# 第二十二話 土下座
## 一
次の数十秒のことを、俺は、あとから振り返っても——断片しか、思い出せない。
ヒットの音が、響いた、その直後。
天草が、わずかに、よろけた。
よろけて、半歩、後ろに、下がった、その後ろ姿に——薫が、跳んだ。
「!?」
天草の声は、もう、紳士の声じゃ、なかった。
薫の身体が、天草の腰に、抱きついた。
二人とも、床に、倒れた。
倒れた、瞬間に——薫の額が、天草の鼻のあたりに、まっすぐ、入った。
骨と骨が、ぶつかる、鈍い音。
天草の唇から、ひゅっ、と、声にならない、息が、漏れた。
倒れた天草の、視界の上で——薫の、拳が、振り上げられた。
薫の目は——爛々、と、していた。
あの目は、深夜の繁華街で、佐渡の頬を、殴ろうとしたときの、目、だった。
あの目は、屋上で、俺の手首を、掴んだときの、目、だった。
あの目は——俺が、第十二話で「俺の手に、負えないモンスター」と呼んだ、その目、だった。
「ヒッ!」
天草の、喉から、声が、漏れた。
「やめろ、薫!」
俺は、叫んだ。
俺の身体は、もう、動いていた。
薫の、後ろから、両腕を、薫の脇の下から、回した。
羽交締めの、要領、だった。
俺は、薫より、二十センチ、背が高かった。
俺は、薫より、八キロ、体重が、重かった。
なのに、俺は——彼を、止め、きれなかった。
薫の肘が——俺の頬に、入った。
肘は、振り回された、わけじゃ、なかった。
ただ、彼が、抱え込まれた状態から、抜け出そうとして、肘を、後ろに、突き出した。
その軌道が、たまたま、俺の頬に、当たった。
俺の鼻の奥で、何かが、ぱきっ、と、鳴った。
血が、ぼたぼた、と、口の中に、流れ込んできた。
頬の、外側にも、生暖かいものが、流れた。
「やめてくれ!」
俺は、叫んだ。
今度の声は、最初の声と、別、だった。
最初の声は、商売の声、だった。
今度の声は——俺が、自分でも、出したことのない、種類の声、だった。
「!」
薫の身体が、ぴたり、と、止まった。
彼は、俺の腕のなかで、振り返った。
振り返った、その目で——俺の、流血した頬を、見た。
爛々と光っていた目が——
すうっ、と、ふつうの目に、戻った。
「あ……」
薫の口から、声が、漏れた。
彼は、自分の身体を、ゆっくり、見回した。
倒れている天草。
怯えている鈴愛。
血を流している俺。
そして——自分自身の、握りしめたままの、右の拳。
「あ、俺……」
彼の、瞳孔が、しぼんだ。
「俺……」
彼は、狼狽した。
俺は——彼を、放した。
放した瞬間、俺の頭のなかで、ある声が、響いた。
第四話の、屋上の、前田の声、だった。
——そもそも、お前は、薫の何を、知ってるんだ?
——ちょっとした事で、気分が落ち込んで、その辺のやつに、暴力を、振るうんだよ。
——何度、警察に、迎えに行き——何度、起訴され——何度、保釈金、払ったか?
ああ、と俺は、思った。
俺は、薫を、知らない。
まだ、知らない。
俺は、彼を、業界の言葉で「天才」と、呼んでいた。
俺は、彼を、医学の言葉で「サヴァン」と、呼んでいた。
俺は、彼を、第十二話で「モンスター」と、呼んでいた。
全部、俺の側からの、呼び方、だった。
彼自身が、毎朝、起きて、襟元のボタンを首まで留めて、机を定規で測ったように整頓して、サビ残を続けていた、その人生の、内側を——俺は、まだ、覗いて、いなかった。
---
## 二
「鈴愛——」
俺は、振り返った。
「天草さんを——病院へ」
「う、うん」
彼女は、頷いた。
「わかった」
彼女は、倒れている天草の、傍らに、駆け寄った。
手を、伸ばした。
「あ、天草さん——」
彼女の声は、震えていた。
「大丈夫、ですか」
次の瞬間——天草は、彼女の手を、ぱしっ、と、振り払った。
「ふざけるな!」
彼の声は、地面の底から、湧いてきた、種類の声だった。
彼は、片手で、自分の鼻を、押さえていた。
その手の指の隙間から、血が、ぽたぽたと、白い大理石の床に、落ちていた。
「君たちは——」
彼は、俺たちを、睨んだ。
「今、見ていただろう?」
「彼は、突然、僕に——暴力を、振るったんだぞ⁉」
「!」
「警察だ!」
彼は、立ち上がった。
「民事、刑事——どちらでも、訴えてやる!」
俺の隣で、薫が、まるで、子供みたいに、追い詰められた顔を、していた。
俺は——息を、吸った。
俺は、天草の、正面に、立った。
薫の、息が、止まった。
「!」
俺は——その場に、両膝を、ついた。
白い大理石の床は、冷たかった。
俺の額が、その冷たさに、つくのは——一瞬の、間に合わせの判断、だった。
「全て——」
俺は、額を、床に、つけた。
「私の責任です」
部屋に、沈黙が、降りた。
俺の、ふだんのスーツの、肘の縫い目が——床に、ぴたり、と、押し付けられた。
俺の祖父が、最後に、画廊の客に、頭を下げたのは——たぶん、いつだろう。
俺は、見たことがあった。
俺が、まだ、十五くらいの頃。
長く取引のあった、客の、納品ミスについて、祖父は、客の前で、深く、頭を、下げた。
あのとき、祖父の顔は——俺の方からは、見えなかった。
いま、俺の顔も——天草からは、見えなかった。
「どうか——」
俺は、続けた。
「許して、頂きたい」
薫が——俺の、土下座する背中を、見ていた。
彼の視線が、俺の背中に、痛いほど、突き刺さった。
---
## 三
「薫は——」
俺は、額を、床につけたまま、ゆっくり、言った。
「集中時に、邪魔をされると、暴力を、振るってしまうという——」
「障害に、苦しめられて、きました」
障害、という単語を、俺は、初めて、彼の前で、使った。
使うべきでは、なかった、かもしれない。
使う、しか、なかった。
「だが——」
俺は、続けた。
「それは、彼の、才能の——裏返しでも、あります」
「天草さん」
俺は、額を、わずかに、上げた。
「どうか——アートを愛する、投資家として」
「寛大な、心を」
天草は、しばらく、答えなかった。
俺の額の下の、白い大理石は、わずかに、俺の額の汗で、湿った。
「……そのアーティストを、管理するのは——」
彼は、ゆっくり、言った。
「君の、仕事だ」
「!」
「それが、出来ていない君と——」
彼は、続けた。
「今回のような、仕手まがいの、オークションは——組めないな」
「!!」
俺の頭が、わずかに、跳ねた。
「最低保証価格の話は——」
彼は、ハンカチで、自分の鼻を、押さえながら、言った。
「無しに、させてもらおう」
「!!」
「これまでは——」
彼は、ゆっくり、続けた。
「昔のよしみで、特別扱いを、していただけのこと」
「通常のコレクターとして——」
「必要なら、オークションに、参加するさ」
「……分かりました」
俺は、額を、床に、戻した。
「それで、矛を、納めて、いただけるならば」
「ふん」
彼は、鼻で、笑った。
「君は、本当に——持ってない、ね」
彼は、立ち上がった。
付き人が、彼の脇を、支えた。
二人は、扉に、向かった。
「それでは——」
彼は、扉のところで、振り返らずに、言った。
「失礼させて、もらおう」
扉が、閉まった。
部屋には、薫と、鈴愛と——まだ、土下座のまま、動かない、俺だけが、残された。
俺は、しばらく、額を、床に、つけたまま、動かなかった。
ようやく、ゆっくり、頭を、上げた。
俺の頬の、流血は、まだ、止まっていなかった。
頬の血が、額の汗と混ざって、こぶし大の、丸いシミを、白い大理石の床に、残していた。
「牧人……」
薫が、俺の、横に、しゃがんだ。
声は、震えていた。
「ごめん、俺……」
俺は——首を、振った。
「いや」
俺は、立ち上がりながら、言った。
「俺の、失態だ」
俺は、頬の血を、シャツの袖で、軽く、拭った。
拭ったが、止まらなかった。
「だが——」
俺は、ふっ、と、笑った。
「何も、悪いことばかりじゃ、ない」
「!」
「どのみち——」
俺は、続けた。
「天草に、全てを、握られていては——」
「大きな成功は、掴めない」
俺は、二人を、振り返った。
「勝負、かけてみるか……」
俺の声には、まだ、土下座の、湿気が、残っていた。
残っていたが、その奥で、別の、ぎらぎらしたものが、もう一度、灯り始めていた。
【第二十二話 了】




