# 第二十一話 二次流通権
## 一
天草は——絵の、一メートル前で、立ち止まった。
立ち止まって、ふっ、と、笑った。
「……なるほど」
彼は、ゆっくり、口を、開いた。
「面白いね」
俺と、鈴愛は——息を、止めて、それを、見ていた。
付き人の、ハンディカメラだけが、絵と、彼の、横顔を、両方、追っていた。
「これは——」
彼は、ゆっくり、続けた。
「『破壊と、再生』の、美学そのものだ」
彼は、半歩、前に、出た。
画面の、外縁の、暗い部分に、指先を、近づけた。
触れる手前で、止めた。
「この、"破壊された過去"を、表現した、外縁部……」
「まるで、小日向文雄、自身の人生を、象徴しているようだ」
彼は、首を、振った。
「けれど——」
彼は、続けた。
「それだけなら、ただの懐古趣味で、終わっていただろう」
彼の視線が、画面の、中央のほうに、移った。
灰と、糊と、青と、ピンクと、淡い金で、構成された、明るい部分。
その中央に、淡く、浮かぶ、若い女の横顔。
「しかし——」
彼は、画面の中心を、指した。
「この、中心部分」
俺たちは、息を、呑んだ。
「ここに——」
彼は、ゆっくり、続けた。
「君の、"新しい世界"が、描かれている、わけだ」
彼は、振り返った。
「ここで、初めて——」
「"娘が、父を、超える物語"が——成立する」
鈴愛の口元が——わずかに、震えた。
彼女が、初めて、業界の人間に、自分の作品を、自分の言葉では、ない、業界の言葉で、解説された、瞬間だった。
ストーリーが——商品として、成立した、瞬間だった。
「父の遺作を、切り裂き——」
天草は、絵から、一歩、引いた。
「その残骸を、土台に、自分の世界を、築く……」
「実に、挑発的で——」
「なおかつ、今のアート市場が、好む、ストーリーだ」
彼は、ゆっくり、頷いた。
「小日向鈴愛、復帰、第一作としては——」
「十分な、出来だろう」
「じゃあ……」
俺の口から、声が、漏れた。
「ああ」
彼は、頷いた。
「約束通り、最低保証価格を——一千万円」
「それを、五作品、保証しよう、じゃないか!」
俺たち、三人の肩から——一斉に、力が、抜けた。
「ただし——」
彼の声が、低くなった。
「条件が、ある」
「!?」
俺は、肩の力を、もう一度、入れ直した。
「一連の作品、および——」
彼は、ゆっくり、続けた。
「今後の、小日向鈴愛の、二次流通権を」
「私のギャラリーに、譲ってもらいたい」
「!」
俺は——鈴愛を、振り返った。
「鈴愛、どういうことか、分かるか?」
「もちろん!」
彼女は、答えた。
「作品が、再販される時——」
「天草さんのギャラリーが、専属で、扱うって事でしょ」
---
## 二
「天草さん——」
俺は、彼の方に、向き直った。
「ギャラリーなんか、持ってましたっけ?」
「ふふ」
彼は、笑った。
「コレクションが、増えて——手狭になってきたんでね」
「いっそ、自分のギャラリーを、作ろうと、思ったんだ」
「持ち腐れに、しててもしょうが、ないし」
俺の頭のなかで——警鐘が、鳴った。
収集家が、ギャラリーを、立ち上げる。
業界では、よく、ある話だった。
よく、ある話だが——たいていは、収集家が、自分の所有物を、市場に、戻すための、出口として、機能した。
彼が、二次流通権を、握る、ということは——
俺たちが、今後、別のディーラーを、間に挟めない、ということ、だった。
市場が、彼の手のひらの上に、乗る、ということ、だった。
「でも——」
俺は、声を、抑えた。
「二次流通権を、渡しても——」
「私たちに、金が、入ってくるわけじゃ、ないでしょう?」
「そうだね」
「むしろ——」
俺は、続けた。
「大手ギャラリーや、オークションハウスに、出回る機会を、失います」
「そこは——」
天草は、にこ、と、笑った。
「納得して、ほしい」
「私が、市場価値を、守る代わりに——」
「あなた方は、安心して、創作に、集中できる」
「ウィンウィン、じゃないか?」
俺の心のなかで——一行、書き付けた。
——くそ。
——こいつ、徹底的に、俺たちから、搾取する気だ。
「なら——」
天草は、軽く、笑った。
「最低落札保証を——一千五百万円に、上げよう」
「!」
俺の眉が、跳ねた。
「五作品合わせて——七千五百万円」
「牧人くん、どうかな?」
俺は、心のなかで、瞬時に、計算機を、回した。
——一千五百万、×、五作品。
——七千五百万。
——オークション手数料、二〇パーセント、引いて——六千万。
——プロモーション費、五百万、引いて——五千五百万。
——鈴愛の分配、五〇パーセント——二千七百五十万。
——俺の手元——二千七百五十万。
当初の予定より、一千万円、増。
悪く、ない。
悪く、ないが——このまま、ずるずる、と、天草に、取り込まれるのも……。
「私は、いいと思うよ?」
鈴愛が、ぽつり、と、言った。
「!」
俺は、彼女を、見た。
「言ったでしょ」
彼女は、続けた。
「今は——私たちの価値を、上げるのが、先決」
「それに——今の一千万円は、お互い、でかいでしょ」
「そ、そうだな」
俺は、頷いた。
俺は——息を、吐いた。
「……分かりました」
俺は、天草の方に、向き直った。
「一千五百万円で、手を、打ちます」
「決まりだね」
彼の口角が、上がった。
彼は、片手を、差し出した。
俺は、しばらく、その手を、見ていた。
見てから——頭を、下げて、その手を、握った。
「よろしく、お願いします」
第十八話の、握手のような、拮抗は、しなかった。
しなかったのは、勝負が、ついていた、からだ、と俺は、思った。
---
## 三
「では——」
天草は、満足したように、頷いた。
「残りの、四作品も——見せてもらえるかな?」
「いや」
俺は、首を、振った。
「現在も、製作中です」
「完成してから、お見せしたいのですが」
「いや——」
彼の声が、低くなった。
「今すぐ、見せてもらおう」
俺は、わずかに、たじろいだ。
「最低保証価格、設定もして——」
「二次流通も、僕が、握る以上」
彼は、ゆっくり、続けた。
「それは、もはや——僕の作品と、言ってもいいだろう?」
彼の口元に——傲慢の影が、走った。
俺は——その影を、見た。
天草、玲司。
俺の、若い頃の、楽しい飲み仲間が、いま、目の前で——別の生き物に、なっていた。
言ってもいいだろう、ではなかった。
断定だった。
「……わかりました」
俺は、頷いた。
「こちらです」
俺は、奥の、別の作業空間に、彼を、案内した。
四枚の、未完成のキャンバスが、四方の壁ぎわに、並んでいた。
大きな、油絵の具のチューブが、乱雑に、床に、転がっていた。
画面のなかでは、各作品が、半分から、七割の、完成度に、達していた。
「これは——」
天草は、ぐるりと、見回した。
「壮観だ……!」
「よく、ここまで、同時進行できる、ものだな!」
彼は、絵の、ひとつに、近づいた。
その絵の前で——薫が、塗っていた。
彼は、フロー状態の、入口に、いた。
筆と、画面の、いちばん難しい部分の、対話の最中、だった。
「アシスタントの、君——」
天草は、薫の背中に、声を、かけた。
「ちょっと、退いてくれるかな」
「全体で、見たい」
薫は——振り向かなかった。
「……」
無視ではなかった。
彼の、聴覚が、外の音を、いま、ほぼ、遮断していた。
耳には、ただ、画面のなかから聞こえる、何か、しか、入っていなかった。
俺は、それを、知っていた。
天草は、知らなかった。
「ちょっと、君」
彼の声が、低くなった。
「聞いているのか?」
「あ、天草さん」
俺は、慌てて、間に、入った。
「作業中ですので——」
天草は、俺の言葉を、無視した。
彼は、薫の方に、半歩、踏み出した。
「いいかい!?」
彼の声が、強くなった。
「それは、僕の絵なんだよ」
彼の手が——薫の肩に、置かれた。
「!」
俺は——叫んだ。
「薫、やめろ‼」
間に、合わなかった。
薫の、肩が、ぴくり、と、跳ねた。
跳ねた瞬間に——彼は、振り返った。
振り返りざま、彼の右手の、拳が、振り上げられていた。
「うっせええええんだよおお‼」
拳が、空気を、切り裂いた。
軌道は、まっすぐだった。
深夜の繁華街で、佐渡を殴ろうとしたときと、同じ軌道だった。
屋上で、俺の手首を、掴んだときと、同じ筋肉の、動かし方だった。
画材棒で、俺の脛を、痛打したときと、同じ角度の、肘の、振り抜きだった。
拳は——天草の、頬骨の、ど真ん中に、ヒットした。
軽い、しかし、骨に、深く、響く音が——アトリエの、静寂を、破った。
【第二十一話 了】




