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アート&マネー  作者: Zoo
2/10

#第二話 商談成立


「大金持ち……?」


 薫は、警戒した目で俺を見ていた。

 深夜の繁華街、酔客と看板灯の真ん中で、いま俺の差し出した手をまだ取らずにいる男。彼の眼の奥には、信じる準備のできていない人間特有の、堅い光があった。

 俺はそれが嫌いではなかった。

 むしろ、ありがたかった。一発で食いつく獲物より、警戒している獲物のほうが、最終的には高く売れる。これは商売の鉄則だ。祖父からそう教わった——いや、教わったというより、横で見て覚えた。


 俺はぱっと両手を広げた。

 舞台俳優のように、というより、深夜のテレビショッピングのMCのように。

 軽薄に行く。最初は、軽薄に行くのが正しい。


「そうさ! いい女! いい飯! いい酒に、いい家! 誰もが羨むような、大金持ちに——」


 言いかけて、ぴたりと止まった。

 俺の言葉ではなく、薫の声に止められた。


「偽物の腕時計つけてる奴が、信用できるわけねえだろ」


 ——え?


 脳のなかで、何かが、半拍ずれた。

 俺はとっさに、自分の左手首を見た。

 ロレックス・デイデイト。文字盤はピンクオパール。プラチナのケース。インデックスにはバゲットダイヤ。三ヶ月前、銀座の知り合いの店から「特別なルートが」と言われて、相場より少しだけ安い値段で譲ってもらった一本。請求書の桁を見たとき、自分でも一瞬笑った値段だ。


 それを——こいつは、偽物だと言った。


 横から若い警官が首を振って、ご丁寧にも援護に回ってきた。


「おい、アンタ何言ってんだ? どっからどう見ても、本物だよ」

「俺はこう見えても、高級品には詳しいんだ!」


 うるさい黙れ、と思いつつ、俺はもう、その警官の声をほとんど聞いていなかった。

 目の前の男を、見ていた。


 薫はじっと俺の手首を見ていた。

 その目が、徐々に、自分が見ているものを言葉にしていく。


「確かに、よく似てるけど」

「色艶とか、光の反射とか——全然違う」


 言い切った。

 断定する人間の声だった。


 俺の喉の奥で、ひとつ、声にならない呻きが転がった。


 売ってきた人間の顔を、思い浮かべた。

 半年来、何枚か俺の客に絵を流してくれている男。背は低く、笑い方が嫌味なく、いい歳の取り方をしている老舗の番頭——ということになっていた男。

 ああ、あいつだったか。

 あの薄笑いの裏で、こんな仕事もやっていたか。

 次に会ったときの顔と、そのあとに俺がどう動くかを、俺は早送りで二、三秒のうちに考え終えた。考え終えてから、俺はゆっくり、口笛を吹いた。


 吹いてから、自分が口笛を吹いたことに気づいて、もう一度吹いた。

 吹かないと、笑い出してしまいそうだった。


 ——情けない、と思った。

 俺は、ギャラリストだ。

 俺は、ものの真贋を見抜くのが商売の人間だ。

 その俺が、自分の手首にずっと、別の誰かの細工した嘘を巻いていた。半年だ。半年、俺はこの偽物を、本物の顔をして街で振り回していた。商談の席で何度も自慢気に時計を見た。あちこちの収集家の前でこの文字盤を光らせた。

 その嘘を、いま、深夜の路上で、絵の勉強をしたこともないイベント会社のバイトに——二秒で見抜かれた。


 情けないのか?

 それとも、嬉しいのか?

 答えは、すぐに出た。


「……想像以上だ」


 俺は呟いた。

 これは、薫に対してではなく、自分に対しての言葉だった。


 俺はそのまま、左手首から時計を外した。文字盤の重みが、ずしりと指先に乗った。本物だろうが偽物だろうが、金属の重みは正直で、こいつは確かに、ある重さで存在していた。

 俺は無造作に、それを若い警官のほうに放った。


「なんか偽物らしいんで、回収しといてくれ」


「えっ、えっ⁉」


 慌てて両手で受け止める警官の二の腕に、リューズが当たって、いい音がした。

 あの音は、本物の音じゃないか、とちらりと思った。だが、もういい。考えるのはあとだ。俺はもう、この男にしか興味がなかった。


 俺は、男のほうへ向き直った。


「お前……名前は?」


 訊いてはいた。さっき、もう聞いていた。だがもう一度、自分の口で訊きたかった。


「……宍戸薫」薫は短く答えた。「てか、お前こそ誰だよ?」


「ああ、すまなかったな。俺は牧人——」


 胸ポケットから名刺入れを抜く。

 革は、何度かていねいに油を入れてあるから、しっとりとした艶が乗っている。ひとつまみ抜き出した名刺の角は、相変わらずぴたりと立っている。指先で、紙の厚みを数値に換算する——三五〇キログラム斤量、純白系のフレンチペーパー、活版で凹凸のない印字。

 俺はその一枚を、薫の手のひらに押しつけるように渡した。


「加賀谷 牧人だ」


 名刺には、シンプルに、こう刷られていた。


 ——ギャラリスト 加賀谷 牧人。


「ギャラ……リスト?」


 薫が、口のなかで、その音を転がした。

 業界外の人間の発音だった。

 完璧だ、と俺は思った。

 業界の言葉を、業界の発音で口にできない男。値段の付いていない男。前歴のない男。

 獲物として、これ以上ない素材だった。


「お前と、ビジネスの話がしたい」と俺は言った。

「この後、時間くれるか」


---


## 二


 俺は薫を、新橋の馴染みの焼肉屋に連れていった。


 ビルの二十八階、夜景の張り付いた高層階の個室。

 窓の外には東京の夜が無限に広がっていて、東京タワーは赤い針みたいに遠くに立ち、汐留の高層ビルの灯りはまるでガラスのアクアリウムだった。

 壁の三面には、絵が掛けてある。具象が二点、抽象が三点。すべて俺がオーナーに譲った絵だった。譲ったというのは少し違う、売った絵だ。絵の値段の総額より、ここでの俺の年間の飲食代のほうが、たぶん多い。


 扉が閉まると、空調と肉の匂いと、それからかすかな炭の匂いだけが残った。


 炭火が網のうえで赤く透けている。

 厚切りの肉が、店員の手で、丁寧に並べられた。

 脂が落ちて、ぱちん、と弾けた。


 その瞬間、薫が——肉を、奪った。


 トングを使う気もなかった。箸で攫って、息を吐く間もなく口に放り込んだ。咀嚼。次。咀嚼。次。脂を呑む音が、俺のすぐ向こうで鳴っていた。

 俺は、トングを持ったまま、しばらく動けなかった。

 胸には、ご丁寧に店員が掛けてくれた小さなエプロンがあった。馬鹿みたいに見える、と自分でも思った。


「遠慮がねえな?」と俺は言った。「超一流店だぜ?」


 薫は俺を見もしなかった。

 咀嚼しながら、口のなかに肉を押し込みながら、こう答えた。


「この店を選んだのは、アンタだ」

「さっさと、そのビジネスってやつの話を、しろよ」


 ふっ、と俺は笑った。

 普段の俺なら、品の悪い客はそれだけで嫌う。だが、薫の食いっぷりには、嫌悪する種類の品の悪さがなかった。

 彼は、ただ、空腹だった。

 深夜まで安い時給で働いて、家ではろくに食べていない人間の食べ方だった。値段のついた肉を、値段で食べていない。腹が減っているから、食っている。それだけだ。

 たぶん、これが、俺にはいちばん効いた。

 俺の周りの人間は、もう、本当に空腹で物を食う、ということをやらない。みんな、味で食うか、見栄で食うか、健康で食うかだ。空腹を腹に詰めるためだけに食う、という根本の動詞を、忘れている。

 この男は、忘れていなかった。


 いいなあ、と思った。

 純粋に、いいなあ、と。


「分かったよ。単刀直入に、いう」


 俺はトングを置いた。


「お前、俺と——組まないか?」


 薫は咀嚼を止めずに、嘲るように返した。


「組む? まさか——漫才でも、やりたいとか言うなよ」


 んふっ、と俺は思わず吹き出した。


「何だよ」


「いや。お前、冗談とか、いうんだな」


 冗談を言える人間は、まだ救いがある。

 完全に擦り切れた人間は、冗談すら言わなくなる。

 俺の業界には、そういう冗談を言わなくなった画家を、何人も見てきた。


「うるせー、さっさと話せ」


 俺は、笑いを引っ込めて、背筋を伸ばした。

 ここからは、商売の声だ。


「いいか。俺はギャラリスト、いわゆる美術商だ」

「その俺がお前と組むということは、つまり——」


 網の上で、新しい一切れの脂が爆ぜた。


「お前が描いたものを、俺が売る、って言ってんだよ」


 薫は、ようやく咀嚼を止めた。

 肉を呑み下す喉の動きが、わずかに止まった。


「それ——本気で言ってたんだな」


「もちろんだ」


 俺は、勝負どころで使う声で、続けた。

 深く、低く、ゆっくりと。


「高値で、売ってやる」

「二人で、大金持ちになろうぜ?」


 大金持ち、という単語に、薫の眉がほんの少しだけ動いた。

 動いたが、信じてはいなかった。

 彼はゆっくり首を振った。


「……でも、俺、ちゃんとした絵なんか、描いた事ないぜ?」


 ちゃんとした、絵。


 俺の眉が、ぴくりと反応した。


「ちゃんとした、絵?」


 薫は、箸の先で、俺の背後の壁を指した。

 壁に飾られた、油彩の一枚。


「絵ってのは、そういう奴だろ?」


---


## 三


 ああ、と俺は思った。

 こいつは、まだ、俺の世界の言語を、習得していない。


 その壁の絵を、俺は振り返って眺めた。

 篠山修一。三十二歳。地方美大出身。三年前に俺が銀座のグループ展で見つけて、それから着実に値を上げてきた、俺の手駒のひとり。

 花を抽象化したような色面の絵。ターコイズと黄土。技術的な瑕疵はない。安全な、適度に「アート」な顔をしている、適度に売れる絵だ。

 俺の客のうち何人かは、こいつの絵を「アート」だと信じて飾っている。


「ああ、これは——篠山修一って、若手の画家が描いた作品だな」


「で、これが? 何だって」


「だから——そういうのが、売れる絵じゃん」


 薫の声には、自分でも気づいていない種類の慎みがあった。

 普通の人間が、まっとうな世界の人間に向けて発するときの、漠然とした敬意。


 売れる絵、とは?


 俺はあえて、訊き返した。


「なんとなく、俺でもわかるよ」と薫は言った。

「アートって、いうんだろ?」

「ちゃんとした画家が、誰かに何かを伝えたいって思って——時間をかけて、書かれた絵だ」


「……」


 俺は、声を出さなかった。

 黙ったまま、薫の顔を見ていた。

 ああ、こいつは、まだ何も知らない。

 業界が、どんな悪意と冗談と、ジジイとババアの趣味と、税金対策と、見栄と、コカインと、ベッドの上の口約束で動いているか。

 絵に値段がつくということが、どういう茶番なのか。

 知らない。


 知らないまま、絵を「ちゃんとした絵」だと信じて、自分のスケッチを「大したものじゃない」と切り捨てる。

 それは、業界の外で、業界の常識を持たないまま育った人間の——清潔さ、だった。

 清潔。

 その清潔さこそ、俺の商売の養分だ。


 薫は、続けた。


「それに比べて、俺のなんか——スケッチブックに、ボールペンで殴り書いてる、だけだ」

「別に、その絵に何の意味も、込めてねえよ」


 俺は、彼の話の最後を、待たなかった。


「分かった」


 俺は片手を上げた。


「今すぐ、お前の絵を売ってやる」


「は?」


 薫の口のなかには、まだ肉のかけらが残っていた。

 俺は、店員のほうを向いて、いつもの調子で声をかけた。


「おーい、オーナー呼んでくれるか?」


 薫が、目を細めた。

 なにかが起こりかけている、と気づいた人間の表情だった。

 それで、いい。

 ここからは、見せ物だ。


---


## 四


 ほどなく、扉が静かに開いた。


 入ってきたのは、五十代の半ばの男だった。

 仕立てのいいダブルのスーツ、磨き上げられた革靴、品のある笑み、油断のない目。両手を腹のあたりで重ねるように軽く組んで、扉のところで一度きれいに腰を折った。

 頭の上のほうに、わずかな寝癖が残っていた。

 ああ、店じまい間際を起こしたな、と俺は思った。悪かったな、と心のなかで詫びて、すぐにそれを忘れた。


「これはこれは加賀谷さん、いつも、ありがとうございます」


 オーナー——名前は仮に、Mとしておく。

 業界では、それなりに知られた男だ。表向きの本業は飲食、裏側では何枚かの絵を流している。怪しい絵じゃない。法律的にはまったく綺麗な絵を、ただ「税金がかかる前に動かしたい」客のあいだで、迅速に動かしている。

 俺とMの関係は、五年だ。


「今日は、オーナーに頼みがあるんだけどさ」


「? なんでしょう?」


 俺は、壁の篠山修一を、顎で示した。


「この絵、売ってくれる?」


 Mの表情が、ほんの一瞬だけ、止まった。


「……この絵は、加賀谷さんから譲っていただいた、絵ですが?」


「ちょっと、他に欲しいって人がいてね」


 俺は、ちらりと、薫を見た。

 薫はまだ、肉を呑み下したきりの顔で、なにが起きているのか分からない目をしていた。


「この人は——村上さんって言って、俺のお客さん」


 俺は、まったくの作り名で、薫を紹介した。

 Mの目が、ほんのわずかに泳いだ。

 見たことのない若造、汚れたスニーカー、安シャツ、誰がどう見ても俺の客じゃない男。それが俺の口から「村上さん」と紹介された。

 Mの視線は、〇.五秒で、自分の解釈を完了させた。

 ああ、なるほど、これは俺と加賀谷さんのいつもの「やつ」だな。

 うちの店で、この人と「あれ」をやるんだな。

 Mの口角が、わずかに弛んだ。


「……お幾らで、買って頂けるのですか?」


 値踏みをするように、Mが訊いた。

 予定調和の声だった。


「確か、この絵は五十万で売ったはずだから」と俺は言った。

「倍の、百万でどうだ」


 Mの口角が、もう一度、商売人の歪み方に整った。


「……少々、お時間頂けると」


 俺は、間を置かずに、内ポケットから無造作に札束を取り出した。

 帯封のかかった、百万の束を二つ。テーブルのうえに、ずん、と並べた。

 炭火が、その重みに反応するみたいに、また一度、ぱちんと爆ぜた。


「分かった。もう百万、出そう!」


 Mの目が、いっぺんに開いた。

 いっぺんに開いたが、開きすぎていなかった。

 あの目の開き方には、訓練がある。


「本気、ですか?」


 俺は頷いた。


「当然、条件がある」

「条件は——」


 ここからの段取りは、五年でMと俺で、すでに何度か踏んでいた。


 第一に、契約書を二枚作る。一枚は、俺が篠山修一の絵を二百万でMから買う。もう一枚は、Mが「村上さん」の絵を、百万で買う。

 第二に、壁の絵をすぐ入れ替える。脚立を持ってきて、篠山修一の絵を外す。代わりに、薫のスケッチブックの一枚を、店の額装で、ぴしりと飾る。

 第三に、現金は俺が預けた二百万のうち百万をMが引き、残り百万が、その場で「村上さん」に支払われたという書類が完成する。

 所要時間、十分。


 薫は、しばらく、口を半開きにしたまま、その光景を見ていた。

 契約書にサインするM。脚立にのって絵を外す店員。額装を確認する別の店員。

 俺は、テーブルに置いた札束のうえに片肘をついて、薫の表情を、じっと観察していた。


 俺自身の祖父の声が、頭のなかで、低く響いていた。


 ——金になるからだ。


 俺はその声に、心のなかで、頷いた。

 いま、俺は、祖父が便器の前で俺に教えてくれた呪文の続きを、自分の流儀で、自分の手で、編んでいた。

 値段がついていないものに、こちらの言い値で値段をつけてみせる。

 帳面のうえだけで、絵の価値が——いや、絵の値段が——百万円になる。

 誰も損をしない、誰の懐も痛まない、誰のものでもない、ただの数字の動き。

 それがこの世界の魔法だった。


 最後の一枚の書類に、Mが万年筆でサインを終え、丁寧に俺のほうに向けて差し出した。


「以上で、お預かりいたします」


 壁では、いつのまにか、薫のスケッチが、額装の中で輝いていた。

 深夜の繁華街の人混み。鉛筆のぎざぎざの線で、生きたまま紙のうえに留め置かれた、四十分前の景色。

 篠山修一の整った抽象画があった場所に、それは——置物として、堂々と、そこに座っていた。


 いいじゃないか、と俺は思った。

 むしろ、こっちのほうがよっぽど、いい。


 俺は、薫の方を向いた。


「さあ。お前の絵が、売れたぜ?」


---


## 五


 しん、と室内が静まり返った。


 網の上で、燃え尽きかけた炭が、最後の一弾けをした。

 Mと店員は、空気を読んで、すでに扉の向こうに退いていた。個室に残ったのは、俺と薫の二人だけ。

 札束の積まれていたテーブルのうえには、契約書が二枚、整然と並んでいた。


 薫の口から、最初、まともな声が出なかった。


「は? 何言ってんだ、オメー」


 俺は、にやにやしていた。

 たぶん、自分でも気づかないうちに、いつもの俺らしくない、子供みたいな笑顔になっていた。

 商売の笑い方じゃなかった。

 演技でも、ない。

 純粋に、楽しかった。


「どうした? お前の絵が、百万円で、売れたじゃねーか?」


 薫は、両手で頭をクシャクシャと掻きむしった。


「それは、お前が渡した二百万から出した金じゃねーか!」

「売れた、って言わねーだろ‼」


 俺は、テーブルのうえに、二枚の契約書を、ばん、と置いた。


「売れたんだよ」

「商取引として、成立しただろうが?」


「……」


「いいか。俺は、二百万で篠山修一の絵を買った。Mは、百万でお前の絵を買った」

「この結果に、嘘はあるのかい? ええ?」


 薫は、答えなかった。

 答えられなかった。

 彼は、業界の外の住人だった。彼の目には、いま自分の眼前で行なわれた取引が、どう見ても八百長で、どう見ても茶番だった。だが、書類のうえには、それが「正当な商取引」として、二度と動かせない事実になって、座っていた。

 彼が信じている「ちゃんとした絵」と、俺が動かしている「百万円で売れた絵」のあいだには、論理の段差があった。

 その段差は、契約書二枚で、簡単に飛び越えられる種類の段差だった。


 俺は、人差し指を立てた。


「いいか、薫?」

「金なんか——ただの、数字の羅列だ」

「物事の本質的な価値とは、関係ねえ」


「麻布台ヒルズの、二百億円の部屋」

「大谷の契約金、千十四億」

「Appleの時価総額、四百三十兆円」


 俺は、数字を、銃声みたいに撃ち放った。


 二百億円。

 千十四億円。

 四百三十兆円。


 それは、ほとんどの日本人にとって、ただの呪文だった。

 唱えれば唱えるほど、現実から離れていく音だった。

 薫は、俺の口から飛び出すその数字の連射を、唖然と見ていた。


「いくら大金だろうが——怯むな」

「ただの家、ただの人、ただの会社だ」


 俺は、もう一度、人差し指を、薫のほうに向けた。


「買う人間がいるから——その値段がつく」


 炭火が、ふっと、最後の輝きをみせて、灰のなかに落ちた。

 俺は、笑った。


「だから、よ?」

「まずは、お前の絵を——五百万円で、売れるようにしようぜ」


 五百万円。


 その数字を、俺はあえて、軽く吐き出した。

 俺たちの業界では、五百万なんて、最低の最低の最低の、入口にも届かない値段だ。だが、薫にとっては、それは——

 俺は、薫の目の動きを、見ていた。


 わずかに、瞳孔が、動いた。

 動いたが、すぐに戻った。

 そして、数瞬遅れて、ほんのかすかに、表情が緩んだ。


 ああ、いま。

 いま、こいつは、こう思った。


 ——五百万。

 ——安いな。


 俺は、笑い出した。


「あっ!」


 薫の肩が、ビクッと跳ねた。

 図星だった。

 俺は、人差し指を、彼に突きつけた。


「お前、今——最初の五百万、安っ、と思っただろう⁉」


 薫の頬が、わずかに、赤くなった。

 怒りでも、恥でもなかった。

 自分がいま、自分でも気づかないうちに、なにかの線を踏み越えてしまった——そのことに気づいた人間の、戸惑いの赤さだった。


 俺は、立ち上がった。


「ふっ」

「だから——金なんて、そんなもんなんだよ」


 窓の外で、東京タワーは、まだ赤い針みたいに立っていた。

 俺は、その夜景に、軽く右手を差し出した。

 深夜の路上で、最初に薫に差し出したのとは違う角度の、違う重さの、違う意味の手だった。

 あの最初の手は、商談の入口の手だった。

 いまの手は——商談が成立した、契約の手だった。


「付いてこい、薫」

「俺のギャラリーに、招待してやる」


 薫は、しばらく、その手を見ていた。

 まだ、その手は取らなかった。

 だが、彼の目は、もう、最初に俺を睨み返したあのときの目とは、別の目になっていた。

 俺は、知っていた。

 あとは、時間の問題だ。


 窓の外には、四百三十兆円の重みでも、千十四億の重みでも、二百億の重みでも、押し潰せない種類の夜が広がっていた。

 その夜のなかで、俺と薫の取引は、たしかに——成立していた。


【第二話 了】

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