# 第十五話 灰
## 一
三日後の、夜。
俺は、松濤のアトリエに、もう一度、足を、運んだ。
扉の前で、俺は、深呼吸をした。
深呼吸、というより——心の準備、だった。
二人を、自由にさせて、四日が、経っていた。
四日は、二人が、何かを、やらかすには、充分な時間だった。
扉を、開けた。
「なんじゃ、こりゃああああああ!」
俺の声が、洋館の、吹き抜けの広間に、跳ね返った。
部屋は——惨状、だった。
大きなキャンバスが、床のあちこちに、無造作に、積まれていた。
そのうち何枚かは——カッターで、切り刻まれていた。
別の何枚かは——シュレッダーに、かけられたらしく、紙片の山に、なっていた。
部屋の隅には、業務用の、大きな業務用シュレッダーが、置かれていた。
いつのまに、買ったんだ、こんなもの。
そして、もう一つ——
部屋の中央の暖炉の、灰受けの中に。
わずかに、白く焦げた、ものの、痕跡が、あった。
それは、明らかに——焦げた、油絵の具と、麻布の、燃えカスだった。
部屋の中央には、薫と、鈴愛が、立っていた。
二人とも、平然と、していた。
「え、何が?」
鈴愛が、首を、傾げた。
「何が、じゃねえよ⁉」
俺は、声を、荒げた。
「絵——」
「絵、どこ行った⁉」
「小日向文雄の、絵!」
「え、あるじゃん」
彼女は、足元の、切り刻まれたキャンバスの山を、指した。
「うわー」
俺は、頭を、抱えた。
「こんなに、切り刻んじゃって……」
「好きにしていいって、牧人が、言ったんだろ?」
薫が、淡々と、言った。
「そうよ」と鈴愛。
「全部、絵の素材よ」
「素材……」
俺は、ふらふら、と、歩み寄った。
「ま、まあ——」
俺は、震える声で、続けた。
「ミクストメディアの、素材、っつーなら——なんとか……」
俺は、もう一度、部屋を、見渡した。
切り刻まれた絵の数を、頭のなかで、数えた。
数えたが——足りなかった。
「で、でも——」
俺は、声を、上げた。
「絵の数、少なくないか⁉」
「もっと、あったはずじゃ——」
「あー、残りは——」
鈴愛は、部屋の隅の、大きな黒いゴミ袋を、指した。
「その袋の中」
俺は、慌てて、その袋の口を、開いた。
袋の中には——大量の、紙屑と、それから、その底のほうに——
灰のような、何か。
「え、一体、何が——」
俺は、紙屑を、つまんだ。
「ん、なんだ、この紙屑」
「父さんの絵を——」
鈴愛が、淡々と、言った。
「シュレッダーに、かけたの」
「シュレッダー⁉」
俺は、紙屑を、もう一度、見た。
その紙屑には——確かに、油絵の具の、わずかな、色が、残っていた。
あの数百万、数千万の絵が——いま、俺の手のひらの、紙吹雪に、なっていた。
俺は、袋の底の、灰のようなものを、指さした。
「じゃあ——まさか、この灰は……」
「うん」
「燃やした」
二人は、揃って、頷いた。
「灰⁉」
「はい!」
二人とも、明るい声だった。
「は、はい——じゃ、ねえよ⁉」
俺は、絶叫した。
「こんなに、なったら——小日向文雄の作品の、意味が、無いじゃねーか⁉」
「そんなことないよ」
鈴愛は、首を、振った。
「元は——お父さんの絵だもん」
「炭化しちゃってるから!」
俺は、灰を、両手で、すくい上げた。
「ただの、炭、だから!」
「灰!」
「はい——じゃ、ねえんだよ⁉」
部屋に、しばらく、俺の絶叫だけが、響いていた。
---
## 二
ひと通り、コメディじみた絶叫を、終えてから——俺は、椅子の上に、崩れ落ちた。
「何、落ち込んでるんだよ、牧人」
薫が、覗き込んできた。
「いや」
俺は、頭を、抱えた。
「分かっては、いたけどさ」
「どう考えても、数億円は、あったであろう絵画が——こうなっちまうと」
「流石に……」
「絵画じゃない」
鈴愛は、淡々と、訂正した。
「未完成の、絵画」
「どのみち、世の中に出ることは、なかった」
「分かってる」
俺は、ガシガシ、頭を、掻いた。
「分かってるけどさあ……」
「大丈夫」
彼女は、しゃがんで、俺の目を、覗き込んだ。
「頭の中に、イメージは、できてるの」
「燃やしたのも、シュレッダーに、かけたのも——」
「全部、意味が、あるから」
その目には、もう、迷いが、なかった。
俺の知らない、画家の目だった。
「……薫」
俺は、彼の方を、見た。
「大丈夫、なのか?」
「俺は——」
薫は、答えた。
「鈴愛の言う通りに、描く」
「それだけだ」
俺は——息を、吐いた。
吐きながら、笑った。
「はあ……」
「まったく、お前ら、天才アーティストは——ぶっ飛びすぎて」
「こっちの心臓が、もたねーぜ」
俺は、立ち上がった。
「でも……まあ、好きにやってくれ」
「ただし——」
俺は、人差し指を、立てた。
「言っておくけどな——納期は、守れ」
「当然!」
鈴愛は、頷いた。
「私、納期は、何があろうと、守るよ」
「一応、プロ経験あるんだから」
俺は、にこっ、と、笑った。
彼女のその一言は——俺の、商売人の心臓に、わずかに、効いた。
彼女は、すでに、業界の人間だった。
業界の人間は、納期を守る。
「薫も、頼むぜ」
「ああ」
彼は、頷いた。
「もう、作業、開始してるんだよ」
彼は、振り返った。
部屋の壁ぎわに——でかい、白いキャンバスが、立てかけてあった。
そのキャンバスには、すでに——切り刻まれた、父の絵の切れ端が、貼り絵の要領で、貼り付けられていた。
「じゃあ、次は——そこに、貼ってもらえる」
鈴愛は、灰のはいった袋を、軽く、振った。
「おう」
薫は、ピンセットを、手にした。
俺は、二人の作業を、しばらく、立って、見ていた。
二人は、もう、こちらを、見ていなかった。
二人の手元だけが——画面と、対話していた。
俺の頭のなかで、ふと——ある一行が、浮かんだ。
——真剣になっちゃってまあ……。
その一行を、心のなかで、つぶやいたとき。
俺の脳裏に、別の——ずっと前の景色が、ふっ、と、浮かんだ。
---
## 三
二十一歳の、俺だった。
祖父が、亡くなって、半年が、経っていた。
俺は、まだ、現代アートのギャラリストでは、なかった。
半グレの、前田の、ペーパーカンパニーに入る、半年前だった。
その間、半年。
俺は、なにを、していたか。
俺は、絵を、描いていた。
毎日、毎日。
祖父の、画廊の、奥の小さな部屋に、こもって。
誰にも、見せずに。
ただ、毎日、絵を、描いていた。
あの頃の俺は、本気で——画家に、なれると、思っていた。
あの頃の俺の、絵を、いま、見ても——たぶん、悪くは、なかった、と思う。
悪くは、なかった。
ただ——よくも、なかった。
値段が、つく絵では、なかった。
ストーリーの、つく絵では、なかった。
俺は、半年、描いて——一枚も、誰にも、見せられなかった。
半年経ったある朝、俺は、それまで描いた絵を、すべて、ゴミ袋に詰めて、捨てた。
近所のゴミ集積場に、夜のうちに、置いた。
翌朝、ゴミ収集車が、それを、持っていった。
俺は、その日のうちに、前田の、ペーパーカンパニーに、就職した。
就職してから、五年——俺は、絵筆を、握っていない。
そのことを、俺は、長く——忘れていた。
忘れていた、ことに、気づくたびに、もう一度、忘れた。
いま——
目の前で、二人は、絵を、作っていた。
ピンセットで、紙片を、貼っていた。
灰を、糊に、混ぜて、画面に、振りかけていた。
大胆で、軽率で、迷いのない、手つきだった。
俺は、その手つきを、見ていて——
二十一歳の、俺の手つきを、思い出していた。
——ぶんぶん。
俺は、頭を、振った。
俺は、心のなかで、自分に、言い聞かせた。
——忘れろ。
——俺にとっちゃ、アートは——金を得る、手段に、すぎねぇ。
頭を振ってから、俺は、ゆっくり、振り返った。
「まあ——」
俺は、二人に、声を、かけた。
声は、いつもの、軽さに、戻っていた。
「当初の予定とは、随分違うが——」
「いいもんが、できそうだな」
「頼むぜ」
鈴愛が、振り返った。
「え? もう帰るの?」
彼女は、ぱっと、立ち上がった。
「手伝ってもらおうと、思ってたのに」
「言ったろ?」
俺は、首を、振った。
「創るのは——お前らの仕事だ」
「オレは——売るのが、仕事だよ」
俺は、振り返らずに、扉に、向かった。
扉のところで、もう一度、振り返ろうかと、迷った。
迷ったが、振り返らなかった。
扉は、ばたん、と、閉まった。
---
## 四
夜道を、俺は、歩いていた。
松濤の、住宅街の、地中化された電線の下を、肩で風を切るように、歩いていた。
心のなかで、俺は、ぎらつく独り言を、繰り返していた。
——薫と、鈴愛が、手に入った。
——あとは、天草さえ、コントロールできれば——計画通り、金は、入る。
俺は、自分の、KAGAYA Galleryのビルに、向かっていた。
日本橋の、路地裏。
夜の十時。
ビルの、入口の前まで、来た時——
背中から、声が、した。
「よう」
俺の足が、止まった。
「なんだか、機嫌よさそうじゃねーか?」
俺は、振り返った。
ビルの入口の、街灯の、わずかに外側に——前田が、立っていた。
ジャケットの、胸ポケットに、両手を、突っ込んで。
いつもの、上機嫌の顔で。
いつもの、笑顔で。
「ま、前田さん!」
俺の喉が、鳴った。
「な、なんすか」
俺は、無理に、笑顔を、作った。
「今月の千万は——もう、払いましたよね?」
「知ってるよ」
前田は、頷いた。
「だがな……」
彼の声が、低くなった。
「あれから、色々、考えたんだけどよ」
俺の背中に、わずかに、汗が、滲んだ。
「どうにも——釈然と、しねぇ」
彼は、ゆっくり、続けた。
「薫だけじゃ——」
「そんな簡単に、大金、つくれるとは、思えねぇ」
「な、何を、言ってるんですか……?」
俺は、声を、絞り出した。
前田は、ゆっくりと、近づいてきた。
近づいてきて——俺の肩を、ぽん、と、叩いた。
その手は、軽く、しかし、骨に、響く重さを、持っていた。
「お前——」
彼は、にやり、と、笑った。
「何か、もっと大きい——『ビジネスのネタ』を、持ってるだろ?」
「ビ、ビジネスの、ネタ?」
俺の声は、上ずった。
「いや、なんのことだか……」
前田の口角が、ぐっ、と、上がった。
「俺にも、一枚、噛ませろ」
彼は、俺の肩を、軽く、揺すった。
「そうじゃなきゃ……」
彼は、最後まで、言わなかった。
「わかってんだろ?」
俺の頬から——血の気が、引いた。
日本橋の、夜の路地に、街灯の白い光が、降りていた。
俺の背後の、KAGAYA Galleryの真鍮のプレートが、その光のなかで、わずかに、光っていた。
俺の目の前には——前田の、笑顔だけが、あった。
【第十五話 了】




