─8─
雨が一層強くなり始めていた。
駆ける、だが足元が悪く走り難い。揃って木履を履いたせいだ。下駄でも良かったが木履の方が可愛いと言ってこちらを選んだ。泥濘んだ足元がより前に進んで行くの拒む。
泥が跳ね浴衣の裾どころか、腰帯まで高く飛んでいたがまるで気にする余裕は無かった。土手から川に目をやると、どんどん水位が上昇している。
あの脚でならそこまで離されていないはずだ。自分よりあの子の方がよほど履物には歩き慣れていなかったから。一瞬、奈絵が立ち止まり呼吸を整える。
きらり空が光った。
豪っと天から雷の音が聴こえると続けて──
弾んっ!
近く、稲妻が落ちた。
「奈緒!」
二人の距離が僅かに離された。
雨に打たれ出血は流され覗えないが、鼻緒ズレした奈緒の足の親指、この付け根に貼った絆創膏が今は取れてしまったようである。足の止まった奈緒に気付かず龍世が彼女を置いて少し前を歩く。
毎秒、降雨が増し河川が氾濫しかけていた。
これ以上は危険だと思った。線状降水帯が引き起こす激甚災害というのをいつかニュースで見たことがある。温暖化の影響があり発生が予測不能なのだ。
奈緒に諦めさせて土手を降りよう。
龍世は逸る気持ちで足の止まる奈緒より更に数歩先に進み彼女を呼んだ。
「奈緒っ、早く……」
──瞬間──
視界を遮るほどの太い雨粒がどっと辺り一面を覆った。
白の世界、音がまるで強烈なノイズの様に一切を遮断し、皮膚を打ちつける雨が痛いほどだった。
雨で身動きが取れなくなるなど始めての経験だった。こんなものが空から降るのかと、まるで水の牢に閉じ込められているかのような、そんな錯覚にさえ陥る。
その雨が──
少しもしない内に先ほどよりも幾分、弱くなった。
「……奈緒……?」
だが龍世の目の前には、誰もいない。
片側だけの木履が一つ、ぽつんと取り残されている。
それを拾い上げ土手側に目をやると『何か』がそこから滑り落ちたようにして泥や芝を削り、上昇した水位の河川その濁流にまで跡が伸びている。
「あ、あぁ……」
枯れた喉からは、まともな声は出ず、
膝から力が抜けていくのだけが分かった。
「龍世!」
後ろから誰かが呼ぶ声がした。
振り向かなかった、振り向けなかった。ただごうごうと音を鳴らす河川の濁流を見つめ、片側だけの木履を握り、膝を突いたまま茫然としている。
何故、自分から彼女に寄り添わなかった?
いつでも彼女の方から追ってきた。それを当たり前の事のように思い、人の誠意も感謝も忘れて、怠惰な慢心がその当たり前を奪った。
「ねぇ、龍世!一体、どうしたの!?」
肩を揺さぶるが、正しく木偶のように反応はなく生気の無い目が虚空を見つめていた。
その手に持つ木履に、河川に伸びる泥の跡を見据え、何が起きたのか察しがついた。
心の中で弾けた何かが、
彼を救ってあげたいと願い、好きだと言えない感情、あの子だから許せたその想いが、
浴衣の袂から裁縫セットに入れる鋏を取り出し──
その長い髪を切った。
兄からチャットの返信があった時、相変わらず意味の無い他人行儀なものだと思っていた。
けれども違った。
「好きなことをやれ」
それは兄の精一杯の謝罪であり、父の元に帰って来なくていいという兄の言葉だった。
家族の内で一番下に置かれた。産まれた順序の問題はあったが、あの家はそれで家庭という形をこれまで保って来た。でも兄はそれでも、弟の自分に感謝していたのだ。
「少しは許し合うことも覚えなさい」
貴船が言っていたのは自分も許せと、そういうことなのだろう。
役割もなく他人に与えられなかった無力な自分が許せなかった。だから起こったことに黙って目を瞑り、人の誠意に甘えてそれがいつもの事だと感謝すら忘れた。
「記憶も記録も大して変わんねーだろ」
起こる事全てが生成された結果で、それはどれも同じことなのだと思い込んでいた。馬鹿だった。自分を通して視る他の全ての色が、他人には決して視えないなんて、当然の事だった。
その色を視ているのは他人ではない、自分の意識だ。
「あの子だってお前に何かしら兆候を出していたはずなんだ。お前にしか気付かないような、何かを」
自分の為に尽くしてくれていた。
最初から、そしてこれまでも。
沙門川の土手に立ち、遠く虚ろな眼差しで河川を眺める彼女の姿を見つけた。
「龍世……?」
「帰ろう、奈絵」
雨に打たれて、あの日からずっと、彼女はそこに立っていた。
置き去りにした、龍世が。
自分がそこから逃げたかったから。
後数歩、あの時前を進んでいなかったらこの降雨の中、彼女の手を取ってやれたのだろうか?
龍世の罪悪感の為に彼女が犠牲になった。いつかそれがすげ変わっても当然のことの様に思い、錯誤し、そして表面しか視なくなった。
内側を視るのが、知るのが怖くて、
彼女の『色』はもう以前から変わっていたというのに。
立ち尽くし濡れる彼女のその背を、そっと胸に抱いた。
「ずっと、一緒に居てくれて、ありがとう」
「……やっと、見つけてくれたんだね」
涙が雨と共に頬を伝い、
あの日の慟哭を洗い流してくれるような、そんな気がした。
「これからも俺は君の側にいる。必ず、此処に残るよ」
音羽龍世の高校最後の夏休みは、
まだ始まったばかりだった。




