# 第一話 芸術家にしてやる
俺はいまでも、便器のことを考える。
白い陶器の、なめらかな曲面。男が立って小便をするためだけに設計された、機能の塊。それを横に倒して台座にのせ、署名を一筆書き入れて、一九一七年のニューヨークに「これは芸術である」と差し出した男がいた。マルセル・デュシャン。便器の名は『泉』。
いまその便器は——というより、そのレプリカが世界中の美術館にある。本物は誰かが捨てたかどこかで割れたか、とにかく現存していない——一個あたりおそらく数億円の価値で取引されている。便器がだ。一万円もしない便器が、だ。
誰かに「芸術ってのはなんだ」と訊かれたら、俺はいつもこの便器の話をする。
訊いてくる人間の、九割五分は鼻白む。残りの五分のなかに、たまに——本当にたまに——目を細めて、こう言ってくる奴がいる。「で、どこで買えるんだ、それは」。
その瞬間に、俺の仕事は始まる。
俺の名前は、加賀谷牧人。職業はギャラリスト。要するに、絵を売って金にする男だ。
二十六歳。スーツはブリオーニ、靴はベルルッティ、時計はロレックスのデイデイト、鞄はロエベ。全部本物だ。たまに偽物に間違えられるが、それは見ている方の目が悪い。
俺がこの仕事を始めた理由は、ひとつしかない。
祖父が——美術商だった俺の祖父が、十歳の俺に、あの便器の前で、こう言ったからだ。
金になるからだ。
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## 一
その日、俺は、芸術と出会った。
六月の昼下がり、上野の美術館。
東京の梅雨は重たく地面に貼り付いていて、館内に入ると逆にひんやりとした冷気が肌に染みた。子供向けの夏休みの企画展でもなんでもない、ただの常設展示。それでも俺の小さな手は、祖父の手をぐいぐい引いて、展示室の奥へ、奥へと進んでいた。
そこに、それは置かれていた。
ガラスケースの中じゃなかった。床に直接、低い台座が一つあって、その上に、白い陶器の便器が——男性用小便器が——横倒しに据えられていた。台座のまわりは、申し訳程度の細い赤いロープで、四角く区切ってあった。
最初、俺は何が起きているのか分からなかった。
工事中なのかと思った。あるいは、清掃中の備品をたまたまそこに置いてあるだけなのかと。だが、ロープの脇には小さなキャプションがあって、英文と日本語で、こう書いてあった。
Marcel Duchamp『Fountain』マルセル・デュシャン作『泉』。
俺はその場から、動けなくなった。
なんで動けなくなったのか、いまでもうまく言えない。
たぶん、こうだ。
目の前にあるのは便器だった。便器でしかなかった。それなのに、それは「便器ではない」という顔で、そこに座っていた。台座にのせられて、ロープで囲われて、キャプションを与えられて、誰にも触れられないように展示されている。それは便器であり、便器ではなかった。
俺の頭のなかで、なにかの線が一本、ぱちんと切れた。
目をキラキラさせていた、と祖父は後でからかった。冗談じゃない。子供の俺は、たぶんそのとき、目玉の裏側で何かを見ていたんだ。
祖父が、俺の横から顔を出した。
白髪交じりの髪を整えた、五十八歳の男。シャツの一番上のボタンを開け、ペイズリーのスカーフを首に巻いた、こなれたジャケット姿。職業は、美術商。いまにして思えば、あの祖父も若いころからずいぶん柄の悪い男だった。
「なんだ牧人」
祖父はしゃがんで、俺と目線を合わせた。
「その便器が、気に入ったのか?」
「うん……‼」
俺はまだ、便器から目を離せなかった。
「その便器のどこが、すごいのか」と祖父は穏やかに言った。「じいちゃんに、教えてくれるか?」
俺はこのとき、たぶん人生で初めて、自分のなかにあるものを言葉にしようとした。
いま思い返しても、そのとき俺の頭のなかで起こっていたことを、大人の語彙で全部言い表すのは難しい。だが、十歳の俺は、なんとかこう言った。
「だってだって! なんか良いんだもん!!」
「僕の自転車も、パパの車も、ママの鞄も、じいちゃんの靴も——そう思ったら、ぜんぶ芸術なんじゃない⁉」
手を振り回しながら、俺はそう言った。
いま読み返せば、ただの子供のたわごとだ。しかし、本気だった。台座にのせれば便器が芸術になる。そういう仕掛けがこの世界にあるのだとしたら、俺の自転車だって父さんの車だって、台座にのせれば芸術になるはずだ。「芸術である」と人間が決めれば、それは芸術になる。世界には、そういう種類の魔法がある——子供の俺は、そう感じた。
祖父は、ゆっくりと、俺の頭を撫でた。
たぶんその瞬間、俺は祖父にとっての「跡取り」になった。
「いいところに、気が付いたなぁ……」
「お前には、センスがあるぞ」
褒められた、と思った。
俺は誇らしくて、どうしようもなくなって、つま先で台座のまわりをぐるりと一周した。祖父は煙草を吸わない人だったが、その日は珍しくジャケットの内ポケットに手を入れて、何かを探し、すぐにやめた。
「牧人は、芸術が好きか?」
優しい声だった。
俺は、一切の留保なく、答えた。
「うん!」
「じいちゃんもでしょ⁉」
当然のように、そう言った。
祖父は美術商で、毎日のように画廊を回って、仕事帰りに俺の家に寄ったときは、いつも美術全集をめくって楽しそうに笑っている人だったから。芸術が好きじゃない美術商なんてものが、この世にいるとは思わなかった。
ところが——祖父はしれっとした顔で、こう言った。
「いや。じいちゃんは、別に普通かな」
「!?」
俺は、息を吞んだ。
いまもこの瞬間のことを、はっきり覚えている。展示室の照明、便器の白さ、ロープの赤、自分の小さな運動靴のつま先、そして祖父のあごのラインに浮かんだ、わずかな笑い皺。
すべてが、写真みたいに、頭のなかに残っている。
「じゃ、じゃあなんで、美術商やってるの⁉」
俺はくってかかった。
この世のすべての辻褄が合わなくなる気がして、ほとんど怒っていた。
「……いいか、牧人」
祖父はしゃがんだまま、俺の目を、まっすぐに見た。
その目は、孫を見る目ではなかった。あれは、商売の目だった。あとから振り返ればわかる。あのとき祖父は、孫に説教をしていたんじゃない。後継ぎに、稼業の本質を引き継いでいたんだ。
「じいちゃんが、美術商をやっている理由はな——」
一拍。
「金になるからだ」
「……え?」
白い、静かな展示室で。
便器の隣で。
俺はその一言で、人生の始め方を、教えられた。
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## 二
それから、十六年が経った。
俺は祖父から画廊を引き継ぎ、銀座の表通りからは一本入った場所で、自分の名前のギャラリーを構えている。客は富裕層、それも「金持ち」の上にもう一段ある「金持ち」たちで、中華圏とアラブの新興と、日本の古い財閥がだいたい三分の一ずつ。年商はそろそろ十億に届く。社員は俺ひとり。あとは契約のアシスタントが二人と、外注の運送業者が一社。これで十分まわる。
だが、俺はまだ、満足していない。
俺が欲しいのは、金額じゃない。
市場そのものだ。
ある画家を、俺がいなければ存在しなかったところまで連れていく。値段がつかないはずのものに、俺の言い値で値段をつける。一握りのジジイとババアが運営している現代アートの裏側に、俺の名前で、俺の支配する流れを一本通す。
祖父は美術商だった。俺は、そこで終わるつもりがない。
その夜、俺は六本木で会食を一件こなしてから、新橋まで歩いていた。
雨上がりの七月、湿気は重いが風はあった。いい夜だ、と思った。会食では台湾の収集家にミドルクラスの油彩を一枚売れた。たいした金じゃないが、関係維持の弾としては十分だった。
歩きながら、俺はずっと考えごとをしていた。
次の弾が、ない。
俺の扱う作家は、今のところ全員、誰かが先に「発見」した連中だった。値段が決まっているものを安く仕入れて高く売る、それは商売の基本だが、それだけじゃ俺は祖父を超えられない。
祖父を超えたいのか?
はい、超えたいです——心のなかでそう答えると、自分の声がいつもより少し若く聞こえた。
そのときだった。
深夜の路上に、しゃがみ込んで何かを描いている男が、目に入った。
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## 三
最初は浮浪者かと思った。
ガードレールにもたれかかるように腰掛けて、膝のうえに大判のスケッチブックを置いて、無心で鉛筆を走らせている。痩せた男だった。コートの下のシャツは白く、襟元はきっちり閉まっている。だが髪は無造作で、靴は安物で、肩のラインに長時間労働の疲れが粘り気のように貼り付いていた。
通行人は誰一人として、彼を見ていなかった。あるいは、ちらりと見て、すぐに目を逸らした。深夜の繁華街で人混みをスケッチしているような男は、関わってはいけない種類の人間だ、というのが普通の感覚だ。
俺はその男を、四十秒ほど、立ち止まって見ていた。
四十秒、じっと見ていたあとで、自分が立ち止まっていることに気づいて、少し驚いた。
なぜ立ち止まっていたのか。
いま思えば、あれは、目が反応していたんだ。
俺の目じゃない。俺のなかにある、商売人の目だ。あの目は、利益が出る匂いがすると、勝手に瞳孔が開く。
そろそろ声をかけようと思った瞬間、別の連中が先に声をかけた。
警官が二人。一人は初老で、ベテランの貫禄のある柔和な顔。もう一人は新人らしく、不審者に出会えてラッキー、という意気込みが背中に書いてあった。
「君、何してるの?」と新人。
ガードレールの男は、ゆっくり顔を上げた。
その目を、俺は一生忘れないだろう。
怒っているわけじゃない。
苛立っているわけでもない。
ただ、自分の世界の真ん中にぽつんと立っていて、外側からなにか騒がしいものが侵入してきたことに、心底うんざりしている——そういう目だった。
「何って、スケッチだけど」と男は答えた。「見て、分からなかった?」
ああ、と俺は思った。
こいつ、感じわるいな。
それで、ますます、興味が湧いた。
新人警官が眉を寄せて、彼にスケッチブックを見せろと言った。男は渋々、それを差し出した。受け取った警官が、ぱらぱらと中をめくっていく。
その肩越しに、俺は、ページを盗み見た。
——息が、止まった。
精密なんてものじゃなかった。
人混みの絵だった。深夜の繁華街、酔客の流れ、客引きの腕の角度、コンビニの袋の重さ、立ち止まってスマホを見ている男の指先、その指先が画面のどの位置を押そうとしているか——そのすべてが、ぎざぎざの鉛筆の線で、呼吸ごとに紙のうえに転写されていた。
写真ではない。写真のほうが嘘くさい。これは、その瞬間にそこにいた人間の網膜にだけ映っていた景色を、一枚だけ抜き取って紙に定着させたような絵だった。
俺の口から、先に言葉が出ていた。
「すげえじゃねえか‼」
自分の声が、自分でもびっくりするほど大きかった。
新人警官が肩をびくっと跳ねさせた。
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## 四
ここからは、ほぼ反射だった。
「おい早く、次のページ見せろって」
警官に向かってそう言いながら、俺は半ば強引に、しゃがみ込んでスケッチブックを膝に引き寄せた。新人の警官が「なんだあんた⁉」と慌てたが、視界の隅で、初老のほうが新人の腕を押さえているのが見えた。
目で「邪魔をするな」と短く首を振っている。
ベテランは、俺と男のやりとりを、面白がっていた。あれは年季の入った刑事の目だった。なにか普通じゃないことが起きている、というのを、彼は感じ取っていた。
俺はページを、めくった。
二枚目。三枚目。十枚目。
全部、繁華街だった。同じ場所を別の角度から、別の時間に、別の人混みでスケッチしてあった。
全部、生きていた。
俺はちらりと、男の身なりを確認した。
安物のスニーカー。量販店の白シャツ。袖口は擦れていて、ベルトの革は安いビニール。だが、下肢のラインや姿勢から推して、ジムに通っているわけでもないのに筋肉が締まっている。深夜のこの時間まで、体力を使う種類の仕事をしてきた人間の身体つきだ。
それでいて、机にかじりついて細かい作業をする目をしていた。
あぶれた天才、というやつだ。
俺の業界には、こういう人種がたまに紛れ込んでいる。たいていは美術大学を出て、講師の助手をやって、年に一回どこかのコンペで入選して、四十までに筆を折って消える。
ところが、この男は、ちがった。
絵の勉強をしたことがある人間の絵じゃ、なかった。
線の引き方が、誰の真似もしていなかった。
影の取り方が、教科書のどこにも載っていない種類のものだった。
遠近の崩し方が——崩していないようでいて、ある一点だけ意図的にずれていて、そのずれが画面全体に「気持ち悪さ」を与えている。普通の人間が二週間考えて、それでも辿り着けない種類の構図だった。
じとっとした目で、新人警官が俺を見ていた。
「……まさかとは思うけど」
「あなたの——お友達?」
男のほうが、先に答えた。
「こんな奴、しりませんよ」
不愉快の塊みたいな声だった。
いいぞ、と俺は思った。
「おい」と男が俺に言う。「俺のスケッチ、返せよ」
俺は、手を止めた。
止めて、立ち上がって、まっすぐにこの男の正面に立った。
俺の身長は、たぶんこの男より二十センチ高い。見下ろす形になる。
「これ全部——お前が、描いたのか?」
「そうだけど。それが何?」
俺は、もう一歩、踏み込んだ。
これは、商談の最初の踏み込み方だ。距離を詰めて、相手の呼吸を奪う。
「お前、画家か? 専門は、なんだ?」
「そんなもん、ねーよ」
男は俺を睨み返した。
「『前田総合イベントアシスタント』の、アルバイトだ」
——その瞬間、俺は、顔の筋肉が一瞬ゆるむのを抑えられなかった。
画家ではない。美大も出ていない。デザイン会社のアルバイト。
つまり、この男には——「前歴」がない。
業界に名前が知られていない。所属している画廊もない。コンペで賞を取ったこともない。誰のサインも、この男の絵には入っていない。
俺は、こういう男を探していた。
値段がついていない男を、探していた。
ジャイアントスイングだ、と頭のなかで声がした。
値段がついていないものに、こちらの言い値で値段をつける。それが俺の祖父が、五十年かけて築いた商売の核心だった。誰かがすでに値段をつけたものを倍で転がすのは、しょせん祖父の真似事に過ぎない。
俺は、祖父を超えるために、これを探していた。
俺の口元は、勝手ににやりと歪んでいた。
「へ〜〜〜……」
「いいね」
「はぁ?」
男は、不愉快さを隠さなかった。
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## 五
「お前、絵の勉強をしたことは⁉」
「な、なんだよ、てめえ……」
「いいから答えろ‼」
新人の警官が止めに入ろうとして、初老のほうがまた腕で制した。
あのベテランの警官は、たぶん俺と同じものを見ていた。あるいは、俺とは違う何かを見ていたかもしれないが、少なくとも俺の邪魔をしないことを選んでいた。あとで一杯おごってやらないとな、と俺は思った。
「……ねえよ。全部、独学だよ」
男はそう答えた。
独学。
値段がついていない、教えてくれる先生もいない、誰にも見せたことのない技術。完璧だ。
「……もういいか?」と男は言った。
俺は、無言でスケッチブックを差し出した。
男が手を伸ばす。その手首を、俺はぐいと掴んだ。
「⁉」
強引な引き寄せ方だった。
商売としては礼儀のない引き寄せ方だが、俺はもう、礼儀の段階にはいなかった。男の鼻先に、自分の顔を寄せた。
男の瞳孔が一瞬、しぼんだ。
怖がっているわけじゃない。怒っているわけでもない。ただ、突然視界に異物が入ってきたことに、純粋に身体が反応している。
いい身体反応だ、と思った。
計算で動いていない人間の身体だ。
「そうだよなぁ」
俺は声を低く落とした。
「見りゃ、わかる。いくら努力したって、一瞬で見たものを、こんなふうに書けるやつなんか、いねえよ」
俺はスケッチブックの一枚を、こちらに開いて見せた。
ついさっきまで、俺がぱらぱらめくっていた、人混みの絵。
その絵のなかに——画面の右下、雑踏の流れの一番外側に——俺がいた。
ブリオーニのスーツの肩のライン、ロエベの鞄を提げた左手、ロレックスの文字盤の反射まで。間違いない。ものの数秒、この男の前を通り過ぎただけの俺が、しっかりと、この絵のなかに描き込まれていた。
「これだよ‼」
俺は、その点を指でとんと叩いた。
「俺、四十分前に、ここ通ったんだよ‼」
男の表情は変わらなかった。
「つまり——お前は、一瞬見た光景を、四十分でここまで、再現できるって事だよなぁ?」
「だからなんだよ?」
ああ、こいつ、本当に分かってない。
四十分前に通り過ぎた他人の腕時計の文字盤の反射まで描き起こすことが、どれだけ常軌を逸しているか、こいつは自分で分かっていない。
それは、いいことだった。
商売の上では、最高の素材だ。自分の値打ちを知らない男は、安く買える。
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## 六
男は、俺の手を強く振り払った。
「……もし画家にでも、なれって言いたいなら」
「そんなのは、ごめんだね」
背を向けて、歩き始める。
「……めんどくせえから、そのスケッチは、くれてやるよ」
「どうせ大したものは、描いてねえんだ」
ぴくり、と俺の眉が動いた。
大したもの。
大したものじゃない。
いい言葉だ。世の中のだいたいの人間は、自分の手の中にあるものを「大したもの」だと思いたがる。だが、ごく稀に、自分の持っているものが「大したものじゃない」と本気で思っている人間がいる。
そういう人間は——他人が値段をつけてやるまで、自分の値打ちを知らない。
俺は、男の背中に向かって、声を投げた。
「美術館に、便器が展示されているのを、見たことあるか?」
男の足が、止まった。
「……なんだって?」
俺は、それまでの軽薄な調子を捨てた。
ここからは、俺の本気の話だ。
「スープの缶が、大量に並んでるだけの絵で、億万長者になった男の話を、聞いたことは?」
男は答えなかった。だが、振り向いていた。
俺は一歩、近づいた。
「アメリカの国旗を描いただけの絵が、いくらで売れたかは、知ってるか⁉」
「知るわけ、ないだろ」と男はつっぱねた。「俺になんの関係が……」
俺は両手を広げた。
深夜の繁華街、酔客と看板の灯りの真ん中で、まるで舞台の俳優みたいに。
いや、舞台の俳優みたいに、というのは正確じゃない。俺は、十歳のあの日の祖父をやっていた。便器の前で、あの男が俺にしてくれた説教を、いま俺が、別の誰かにしている。
ここはあのときの上野の美術館だ。台座のうえには便器がある。ロープで仕切られた空間の真ん中に、俺は立っている。
「さして手を加えたわけでもねえ既製品や、その写しが——」
俺は、ぱちんと指を鳴らした。
あのとき祖父はそんな仕草はしなかったが、十歳の俺は、心のなかで指を鳴らしていた。鳴らすしかなかったんだ。
「今この世界では——『爆発』するほどの、金を産む——」
もう一度、指を鳴らす。
「『芸術』、なんだ‼」
男の手のなかにあった、自分のスケッチブックを、俺はもう一度奪うようにして開いて、こちらに向けた。
「お前の絵も——その一つに、なれる……‼」
しかし、男は、ため息をついた。
「……それは、絵なんてたいそうなもんじゃ、ないだろ」
俺の眉が、わずかに歪んだ。
「あぁ?」
男は、子供にものを教えるような、しかしまったく嫌味のない、純粋に説明する顔で、こう言った。
「見たものを、見たまま描いただけ」
「俺じゃなくて、カメラでもコピー機でも、同じことができる」
——俺は、一瞬、絶句した。
そして、笑い出した。
止まらなかった。
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## 七
「ぶははははははっ‼‼」
深夜の路上で、俺は腹を抱えて笑った。
通行人がちらちらと振り返った。タクシーの運転手が窓越しに眉をひそめた。気にしなかった。
「マ、マジで言ってんのか、お前……⁉」
男は赤くなった。
「笑いどころ、ねえだろ‼」
いや、ある。あるんだよ。
お前のなかには、お前自身が一切値段をつけていない、まったく未使用の鉱脈がある。それを「カメラでもできる」と言っている。コピー機でもできる、と言っている。
お前が描き起こしたのは、四十分前にお前の網膜だけが捉えた光景だ。
四十分前のあの瞬間、あのスーツの裾の翻り方を、お前以外の誰の目も、誰のカメラも、捉えていない。
それがお前には「カメラでもできること」に見える。
俺がいなかったら、お前は一生、ガードレールに座って、誰にも気づかれずに、神様みたいな絵を描き続けて、誰にも値段をつけてもらえずに、独りで死んでいくんだ。
いや、俺がいるから、そうはさせない。
俺は、お前を、見つけてしまった。
「そりゃ、そうか」
俺はにやにやしたまま、肩をすくめた。
「イベント会社の、バイトくんだもんなあ」
その瞬間——男は、切れた。
「バカにしてんのか、テメェ‼‼」
拳を振り上げて、踏み込んでくる。
その腰を、初老の警官が背後から、ぐっと押さえた。プロの押さえ方だった。三十年以上、酔客と痴話喧嘩をさばき続けてきた腕の取り方だ。
「まあまあ。最後まで聞いてみましょうよ」
ベテランは、いつもどおりの柔和な笑みで、そう言った。
俺はあとでこの人に、本当にいい酒を一本贈ろうと決めた。
「離せコラァ!」
暴れる薫。押さえる警官。戸惑って棒立ちになっている新人警官。
そのなかで、俺だけが、一人、悠然と男の正面に立っていた。
演説の続きをする。
俺の祖父が、十歳の俺にしてくれた説教の、そのまた続きを、俺は俺なりに編んでいる最中だった。
「見たものを、見たまま描いただけ?」
俺は、男の目を覗き込んだ。
「ただ、それだけのことが、できないせいで」
「何人が——芸術家、諦めたと、思ってんだよ‼」
男の動きが、止まった。
暴れるのをやめた、という意味じゃない。
なにか、もっと深いところで、止まった。
俺はその瞬間を、見逃さなかった。
俺の言葉が、こいつの内側のどこかに、たしかに引っかかったのだ。
商売は、ここからだ。
俺は人差し指を、男に突きつけた。
「——いいか」
「作品が芸術かどうか、決めるのは、一握りのジジイとババアだ」
獣のような顔で、笑った。
「業界に巣食う、妖怪どもの意思で、すべてが決まる」
「そんなもんは——いくらでも、歪められる……‼」
ギラギラした目で、俺は男を見つめた。
「俺が——」
「お前の絵に、価値をつけてやる」
俺は、右手を差し出した。
深夜の繁華街で、最初に伸ばした手とは別の意味の、別の角度の、別の重さの手だった。
「なぁ……」
「俺と、組もうぜ」
「そうしたら——」
一拍。
俺は悪い顔で、ぱちんと、もう一度、指を鳴らした。
十歳のあの日、上野の美術館の便器の前で、俺の頭のなかでだけ鳴った音と、まったく同じ音だ。
「俺がお前を——」
「『芸術家』に、してやるよ……‼」
その「芸術家」の三文字に、俺がどういう意味を込めているか。
それは、もう、わざわざ言わなくてもよかった。
大金持ち、と書いて、芸術家、と読む。それが俺の流儀だ。
男は、警戒した目で、俺の差し出した手を見ていた。
まだ、その手を取らない。
いいんだ、それで。
獲物が一発で食いついたら、その獲物は安物だ。何度かちらつかせて、何度か逃して、それでもこちらに戻ってくる獲物が、いちばん高く売れる。
俺は手を引っ込めなかった。
ただ、笑っていた。
深夜の繁華街は、もう、俺たちの背景でしかなかった。
【第一話 了】




