# 第十七話 亜沙巣台ヒルズ
## 一
その日、俺は、薫と鈴愛を連れて、港区の高層住宅街に、いた。
目の前に立っていたのは——亜沙巣台ヒルズだった。
二〇二三年の秋に、街びらきをした、東京で最も新しい、最も高い、最も金持ちの集まる、再開発エリア。
ガラスのファサードの塔が、空に向かって、垂直に、突き刺さっていた。
地上から見上げると、頂上は、ほとんど、雲のなかだった。
「本当に——」
薫が、首を、痛そうに、上げて、呟いた。
「こんなところに、人が、住むのか……」
「牧人は、いつも変な金持ちと、繋がりあるけど」
鈴愛が、両腕を、軽く、組んだ。
「ここは——別次元、ね」
「お前だって——」
俺は、彼女を、ちらり、と、見た。
「目黒の、お嬢様じゃ、ねえか」
「過去形ね」
彼女は、肩を、すくめた。
「今は、うちも、お金ないし」
彼女は、亜沙巣台ヒルズを、もう一度、見上げた。
「ってか、最近の金持ちって——」
「十年前と、レベチじゃない?」
「……そりゃ、まあ」
俺は、頷いた。
俺は、二人を、エントランスのほうに、案内しながら——歩きながら、ぽつぽつ、と、話した。
商売の話を、するときの、いつもの調子で。
ただし、相手が、客じゃないので——いつもより、データの引用は、雑に、入れた。
「大手金融機関のレポートに、よると——」
俺は、続けた。
「二〇二三年は、世界的には——最上位の、二千百人ほどで」
「下位、五十パーセントより、金を、持ってる、らしい」
「!」
二人の足が、止まった。
「日本も——トップ一パーセントが、資産の、四割を、握ってる、とか、なんとか」
「うへえええ」
鈴愛が、引いた声を、出した。
「奴らは——」
俺は、続けた。
「あらゆる富を、求める」
「通貨、債券、不動産、コモディティ、暗号通貨——」
「だが、奴ら、金持ちが、最後に、行き着くのが」
俺は、二人を、振り返った。
「アートへの、投資だ」
「!」
「!」
二人の顔が、揃って、ぐっ、と、引き締まった。
「本当、それ?」
鈴愛は、訝しんだ。
「まあ——」
俺は、肩を、すくめた。
「俺調べだが、な」
「何よ、それ」
彼女は、笑った。
「暗号資産なんか——」
俺は、続けた。
「いくら、増えたって、実感、湧かねえ、だろ」
「だが、アートは——基本、一点もの」
俺は、エントランスの、回転扉に、手を、かけた。
「その価値が、上がれば——」
「それに、投資した、人物の、価値も、上がる」
「そんなはず、ないだろ」
薫が、ぼそり、と、言った。
「そう、思ってる、奴らが——」
俺は、にやり、と、笑った。
「多いのさ」
俺たちは、エントランスから、エレベーターホールに、入った。
エレベーターホールは、ホテルのロビーより、広かった。
居住者専用と、来客専用が、明確に、分かれていた。
俺たちは、来客専用の、エレベーターに、乗った。
エレベーターは、地上四十六階まで、一気に、上昇した。
耳の、奥が、つん、と、なった。
「そして、今回——」
俺は、エレベーターの中で、続けた。
「お前らに、合わせるのが、そんな金持ちの、一人」
「天草、玲司だ」
---
## 二
部屋に、入った瞬間——三人とも、口が、半分、開いた。
部屋は、広い、というレベルでは、なかった。
ホテルのスイートでも、ここまで、広いのは、滅多に、見ない。
たぶん、フロアの半分か、それ以上を、ぶち抜いて、ひとつの居住空間に、している、構造だった。
壁は、三面が、ガラス張り。
もう一面の壁は、油絵の、巨大な、抽象画で、覆われていた。
床は、白い、磨き上げられた、大理石。
天井からは、シャンデリアではなく——LEDで光る、彫刻が、いくつも、吊られていた。
部屋の中央には、大きな、ローソファがあった。
四人がけ、というには、大きすぎる、八人くらいは、座れる、Lの字の、ソファ。
その奥から——天草が、現れた。
「やあ」
彼の隣には、若い男が、立っていた。
たぶん、二十代の、半ば。
モデルのような、すらりとした体型と、整った、横顔。
彼は、天草の半歩、後ろから、俺たちを、丁寧に、見ていた。
お辞儀は、しなかった。
「直接会うのは、久しぶりだね、牧人君」
「ご無沙汰してます、天草さん」
俺は、頭を、下げた。
「おや」
天草の口角が、上がった。
「随分、他人行儀じゃ、ないか?」
「やめて下さい」
俺は、首を、振った。
「今の、私とあなたでは——住む世界が、違う」
天草の目に——わずかに、何かが、灯った。
懐かしんでいる、ような、目だった。
彼と俺が、まだ、二十代のはじめだった頃。
彼は、まだ「ボンボン」で、俺は、まだ、ペーパーカンパニーの、雑用だった頃。
あの頃の、軽口を、彼は、ふっ、と、思い出した、らしかった。
「ふふ」
彼は、笑った。
「君らしくも、ないね」
「いえ」
俺は、首を、振った。
「今のわたしは——しがない、ギャラリーの、ギャラリストですから」
「まあ、いい」
彼は、片手で、ソファを、指した。
「では、早速——二人を、紹介してもらおう」
「はい」
俺は、隣の、二人を、振り返った。
「こちらが、ご存じの通り——」
俺は、鈴愛を、紹介した。
「小日向文雄の、一粒種」
「小日向鈴愛」
「初めまして!」
鈴愛は、明るく、頭を、下げた。
「そして——」
俺は、薫を、振り返った。
「こちらが、私が、見つけた、逸材」
「宍戸薫と、申します」
俺の声に合わせて、薫が、こちらを、睨むように、こちらを、見た。
彼の目つきは、深夜の繁華街で、初めて、警官と俺と話したときの、目つき、そのものだった。
「っす」
彼は、半分、照れたように、答えた。
天草の目が——薫の上で、わずかに、止まった。
止まり方が、ふつうの、関心とは、違う、種類だった。
投資家が、商品を、見るときの、目とは、別の方向の、興味の、止まり方。
俺は、それを、見たが——気づかなかったふりを、した。
天草の隣の、若い男も——わずかに、首を、傾げた。
「ふむ——」
天草は、ふっ、と、笑った。
「面白い、面構えだ」
彼は、ソファに、向かった。
「まあ、座ろう」
---
## 三
ソファに、四人で、座った。
天草と、俺の、向かい合う形だった。
鈴愛と薫は、俺の左右に、並んで、座った。
天草の隣の、若い男は——わずかに、後ろに、下がって、立っていた。
彼は、紹介、されなかった。
「小日向文雄の、遺作を⁉」
天草の声が、跳ねた。
俺は、スマホの画面を、彼の前に、差し出していた。
画面には——切り刻まれ、シュレッダーにかけられ、燃やされた、小日向文雄の、未完成品の、惨状の、写真が、映っていた。
「ええ」
俺は、頷いた。
「今は、もう——無惨な姿、です」
天草は、画面を、しばらく、見ていた。
しばらく、というのは、たぶん、十秒。
その十秒のあいだ——薫と鈴愛は、テーブルのうえの、菓子盆から、無造作に、菓子を、つまんで、食べていた。
「はは」
天草は、笑った。
「コレクターたちが、みたら——激怒、しそうだ」
「あくまでも、"描きかけ"で——完成品じゃ、ありませんから」
俺は、ゆっくり、言った。
「面白い」
天草は、画面から、目を、離した。
「話していた通り——オークションには、参加しよう」
「確か、五作品、出品するんだっけ?」
「その件ですが——」
俺は、声を、調整した。
ここから、本題、だった。
「天草さんには——」
俺は、彼の目を、見た。
「全作品への、リザーブプライス(最低落札価格)の設定を——保証していただきたく、思います」
天草の眉が、わずかに、寄った。
「……まだ、完成品も、まだ、ないのに」
「ええ」
俺は、頷いた。
「その代わり——」
俺は、続けた。
「天草さんには——その値段以上の、売却値が、ついた場合の」
「売却益から——リザーブプライスを差し引いて、全額、お支払いいたします」
天草の目が、半開きから、半分、開いた。
「……リザーブプライスは——」
彼は、ゆっくり、訊いた。
「いくら、だい?」
「一作品——五千万円」
俺は、息を、整えた。
「五作品合わせて——二億五千万円」
「!」
「!」
俺の隣で、薫と鈴愛が、口に入れていた菓子を、ぶっ、と、吹き出しかけた。
天草は——目を、瞬きした。
「僕を——」
彼の目が、鋭くなった。
「ペテンに、かける気か?」
「……」
「せいぜい、その子の絵は——」
「三百万、だろう」
「話が、変わったんです」
俺は、彼の目を、見て、答えた。
俺の隣で、薫と鈴愛は、ソファの背もたれに、押し返されていた。
二人は、俺と、天草が、目で、火花を、散らすのを、奥から、見ていた。
「今回は——」
俺は、ゆっくり、続けた。
「小日向文雄の作品を——娘が、乗り越えるという」
「ストーリーが、ある」
「それ、以上の価値が、出るはずです」
俺は、心のなかで、もう一度、自分に、言い聞かせた。
少々、無茶な値段だが——これが、通れば。
仮に、前田が、口を、挟んできても——無視、できる。
とっとと、前田に金を、返して——関係を、断つんだ。
「一作、五千万円——」
俺は、もう一度、強調した。
「いかがですか?」
天草は、しばらく、無言だった。
彼は、自分のグラスの、ワインを、ひとくち、含んだ。
含んでから——薄く、笑った。
「……そうだね」
【第十七話 了】




