#第二話 商談成立
「大金持ち……?」
薫は、警戒した目で俺を見ていた。
深夜の繁華街、酔客と看板灯の真ん中で、いま俺の差し出した手をまだ取らずにいる男。彼の眼の奥には、信じる準備のできていない人間特有の、堅い光があった。
俺はそれが嫌いではなかった。
むしろ、ありがたかった。一発で食いつく獲物より、警戒している獲物のほうが、最終的には高く売れる。これは商売の鉄則だ。祖父からそう教わった——いや、教わったというより、横で見て覚えた。
俺はぱっと両手を広げた。
舞台俳優のように、というより、深夜のテレビショッピングのMCのように。
軽薄に行く。最初は、軽薄に行くのが正しい。
「そうさ! いい女! いい飯! いい酒に、いい家! 誰もが羨むような、大金持ちに——」
言いかけて、ぴたりと止まった。
俺の言葉ではなく、薫の声に止められた。
「偽物の腕時計つけてる奴が、信用できるわけねえだろ」
——え?
脳のなかで、何かが、半拍ずれた。
俺はとっさに、自分の左手首を見た。
ロレックス・デイデイト。文字盤はピンクオパール。プラチナのケース。インデックスにはバゲットダイヤ。三ヶ月前、銀座の知り合いの店から「特別なルートが」と言われて、相場より少しだけ安い値段で譲ってもらった一本。請求書の桁を見たとき、自分でも一瞬笑った値段だ。
それを——こいつは、偽物だと言った。
横から若い警官が首を振って、ご丁寧にも援護に回ってきた。
「おい、アンタ何言ってんだ? どっからどう見ても、本物だよ」
「俺はこう見えても、高級品には詳しいんだ!」
うるさい黙れ、と思いつつ、俺はもう、その警官の声をほとんど聞いていなかった。
目の前の男を、見ていた。
薫はじっと俺の手首を見ていた。
その目が、徐々に、自分が見ているものを言葉にしていく。
「確かに、よく似てるけど」
「色艶とか、光の反射とか——全然違う」
言い切った。
断定する人間の声だった。
俺の喉の奥で、ひとつ、声にならない呻きが転がった。
売ってきた人間の顔を、思い浮かべた。
半年来、何枚か俺の客に絵を流してくれている男。背は低く、笑い方が嫌味なく、いい歳の取り方をしている老舗の番頭——ということになっていた男。
ああ、あいつだったか。
あの薄笑いの裏で、こんな仕事もやっていたか。
次に会ったときの顔と、そのあとに俺がどう動くかを、俺は早送りで二、三秒のうちに考え終えた。考え終えてから、俺はゆっくり、口笛を吹いた。
吹いてから、自分が口笛を吹いたことに気づいて、もう一度吹いた。
吹かないと、笑い出してしまいそうだった。
——情けない、と思った。
俺は、ギャラリストだ。
俺は、ものの真贋を見抜くのが商売の人間だ。
その俺が、自分の手首にずっと、別の誰かの細工した嘘を巻いていた。半年だ。半年、俺はこの偽物を、本物の顔をして街で振り回していた。商談の席で何度も自慢気に時計を見た。あちこちの収集家の前でこの文字盤を光らせた。
その嘘を、いま、深夜の路上で、絵の勉強をしたこともないイベント会社のバイトに——二秒で見抜かれた。
情けないのか?
それとも、嬉しいのか?
答えは、すぐに出た。
「……想像以上だ」
俺は呟いた。
これは、薫に対してではなく、自分に対しての言葉だった。
俺はそのまま、左手首から時計を外した。文字盤の重みが、ずしりと指先に乗った。本物だろうが偽物だろうが、金属の重みは正直で、こいつは確かに、ある重さで存在していた。
俺は無造作に、それを若い警官のほうに放った。
「なんか偽物らしいんで、回収しといてくれ」
「えっ、えっ⁉」
慌てて両手で受け止める警官の二の腕に、リューズが当たって、いい音がした。
あの音は、本物の音じゃないか、とちらりと思った。だが、もういい。考えるのはあとだ。俺はもう、この男にしか興味がなかった。
俺は、男のほうへ向き直った。
「お前……名前は?」
訊いてはいた。さっき、もう聞いていた。だがもう一度、自分の口で訊きたかった。
「……宍戸薫」薫は短く答えた。「てか、お前こそ誰だよ?」
「ああ、すまなかったな。俺は牧人——」
胸ポケットから名刺入れを抜く。
革は、何度かていねいに油を入れてあるから、しっとりとした艶が乗っている。ひとつまみ抜き出した名刺の角は、相変わらずぴたりと立っている。指先で、紙の厚みを数値に換算する——三五〇キログラム斤量、純白系のフレンチペーパー、活版で凹凸のない印字。
俺はその一枚を、薫の手のひらに押しつけるように渡した。
「加賀谷 牧人だ」
名刺には、シンプルに、こう刷られていた。
——ギャラリスト 加賀谷 牧人。
「ギャラ……リスト?」
薫が、口のなかで、その音を転がした。
業界外の人間の発音だった。
完璧だ、と俺は思った。
業界の言葉を、業界の発音で口にできない男。値段の付いていない男。前歴のない男。
獲物として、これ以上ない素材だった。
「お前と、ビジネスの話がしたい」と俺は言った。
「この後、時間くれるか」
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## 二
俺は薫を、新橋の馴染みの焼肉屋に連れていった。
ビルの二十八階、夜景の張り付いた高層階の個室。
窓の外には東京の夜が無限に広がっていて、東京タワーは赤い針みたいに遠くに立ち、汐留の高層ビルの灯りはまるでガラスのアクアリウムだった。
壁の三面には、絵が掛けてある。具象が二点、抽象が三点。すべて俺がオーナーに譲った絵だった。譲ったというのは少し違う、売った絵だ。絵の値段の総額より、ここでの俺の年間の飲食代のほうが、たぶん多い。
扉が閉まると、空調と肉の匂いと、それからかすかな炭の匂いだけが残った。
炭火が網のうえで赤く透けている。
厚切りの肉が、店員の手で、丁寧に並べられた。
脂が落ちて、ぱちん、と弾けた。
その瞬間、薫が——肉を、奪った。
トングを使う気もなかった。箸で攫って、息を吐く間もなく口に放り込んだ。咀嚼。次。咀嚼。次。脂を呑む音が、俺のすぐ向こうで鳴っていた。
俺は、トングを持ったまま、しばらく動けなかった。
胸には、ご丁寧に店員が掛けてくれた小さなエプロンがあった。馬鹿みたいに見える、と自分でも思った。
「遠慮がねえな?」と俺は言った。「超一流店だぜ?」
薫は俺を見もしなかった。
咀嚼しながら、口のなかに肉を押し込みながら、こう答えた。
「この店を選んだのは、アンタだ」
「さっさと、そのビジネスってやつの話を、しろよ」
ふっ、と俺は笑った。
普段の俺なら、品の悪い客はそれだけで嫌う。だが、薫の食いっぷりには、嫌悪する種類の品の悪さがなかった。
彼は、ただ、空腹だった。
深夜まで安い時給で働いて、家ではろくに食べていない人間の食べ方だった。値段のついた肉を、値段で食べていない。腹が減っているから、食っている。それだけだ。
たぶん、これが、俺にはいちばん効いた。
俺の周りの人間は、もう、本当に空腹で物を食う、ということをやらない。みんな、味で食うか、見栄で食うか、健康で食うかだ。空腹を腹に詰めるためだけに食う、という根本の動詞を、忘れている。
この男は、忘れていなかった。
いいなあ、と思った。
純粋に、いいなあ、と。
「分かったよ。単刀直入に、いう」
俺はトングを置いた。
「お前、俺と——組まないか?」
薫は咀嚼を止めずに、嘲るように返した。
「組む? まさか——漫才でも、やりたいとか言うなよ」
んふっ、と俺は思わず吹き出した。
「何だよ」
「いや。お前、冗談とか、いうんだな」
冗談を言える人間は、まだ救いがある。
完全に擦り切れた人間は、冗談すら言わなくなる。
俺の業界には、そういう冗談を言わなくなった画家を、何人も見てきた。
「うるせー、さっさと話せ」
俺は、笑いを引っ込めて、背筋を伸ばした。
ここからは、商売の声だ。
「いいか。俺はギャラリスト、いわゆる美術商だ」
「その俺がお前と組むということは、つまり——」
網の上で、新しい一切れの脂が爆ぜた。
「お前が描いたものを、俺が売る、って言ってんだよ」
薫は、ようやく咀嚼を止めた。
肉を呑み下す喉の動きが、わずかに止まった。
「それ——本気で言ってたんだな」
「もちろんだ」
俺は、勝負どころで使う声で、続けた。
深く、低く、ゆっくりと。
「高値で、売ってやる」
「二人で、大金持ちになろうぜ?」
大金持ち、という単語に、薫の眉がほんの少しだけ動いた。
動いたが、信じてはいなかった。
彼はゆっくり首を振った。
「……でも、俺、ちゃんとした絵なんか、描いた事ないぜ?」
ちゃんとした、絵。
俺の眉が、ぴくりと反応した。
「ちゃんとした、絵?」
薫は、箸の先で、俺の背後の壁を指した。
壁に飾られた、油彩の一枚。
「絵ってのは、そういう奴だろ?」
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## 三
ああ、と俺は思った。
こいつは、まだ、俺の世界の言語を、習得していない。
その壁の絵を、俺は振り返って眺めた。
篠山修一。三十二歳。地方美大出身。三年前に俺が銀座のグループ展で見つけて、それから着実に値を上げてきた、俺の手駒のひとり。
花を抽象化したような色面の絵。ターコイズと黄土。技術的な瑕疵はない。安全な、適度に「アート」な顔をしている、適度に売れる絵だ。
俺の客のうち何人かは、こいつの絵を「アート」だと信じて飾っている。
「ああ、これは——篠山修一って、若手の画家が描いた作品だな」
「で、これが? 何だって」
「だから——そういうのが、売れる絵じゃん」
薫の声には、自分でも気づいていない種類の慎みがあった。
普通の人間が、まっとうな世界の人間に向けて発するときの、漠然とした敬意。
売れる絵、とは?
俺はあえて、訊き返した。
「なんとなく、俺でもわかるよ」と薫は言った。
「アートって、いうんだろ?」
「ちゃんとした画家が、誰かに何かを伝えたいって思って——時間をかけて、書かれた絵だ」
「……」
俺は、声を出さなかった。
黙ったまま、薫の顔を見ていた。
ああ、こいつは、まだ何も知らない。
業界が、どんな悪意と冗談と、ジジイとババアの趣味と、税金対策と、見栄と、コカインと、ベッドの上の口約束で動いているか。
絵に値段がつくということが、どういう茶番なのか。
知らない。
知らないまま、絵を「ちゃんとした絵」だと信じて、自分のスケッチを「大したものじゃない」と切り捨てる。
それは、業界の外で、業界の常識を持たないまま育った人間の——清潔さ、だった。
清潔。
その清潔さこそ、俺の商売の養分だ。
薫は、続けた。
「それに比べて、俺のなんか——スケッチブックに、ボールペンで殴り書いてる、だけだ」
「別に、その絵に何の意味も、込めてねえよ」
俺は、彼の話の最後を、待たなかった。
「分かった」
俺は片手を上げた。
「今すぐ、お前の絵を売ってやる」
「は?」
薫の口のなかには、まだ肉のかけらが残っていた。
俺は、店員のほうを向いて、いつもの調子で声をかけた。
「おーい、オーナー呼んでくれるか?」
薫が、目を細めた。
なにかが起こりかけている、と気づいた人間の表情だった。
それで、いい。
ここからは、見せ物だ。
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## 四
ほどなく、扉が静かに開いた。
入ってきたのは、五十代の半ばの男だった。
仕立てのいいダブルのスーツ、磨き上げられた革靴、品のある笑み、油断のない目。両手を腹のあたりで重ねるように軽く組んで、扉のところで一度きれいに腰を折った。
頭の上のほうに、わずかな寝癖が残っていた。
ああ、店じまい間際を起こしたな、と俺は思った。悪かったな、と心のなかで詫びて、すぐにそれを忘れた。
「これはこれは加賀谷さん、いつも、ありがとうございます」
オーナー——名前は仮に、Mとしておく。
業界では、それなりに知られた男だ。表向きの本業は飲食、裏側では何枚かの絵を流している。怪しい絵じゃない。法律的にはまったく綺麗な絵を、ただ「税金がかかる前に動かしたい」客のあいだで、迅速に動かしている。
俺とMの関係は、五年だ。
「今日は、オーナーに頼みがあるんだけどさ」
「? なんでしょう?」
俺は、壁の篠山修一を、顎で示した。
「この絵、売ってくれる?」
Mの表情が、ほんの一瞬だけ、止まった。
「……この絵は、加賀谷さんから譲っていただいた、絵ですが?」
「ちょっと、他に欲しいって人がいてね」
俺は、ちらりと、薫を見た。
薫はまだ、肉を呑み下したきりの顔で、なにが起きているのか分からない目をしていた。
「この人は——村上さんって言って、俺のお客さん」
俺は、まったくの作り名で、薫を紹介した。
Mの目が、ほんのわずかに泳いだ。
見たことのない若造、汚れたスニーカー、安シャツ、誰がどう見ても俺の客じゃない男。それが俺の口から「村上さん」と紹介された。
Mの視線は、〇.五秒で、自分の解釈を完了させた。
ああ、なるほど、これは俺と加賀谷さんのいつもの「やつ」だな。
うちの店で、この人と「あれ」をやるんだな。
Mの口角が、わずかに弛んだ。
「……お幾らで、買って頂けるのですか?」
値踏みをするように、Mが訊いた。
予定調和の声だった。
「確か、この絵は五十万で売ったはずだから」と俺は言った。
「倍の、百万でどうだ」
Mの口角が、もう一度、商売人の歪み方に整った。
「……少々、お時間頂けると」
俺は、間を置かずに、内ポケットから無造作に札束を取り出した。
帯封のかかった、百万の束を二つ。テーブルのうえに、ずん、と並べた。
炭火が、その重みに反応するみたいに、また一度、ぱちんと爆ぜた。
「分かった。もう百万、出そう!」
Mの目が、いっぺんに開いた。
いっぺんに開いたが、開きすぎていなかった。
あの目の開き方には、訓練がある。
「本気、ですか?」
俺は頷いた。
「当然、条件がある」
「条件は——」
ここからの段取りは、五年でMと俺で、すでに何度か踏んでいた。
第一に、契約書を二枚作る。一枚は、俺が篠山修一の絵を二百万でMから買う。もう一枚は、Mが「村上さん」の絵を、百万で買う。
第二に、壁の絵をすぐ入れ替える。脚立を持ってきて、篠山修一の絵を外す。代わりに、薫のスケッチブックの一枚を、店の額装で、ぴしりと飾る。
第三に、現金は俺が預けた二百万のうち百万をMが引き、残り百万が、その場で「村上さん」に支払われたという書類が完成する。
所要時間、十分。
薫は、しばらく、口を半開きにしたまま、その光景を見ていた。
契約書にサインするM。脚立にのって絵を外す店員。額装を確認する別の店員。
俺は、テーブルに置いた札束のうえに片肘をついて、薫の表情を、じっと観察していた。
俺自身の祖父の声が、頭のなかで、低く響いていた。
——金になるからだ。
俺はその声に、心のなかで、頷いた。
いま、俺は、祖父が便器の前で俺に教えてくれた呪文の続きを、自分の流儀で、自分の手で、編んでいた。
値段がついていないものに、こちらの言い値で値段をつけてみせる。
帳面のうえだけで、絵の価値が——いや、絵の値段が——百万円になる。
誰も損をしない、誰の懐も痛まない、誰のものでもない、ただの数字の動き。
それがこの世界の魔法だった。
最後の一枚の書類に、Mが万年筆でサインを終え、丁寧に俺のほうに向けて差し出した。
「以上で、お預かりいたします」
壁では、いつのまにか、薫のスケッチが、額装の中で輝いていた。
深夜の繁華街の人混み。鉛筆のぎざぎざの線で、生きたまま紙のうえに留め置かれた、四十分前の景色。
篠山修一の整った抽象画があった場所に、それは——置物として、堂々と、そこに座っていた。
いいじゃないか、と俺は思った。
むしろ、こっちのほうがよっぽど、いい。
俺は、薫の方を向いた。
「さあ。お前の絵が、売れたぜ?」
---
## 五
しん、と室内が静まり返った。
網の上で、燃え尽きかけた炭が、最後の一弾けをした。
Mと店員は、空気を読んで、すでに扉の向こうに退いていた。個室に残ったのは、俺と薫の二人だけ。
札束の積まれていたテーブルのうえには、契約書が二枚、整然と並んでいた。
薫の口から、最初、まともな声が出なかった。
「は? 何言ってんだ、オメー」
俺は、にやにやしていた。
たぶん、自分でも気づかないうちに、いつもの俺らしくない、子供みたいな笑顔になっていた。
商売の笑い方じゃなかった。
演技でも、ない。
純粋に、楽しかった。
「どうした? お前の絵が、百万円で、売れたじゃねーか?」
薫は、両手で頭をクシャクシャと掻きむしった。
「それは、お前が渡した二百万から出した金じゃねーか!」
「売れた、って言わねーだろ‼」
俺は、テーブルのうえに、二枚の契約書を、ばん、と置いた。
「売れたんだよ」
「商取引として、成立しただろうが?」
「……」
「いいか。俺は、二百万で篠山修一の絵を買った。Mは、百万でお前の絵を買った」
「この結果に、嘘はあるのかい? ええ?」
薫は、答えなかった。
答えられなかった。
彼は、業界の外の住人だった。彼の目には、いま自分の眼前で行なわれた取引が、どう見ても八百長で、どう見ても茶番だった。だが、書類のうえには、それが「正当な商取引」として、二度と動かせない事実になって、座っていた。
彼が信じている「ちゃんとした絵」と、俺が動かしている「百万円で売れた絵」のあいだには、論理の段差があった。
その段差は、契約書二枚で、簡単に飛び越えられる種類の段差だった。
俺は、人差し指を立てた。
「いいか、薫?」
「金なんか——ただの、数字の羅列だ」
「物事の本質的な価値とは、関係ねえ」
「麻布台ヒルズの、二百億円の部屋」
「大谷の契約金、千十四億」
「Appleの時価総額、四百三十兆円」
俺は、数字を、銃声みたいに撃ち放った。
二百億円。
千十四億円。
四百三十兆円。
それは、ほとんどの日本人にとって、ただの呪文だった。
唱えれば唱えるほど、現実から離れていく音だった。
薫は、俺の口から飛び出すその数字の連射を、唖然と見ていた。
「いくら大金だろうが——怯むな」
「ただの家、ただの人、ただの会社だ」
俺は、もう一度、人差し指を、薫のほうに向けた。
「買う人間がいるから——その値段がつく」
炭火が、ふっと、最後の輝きをみせて、灰のなかに落ちた。
俺は、笑った。
「だから、よ?」
「まずは、お前の絵を——五百万円で、売れるようにしようぜ」
五百万円。
その数字を、俺はあえて、軽く吐き出した。
俺たちの業界では、五百万なんて、最低の最低の最低の、入口にも届かない値段だ。だが、薫にとっては、それは——
俺は、薫の目の動きを、見ていた。
わずかに、瞳孔が、動いた。
動いたが、すぐに戻った。
そして、数瞬遅れて、ほんのかすかに、表情が緩んだ。
ああ、いま。
いま、こいつは、こう思った。
——五百万。
——安いな。
俺は、笑い出した。
「あっ!」
薫の肩が、ビクッと跳ねた。
図星だった。
俺は、人差し指を、彼に突きつけた。
「お前、今——最初の五百万、安っ、と思っただろう⁉」
薫の頬が、わずかに、赤くなった。
怒りでも、恥でもなかった。
自分がいま、自分でも気づかないうちに、なにかの線を踏み越えてしまった——そのことに気づいた人間の、戸惑いの赤さだった。
俺は、立ち上がった。
「ふっ」
「だから——金なんて、そんなもんなんだよ」
窓の外で、東京タワーは、まだ赤い針みたいに立っていた。
俺は、その夜景に、軽く右手を差し出した。
深夜の路上で、最初に薫に差し出したのとは違う角度の、違う重さの、違う意味の手だった。
あの最初の手は、商談の入口の手だった。
いまの手は——商談が成立した、契約の手だった。
「付いてこい、薫」
「俺のギャラリーに、招待してやる」
薫は、しばらく、その手を見ていた。
まだ、その手は取らなかった。
だが、彼の目は、もう、最初に俺を睨み返したあのときの目とは、別の目になっていた。
俺は、知っていた。
あとは、時間の問題だ。
窓の外には、四百三十兆円の重みでも、千十四億の重みでも、二百億の重みでも、押し潰せない種類の夜が広がっていた。
その夜のなかで、俺と薫の取引は、たしかに——成立していた。
【第二話 了】




