# 第十九話 フロー
## 一
松濤のアトリエに、TVクルーが、入っていた。
大型のソフトボックスが、二台、組まれていた。
カメラは、業務用の、肩乗せタイプ。
ピンマイク、ケーブル、リフレクター、モニター——機材は、八畳分くらい、床を、占拠していた。
俺の聞いていた話と、規模が、二段違っていた。
俺は——朝、アトリエの扉を開けて、その光景を、見た瞬間に、ため息を、ついた。
扉のいちばん近くの、白い壁の前に——鈴愛が、立っていた。
ライティングは、彼女を、半身、横から、当てていた。
彼女の頬の輪郭が、光の中で、浮いていた。
頬の絵の具は、今日は、緑じゃなかった。
今日は、メイクが、入っていた。
「——では、改めて」
女性のキャスターが、マイクを、構えた。
「小日向鈴愛さん、復帰作は——五作品、同時進行だそうですが」
「どんな、コンセプトなんでしょう?」
鈴愛は、にこ、と笑った。
「父との、決別です」
キャスターの、顔が——半秒、止まった。
止まったのは、彼女だけじゃ、なかった。
カメラマンが、ファインダーから、わずかに、目を、離した。
ディレクターが、モニターの前で、目を、瞬きした。
台本にあった、想定問答とは、明らかに、別の単語が、いま、画面に、入った。
「父の、描きかけの絵画を——」
鈴愛は、構わずに、続けた。
「破壊して、そこに、私の世界を、確立する」
「それが、私が、復帰した、理由なんです」
ディレクターが、モニターのうしろで、唾を、呑んだ。
俺は、それを、十メートル先から、見ていた。
俺の隣で、鷹村が——にやにや、していた。
「ははっ」
彼は、ぽつり、と、言った。
「面食らってますね」
「だから、テレビが来るなんて、聞いてねえぞ」
俺は、彼の脇腹を、軽く、肘で、突いた。
「てっきり、ネット記事かと——」
「いやいや」
彼は、肩をすくめた。
「こういう時こそ、TVなんですよ」
「ネットに、初情報」
「TVが、今いちばん、求めてるものです」
彼は、続けた。
「まあ、そこから、結局、ネットニュースに、流すんですがね」
「な、なるほど」
俺は、唸った。
「テレビは終わった、なんて、言われてるが——」
「むしろ、露出が、絞られてて、狙いやすい、ってわけか」
「そゆこと♡」
鷹村は、にこ、と、笑った。
商売の話を、しているときの、彼の笑顔は、なぜか、ふだんよりも、軽薄に、見えた。
「だ、だけど——」
俺は、声を、潜めた。
「結構、お高いんじゃ、ないの?」
「そんな事、ないんすよ」
彼は、首を、振った。
「そりゃあ、ただ、ネット記事あげるよりは、予算かかるけど」
「効果は、あるはずです」
俺は、黙った。
黙ったのは、信用したからじゃない。
あとで、請求書が、来るのが、分かっていたから、だった。
「それより、あの子——」
鷹村は、視線を、別の方向に、向けた。
「さっきから、なんか、凄いっすね」
「一心不乱に、作業してますよ」
俺は、その視線の、先を、追った。
部屋の、いちばん奥の、別のキャンバスの前に——薫が、いた。
彼は、こちらを、見ていなかった。
TVクルーも、ライトも、キャスターも、視界に、入っていない、らしかった。
彼の身体は、画面と、絵の具と、筆と、それだけの、世界に、いた。
---
## 二
「……ありゃー」
俺は、目を、細めた。
「フロー状態、入ってるなあ」
「フロー、状態?」
鷹村が、首を、傾げた。
「スポーツ選手が、極度に集中した時の——ゾーン、みたいなもんですか?」
「ああ」
俺は、頷いた。
「どちらも、過集中状態、だからな」
「だが——」
俺は、続けた。
「持続時間が、ゾーンとは、段違いだ」
俺は、薫の方を、もう一度、見た。
「薫の、フロー状態は——並じゃ、ねえ」
「夜中から、十二時間——ずっと、あの調子だ」
「十二時間⁉」
鷹村が、声を、上げた。
「長い時は——十八時間ぐらい、続く」
俺は、淡々と、答えた。
「飲まず、食わずだぜ?」
「はー、すごいっすね」
彼は、あごを、撫でた。
「でも——アシスタント、なんですよね?」
「まあ、そうなんだが、な」
俺は、半歩、薫の方に、踏み出した。
近づくと——筆と絵の具の、こすれる音が、聞こえてきた。
薫は、振り返らなかった。
画面のなかの、ある一点を、ずっと、塗り続けていた。
「薫!」
俺は、声を、かけた。
「そろそろ、休め!」
「また、倒れるぞ!」
彼は、ぴくり、とした。
ぴくり、として、ようやく、振り返った。
「え!?」
彼の目が、開いた。
「あれ? もう、昼!?」
俺は——彼の顔の、頬骨のあたりを、見ながら、ため息を、ついた。
あの目を、俺は、第一話の、深夜の繁華街で、ガードレールに座っていた、薫の目で、見たことがあった。
あの夜、彼は、四十分かけて、人混みを、紙のうえに、降ろしていた。
いまの彼は、十二時間かけて、画面のなかに、別の世界を、降ろしていた。
質は、同じだった。
規模だけ、別、だった。
俺は、心のなかで、呟いた。
ついに、本格的に、制作が、開始した、と。
俺たちにとって、嬉しい誤算は——
薫の、この集中力、だった。
鈴愛は、全体的な設計を、する。
細かい作業を、薫に、振る。
が、薫は、それを、脅威的なスピードで、仕上げてくる。
仕上げてきて、まだ余裕があるから、隣の、別のキャンバスの、別の部分まで、手を出してくる。
そこで、俺たちは、計画を、変更した。
当初、一作、一作、仕上げていく予定だった作品を——ほぼ、五作品、同時に、作業する、ことにした。
一作ずつ、作るより、飽きが、来ない。
全体のクオリティも、コントロール、できる。
作品の全貌が、明らかに、なってきたところで、俺は——鷹村に、プロモーションを、依頼した。
四十日後の、Zオークションに、向けて。
俺たちは、着々と、準備を、積み重ねていた。
---
## 三
TVクルーの、撮影は、二時間ほどで、終わった。
「では、撮れ高、充分なんで——」
キャスターは、マイクから、口を、離して、続けた。
「CM明けの、特集コーナーで、流せそうです」
「小日向さん、ありがとうございました」
「こちらこそ」
鈴愛は、頭を、下げた。
TVクルーは、機材を、片付け始めた。
ライト、ケーブル、カメラ、ピンマイク、リフレクター。
ものの、十五分で、彼らは、消えた。
「じゃあ——」
鷹村は、自分の、トートバッグを、肩に、掛け直した。
「上手い感じに、編集しときますんで」
「センパイ、俺は、これで」
「おう」
俺は、頷いた。
「頼んだぞ」
「あ、そうだ」
彼は、扉のところで、振り返った。
「そういや、天草さんから、珍しく——直接、電話、もらったんですよ」
「!」
「牧人さんを、助けてやれって」
俺の、心臓が、軽く、跳ねた。
鷹村は、屈託のない笑顔で、続けた。
「リザーブプライスも——設定してくれた、らしいじゃないですか」
「あの人、いい人っすね」
「……そうだな」
俺は、頷いた。
俺は、心のなかで、もう一段、深く、息を、吐いた。
「で——」
鷹村は、肩から、小さな、書類入れを、取り出した。
「先輩、ちょっと——プロモ予算、上がっちゃたんですけど……」
彼は、請求書を、差し出した。
「……」
「……おお」
俺は、それを、受け取った。
「任せろ」
「あざすっす〜!」
彼は、にこ、と、笑った。
彼が、扉から、出て行った後——
俺は、自分の、オフィスに、戻った。
請求書を、机のうえに、開いた。
数字を、見た。
「何が、いい人だ⁉」
俺は、絶叫した。
「儲けは、殆ど、天草のものになるんだから——当然だろ⁉」
俺は、紙を、ぐしゃり、と、握り潰した。
「しかも、鷹村!」
俺は、紙の塊を、ゴミ箱に、向かって、放り投げた。
「テメエに払う、プロモーション費用は——全部、俺持ちだぞ⁉」
「どー考えてても——」
俺は、椅子に、深く、座った。
「俺の方が、いいい人だっ⁉」
「つーの!」
その時——
ぱしん。
俺の投げた紙の塊が、ゴミ箱の縁に、当たって、跳ね返った。
跳ね返ってきた、その紙を——誰かの手が、空中で、軽く、受け止めた。
俺は、顔を、上げた。
扉の前に——薫が、立っていた。
「……なんだよ、薫」
俺は、ため息を、ついた。
「もっと、休んでおけよ」
「……」
薫は、紙を、机のうえに、置いた。
「牧人」
彼の声は、低かった。
「ちょっと、見てもらいたいものが、あるんだけど、いいか」
「ああ、いいけど?」
俺は、首を、傾げた。
薫は、自分の、リュックから、ある一冊を、取り出した。
俺の、目が、わずかに、止まった。
それは——スケッチブック、だった。
「お前——これ……」
俺は、表紙を、撫でた。
「牧人——」
薫は、まっすぐ、俺を、見た。
「これ、プロモーション費用の——足しに、なんないかな?」
【第十九話 了】




