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アート&マネー  作者: Zoo
3/11

# 第三話 専属契約

 日本橋の、表通りからは一本入った裏路地。


 その路地に、戦前からの煉瓦造りの低層ビルが、肩を寄せ合うようにして並んでいる。

 道幅は広くない。タクシーが一台、ぎりぎり通れるくらいの道だ。両側のビルは三階建てか四階建てで、どれも昭和の終わり頃に一度小さな改装を入れて、それからは外壁の汚れだけがゆっくり時間を吸い続けている。

 昼のうちは、同業のギャラリーが何軒か、ちらほらと扉を開けている。銀座の表通りの、磨き上げられた一階展示空間とは違う種類の——もっと地味で、もっと静かで、もっと値段の高い絵を扱っている、業界向けの店。

 俺の店は、その路地の中ほどにあった。

 深夜だった。

 路地は、ほとんど暗かった。


 俺は、抱えていた篠山修一の絵をオーナーから取り戻した二百万円ぶんの梱包を、左脇に抱え直した。

 右手で鍵を出す。

 扉に手をかけながら、俺は半歩うしろの薫を、ちらりと見た。


 薫は、ビルを見上げていた。


 その仕草に、俺は——少し、満たされた。

 俺の店のビルを、こうして他人の目を通して眺めるのは、なんだか久しぶりだった。

 外壁は煉瓦。窓は古い鋳物の格子。一階の入口には小さな真鍮のプレート。文字は控えめに、こうある。

 ——KAGAYA Gallery


 ここは元々、俺の祖父の画廊だった。

 明治の終わりに、祖父の祖父が始めた骨董屋を、祖父の代で美術商に切り替えた。

 祖父はこの店で、戦後の日本画家を何人も育てた。育てたというのは少し違う、うまく売った、というのが正しい。

 祖父が死んでから、俺がここを引き継いだ。

 俺は、祖父の扱った日本画を、まず全部、売り抜いた。それから店の名前を変えた。

 ——KAGAYA Gallery、現代アート専門。

 祖父の名残を、俺は表通りの真鍮のプレートから消した。

 悪いな、じいちゃん、と俺は心のなかで呟いた。

 時代は、変わったんだ。


 俺は、扉の鍵を回した。

 古い金属が、低く、ゴリ、と鳴った。


「さあ入りな!」


 俺は、扉を内側に開けて、薫を振り返った。


「こいつが俺のギャラリーだ」


 薫は、目を見開いていた。


---


## 二


 扉の向こうは、白かった。


 壁、天井、床、すべてが白く塗られていた。床だけは光沢のあるエポキシで、靴底がきゅっと鳴る。

 壁面のあちこちに、間接照明のスポットライトが当たっていて、その光の輪のなかに、絵が一枚ずつ浮かんでいる。フレームは黒。マットは白。展示台のガラスケースには、立体作品が三点。床から天井までの吹き抜け空間に、十数点の絵が、磁器のように静かに並んでいた。

 空調は、温度より湿度を優先する種類の設定で動いている。

 香りはない。香りは絵の敵だ。だから俺は、この店に絶対に芳香剤を置かない。


 薫は、入口で立ち止まったまま、ぐるりと首だけで店内を見回した。

 半開きになった口から、言葉にならない音だけが漏れた。


 俺は、絵を作業台の脇に立てかけて、両手をひろげた。


「元々は俺の爺さんがやってた画廊だったんだがな」

「俺が引き継いで、現代アートギャラリーに変えたんだよ」


 薫は、入口から二歩入って、いちばん近い壁の絵に向かい合った。

 歪んだ球体が、緑と灰色のあいだで滲んだような絵。タイトルは「Gravity #4」。値段は税込みで五十二万円。買い手は——まだ、ついていない。


「わけわかんねー絵ばっかだな」


 薫は、ひそやかに、しかしはっきりと、そう言った。


「こう言うのが現代アートって言うんだよ」


 俺は、にっこり笑った。


「覚えとけ」


 薫は、俺の言葉を聞いていなかった。

 絵に、近づいた。

 顔を絵に近づけ、顎を引いて、視線の角度を一度変え、半歩下がって、もう一度近づいた。

 彼の身体の動きは、まるで——ボクシングの構えのようだった。

 絵を相手に、間合いを測っていた。


「……いや、そうじゃなくて」


 薫は、ぽつりと言った。


「どれもあんまり上手くないって、言ってるんだよ」


 ——え。


 俺の口角が、わずかに止まった。

 「わけわかんない絵」と「上手くない絵」は、業界の外の人間にとっては、たいてい同じものを指す。だが、薫の言い方には、ふたつを区別している声色があった。

 俺は、念のために訊いた。


「お前に、絵が分かるのか?」


 薫は、絵を見たまま答えた。


「価値とかは、全然わかんねえけど」

「なんか、どれも"いびつ"だ」


 いびつ。


 その単語は、俺の鼓膜に、低く、静かに、しかし確実に届いた。

 ああ、と俺は思った。

 こいつは、見えている。


 うちのギャラリーに掛かっている絵は、業界の言い方をすれば、現代アート。商売の言い方をすれば、装飾品。本当の言い方をすれば——適度に「アート」な顔をした、安全な商品だ。

 その安全さの正体は、「いびつ」だった。

 球体の歪みの向きが、惜しいところで決まっていない。色面の境界が、論理として整合していない。バランスを意図的に崩した、と見せかけて、実は崩しきれていない。デッサンが、不完全に近代化された箇所と、不完全に印象派をなぞった箇所のあいだで、迷子になっている。

 業界の九十九パーセントの人間は、それを「現代アートだから」と呑み込む。値段がついていれば、なおさら呑み込む。

 ところが、こいつは——一目で「いびつ」と言った。

 値段の話を、まったくしなかった。


 俺は、ふっ、と笑った。

 息が抜けるみたいな、楽しい笑い方だった。


「……なるほどね」


 俺は、薫の隣に立った。


「やはりお前は——目もいいんだな」


---


## 三


 俺は、両腕で、店内全体をぐるりと示した。


「お前のいう通りだ」

「ここにあるのは、大した絵じゃあねえ」


 薫は、俺の方を向いた。


「例え抽象画といっても、実際は画力は求められる」と俺は言った。

「ここで言うのは、デッサン力や、バランス、色彩感覚——」

「キュビズムの祖、ピカソだって、画力はとんでもなく高かったからな」


 薫は、黙って聞いていた。

 俺の話を聞ける男だった。最初の数分でそうは思わなかったが、絵を見ているときの薫は、別人のように静かだった。


「ここにある絵は——」


 俺は、ひとつ呼吸を置いた。


「その辺の美大生に、一枚五千円で描かせた絵だ」


 薫の眉が、ぐっと上がった。


「一枚、五千円⁉」

「を、五十万で売ってるのかよ⁉」


 俺は、肩をすくめた。


「こんなので、買い手がつくのか?」


「偶にな」


 俺は店の中を、ゆっくり歩いた。

 ハイヒールが床のエポキシで鳴る音が、夜の沈黙のなかに、規則正しく響いた。

 それは、自分の店の音だった。

 俺は、この音を聴くために、夜中にここに戻ってくることがある。


「うちは立地がいい。日本橋。ふらりと寄れる土地じゃないから、足を運んでくる客は、最初から買う気で来る」

「内装にも金をかけた。床のエポキシだけで、車が一台買える値段だ」

「で——」


 俺は、立ち止まり、薫を振り返った。


「もっともらしい講釈を、もっともらしくつければ」

「たまに、バカが、買ってくれる」


 薫は、何も言わなかった。

 軽蔑したわけではない、と思う。

 ただ、純粋に、自分が今いる場所の正体を、ようやく理解した、という顔だった。


「だが」


 俺は、声を落とした。


「そういう客は、長続きしねえ」

「一度買って、家に持って帰って、二週間後に冷静に見直して、ああ、いびつな絵だな、と気づく」

「次は、買いにこない」


 薫は、頷きもしなかったが、目は俺の話に、ぴたりと張り付いていた。


「ビジネスとして成立させるには、やっぱり——」


 俺は、自分が抱えていた篠山修一の絵を、軽く持ち上げた。


「本物の作家が、必要なんだよ」


 薫の視線が、その絵に飛んだ。


「そいつの絵は⁉」と薫は言った。

「それは、二百万するんだろ⁉」

「その絵は——結構マシに、見えるぞ」


 俺は、ふっ、と笑った。

 マシに見える、か。

 業界外の人間の、正直なものさし。


「こいつは、うちの数少ない、有望な作家の、一人だったんだがな……」


 俺は、絵を、軽く床に置いた。

 梱包紙のかさかさという音が、白い空間にやけに大きく響いた。


「もう契約は切れて、今は、大手のギャラリーにいっちまった」


 俺の口調が、ほんの少しだけ、湿った。


「ひでーやつだぜ」と俺は言った。

「散々、世話してやったのによお……」


 俺は、言いながら、頭のなかで、過去の何枚かの場面を撫でた。

 篠山修一の最初の個展のDMを、印刷会社の店先で校正した夜のことを。彼の画材の領収書を、半分だけ俺が持ったことを。彼が金欠で連絡してきた朝、俺が寿司桶を彼のアパートまで届けたことを。彼が結婚するときに、俺が祝儀を多めに包んだことを。

 全部、覚えていた。

 覚えていたが、繰り言にするのは品がない。

 俺は、すぐに笑顔を作り直した。


「あとは、筆を折るやつも出たり——」

「実はうちのギャラリーは、ピンチだったんだ」


 薫は、何も言わなかった。

 だが、何も言わない時間は、俺の話を聞いている時間だった。


「だが——」


 俺は、薫の正面に立った。


「代わりに、お前という存在が、現れた」


 薫は、俺を見上げた。


「俺が、全力で、お前を、トップアーティストにしてやる」と俺は言った。

「だからお前も、俺に付いて来い!」


 白い空間のなかで、俺と薫の声以外は、何も聞こえなかった。

 空調の風だけが、絵のうえを、静かに撫でていた。


 薫は、俺を、睨んだ。

 商売としての睨み方ではなかった。

 もっと、真っ直ぐな、無防備な、こいつなりの真剣な目だった。


「……なんで、俺なんだ?」


 俺は、にやりと笑った。

 ここから、第二の刃を抜く。


「じつはな、俺に——一攫千金、間違いなしのアイデアがあるんだ」


 薫の喉が、わずかに動いた。

 その喉の動きを、俺は見逃さなかった。


「お前の技術と、速度があれば、それが実現できる」


「……そのアイデアってのは?」


 俺は、答える前に、ジャケットの内側から、契約書を取り出した。

 二枚綴じの、A4の、シンプルな書類。

 俺は、それを、テーブルに、ばん、と叩きつけた。


「まずは、俺と——専属契約をしろ!」


 薫が、息を呑んだ。


「アイディアを、持ち逃げされるわけにゃ——」

「いかねえからよ‼」


---


## 四


 時間にして、十数分。


 俺は、薫に専属契約の中身を説明していた。

 要するに、今後十年間、薫が描いた絵の販売権を、俺が独占する、それだけだ。

 それだけだが、商売の世界では、それがすべてだった。

 値段がついていない作家を、値段がつくところまで連れていって、その値段の動きの全部を、俺が握る。誰にも、横から手を出させない。育つ前に、引き抜かせない。

 篠山修一のような、苦い記憶を、俺はもう、繰り返したくなかった。


「専属契約⁉」


 薫は、契約書を見つめながら、口のなかでその言葉を繰り返した。


「今後十年間」と俺は言った。

「お前が描いた絵の販売権は、俺が独占するってだけだ」


「……独占……」


 薫の声には、独占という単語に対する、独特の警戒があった。

 深夜の路上で「大金持ち」という単語に反応したときと、似ていた。

 俺は気づいたが、気づかなかったふりをした。


「別に大したことねーだろ?」と俺は言った。

「お前の絵なんか、唯の趣味だったんだから」


 俺は、契約書のうえに、自分のペンを置いた。

 モンブランのマイスターシュテュック、ボルドー軸。

 俺の祖父が、俺の二十歳の誕生日にくれた一本だった。


「さっさとこいつにサインしろ!」と俺は言った。

「早く、俺のアイデアをお前に話してえ!」


 薫は、ペンを取らなかった。


 彼の視線は、契約書の上で固まっていた。

 動かなかった。


 数瞬の、奇妙な沈黙。


 そして、薫が言った。


「無理だ。社長に殺される」


 ——え。


 俺は、自分の眉が動くのを止められなかった。


「は? 社長? どこの?」


「前田総合イベントアシスタントって所の」


 俺は、二秒、考えた。


「それ、お前のバイト先だろ?」


 薫は、頷いた。


「悪い」


 彼は、俺の目を、まっすぐに見た。


「俺、もう社長と——専属契約してるんだよ」


 俺は、笑った。


「はあ、たかがバイトに、そんなもんある訳ねえだろ」


 俺の笑い方は、軽蔑ではなかった。

 業界外の言葉と、業界の言葉を、薫が混同している、と俺は判断した。

 契約という単語は、世間では、もっとふわっとした意味で使われる。労働条件のなかに「専属」みたいな縛りがあったとしても、それは法的にはたいてい無効だ。

 俺は、彼の使った言葉を、彼が誤用したのだと、軽く受け取った。


 受け取って、笑った。


 その笑い声を、聞きながら、薫は——立ち上がった。


「あんたの話が面白かったら、つい現実を忘れてちまった」


 彼は、契約書には触れなかった。

 俺のペンにも、触れなかった。


「肉も奢ってもらったのに、悪かったな」と薫は言った。

「そのスケッチブックやるから、勘弁してくれ」


 彼は、自分のスケッチブックをテーブルのうえに、ことり、と置いた。


「じゃっ!」


 次の瞬間、薫はもう、扉に向かって駆け出していた。


「え?」


 俺の脳が、半秒、追いつかなかった。


「おい、ちょっと——」


 俺は、慌てて、絵を放り出して、追いかけた。

 扉の向こうには、もう、薫の背中があった。

 路地を、彼は走っていた。

 日本橋の裏通りを、深夜の二時前に、二十四歳のイベント会社のアルバイトが、全力疾走していた。


 俺も、走った。

 走って、五メートル進んで、靴底のレザーがエポキシじゃない普通の路面のうえで滑って、わずかにバランスを崩した。

 立て直して、また走った。

 走った。

 走った。


「……」


 遠ざかる薫の背中は、もう、二ブロック先にあった。


「走るの速っ!」


 俺は、ガードレールに手をついて、肩で息をした。

 ブリオーニのスーツが、動き慣れていなかった。ベルルッティの靴底が、走るために設計されていなかった。

 俺の身体の、ほとんどすべての装備品が、追跡には向いていなかった。


 深夜の路地は、ふたたび静かになった。

 薫の背中は、もう、見えなかった。


「くそっ!」


 俺は、夜の街のうえに、その一言を、吐き出した。


---


## 五


 翌朝、九時。


 俺は、朝のラッシュの最後尾の電車に乗って、薫のバイト先に向かっていた。


 なんて、そんな簡単に引き下がるわけねーだろ。

 俺は、心のなかで、笑っていた。

 昨夜の路地での全力疾走は、たしかに、俺の人生のなかでも上位に入る間抜けな景色だった。だが、商売の世界には、間抜けな景色を、たった一晩で逆転する手段が、いくつもある。

 手段のひとつは、出向くこと。

 もうひとつは、相手の上に直接、話を通すこと。


 薫は「社長に殺される」と言った。

 よろしい。

 じゃあ、俺が直接、その社長と話をつけてやろう。

 会社相手の交渉は、俺の本職じゃない。だが、画家の家族や、税理士や、銀行の支店長と、俺は何度も交渉してきた。「社長」が画家の親父だろうがイベント会社の代表だろうが、最終的に動かしているのは、人間と、金だ。

 俺は、両方の扱い方を、知っている。


 雑居ビルの五階。

 磨りガラスの扉に、黒い文字で「前田総合イベントアシスタント」と貼ってあった。


 ぜってえ俺と組んでもらうぜ、宍戸薫。


 俺は、扉を開けた。


 オフィスは、思ったよりも狭かった。二十坪あるかないか。机がぎゅうぎゅうに並んでいて、奥のほうの一画だけ、不自然に整頓された島がある。まあ、見なくても、あれが薫の席だった。

 手前には、事務の若い女の子が一人。


「なあ、ここに——宍戸薫って奴がいるか」


 彼女は、俺のスーツを一度ちらりと見て、それから無言で、奥のほうを指した。


「はあ……そこに」


「あ……」


 奥の机から、薫が顔を上げた。

 寝不足の顔だった。

 昨夜、店を抜けたあと、彼がどこをどう走り、どこで夜明けを迎えたのか、俺は知らない。だが、その顔はあきらかに、俺が来ることを予期していなかった。


 俺は、両手を広げた。


「おお、昨日何帰ってんだよ」


 俺は、にっこり、笑った。


「俺がお前の社長と話すから」

「俺と契約しろ」


 薫の表情が、ふっ、と引いた。


 彼は、俺のうしろを見ていた。


「あ、社長」


 俺は、振り返った。


 扉の前に、人が立っていた。

 最初、その人物が「社長」だとは思わなかった。

 ぜんぜん、社長の顔をしていなかった。


「あぁ!」


 俺は、笑顔を、整え直した。


「あなたが社長さんですかー……」


 俺は、説得できる気満々だった。


---


 暗転。


---


 最初に、感覚が戻ってきたのは、皮膚だった。


 冷たい床。

 硬い、磨かれた、しかし傷だらけの、木の床。

 その床の上に、俺は——膝を、ついていた。

 正座していた。

 なぜ、俺は、正座しているんだろう。

 しかも、なぜか、上半身が、寒い。

 寒い、どころか、なにも、着ていない。

 俺は、視線を、下に落とした。

 俺の上半身には、なにも、身につけられていなかった。


 次に、視覚が、戻ってきた。


 四方の壁には、額装された——魚拓が、飾られていた。

 黒いインクで写し取られた、巨大なヒラマサ、巨大なクエ、巨大なマグロ。

 それぞれの脇に、釣り上げた日付と、長さと、重さが、毛筆で書かれていた。

 最大のものは、二メートルを超えていた。

 壁の隅には、釣り具のラックがあった。

 磨き上げられた竿が、何本も、立てかけられていた。

 部屋全体の内装は、社長室、と呼ぶには、ひどく無口だった。

 ヤクザの事務所の——応接間に、よく似ていた。


 次に、触覚が、戻ってきた。


 俺の——左の乳首に。

 なにか、鋭いものが。

 貫通していた。


 俺は、俯いた。

 俯いて、自分の左胸を見た。


 俺の左の乳首には、銀色の、まだ新しい光沢を保った、釣り針が、刺さっていた。

 針の先からは、透明な、しかしわずかに虹色の艶を持った、ナイロンの、釣り糸が、伸びていた。

 その釣り糸は、空中に弧を描いて、部屋の反対側の——


 誰かの、手のなかに、収まっていた。


 その誰かの手は、リールを、ゆっくり、キリキリ、と巻いていた。

 巻くたびに、俺の左の乳首が、軽く、引っ張られた。

 俺は、声を、出さなかった。

 声を出すべきなのか、出してはいけないのか、その判断が、まだついていなかった。


 俺は、ゆっくりと、視線を、上にあげた。


 目の前には、釣り竿を構えた、男が、立っていた。

 社長、だろう。

 たぶん、社長だ。

 社長は、にこりとも、しなかった。

 ただ、俺の左の乳首と、自分の手のなかのリールを、淡々と見比べていた。

 まるで、釣り上げかけている獲物の、最後の抵抗を、味わっているような顔だった。


 俺は、心のなかで、ひとつだけ、呟いた。


 ——な、なんで、こんな事に……⁉


【第三話 了】

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