# 第二十話 誕生
## 一
俺は、薫の、スケッチブックを、開いた。
最初の一ページに——俺が、いた。
ふだんの、商談用のスーツ姿で、扉の前に、立っている、俺。
ブリオーニの仕立てのライン、ロエベの鞄、靴のかかと、左手首の腕時計——細部まで、再現されていた。
俺の隣に——鷹村が、いた。
彼の、薄いカーキのジャケットの肩のライン、トートバッグの紐、笑った口元の角度。
モニターの後ろで、唾を呑んだディレクターの、首の動きまで、入っていた。
次の、ページ。
TVクルーの、ライティング担当。
次のページ。
カメラマンと、その肩に乗ったカメラの、レンズの種類。
次のページ。
ピンマイクを、鈴愛の襟元に、つけていた、若いアシスタント。
その、また次のページ。
部屋の隅で、機材を片付けていた、ふだん俺は気にも止めない、外注の、誰かの、顔。
「お前——」
俺は、ページを、めくる、手を、止めた。
「これ、いつ、描いたんだよ」
「寝る前に……」
薫は、淡々と、答えた。
「寝る前⁉」
彼は、ふだん、十二時間か、十八時間、ぶっ通しで、絵を、描いていた。
そのあと、ようやく、布団に、潜るのだが——その布団に、潜る前に、彼は、こうやって、スケッチブックを、開いていた、らしい。
「なんか——」
彼は、続けた。
「出会った顔が、忘れられなくて」
「マジかよ」
俺は、ページを、もう一枚、めくった。
「しかも、この人達は——誰だ?」
「今日の、取材に来た、スタッフの人、全員」
「全員、って——」
俺は、もう一度、ページを、めくった。
最後のページに、たどり着くまでに、十数人の顔が、並んでいた。
俺の隣で、ぼうっと、機材の整理を、待っていた、外注の若い男の顔まで、入っていた。
俺は、その男のことを、撮影中、十秒も、見ていなかった。
たぶん、薫も——同じくらいしか、見ていなかった、はずだった。
なのに——俺の手のなかには、彼の顔があった。
俺は、心のなかで、呟いた。
——こいつ。
——一瞬、会っただけの人の顔まで——完璧に、記憶してやがる。
俺は、目を、閉じた。
第一話の、深夜の繁華街。
四十分前に、彼の前を、ものの数秒、通り過ぎただけの俺が——彼のスケッチブックの、人混みの絵のなかに、しっかりと、描き込まれていた。
あの夜、俺は、その能力に、惚れたのだった。
あの夜から、ずっと——彼の「見たものを、見たまま描く」能力は、俺の中で、過大評価では、なかった。
むしろ——過小評価、だった。
彼は、見たものを、見たまま、永続的に、保存できる、人間だった。
保存して、必要なときに、紙のうえに、もう一度、降ろせる、人間だった。
十八時間、フロー状態に、入れる、異常な集中力。
それに加え——この、瞬間記憶能力。
俺は、心のなかで、もう一度、呟いた。
——薫。
——やっぱ、お前は、天才だよ。
---
## 二
俺は、スケッチブックを、ぱたん、と、閉じた。
「……これが、売れるかどうかは——正直、分からねぇ」
「!」
薫の眉が、わずかに、寄った。
「……そうだよな」
彼は、目を、伏せた。
「なんか、悪いことしちゃったな」
「いや」
俺は、首を、振った。
「売れねぇ、って言ったわけじゃ、ねぇ」
「ただ、今、パッと、売り方が、浮かばねぇ、だけだ」
俺は、スケッチブックを、軽く、撫でた。
「ただ——」
俺は、続けた。
「悪いな、って思ってよ」
「お前に、余計な気遣い、させちまって」
薫は、答えなかった。
「金の事は——」
俺は、彼を、見た。
「俺が、なんとかする」
「お前は、作品制作に、集中しろ」
「あと——休め」
「……分かった」
彼は、頷いた。
頷いて、扉の方に、向かった。
扉を、開けて——出て行った。
オフィスには、俺だけが、残された。
俺は、もう一度、スケッチブックを、開いた。
俺は、彼が描いた、俺の顔を、見ていた。
典型的な——サヴァン症候群の特性。
俺は、心のなかで、呟いた。
脳の、特定の領域だけが、極端に、発達している、人。
多くは、対人コミュニケーションに、困難を抱える。
数字、絵、音楽——なにかひとつの分野で、超常的な能力を、発揮する。
俺の、業界の、客のなかにも、それらしい人物は、何人か、いた。
ただ——薫は、それだけじゃ、なかった。
俺が、第一話で、出会ったとき——彼は、佐渡を、殴りかけていた。
深夜、職場で、誰かの、声が、雑音として、刺さるたびに、彼は、タブレットを、振り上げそうに、なっていた。
第三話では、俺が訪ねた朝、社長室で、釣り針を仕込んだ俺の前に、立った。
第四話までに、彼は、何度も、警察に、迎えに、行かれていた。
第十二話では——俺の脛を、画材棒で、痛打した。
そういう男だった。
怖い、男だった。
なのに——
俺は、ページを、めくった。
俺は、ふと、第十二話で、彼が、鈴愛の父親の絵を、引き裂いた、瞬間を、思い出した。
あの瞬間も、彼の暴力性が、出ていた。
ただし、あの暴力は——ベクトルが、違っていた。
他人の、肉体に、向かう暴力では、なかった。
絵に、向かった、暴力だった。
そして、その暴力の、後に——彼は、創作の提案を、出した。
懸念していた、暴力性は——
なりを、潜めて、いた。
今では、思いやりを、見せて、いた。
創作が、あいつを、変えたのか?
それとも、鈴愛に、惚れたから、かな?
それとも——
俺が、変えた?
俺は、にやり、と、笑った。
調子に、乗った。
俺は、立ち上がって——扉に、向かった。
扉を、ばん、と、開けた。
「薫! 鈴愛!」
俺は、大きな声で、呼んだ。
「今から、焼肉、行こうぜ!」
「はあ、今から?」
鈴愛が、振り返った。
「眠い……」
薫は、ぼそり、と、言った。
「いいから、来い!」
俺は、両腕を、ひろげた。
「ちょ……」
鈴愛は、訝しんだ。
「大丈夫なの?」
「お金、キツいんじゃ、ないの?」
「焼肉ぐらい、平気だ!」
俺は、にっこり、笑った。
「パーッと、行って——明日からまた、頑張るぞ!」
俺は、心のなかで、自分に、言い聞かせていた。
——薫が、変わった。
——変わった、原因が、なんで、あれ。
——いまの俺たちは、間違っていない。
肉が、あれば——明日も、絵が、描ける。
肉が、あれば——明日も、商売が、できる。
肉が、あれば——明日も、誰かが、誰かを、信じる、ことが、できる。
ふだんの俺なら、こんな単純な計算は、しない。
でも、今夜は——その計算で、いいんだ、と、俺は、思った。
---
## 三
数日後。
松濤のアトリエの、前の道に——黒い、高級車が、止まった。
ベンツの、Sクラス。
窓ガラスは、可能な限り、暗く、フィルムが、貼られていた。
運転席から、付き人が、先に、降りた。
彼は、後部座席のドアの、前に、立った。
頭を、軽く、下げて、ドアを、開けた。
降りてきたのは——天草、だった。
彼は、ライトグレーの、薄手のスーツを、着ていた。
仕立ては、たぶん、ミラノで、入れた、もの。
手には、何も、持っていなかった。
持っていないのが、彼の、流儀だった。
俺は、アトリエの扉の前で、彼を、迎えた。
「天草さん——」
俺は、頭を、下げた。
「いらっしゃいませ」
天草は、軽く、片手を、上げた。
「そろそろ——」
彼は、にこ、と笑った。
「見せてもらおうか」
「小日向鈴愛の、復帰、第一作を」
「はい」
俺は、頷いた。
「五作品のうち、一作品が——昨日、完成いたしました」
「ほう」
「どうぞ、こちらに」
俺は、扉を、開けた。
アトリエの中は、整えられていた。
機材も、絵の具も、いつもより、几帳面に、片付いていた。
その中央に——白い布を、かぶせた、大きな、キャンバスが、置かれていた。
鈴愛が、扉のすぐ、内側で、出迎えた。
「ようこそ、天草さん」
彼女は、にこ、と笑った。
頬には、絵の具の汚れは、なかった。
今日は、ふだん、ライブハウスに行くときに、着る、シンプルな黒いワンピースを、着ていた。
その清潔さの真ん中で、白いキャンバスは、深く、鎮座していた。
「これが——!」
天草が、その布を、見た。
「それでは——」
俺は、布の、端に、手を、かけた。
「天草様に、お見せします」
彼の付き人が、後ろから、何かを、構えた。
大きな、ハンディカメラだった。
絵の、初お披露目を——彼は、撮影する、つもりだった。
「ふふ」
天草は、笑った。
「さて——」
彼は、ゆっくり、続けた。
「どんな作品に、なったのか」
「拝見させて、もらうよ」
俺は、息を、吸った。
「小日向鈴愛——」
俺は、声を、低くした。
「復帰作、第一弾」
俺は、布の、端を、ぐっ、と、引いた。
「『誕生』」
白い布が、空中に、ふわり、と、舞った。
その下から——
大きな、絵が、現れた。
高さ、二メートル五十センチ。
幅、一メートル八十センチ。
俺の身長より、頭ひとつ分以上、高い、巨大な、画面。
画面の、外縁の、暗い色面は——切り裂かれた、小日向文雄の絵が、貼り絵の要領で、配置されていた。
その色面のなかから——シュレッダーで紙片に、なった、父の絵の、無数の細片が、雪のように、画面の中央のほうに、散らばっていた。
画面の中心の、いちばん明るい部分には——燃やされた、父の絵の、灰が、糊で、画面に、定着されていた。
灰の上に——鈴愛の、新しい色面が、青と、ピンクと、淡い金で、重ねられていた。
その色面の中央に——女の、横顔が、淡く、浮かんでいた。
その横顔は、若い女、だった。
若い女は、俺たちの方を、見ていなかった。
画面の、外側を、見ていた。
外側の、何か——いや、誰か——を、待っているような、目を、していた。
天草は——目を、見開いた。
「こ、これは……」
【第二十話 了】




