# 第二十三話 タバコ
## 一
「はーーー、天草さんを、怒らせたあ?」
受話口の向こうで、鷹村が、ため息を、ついた。
俺は、KAGAYA Galleryの、自分のオフィスの机に、肘を、ついていた。
机の上には、書類と、領収書と、招待状の、印刷見本が、散らばっていた。
頬の傷は、もう、塞がっていたが、左頬のあたりには、まだ、薄く、青いあざが、残っていた。
「ちょっと、勘弁してくださいよ」
彼は、続けた。
「なんか、俺が、連絡しても、返事ないし——」
「あー、そういうことか」
「一時的に、腹を立てているだけ、だと、信じたい」
俺は、ゆっくり、答えた。
「こっちは、こっちで——淡々と、すすめよう」
「分かりました、けど——」
彼の声が、低くなった。
「ギャラは、ちゃんと、払ってくださいよ」
「まかせろ」
俺は、答えた。
「大丈夫だ」
大丈夫じゃ、なかった。
大丈夫じゃ、なかったが——いま、それを、口に出すべきタイミングでは、なかった。
「ところで——」
俺は、話を、変えた。
「シークレット展示会について、なんだが」
「あー」
彼は、すぐに、ノリを、戻した。
「リストは、作ったんで——片っ端から、DM、送っておきます」
「牧人さんは、牧人さんで、動いて、くださいね」
「ああ」
俺は、頷いた。
「祖父の、顧客リストを、中心に——案内を、送る」
「!」
「鈴愛の、客層とは、違うが——」
「小日向文雄の、ファンは、いるかもしれないし」
鷹村は、しばらく、答えなかった。
彼が、しばらく、答えないとき——彼は、たぶん、商売の脳で、何かを、計算していた。
「あー」
彼は、ようやく、言った。
「どうなるかな」
「とりあえず、進めましょう」
俺は、頷いた。
頷いて、通話を、切った。
ふーっ——
俺は、深い、ため息を、ついた。
---
## 二
俺は、机のうえに、招待状の、印刷見本を、並べた。
台紙は、英国製の、コットンペーパー。
文字は、活版で、ぴたり、と、凹んでいた。
封筒は、シェルベージュ。
封蝋ではなく、しかし、それに近い、わずかに浮き出した、店のロゴが、刻印されていた。
俺の祖父が、二十年前、自分の画廊の招待状に、使っていた、デザインだった。
それを、ほぼ、そのまま、復刻した。
オークションの、一週間前に——見込み客を集めた、シークレットイベントを、行うことに、した。
今回オークションにかける、鈴愛の、五作品のうち、二作品を、ギャラリーで、展示。
鷹村が、SNSで集めた人間と、それから、昔、画廊をしていた、祖父の、顧客に——招待状を、送る。
鈴愛の絵を、見にきた中で、オークションに、どれだけ、参加してくれるかが——勝負だった。
俺は、招待状を、ペンで、一枚ずつ、宛名書き、しはじめた。
宛名は、祖父の、古い顧客台帳から、ひいた。
台帳の半分以上は、もう、亡くなっているか、引退しているかして、住所が、変わっていた。
ただし——五分の一くらいは、まだ、生きているか、息子や娘が、家業を継いでいるか、していた。
ペンを、走らせながら——
俺は、心のなかで、つぶやいていた。
天草が、このまま、オークションに、参加してくれなかった場合。
オークションは、ガチンコ、勝負。
最高額、三百万円だった、鈴愛の絵に——
どれだけの、値段が、つく?
第十八話の、天草の、声が、戻ってきた。
——なら、最低落札保証を、一千五百万円に、上げよう。
俺は、ペンを、止めた。
「ちっ」
俺の口から、舌打ちが、漏れた。
「いまから、思えば——」
俺は、ぽつり、と、独り言を、言った。
「十分な、条件じゃねえか」
---
## 三
次の十日間、俺は、自分の、財布のなかと、画廊の、預金通帳と、業者からの請求書を、毎晩、机のうえに、並べていた。
鈴愛の作品は、順調に、進んでいた。
ブランクが、嘘のように、彼女は、集中して、制作を、進めていた。
薫も、あの事件以来、ほとんど、口を、閉ざしていたが——
作業は、止めなかった。
五作品のうち、三作品が、既に、完成していた。
残り、二作品は、最終仕上げの段階に、入っていた。
制作過程の動画は、Web用に、編集して、SNSに、投稿していた。
動画制作費に、百万円が、消えた。
借りれるところから、金は、借り続けていた。
既に、借金総額は、一億じゃ、済まなかった。
手持ちのキャッシュは、三千万円、前後。
今月の、家賃や、借金や、宣伝費の支払いは、合わせて、千五百万円。
収入は、ほとんど、なかった。
頭の中は、いつも、資金繰りで、いっぱい、だった。
来月のオークションが、最後の、勝負だった。
もし、そこで、金を、手に入れられなければ——
爺さんから、相続した、このギャラリーは——倒産。
俺自身も——自己破産。
当然——前田達に、自己破産なんか、通じねえから、俺は、命で、償わされる、だろう。
ある夜、俺は、ギャラリーから、徒歩三分の、コンビニに、入った。
いつもなら、ミネラルウォーターと、ブラックの缶コーヒーしか、買わないコンビニだった。
その夜、俺は、レジの、少しだけ、左にある、棚の前で、立ち止まった。
タバコの、棚。
俺は、五年、タバコを、買っていなかった。
禁煙、できたわけじゃ、なかった。
画廊を、現代アート専門に、塗り替えた、その朝、俺は、ある決意とともに、最後の一本を、ぐしゃり、と、握り潰した。
現代アートのギャラリーは——香りに、敏感、だった。
香りは、絵の敵、だった。
タバコのにおいの染みついたスーツで、客と話すような、ギャラリストには——なれない、と、俺は、思った。
あの朝から、五年。
いま、俺は、その棚の前で、立ち止まっていた。
「……マイルドセブン、ライト、二箱」
俺の口から、自分でも、驚くほど、ぽつりとした声が、出た。
「あ、現在は、メビウス、と——」
店員の、若い女性が、訂正しようとした。
「分かってる」
俺は、答えた。
「メビウス、ライト、二箱」
店員は、頷いた。
彼女が、棚から、青と白の、よく見覚えのあるパッケージを、出して、レジに、置いた。
俺は、それを、ジャケットの、内ポケットに、しまった。
ギャラリーの、裏口の、外の、非常階段で——
俺は、最初の一本に、火を、つけた。
ふー——
吸い込んだ。
肺の奥が、ぴり、と、しみた。
しみた、その痛みが——なぜか、心地よかった。
俺は、心のなかで、一行、書きつけた。
——五年ぶりに、タバコを、買った。
——不意に訪れる、不安や、恐怖を——
——一時的に、ニコチンで、凌ぐ。
夜の路地に、俺の煙が、ゆっくり、上がっていった。
俺は、その煙を、ぼうっと、見上げていた。
俺の頭のなかでは——もう、計算機は、回っていなかった。
計算機が、回らない、その夜の、わずかな、空白を、俺は、ニコチンで、埋めていた。
---
## 四
シークレット展示会、当日。
ギャラリーには、午後、二時から、客が、ぱらぱら、と、集まり始めた。
奥の壁の、いちばん目立つ位置には——
小日向鈴愛、復帰作、第一弾。
『誕生』が、掛かっていた。
その隣には、第二作の、『再生』が、掛かっていた。
『再生』は、『誕生』より、暗い、色面で、構成されていた。
画面の中央には、黒く焦げた、灰の塊が、ひときわ、深く、定着されていた。
ギャラリーは、思ったより、賑わっていた。
鷹村の、SNS拡散の、効果だった。
鈴愛は、入口の脇の、小さなカウンターに、座っていた。
彼女の前には——鈴愛の作品の、ポストカードが、並んでいた。
客が、一人、彼女の前に、来た。
「あの——」
その客は、二十代の、若い女性、だった。
「ポストカード、二枚、ください」
「はい」
鈴愛は、にこ、と笑った。
「ありがとうございます!」
「あの——」
女性は、はにかんだ。
「応援しています」
「うれしいです」
鈴愛の、頬が、わずかに、赤くなった。
「頑張りますので——応援して下さい」
俺は、それを、奥の壁の前から、眺めていた。
眺めながら、横に、立っている、鷹村に、声を、かけた。
「結構、賑わってるじゃ、ないですか」
鷹村は、明るく、言った。
「SNS、バズりましたね」
「ああ」
俺は、答えた。
「お前のおかげだ」
「助かるよ」
答えながら——俺の心のなかでは、別の声が、響いていた。
——だめだ。
俺は、心のなかで、つぶやいた。
——圧倒的に、客層が、若い。
ギャラリーに、来ている人間は——大半が、二十代から、三十代前半、だった。
TVや、動画で、鈴愛を、見たライト層が、押しかけて、いるに、過ぎなかった。
彼らが、ポストカードや、グッズを買うのは、ありがたかった。
ただし——
アートに、投資するのは、基本的に——三十代後半、以上の、富裕層、だけ、だった。
投資家にとって、絵画は、酒や、車や、不動産と、同じ階層の、消費財、だった。
彼らの可処分所得が、五百万を超えてからじゃ、ないと——一千万円の絵には、手が出ない。
俺は、ギャラリーの中を、ゆっくり、見渡した。
俺の知っている、業界のコレクターの顔は——一人も、いなかった。
その時——
ギャラリーの、入口の、扉が、ふっ、と、開いた。
「これが——」
しわがれた声が、聞こえた。
「小日向文雄の、絵ですか?」
俺は、振り返った。
扉のところに——老夫人と、その夫らしい、老紳士が、立っていた。
二人とも、上質な、しかし、控えめな、装いを、していた。
老紳士の、ジャケットの、ラペルの返しの、縫い目を見て、俺は、すぐに、わかった。
これは——銀座の、表通りの、テーラーで、二十年前に、誂えたものだ。
俺は、慌てて、彼らの、近くに、寄った。
「ええ」
俺は、頭を、下げた。
「それを、ベースに——娘の、鈴愛さんが、新たなる、創作を」
「あなた——」
老夫人が、目を、細めた。
「牧人君?」
「!」
俺は、目を、開いた。
「あら——」
彼女は、ふっ、と、笑った。
「秀作さんの——若い頃に、確かに、似てるわね」
俺の、心臓が——わずかに、跳ねた。
俺は、心のなかで、思った。
ここだ。
本物の、絵画コレクターだ。
彼らの、評価を、得れば——
まだ、勝負は、終わっていない。
【第二十三話 了】




