# 第三話 専属契約
日本橋の、表通りからは一本入った裏路地。
その路地に、戦前からの煉瓦造りの低層ビルが、肩を寄せ合うようにして並んでいる。
道幅は広くない。タクシーが一台、ぎりぎり通れるくらいの道だ。両側のビルは三階建てか四階建てで、どれも昭和の終わり頃に一度小さな改装を入れて、それからは外壁の汚れだけがゆっくり時間を吸い続けている。
昼のうちは、同業のギャラリーが何軒か、ちらほらと扉を開けている。銀座の表通りの、磨き上げられた一階展示空間とは違う種類の——もっと地味で、もっと静かで、もっと値段の高い絵を扱っている、業界向けの店。
俺の店は、その路地の中ほどにあった。
深夜だった。
路地は、ほとんど暗かった。
俺は、抱えていた篠山修一の絵をオーナーから取り戻した二百万円ぶんの梱包を、左脇に抱え直した。
右手で鍵を出す。
扉に手をかけながら、俺は半歩うしろの薫を、ちらりと見た。
薫は、ビルを見上げていた。
その仕草に、俺は——少し、満たされた。
俺の店のビルを、こうして他人の目を通して眺めるのは、なんだか久しぶりだった。
外壁は煉瓦。窓は古い鋳物の格子。一階の入口には小さな真鍮のプレート。文字は控えめに、こうある。
——KAGAYA Gallery
ここは元々、俺の祖父の画廊だった。
明治の終わりに、祖父の祖父が始めた骨董屋を、祖父の代で美術商に切り替えた。
祖父はこの店で、戦後の日本画家を何人も育てた。育てたというのは少し違う、うまく売った、というのが正しい。
祖父が死んでから、俺がここを引き継いだ。
俺は、祖父の扱った日本画を、まず全部、売り抜いた。それから店の名前を変えた。
——KAGAYA Gallery、現代アート専門。
祖父の名残を、俺は表通りの真鍮のプレートから消した。
悪いな、じいちゃん、と俺は心のなかで呟いた。
時代は、変わったんだ。
俺は、扉の鍵を回した。
古い金属が、低く、ゴリ、と鳴った。
「さあ入りな!」
俺は、扉を内側に開けて、薫を振り返った。
「こいつが俺のギャラリーだ」
薫は、目を見開いていた。
---
## 二
扉の向こうは、白かった。
壁、天井、床、すべてが白く塗られていた。床だけは光沢のあるエポキシで、靴底がきゅっと鳴る。
壁面のあちこちに、間接照明のスポットライトが当たっていて、その光の輪のなかに、絵が一枚ずつ浮かんでいる。フレームは黒。マットは白。展示台のガラスケースには、立体作品が三点。床から天井までの吹き抜け空間に、十数点の絵が、磁器のように静かに並んでいた。
空調は、温度より湿度を優先する種類の設定で動いている。
香りはない。香りは絵の敵だ。だから俺は、この店に絶対に芳香剤を置かない。
薫は、入口で立ち止まったまま、ぐるりと首だけで店内を見回した。
半開きになった口から、言葉にならない音だけが漏れた。
俺は、絵を作業台の脇に立てかけて、両手をひろげた。
「元々は俺の爺さんがやってた画廊だったんだがな」
「俺が引き継いで、現代アートギャラリーに変えたんだよ」
薫は、入口から二歩入って、いちばん近い壁の絵に向かい合った。
歪んだ球体が、緑と灰色のあいだで滲んだような絵。タイトルは「Gravity #4」。値段は税込みで五十二万円。買い手は——まだ、ついていない。
「わけわかんねー絵ばっかだな」
薫は、ひそやかに、しかしはっきりと、そう言った。
「こう言うのが現代アートって言うんだよ」
俺は、にっこり笑った。
「覚えとけ」
薫は、俺の言葉を聞いていなかった。
絵に、近づいた。
顔を絵に近づけ、顎を引いて、視線の角度を一度変え、半歩下がって、もう一度近づいた。
彼の身体の動きは、まるで——ボクシングの構えのようだった。
絵を相手に、間合いを測っていた。
「……いや、そうじゃなくて」
薫は、ぽつりと言った。
「どれもあんまり上手くないって、言ってるんだよ」
——え。
俺の口角が、わずかに止まった。
「わけわかんない絵」と「上手くない絵」は、業界の外の人間にとっては、たいてい同じものを指す。だが、薫の言い方には、ふたつを区別している声色があった。
俺は、念のために訊いた。
「お前に、絵が分かるのか?」
薫は、絵を見たまま答えた。
「価値とかは、全然わかんねえけど」
「なんか、どれも"いびつ"だ」
いびつ。
その単語は、俺の鼓膜に、低く、静かに、しかし確実に届いた。
ああ、と俺は思った。
こいつは、見えている。
うちのギャラリーに掛かっている絵は、業界の言い方をすれば、現代アート。商売の言い方をすれば、装飾品。本当の言い方をすれば——適度に「アート」な顔をした、安全な商品だ。
その安全さの正体は、「いびつ」だった。
球体の歪みの向きが、惜しいところで決まっていない。色面の境界が、論理として整合していない。バランスを意図的に崩した、と見せかけて、実は崩しきれていない。デッサンが、不完全に近代化された箇所と、不完全に印象派をなぞった箇所のあいだで、迷子になっている。
業界の九十九パーセントの人間は、それを「現代アートだから」と呑み込む。値段がついていれば、なおさら呑み込む。
ところが、こいつは——一目で「いびつ」と言った。
値段の話を、まったくしなかった。
俺は、ふっ、と笑った。
息が抜けるみたいな、楽しい笑い方だった。
「……なるほどね」
俺は、薫の隣に立った。
「やはりお前は——目もいいんだな」
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## 三
俺は、両腕で、店内全体をぐるりと示した。
「お前のいう通りだ」
「ここにあるのは、大した絵じゃあねえ」
薫は、俺の方を向いた。
「例え抽象画といっても、実際は画力は求められる」と俺は言った。
「ここで言うのは、デッサン力や、バランス、色彩感覚——」
「キュビズムの祖、ピカソだって、画力はとんでもなく高かったからな」
薫は、黙って聞いていた。
俺の話を聞ける男だった。最初の数分でそうは思わなかったが、絵を見ているときの薫は、別人のように静かだった。
「ここにある絵は——」
俺は、ひとつ呼吸を置いた。
「その辺の美大生に、一枚五千円で描かせた絵だ」
薫の眉が、ぐっと上がった。
「一枚、五千円⁉」
「を、五十万で売ってるのかよ⁉」
俺は、肩をすくめた。
「こんなので、買い手がつくのか?」
「偶にな」
俺は店の中を、ゆっくり歩いた。
ハイヒールが床のエポキシで鳴る音が、夜の沈黙のなかに、規則正しく響いた。
それは、自分の店の音だった。
俺は、この音を聴くために、夜中にここに戻ってくることがある。
「うちは立地がいい。日本橋。ふらりと寄れる土地じゃないから、足を運んでくる客は、最初から買う気で来る」
「内装にも金をかけた。床のエポキシだけで、車が一台買える値段だ」
「で——」
俺は、立ち止まり、薫を振り返った。
「もっともらしい講釈を、もっともらしくつければ」
「たまに、バカが、買ってくれる」
薫は、何も言わなかった。
軽蔑したわけではない、と思う。
ただ、純粋に、自分が今いる場所の正体を、ようやく理解した、という顔だった。
「だが」
俺は、声を落とした。
「そういう客は、長続きしねえ」
「一度買って、家に持って帰って、二週間後に冷静に見直して、ああ、いびつな絵だな、と気づく」
「次は、買いにこない」
薫は、頷きもしなかったが、目は俺の話に、ぴたりと張り付いていた。
「ビジネスとして成立させるには、やっぱり——」
俺は、自分が抱えていた篠山修一の絵を、軽く持ち上げた。
「本物の作家が、必要なんだよ」
薫の視線が、その絵に飛んだ。
「そいつの絵は⁉」と薫は言った。
「それは、二百万するんだろ⁉」
「その絵は——結構マシに、見えるぞ」
俺は、ふっ、と笑った。
マシに見える、か。
業界外の人間の、正直なものさし。
「こいつは、うちの数少ない、有望な作家の、一人だったんだがな……」
俺は、絵を、軽く床に置いた。
梱包紙のかさかさという音が、白い空間にやけに大きく響いた。
「もう契約は切れて、今は、大手のギャラリーにいっちまった」
俺の口調が、ほんの少しだけ、湿った。
「ひでーやつだぜ」と俺は言った。
「散々、世話してやったのによお……」
俺は、言いながら、頭のなかで、過去の何枚かの場面を撫でた。
篠山修一の最初の個展のDMを、印刷会社の店先で校正した夜のことを。彼の画材の領収書を、半分だけ俺が持ったことを。彼が金欠で連絡してきた朝、俺が寿司桶を彼のアパートまで届けたことを。彼が結婚するときに、俺が祝儀を多めに包んだことを。
全部、覚えていた。
覚えていたが、繰り言にするのは品がない。
俺は、すぐに笑顔を作り直した。
「あとは、筆を折るやつも出たり——」
「実はうちのギャラリーは、ピンチだったんだ」
薫は、何も言わなかった。
だが、何も言わない時間は、俺の話を聞いている時間だった。
「だが——」
俺は、薫の正面に立った。
「代わりに、お前という存在が、現れた」
薫は、俺を見上げた。
「俺が、全力で、お前を、トップアーティストにしてやる」と俺は言った。
「だからお前も、俺に付いて来い!」
白い空間のなかで、俺と薫の声以外は、何も聞こえなかった。
空調の風だけが、絵のうえを、静かに撫でていた。
薫は、俺を、睨んだ。
商売としての睨み方ではなかった。
もっと、真っ直ぐな、無防備な、こいつなりの真剣な目だった。
「……なんで、俺なんだ?」
俺は、にやりと笑った。
ここから、第二の刃を抜く。
「じつはな、俺に——一攫千金、間違いなしのアイデアがあるんだ」
薫の喉が、わずかに動いた。
その喉の動きを、俺は見逃さなかった。
「お前の技術と、速度があれば、それが実現できる」
「……そのアイデアってのは?」
俺は、答える前に、ジャケットの内側から、契約書を取り出した。
二枚綴じの、A4の、シンプルな書類。
俺は、それを、テーブルに、ばん、と叩きつけた。
「まずは、俺と——専属契約をしろ!」
薫が、息を呑んだ。
「アイディアを、持ち逃げされるわけにゃ——」
「いかねえからよ‼」
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## 四
時間にして、十数分。
俺は、薫に専属契約の中身を説明していた。
要するに、今後十年間、薫が描いた絵の販売権を、俺が独占する、それだけだ。
それだけだが、商売の世界では、それがすべてだった。
値段がついていない作家を、値段がつくところまで連れていって、その値段の動きの全部を、俺が握る。誰にも、横から手を出させない。育つ前に、引き抜かせない。
篠山修一のような、苦い記憶を、俺はもう、繰り返したくなかった。
「専属契約⁉」
薫は、契約書を見つめながら、口のなかでその言葉を繰り返した。
「今後十年間」と俺は言った。
「お前が描いた絵の販売権は、俺が独占するってだけだ」
「……独占……」
薫の声には、独占という単語に対する、独特の警戒があった。
深夜の路上で「大金持ち」という単語に反応したときと、似ていた。
俺は気づいたが、気づかなかったふりをした。
「別に大したことねーだろ?」と俺は言った。
「お前の絵なんか、唯の趣味だったんだから」
俺は、契約書のうえに、自分のペンを置いた。
モンブランのマイスターシュテュック、ボルドー軸。
俺の祖父が、俺の二十歳の誕生日にくれた一本だった。
「さっさとこいつにサインしろ!」と俺は言った。
「早く、俺のアイデアをお前に話してえ!」
薫は、ペンを取らなかった。
彼の視線は、契約書の上で固まっていた。
動かなかった。
数瞬の、奇妙な沈黙。
そして、薫が言った。
「無理だ。社長に殺される」
——え。
俺は、自分の眉が動くのを止められなかった。
「は? 社長? どこの?」
「前田総合イベントアシスタントって所の」
俺は、二秒、考えた。
「それ、お前のバイト先だろ?」
薫は、頷いた。
「悪い」
彼は、俺の目を、まっすぐに見た。
「俺、もう社長と——専属契約してるんだよ」
俺は、笑った。
「はあ、たかがバイトに、そんなもんある訳ねえだろ」
俺の笑い方は、軽蔑ではなかった。
業界外の言葉と、業界の言葉を、薫が混同している、と俺は判断した。
契約という単語は、世間では、もっとふわっとした意味で使われる。労働条件のなかに「専属」みたいな縛りがあったとしても、それは法的にはたいてい無効だ。
俺は、彼の使った言葉を、彼が誤用したのだと、軽く受け取った。
受け取って、笑った。
その笑い声を、聞きながら、薫は——立ち上がった。
「あんたの話が面白かったら、つい現実を忘れてちまった」
彼は、契約書には触れなかった。
俺のペンにも、触れなかった。
「肉も奢ってもらったのに、悪かったな」と薫は言った。
「そのスケッチブックやるから、勘弁してくれ」
彼は、自分のスケッチブックをテーブルのうえに、ことり、と置いた。
「じゃっ!」
次の瞬間、薫はもう、扉に向かって駆け出していた。
「え?」
俺の脳が、半秒、追いつかなかった。
「おい、ちょっと——」
俺は、慌てて、絵を放り出して、追いかけた。
扉の向こうには、もう、薫の背中があった。
路地を、彼は走っていた。
日本橋の裏通りを、深夜の二時前に、二十四歳のイベント会社のアルバイトが、全力疾走していた。
俺も、走った。
走って、五メートル進んで、靴底のレザーがエポキシじゃない普通の路面のうえで滑って、わずかにバランスを崩した。
立て直して、また走った。
走った。
走った。
「……」
遠ざかる薫の背中は、もう、二ブロック先にあった。
「走るの速っ!」
俺は、ガードレールに手をついて、肩で息をした。
ブリオーニのスーツが、動き慣れていなかった。ベルルッティの靴底が、走るために設計されていなかった。
俺の身体の、ほとんどすべての装備品が、追跡には向いていなかった。
深夜の路地は、ふたたび静かになった。
薫の背中は、もう、見えなかった。
「くそっ!」
俺は、夜の街のうえに、その一言を、吐き出した。
---
## 五
翌朝、九時。
俺は、朝のラッシュの最後尾の電車に乗って、薫のバイト先に向かっていた。
なんて、そんな簡単に引き下がるわけねーだろ。
俺は、心のなかで、笑っていた。
昨夜の路地での全力疾走は、たしかに、俺の人生のなかでも上位に入る間抜けな景色だった。だが、商売の世界には、間抜けな景色を、たった一晩で逆転する手段が、いくつもある。
手段のひとつは、出向くこと。
もうひとつは、相手の上に直接、話を通すこと。
薫は「社長に殺される」と言った。
よろしい。
じゃあ、俺が直接、その社長と話をつけてやろう。
会社相手の交渉は、俺の本職じゃない。だが、画家の家族や、税理士や、銀行の支店長と、俺は何度も交渉してきた。「社長」が画家の親父だろうがイベント会社の代表だろうが、最終的に動かしているのは、人間と、金だ。
俺は、両方の扱い方を、知っている。
雑居ビルの五階。
磨りガラスの扉に、黒い文字で「前田総合イベントアシスタント」と貼ってあった。
ぜってえ俺と組んでもらうぜ、宍戸薫。
俺は、扉を開けた。
オフィスは、思ったよりも狭かった。二十坪あるかないか。机がぎゅうぎゅうに並んでいて、奥のほうの一画だけ、不自然に整頓された島がある。まあ、見なくても、あれが薫の席だった。
手前には、事務の若い女の子が一人。
「なあ、ここに——宍戸薫って奴がいるか」
彼女は、俺のスーツを一度ちらりと見て、それから無言で、奥のほうを指した。
「はあ……そこに」
「あ……」
奥の机から、薫が顔を上げた。
寝不足の顔だった。
昨夜、店を抜けたあと、彼がどこをどう走り、どこで夜明けを迎えたのか、俺は知らない。だが、その顔はあきらかに、俺が来ることを予期していなかった。
俺は、両手を広げた。
「おお、昨日何帰ってんだよ」
俺は、にっこり、笑った。
「俺がお前の社長と話すから」
「俺と契約しろ」
薫の表情が、ふっ、と引いた。
彼は、俺のうしろを見ていた。
「あ、社長」
俺は、振り返った。
扉の前に、人が立っていた。
最初、その人物が「社長」だとは思わなかった。
ぜんぜん、社長の顔をしていなかった。
「あぁ!」
俺は、笑顔を、整え直した。
「あなたが社長さんですかー……」
俺は、説得できる気満々だった。
---
暗転。
---
最初に、感覚が戻ってきたのは、皮膚だった。
冷たい床。
硬い、磨かれた、しかし傷だらけの、木の床。
その床の上に、俺は——膝を、ついていた。
正座していた。
なぜ、俺は、正座しているんだろう。
しかも、なぜか、上半身が、寒い。
寒い、どころか、なにも、着ていない。
俺は、視線を、下に落とした。
俺の上半身には、なにも、身につけられていなかった。
次に、視覚が、戻ってきた。
四方の壁には、額装された——魚拓が、飾られていた。
黒いインクで写し取られた、巨大なヒラマサ、巨大なクエ、巨大なマグロ。
それぞれの脇に、釣り上げた日付と、長さと、重さが、毛筆で書かれていた。
最大のものは、二メートルを超えていた。
壁の隅には、釣り具のラックがあった。
磨き上げられた竿が、何本も、立てかけられていた。
部屋全体の内装は、社長室、と呼ぶには、ひどく無口だった。
ヤクザの事務所の——応接間に、よく似ていた。
次に、触覚が、戻ってきた。
俺の——左の乳首に。
なにか、鋭いものが。
貫通していた。
俺は、俯いた。
俯いて、自分の左胸を見た。
俺の左の乳首には、銀色の、まだ新しい光沢を保った、釣り針が、刺さっていた。
針の先からは、透明な、しかしわずかに虹色の艶を持った、ナイロンの、釣り糸が、伸びていた。
その釣り糸は、空中に弧を描いて、部屋の反対側の——
誰かの、手のなかに、収まっていた。
その誰かの手は、リールを、ゆっくり、キリキリ、と巻いていた。
巻くたびに、俺の左の乳首が、軽く、引っ張られた。
俺は、声を、出さなかった。
声を出すべきなのか、出してはいけないのか、その判断が、まだついていなかった。
俺は、ゆっくりと、視線を、上にあげた。
目の前には、釣り竿を構えた、男が、立っていた。
社長、だろう。
たぶん、社長だ。
社長は、にこりとも、しなかった。
ただ、俺の左の乳首と、自分の手のなかのリールを、淡々と見比べていた。
まるで、釣り上げかけている獲物の、最後の抵抗を、味わっているような顔だった。
俺は、心のなかで、ひとつだけ、呟いた。
——な、なんで、こんな事に……⁉
【第三話 了】




