─7─
とてつもなく億劫な朝だった。
起きた龍世は真っ先に携帯から奈緒にチャットを打ち送信する。
「夏期講習、出られるか?」
だが登校近くもなり何分経っても返事は無く既読すら付かなかった。奈緒なら普段、龍世からの連絡は逐一反応する。寧ろ構わなくても向こうから構う。
昨日の熱射が効いているのだろう。猛暑の中長時間、神爾江の田畑を歩かせた。龍世自身も身体が少し怠い。
然し幸いなのか窓の外は正しく曇天だった。昨日の夕方から突然発生した線状降水帯の雨雲が西東京全域にかかっており、外は連日の三十五度を超える気温というわけではなさそうだった。
それでも学校に行くのは相当に気が重い。奈緒が再び今日も講習を欠席となれば壬生にも平安にも、自分の態度で彼女を追い詰めたと納得するように説明しなければならないだろう。
挙句、平安には昨日の時点で真夏の太陽の下を奈緒が何の対策もせず歩いているのは龍世のせいだと、既に半分教えてしまったようなものだ。頭の良い平安なら今日の奈緒の欠席を今頃想像しているかもしれない。日傘も彼女に返さなくては。
奈絵の一周忌も近く、奈緒は言ってみればこれの主席だ。法事の開催や金銭的な面での意味は違うが、失った片割れとして互換のない芸術作品のような、特に親類達から彼女はそう見られることになる。
龍世如きが彼女を傷付けていいはずがない。
後半年──
見送れればそれでいいと思った。
いつも彼らの足を引っ張る。奈緒に関して言えば特にそうだ。彼女は今、学力が上がっていると平安が言った。龍世の存在自体が、絶対に弊害になってはいけないと思った。
夏期講習が無事に終わったら、その時はきっと皆と距離を取った方がいい。
「……行くか」
玄関を出る。
携帯にはまだ奈緒からの連絡はない。
校門を潜る時、
「龍世、講習終わったら話しいいか?」
壬生に顔を合わすなり開口一番に言われた。
彼からは朝の挨拶まで無かった、その表情が決して穏やかではない。
「……ああ」
と相槌を打つだけの様に答えた。
「何も言わないんだな」
「……」
滑稽だ。
返答すら出来ない、多分壬生はもう気付いている。いや平安から聞いたのかもしれないし、奈緒に連絡を取ろうとして繋がらないからなのかもしれない。いずれにしろ龍世が一人で道化師の様に惚けたふりをして、今日再び奈緒を講習から追いやった道化師本人だ。気心の知れた仲間達に然し、自身が許されていいなどとも思ってはいない。
だが王を手玉に取る道化師にはなれなかった。龍世にはそんな器量や謀略は持たない。ただひたすらに現実から逃げたいだけ。
その逃避に、奈緒が関われば間違い無く彼女を道連れにしてしまう。
怖かった、何もかも、龍世には自分に与えられる未来など無いと思った。増した輝きに目が眩み人が視えない。壬生も平安もより一層、解き放ったそれは然し、龍世だけにしか視えず暫く足をそこ此処に止め影が射し視界が楽になるのを待った。
授業など、
言葉が右から入って左から抜けて行くだけだった。目に映る黒板の文字が知らない国の象形文字のようだ。席に着き陳列した生徒達の、人の背中が何やら奇抜なモニュメントを模っている。
悲鳴の旗を掲げ、誰にも寄るなと心の中で叫ぶ。
けれども決して独りが好きなわけではなかった。孤独は寂しかったがそれ以上に誰かが巻き添えになるのが耐えられなかった。何も与えられない自分が無力だった。自分が産まれた意味が分からなかった。
ただ、父親の影が脳裏を過ぎる。
何故、此処にいるのか。
壬生に呼ばれ裏庭に来た龍世は一人でに腰を下ろし、ぼうっと花壇に咲く向日葵を眺める。
雨ニモマケズ、
あれは確か松の木だったが、それを見ていて何となく思い出した。無心で他人に尽くせる人間になるような、そんな詩だ。
やがて龍世の前に壬生がやって来た。
「奈緒と何があった?」
「……」
当然聞くだろう。
だが龍世は、答えられなかった。
「平安から聞いたぞ、昨日の猛暑の中を奈緒が神爾江の駅から本町まで歩いてたって。龍世、君が彼女をあの熱い中、出歩かせたのか?」
「……てっきり電車に乗って帰ったんだと……」
「そうじゃないだろ!何でそんな事になるんだ!君が彼女に何か言わなきゃそんな事にはならない!」
腰を下ろし屈み込む龍世の襟首へ壬生が掴み掛かる。
普段落ち着いている壬生の取る行動とは思えなかった。
気迫に押されて龍世が視線を外す。
「平安の携帯にも奈緒からの返事が一切無い!あの子、今頃家で伏せているんだぞ!?」
「一日寝れば、きっと良くなる」
「奈絵がっ、守った子なんだ!君が蔑ろな扱いを彼女達にするから奈絵はっ!」
「壬生君!止めて!」
殴りかかる寸前だった。
平安が駆けつけ二人の間に割って入る。
「私達で喧嘩しても、揉めても……奈絵ちゃん喜ばないよ……」
平安が泣いていた。
また──
自分のせいで誰かが傷付いている。
気付かなかった。
壬生が奈絵のことをずっと想っていて、彼女が居なくなってやるせなかったんだと。
そんな事を今まで一言も教えてくれなかった。分からなかった。あのまま殴られた方がいっそ楽だった。
壬生は、
「悪かった……」
そう短く言って龍世から手を離すと、校舎の中へと消えて行った。
「ごめん、音羽君……」
「何で平安が謝るんだ、俺が曖昧な態度ばかり皆に取るから……」
「そうじゃない!そうじゃないの……」
「な、何を……?」
壬生を見て平安も気が動転したのだろうか。
然し龍世が考えていたものと平安の様子は少し違ったようだった。
「奈絵ちゃんをあの時、私達が止めなかったから……」
「あの時って……」
一年前の沙門川の花火大会のことを言っている。
そうだ、奈緒が川上の河川敷まで花火師達の様子を見に行こうと龍世の手を引き川の土手を二人で駆けた。
豪雨に見舞われる、その危険も配慮しないままに。
「私が、雷を怖がったから……だから奈絵ちゃん、壬生君を私の側に置いて一人で追いかけていったの」
「それは、俺達が天気も気にせず川上に向かったからで……」
「違うよ……私が……」
平安が言葉を詰まらせながら、
「壬生君と二人きりになれたから、怖がる私の側にいてくれたから……私が卑しいことを想っていたから……奈絵ちゃんを一人で行かせてしまった」
言葉が、見つからない。
どうしてこんなに二人を引っ掻き回してしまったのだろう。そしてそれを一番叱ってくれるはずの奈絵は今、此処には居ない。
龍世の目にはこれまで、壬生も平安も自立している良く出来た友人として映った。然しその領域を今、土足で踏みにじっているような罪悪感が龍世を苛む。
何か大事なことを置き去りにしている。
──そう、置き去りにしたのだ。
ガコン、ガコン、
けたたましい音を立てて二層式の洗濯機が回っている。
旧式のこれは作りがえらく頑丈だ。最近の洗濯機の様に高度な基板等を組み込んでいるわけでもないので壊れる所が少ない。防カビ剤入りの洗剤を使っているお陰か排水溝まで意外と綺麗で、わざわざ伏見がこの洗剤まで常備し共用廊下にあるサンガ荘の古の洗濯機は未だに現役稼働中だった。
一応、音がうるさいが入居者の帰宅時間の都合から夜10時までは回しても良いという館内ルールがある。夏場のせい頻繁にシャツを着替える為、洗濯物を長く溜めてはおけなかった。
洗濯機の側に置かれた椅子に龍世は腰掛け、ただ時間が過ぎるのを待っている。隣りにカラーボックスがあり一昔前の巨匠小説家が原作の新選組題材の漫画が全巻揃ってあり、東山の持ち物らしかった。京都出身だった彼は新選組が好きで、西東京に区画開発主任として会社から出張した折にはこの近辺にも縁を感じたらしい。
正面の自分の部屋は明けっ放し。外から見るとまるで個性を感じなかった。荷物が少ない。アダルト雑誌からAVモデルのポスターを切り抜いて飾ったら意外と画になるかもしれないなどと思った。
こうっと外から風が立ち窓が揺れる頃、
──携帯が鳴った。
驚いて着信を見る、平安からだった。
何かしら連絡があれば普段ならSNSのチャットで済ませるはずだ。これがわざわざ音声通話による連絡手段を取るというのは実に、
嫌な予感がする。
洗濯機の音をうるさく思い階下へ駆けて表へと出てから通話を取った。
「もしもし、平安?」
「音羽君、大変!」
ずきずきと胸が鳴る。
昨日の今日、そして今朝もだ。
「奈緒ちゃんが、家に居ないって……」
「なんだって?」
「私、奈絵ちゃんの一周忌のこともあったから予定を聞く為に一度自宅の方にも連絡したの。そしたら奈緒ちゃん、朝は学校に行くって家出たんだって……」
「朝からずっと!?家にも学校にも居なかったってことか!?」
そんな馬鹿な、と。
昨日の奈緒の体調で、然し今日は比較的外の陽射しが楽になったとは言え、今どこにいるのかも分からないような事態だとは。
──見つけてくれなくなっちゃったね。
何を言っているんだ!?
「学校の鞄は持って出なかったんだって、今日講習で使うものは全部机の中に置いてきたからって……その時に奈緒ちゃんのお母さんも可怪しくは思ったみたいだったんだけど」
「分かった、分かったから……」
いや、何も分からない。
彼女が何処にいるのかまるで見当が付かない。
「もう暗くなって来てるし、雨が……」
「平安、大丈夫だから。奈緒もその内、きっと家に帰って来る」
言って気休め程度に平安を落ち着かせると「じゃあ」と挨拶短く通話を切った。
切ったが、胸の鳴りが収まらなかった。
抉られるように痛い。いや既に何か良からぬものに心臓を持っていかれたかの様な、空虚で残酷な、それはあの日からずっと人の目に触れず自らも気付かず。
何処にいるっていうんだ?
何で自分なんだ、構わなければ良かったのに。
「おい龍世、また揉め事か?」
「あ?」
玉置正也だった。
「お前、いつの間に……」
「いつの間じゃねーよ、俺ずっと此処に居たわ。お前が俺のこと視界に入れて無かっただけだろ」
見ると大きめサイズのブルーシートを持って庭先の、昨日並べた長机とベンチに覆うように被せて風で飛ばされぬ様、杭を打ち込んでいるようだった。
もう直ぐ雨が降りそうだ。まだ真新しいそれらを新品に近いまま当日に使いたいらしい。
「で、何お前、結局昨日は奈緒ちゃんに謝って無かったわけ?」
「説教なら、後にしろ」
今、此奴に構ってる暇はない。
然し一体奈緒が何処にいるのか宛が見つからなかった。
すると玉置は足の止まる龍世へ「はぁ」と大袈裟な溜め息を吐く。
「お前の友達さ、お前なら見つけられると思って連絡して来たんだろ?何か奈緒ちゃんが行きそうなとこねーの?」
「……何で、俺なんだよ」
「は?」
「何で俺なら分かるって、決めつけんだよ!」
しとしとと庭先に雨が降り出している。
誰にも構うなと、龍世はこれから堕落していく自分へ関わろうとする全員が恐ろしかった。自分が誰かの加害者にはなりたくなかった。搾取され続けるのは虚しい、痛い。
食事の席で父親に箸で頭を強く叩き続けられた記憶が鮮明に、幼稚園児だった頃の舞台の人の笑い声が耳に木霊し、壬生が平安がずっと打ち明けなかった想いが自身を縛った。
半年待てば全部終わった。彼らの進路を邪魔することもなかった。
だが玉置は、
「決めつけてんのは、龍世……お前の方だ」
「な、何……?」
目が──
こんな目をして相手を視る者を龍世は今まで見たことが、出会ったことがなかった。怒りでも諦念でもなく、また憐れみとも取れない。
不思議な威圧感がある。
「お前は、わざと表面に視えてるものをそのまま解釈して、内側に秘める真実を『知ろうとする』ことを極端に恐れているじゃないか」
恐れている。
「俺は、他の奴らとは違う……」
与えられなかった、搾取され続けた。
人に与えることが出来なかった、搾取し続けた。
「お前は誰か一方が損する不利になるって、それだけで物事を決めつけてる。お前『これ』なんて言ったか覚えてるか?」
玉置が庭先のアップルミントを指差す。
──雑草の名前なんかいちいち知らねーよ。
「これをハーブだって気付かなかった。お前はこれを雑草だって決めつけて、確認もせずだ」
「し、知らなきゃそうなるだろ……」
「毎日ここを通る、これから兆候が出てたろ。林檎みたいな甘い爽やかな香りが」
「奈緒は、そんなものとは……」
──本当?じゃあ私も好き。
淡い赤い色を放つ、朱色のようないつでも眩しくけれど何処か安心するような彼女の存在が、龍世にしか視て取れなかったのに。
然しいつからか、その色を視なくなった。
「あの子だってお前に何かしら兆候を出していたはずなんだ。お前にしか気付かないような、何かを」
いや、知っていた。
ずっと気付いていた。
表面の奈緒しか視なかった、でも一年前のあの時から龍世はそこに対峙していたのに、彼女の好意と誠意に甘え彼女から搾取しかしなかった。
その感謝すらも忘れ「ありがとう」も無く、どれ程の孤独と苦痛を彼女に強いたのか。
からからと木履を鳴らす音が聴こえた気がした。
「……あそこに……!」
颯爽と駆け出した龍世の背を見送る玉置だったが空模様を見上げると一瞬、その彼を引き留めようと思ったが、
やはり止めた。
「アイツは少し雨にでも打たれて、アタマ冷やした方がいいな」
サンガ荘の共用廊下でガタガタと鳴っていた二層式の洗濯機は今は鳴りを潜め、持ち主が脱水してくれるのを待っている。




