背中の二メートル先に、ビルの縁があるのか。
それとも、二十メートル先まで、ただの屋上の床が続いているのか。
判別する手段は、なかった。
いや、ハッタリだ、と俺は思った。
前科のある前田が、俺をいま、こんな目立つ場所で、本当に殺すわけがない。
殺す気なら、もっと静かな場所で、もっと静かにやる。
あの男は、商売人だ。脅すために、これをやっている。
ハッタリだ。
ハッタリのはずだ。
ビン、と——俺の左の乳首の釣り糸が、引かれた。
「!」
痛みは、考える時間を、奪った。
俺は、引かれた方向に、よろよろと足を運んだ。
「いででででで!」
「おい、そっち行くなよ」と前田の声。「落ちちまうぞ?」
俺の脳は、もう、推論を捨てていた。
ハッタリ、ハッタリ、ハッタリ——その三文字を、頭のなかで唱えていたが、唱えるたびに、その文字の輪郭が、ぼやけていった。
こんなことをするキ●ガイなら、本当に殺しかねねねええ——
「ほれえええええええ」
前田が、もう一度、釣り糸を、強く、引いた。
「ぐっ」
俺の右足が、空気を、踏んだ。
屋上の縁の、コンクリートの段差に、つまずいた。
俺の身体が、後ろに、傾いだ。
「あっ、やべ」
前田の声が、ようやく、ハッタリの仮面を外した。
仮面の下にあったのは、本気の、軽い、しかし正直な——「やってしまった」の声だった。
俺の身体は、後ろに、倒れた。
目隠しの暗がりのなかで、重力が、俺の背中を、地面のほうへ、引っ張りはじめた。
ああ、と俺は思った。
俺は、ここで、終わるんだ。
二十六年。短かったな。
じいちゃん、ごめんな。
その瞬間——
誰かの手が、俺の右手首を、ぐっ、と掴んだ。
強い力だった。
俺の体重を、半身だけで、引き上げる強さだった。
俺は、屋上のへりで、宙づりになりながら、息を呑んだ。
目隠しが、誰かの手によって、ずらされた。
俺の目の前には——薫がいた。
薫は、俺の腕を掴んだまま、ものすごい力で、引き上げてきた。
彼の腕は、見た目より、ずっと、太かった。
彼の表情は、必死だった。
俺と目を合わせて、彼は、何も言わずに、俺を屋上の安全な側に、引き戻した。
屋上の床のうえに、俺は、ようやく、両足で、立った。
両足で立った瞬間、俺の左の乳首が、ぴり、と痛んだ。
釣り針は、まだ、刺さっていた。
前田と、新家と、鈴原が、三人とも、口を半開きにしていた。
俺は、薫の方を、見た。
薫は、肩で、息をしていた。
俺の腕を引き上げた疲れか、それとも、自分が、いま、何をしたかへの動揺か。
たぶん、両方だった。
深夜の路地で、俺を置き去りに走り去ったのと、同じ男だった。
そいつが、いま、俺の手を、掴んで、命を、引き戻していた。
---
## 三
「薫、お前何してんだ?」
前田の声から、上機嫌が、ぴたりと消えていた。
「ゆ、許してやってくんないかな?」と薫は言った。
「こいつのこと」
新家が、横から口を挟もうとした。
「ばか、宍戸——」
前田は、それを片手で、止めた。
社長は、薫を、しばらく、見ていた。
見ていた目は、社長の目ではなかった。
もっと、別の——昔から、その男のことを、よく知っている人間の目だった。
「そういや、お前ら、どういう関係だ?」
俺と薫は、視線を、合わせなかった。
合わせる前に、薫が、ぽつりぽつりと、説明し始めた。
深夜の繁華街で、警官に職務質問されているところに、俺が割り込んだこと。俺がスケッチを見たこと。焼肉に連れていかれたこと。専属契約の話があったこと。逃げたこと。
彼の説明は、淡々と、しかし、過不足なく、事実を伝えていた。
前田は、聞き終えて——なるほど、と一言だけ言った。
それから、俺の顔を、見た。
「情報商材やマルチ商品ばっかり売ってたお前が、ギャラリストねえ」
俺は、何も、答えなかった。
答えるべきこと、ではなかった。
「薫」と前田は言った。「こいつに騙されるな」
「こいつは、口先だけで生きてる、詐欺師なんだからよ」
その一言で——俺のなかの、なにかが、立ち上がった。
立ち上がる予定じゃなかった。立ち上がる場面でもなかった。
だが、立ち上がってしまった。
「違う!」
俺の声は、屋上の風のなかで、思ったより大きく、響いた。
「あ?」
前田の眉が、わずかに、動いた。
「今は、違うんです」と俺は言った。
「ちゃんとギャラリーもあるし——」
「真っ当な、商売してるんです」
真っ当、という言葉を、俺はいま、自分の口から、出した。
出してから、自分でも、その語感に、わずかに、面食らった。
俺はいつから「真っ当」という単語を、自分の側の言葉として、使えるようになっていたんだろう。
前田は、俺を、上から下まで、舐めるように、見ていた。
値踏みする目だった。
「ほう、だったら、金返せるよな?」
「金になるんだろ、芸術ってやつは?」
「今は、無理です」
俺は、即答した。
「でも——」
俺は、薫の方を、見た。
「こいつがいたら、できます」
「分かるんです」
薫の眉が、わずかに、動いた。
「宍戸薫は——天才だから!」
俺は、それを、初めて、声に出して言った。
言ってから、自分でも、少し、はっとした。
俺はそれまで、薫を「商売の素材」「未使用の鉱脈」「値段のついていない男」と、頭のなかでは何度も呼んでいた。
だが、「天才」という単語を、口にしたのは、これが、初めてだった。
前田は、ふっ、と、鼻で笑った。
「俺は、簡単に天才なんて言葉を吐くやつは、信用しねえ」
彼は、ゆっくりと、俺の方に、歩いてきた。
「そもそも、お前は薫の何を知ってるんだ?」
---
## 四
俺は、答えに、詰まりかけた。
知ってることは、少なかった。
深夜の繁華街でスケッチを描いていたこと。前田総合イベントアシスタントのアルバイトであること。安いシャツを着ていること。襟元のボタンを、首までかっちり留めていること。空腹で肉を奪うように食うこと。深夜の路地を、信じられない速さで走り抜けること。屋上で、絶望している男の手首を、躊躇なく掴めること。
俺が薫について「知っている」のは、それくらいだった。
だが、前田が、薫について「俺の知らないこと」を、話してくれた。
「ちょっとした事で気分が落ち込んで」と前田は言った。
「その辺のやつに、暴力振るうんだよ」
薫が、わずかに、目を伏せた。
その伏せ方は、罰の悪い、しかし、慣れた伏せ方だった。
「何度警察に迎えに行き」と前田は続けた。
「何度起訴され、何度、保釈金を払ったか?」
その言葉に、新家と鈴原が、揃って、深く、頷いた。
ふん、と俺は思った。
暴力。
ふん。
俺の頭のなかで、なにかが、結ばれた。
「暴力が起きるのは——」
俺は、声を出した。
「薫が創作をしている時ですよね」
前田の眉が、ぴくり、と動いた。
「!?」
「!?」
新家と鈴原も、俺と同じ顔になっていた。
「創作って——ほど大袈裟なもんじゃねえが」と前田は言った。
「チラシデザインを、してる時が多いな」
新家と鈴原が、何度か頷いた。
ああ、なるほど、と俺は心のなかで、もう一度、思った。
「彼にとっては、それも創作だったんです」
薫が——息を、呑んだ。
俺は、続けた。
「ジャクソン・ポロック」
「マーク・ロスコ」
「エドヴァルド・ムンク」
「フランシス・ベーコン」
俺は、四人の画家の名前を、ゆっくりと、空気のうえに、並べた。
その四人の名前が、屋上の風のなかで、ばらばらと、ほどけていった。
前田は、それを聞いていた。
彼が、その四人を、どこまで知っているかは、分からなかった。だが、聞いていた。
半グレの親玉だが、彼は、人の話を聞ける人間だった。聞ける人間でなければ、組織の長は務まらない。
「多くの偉大なアーティストには——」と俺は言った。
「暴力的な、エピソードが、絶えない」
俺は、空に向かって、ゆっくり、息を、吐いた。
「ゴッホが自分の耳を切り落とした事件は、知ってますよね?」
「ああ」と前田。
「優れた芸術家は——」
俺は、薫の方を、見た。
「自分のなかのエネルギーを、抑え込むのに、いつもギリギリなんです」
薫の表情が、わずかに、止まった。
俺は、続けた。
「でも、そのエネルギーが、創作に向けば——」
「彼らは、次々と、傑作を、産み続ける」
風が、また、吹いた。
「そして、先にあげたアーティストたちの傑作は——」
「今は、何十億、何百億円という価格で、取引されているじゃ無いですか⁉」
前田は、何も、言わなかった。
言わなかったが、彼は、考えていた。
商売人の、考える顔だった。
「薫も——」
俺は、もう一度、薫を、見た。
「そんな、大金を産む存在に、なれるはずです!」
屋上の風のなかで、薫の襟元のボタンは、いつものように、首のところまで、きっちり、留まっていた。
その襟元のすぐ下で、彼の鼓動が、わずかに、見える気がした。
彼は、いま、自分が、自分以外の誰かによって、初めて、まっすぐな日本語で、説明されていた。
暴力癖、ではなく。
厄介者、でもなく。
——抑えきれない芸術家。
その四文字で、説明されていた。
「だから——」
俺は、前田の前に、両手をついた。
両手をついて、頭を、深く下げた。
「薫を、俺に——預けてください!」
【第四話 了】




