# 第十八話 投資家の世界
## 一
「一作、五千万円の——最低落札保証、いかがですか?」
俺と、天草は——向かい合ったまま、しばらく、睨み合った。
俺の隣で、鈴愛が、心のなかで、悲鳴を上げているのが、見えた。
——合計、二億五千万円⁉
——無茶でしょ⁉
彼女の表情は、それを、ほぼ、声に、出していた。
天草は、しばらく、グラスを、ゆっくり、揺らしていた。
ワインの赤が、夜景の青を、背景にして、深く、ゆれた。
ふっ——と、彼が、笑った。
「ありえないよ」
彼の声は、低く、まっすぐ、だった。
「小日向文雄の遺作のことを——加味しても、せいぜい……」
彼は、グラスを、テーブルに、置いた。
「一千万」
彼は、ゆっくり、続けた。
「五作品で——五千万円までなら、出そう」
俺の隣で、薫と鈴愛が、わずかに、息を、呑んだ。
「リザーブプライスを超えて——落札された分の」
「僕の取り分は——八〇パーセント」
「!」
「どうだい?」
彼は、ふっ、と、口角を、上げた。
「これでも——最大限の、評価のつもりだが」
俺は、頭の中で——瞬時に、計算機を、回した。
「……オークション、手数料は?」
「落札額が、一千万円を超えた分は——僕がもとう」
俺の頭のなかで——電卓の数字が、ぱちぱち、と、叩かれた。
各、一千万、で、五作品。
俺への、入金は——五千万円。
オークション手数料が、平均、二十パーセント。
残りは——四千万。
俺の手取りの、半分が、鈴愛のギャラ。
残り——二千万。
そこから、制作費、鷹村に支払う、プロモーション費、ギャラリーの、ふだんの運営費——。
俺のは——殆ど、残らない。
だから、一千万、以上で売れた場合の、分配金に——期待、だが。
仮に、各作品が、五千万で、売れたとしても——俺に入るのは、二〇パーセント、の、一千万、だけ。
それも——鈴愛に、半分、分配する、から——。
俺は、心のなかで、深く、ため息を、ついた。
——天草め。
——生かさず、殺さずの、ライン、ついてきてるな。
---
## 二
俺は——立ち上がった。
「!」
俺の隣で、薫と鈴愛が、跳ねた。
俺は、ソファの、ひじ掛けの脇に、立った。
顔は——できるだけ、むすっ、と、した、ままで。
立ち上がって、二歩、ソファの裏側に、回った。
薫と鈴愛が、ハラハラ、と、俺の背中を、見ていた。
こうなりゃ——と、俺は、心のなかで、呟いた。
こうなりゃ、下手に、出る、しかない。
俺は、ぐるり、と、ソファのうしろから、天草の前まで、戻ってきた。
戻ってきた、瞬間に、俺の顔は——にこーっ、と、笑顔に、なっていた。
手を、揉みながら、軽く、頭を、下げる、姿勢で。
「天草さーーん」
俺の声は、もう、商売人の、媚びの声、だった。
「それだと、殆ど、俺に儲け、出ないじゃないですか〜?」
俺は、心のなかで、自分に、言い聞かせた。
——下手に、出てなんとか、条件、上げてもらうぜ。
「そんな事、ないだろう?」
天草は、微塵も、動じなかった。
「君の目論見通り——五千万円で、売れれば」
「二千万円弱は、君の手元に、残るはずだ」
「でも——」
俺は、ぐぐ、と、続けた。
「制作費や、プロモーション費も、かかるし」
「彼らへの、分配も、あるし——カツカツなんですよ〜」
「……」
「せめて、リザーブプライス、三千万に、上げるか——」
俺は、両手を、合わせた。
「分配率、五〇パーセントに、して下さいよ」
「頼みますよ——」
俺は、声に、わずかに、甘えた響きを、混ぜた。
「天草、センパイ」
その瞬間——
天草が、すっ、と、片手を、俺に向けて、出した。
「!」
俺は、止まった。
「その手には、乗らないよ、牧人くん」
彼の声が、低くなった。
「住む世界が、違うと、言ったのは——君だ」
「!」
俺の口から——空気が、漏れた。
「我々、投資家は——」
彼は、ゆっくり、続けた。
「金という、リスクを、払う」
彼は、自分の手を、ひろげた。
「君たちは、そのおかげで——リスク無く、収入を得ることが、できる」
彼の目が——俺を、貫いた。
「リスクある、我々の、収益が、多いのは——当然だろう?」
俺は——黙った。
「僕は——」
彼は、続けた。
「今は、投資家の、世界で、生きているんだよ」
---
## 三
俺は——下を、向いた。
諦めたように、向いた。
「天草さん……」
俺は、ぽつり、と、言った。
「あなた——変わりましたね」
ぱちん——
彼の目に、何かが、灯った。
すこし、寂しい、種類の、灯り、だった。
「いつまでも——」
彼は、笑った。
「ただの、ボンボンの、僕だと」
「思っていたのかい?」
「いえ」
俺は、首を、振った。
俺と、天草が——まだ、二十代のはじめだった頃。
彼は、ペーパーカンパニーの、スポンサー側の、御曹司、だった。
俺は、その、ペーパーカンパニーの、雑用、だった。
彼は、当時、絵を、何枚か、買っていた。
買い方は——情緒的で、無計画で、楽しそうだった。
あの頃の、彼の、目は——美しいもの、面白いものを、見つけたときに、輝く、種類の目、だった。
いま、目の前に、いる、彼の目は——そういう目では、もう、なかった。
彼は——ソファのうえで、姿勢を、変えた。
俺の、向かい側ではなく——薫と、鈴愛の、向かい側に、向き直った。
「君たちにも——」
彼は、二人に、向かって、笑った。
「これは、チャンスのはずだ」
薫の眉が、わずかに、上がった。
「今回——」
天草は、続けた。
「君たちの絵が、高額で、落札されれば」
「君たち自体の、アーティストとしての、価値は——飛躍的に、高まる」
「そうすれば——」
彼は、目を、細めた。
「君たちの、今後の、創作物には」
「ずっと、価値が、生まれ続けるだろう」
俺は——天草の横顔を、見ていた。
彼は、もう、俺の顔を、見ていなかった。
彼は、薫と、鈴愛、二人の顔だけを、見ていた。
その目は、商売人の目、ではなかった。
もっと、別の——画家を、見つけた、コレクターの目、だった。
まだ、本物の、コレクターの目が、彼のなかに、残っていた。
「牧人っち——」
鈴愛が、俺を、振り返った。
「この話、受けようよ」
「!」
俺は、彼女を、見た。
「天草さんの言うとおり——」
彼女は、続けた。
「これは、チャンスだよ」
「これが、売れたら——六作品目、七作品目、と、作れば、いんだからさ」
彼女は、にこ、と、笑った。
「ね?」
「あ——ああ」
俺は、頷きかけた。
頷きかけて、薫の方を、向いた。
「薫も——それで、いいか?」
薫は——肩を、すくめた。
「いいんじゃね」
彼は、淡々と、答えた。
「絵なんか——いくらでも、描けばいいんだし」
天草が——わずかに、笑った。
「はは」
彼は、俺を、見た。
「牧人くん——」
彼の目に、もう一度、寂しい灯りが、灯った。
「君は——素敵な作家に、囲まれているじゃないか」
「そうですね」
俺は、頷いた。
「助かっています」
俺は、深く、息を、吐いた。
吐いてから——天草に、向かって、頭を、下げた。
「天草さん——」
俺は、ゆっくり、言った。
「ごねて、すみませんでした」
「その条件で、どうぞ、よろしく、お願いします」
「ああ」
彼は、頷いた。
「ただし——」
彼の声が、低くなった。
「正式な契約は——一作品目の、作品が、出来てからだ」
「問題ないだろ?」
「ええ」
俺は、頷いた。
「問題、ありません」
俺たちは、互いに——作り笑顔で、笑った。
俺は、立ち上がって、彼に、握手を、求めた。
彼も、立ち上がって、俺の手を、取った。
俺の手と、彼の手は——にぎる瞬間に、両方とも、ぐっ、と、力が、入った。
力は——ぎりぎりと、互いに、押し合った。
握手、というよりは——拮抗、だった。
俺の指の関節が、軋んだ。
彼の指の関節も、たぶん、軋んだ。
二人とも——笑顔のまま、それを、続けた。
俺は、心のなかで、思った。
——天草、玲司。
——あんたは、いつから、こっち側に、来た。
彼の目は、もう、答えなかった。
ただ、にこ、と、笑って——俺の手を、ゆっくり、放した。
「楽しみだよ」
彼は、ゆっくり、言った。
「君たちの、新作」
窓の外で——
夜景は、相変わらず、絨毯のように、広がっていた。
その絨毯の、いちばん高い、塔の上で——俺たちの、商談は、たしかに、成立した。
成立、と言うべきか、不成立、と言うべきか——分からない、種類の、商談だった。
【第十八話 了】




