─3─
立ち上がれぬままに龍世が茫然としている。
いや、奈緒の言っていたことには実は心当たりがある。然しそれは奈絵が居た頃の話しで、だ。
彼女達姉妹の違いを龍世だけがいつでも視て取れた。清水の両親も、高校以前からの友人達も、双子の彼女達の区別をつけることは至極困難だった。
龍世だけが二人の違いを紛うこと無く認識出来たのだ。それは存在そのものが放つ色の光ような、
赤色の輝きを持つ奈緒に、青色の輝きを持つ奈絵。これらの感受は他人には到底、龍世自身も当時から説明し難かった。
だが今、奈絵は其処にはいない。
二人を区別する必要が無くなった世界でそれに何の意味があろうか?
奈緒はここ最近で感傷的になっている時期なのかもしれない。もう直ぐ奈絵が居なくなってから一年が経とうとしている。だからその情緒が少し不安定なのだ。
そんなふうに龍世は思った。
御鏡本町と御鏡東の堺を流れる沙門川。大雨で川が氾濫しかけたあの日、彼女は土手から足を滑らせ濁流の中に転落した。
ずきりと胸が痛んだ。
あの時──
「おいコラぁ!龍世!」
どかんっ!とけたたましい音を立てて部屋の戸が弾かれると女が一人、龍世へ憤怒を顕わにしこの部屋へ侵入してきた。
ぎょっとして龍世は身構えたが遅かった。襟首を捕まれ、ぎりぎりと力強く絞め上げられる。
「ぐぇっ、ちょっ……貴船さん……」
「女泣かして追いかけもしないで!お前の根性、アタシが叩き直してやる!」
隣りに住まう貴船結が鬼神の形相で龍世の首を絞める。女性の細い腕だが渾身の籠る絞め技に加減してでは振り払えないものだった。
見事に『決まり』これは流石に不味い。
「ちょっと落ち着いて結さん!」
颯爽と玉置が割って入る。
二人を引き離すと龍世はごほごほと咳込み、然し貴船は息を切らしつつも未だ臨戦体勢だ。
あっという間に龍世の部屋へ再び珍客が、今度は二人押し掛けていた。
「二人とも、何なんだよ!」
「何なんだって、お前……」
玉置が少し言い難そうに、
「この建物、壁も床も薄いからお前らの痴話喧嘩筒抜けだっつーの……」
玉置が住むのは龍世の真下の部屋だ。
先の奈緒とのやり取りをしっかり二人に聞かれていた様である。
「龍世、とっととあの子追いかけなさいよ!」
「え……あ、いや……でも……」
何故、貴船に噛み付かれているのか全く理解が出来ない龍世だったが、
「でも〜っ?こんのヘタレがっ!」
今はとても言う事を聞いてくれそうに無い雰囲気だ。
慌てて玉置が貴船を制する。
「待って待って、結さん!俺が駅までコイツ連れて行きますからっ」
言って今度は玉置が龍世の襟首を掴むとそれを引きずり部屋の入り口に立たせ、二人でばたばたとサンガ荘の共用廊下を逃げる様に駆けて行く。
元凶の龍世がただ一人、腑に落ちないといった表情をし玉置の後をついていた。
「で、お前何で彼女泣かしてんのよ?」
田んぼのやや広めな畦道を揃って歩きながらに玉置が聞く。舗装された神爾江の駅までの道程は少し田畑を迂回している為、足元は悪いがこちらを通った方が距離は近い。
相変わらずの真夏日、照り付ける太陽は朝方から殺人的だ。まだ7月下旬だというのに来月に入ればまた更に気温は上昇するだろう。
「別に、彼女じゃねーよ」
「はぁ?俺はてっきりお前とあの子が付き合ってるものと思ってたぞ」
嘘は言っていなかった。
奈緒は押しは強かったが、奈絵の事もあり二人が恋人同人ということは無かったのだ。
──奈絵の事があって?
まただ。
奈絵が、今の龍世と奈緒の距離感に一体なんだというのか。その一周忌を間近にして自身の感覚もどこか可怪しくなっているのかもしれない。
それとも熱中症の前触れか何かか。
遠く林から蝉が鳴き散らかす夏の快音に、畦道の足元を飛び交うまだ少し小さなイナゴ。田んぼからは稲藁が発酵しその独特な堆肥の臭いが鼻をかすめる。
田舎の只中に取り残され、もう先に行った彼女の背は見えず未だ届きそうにはない。
「大体なんで俺の個人的なことに、貴船さんが突っかかって来るんだよ」
不平をたれる龍世。
「いやお前、あんな騒ぎ方隣りでされたらなぁ……それになんっつーか、完全に龍世が悪くないか?」
「俺が?」
「そうだよ、しかも付き合ってないんだろお前ら?」
額に汗滲ませながら玉置が太陽を睨見つける。なんでこんなところを野郎が二人揃って歩いているんだ、といった感じだ。
玉置の龍世を見る目が呆れ返っていた。
「あの子、お前に関東に残って欲しいって言ってんだろ?あんなにモーションかけて来て、健気じゃないか」
「今は奈緒のことはいいよ、貴船さんが俺に突っかかる筋合いないだろって話し」
隣りの部屋203号室に住まう貴船結は大学新卒二年目の社会人だ。さっきはたまたま午前中に部屋に居たらしい。
龍世や玉置が越してくる一年前からあの部屋にいる先住民だ。
「あれ?聞いてねーの?結さん、お前と同じで御鏡第二の卒業生なんだよ、お前の先輩ってわけ」
「は?」
「そうじゃなくてもサンガ荘が共同住宅だからな。皆が家族みたいに感じてお前を弟みたいに思ってるんだろ、千鳥さんもだけど」
家族──
食卓で、子供の頭を箸で強く叩き怒鳴り散らす父。
父の機嫌を窺い日々爆発させない様、注意を払うことにしか手が回らない母。
何も言わずただ黙って自分を押し殺す兄。
全く理解が出来なかった。
「なんだよ、家族って……」
「それじゃ理由にならないか?」
「ならねーよ、そんなの」
「あー、お前色々ありそうだもんなぁ……」
言われ龍世がぎくりとする。
この男、なかなかに勘が鋭い。
「『毒親』なのか?特にお前の親父さん」
「……」
言葉が出てこなかったというのはある。
それにしても玉置は、龍世とは同い年だったがどうも人の思考を読み取る能力に長けているというのか、不思議な経験値がありそのことには龍世も彼の出自を訝しんだ。
すると玉置は喉を鳴らし笑う。
「いやスマン、実はお前の事、譲二さんに聞いてたんだよ。あの人にサンガ荘の仲介して貰ったんだろ?色々と家庭環境に問題がある野郎が来るって言っててさ」
「……え、ジョージさんって東山さんのこと?」
「そうだよ、で実際そうなのか?」
東山譲二は龍世の借りる202号室の右隣り、201号室に住む大手建築会社に勤める三十代後半の男性だ。
共用廊下で顔を合わせることはままあるが、サンガ荘で会う玉置や伏見に比べて普段から忙しくしており、お互いにあまりゆっくり会話をしたことがこれまで無かった。
「分からない、てっきりサンガ荘は兄貴が手配してくれてたんだと思ってた」
「んなわけねーよ、サンガ荘は不動産屋が介入してないんだから。先ず入居者募集自体を一切かけてないわけだし」
「……募集を、かけてない?」
「そう、だから家賃破格だろ?譲二さんや結さんはともかく、後は俺やお前みたいな『訳あり』しか入って来ないんだよ」
初耳だった。
確かに龍世の兄、大世は家族が関西行きを決めてからこちらの賃借を探し出したはずだ。
不動産屋に募集が無い以上、ネットの検索にも掛かろうわけがない。人伝を介さなければこんな所を探すなど不可能だろう。
「なんで東山さんが俺の賃貸の仲介人なんだ?」
もはや汗だくになりながら、玉置が自分の事ではないと面倒くさそうに喋る。
「あの建物を総改築したのが譲二さんの会社で、あの人が工事の手配したんだよ。んで浄張市の区画整理開発をしに出張に来てる。多分、お前の兄貴があの人に頼んだんじゃないかな?」
そう考えれば合点がいく。
家庭の事情に問題がある学生を一人、関西に本社を構える大手企業の出張役員が個人的に聞き入れて、その賃貸の仲介人となった。
会社として規模が大きく、確か不動産事業もまとめて引き受けるはずだ。
これが卒業までの間繋ぎだとしても、サンガ荘の家賃なら音羽家にとっては怪我の功名だろう。
ただそれでも、父親の問題は拭えてはいない。
玉置は先ほどのサンガ荘での騒ぎを思い返しているようだった。
「龍世、お前さ……関東に残るって方法が就職するんじゃ駄目なのか?」
やり方としては一番手っ取り早くは感じる。
だが龍世の父は──
兄が免許を取った事を出汁にして開業するような男だ。他人の選択肢や趣向を根こそぎ否定して、自分が扱いやすい『モノ』としてでしか他人を捉え認識しない。辛うじて高校を卒業しようとする龍世だがこちらに残る前、兄が止めなければ父は自分の都合と機嫌で龍世を高校中退させる気があった程だ。
子供の将来の為というのは一切無く、自らが開業し他人に頭を下げなくてもいい組織を作りたいが故というのが今の、龍世の父の全てになっている。
単純な就職では父の暴挙は止まらないだろう。
「誰にも分からねーんだよ、アイツのことは……」
龍世にも『子供の将来を奪う親』という表現を明確に他人に説明する方法を持たない。
それは解決する為に繊細かつ、とてつもなく途方に知恵と時間のかかる「生活環境の病気」なのだ。
そして凡その場合、原因となっている『腫瘍』は一生を賭けても治らない。
サンガ荘が破格の家賃をしていなければこの龍世の別居は成立していなかった。それは実際の音羽家の経済状況が重要なのではなく『キレる父親』を納得させる理由として『破格の家賃』という建前が必要不可欠だった。
すると玉置は、
「なるほど、ならより一層だな」
「?」
月並みだがとは玉置も思う。
「とりあえず勉強ってとこ、まあフリーターの俺が言うのもなんだけど」
「だからっ、大学入試を今から準備するのは……」
「まあ待て龍世、そうじゃない」
「何が?」
玉置が龍世を宥める。
彼の解釈は他とは少し違う。
「自衛する為にだよ、お前の家族からお前自身がこれから自衛出来ないと」
自衛──?
『家族』という単語に適応させる言葉には到底聞こえなかった。
「勉強する理由が、自分の家族から身を守る為だって変に聞こえるかもしれないけどさ……でもこれからの時代は有り得ることなんだろう」
「……」
「奈緒ちゃんのこと考えたらさ、お前自身が生活環境から身を守れないと。それがお前の場合は、今回は自分の家族だったって話し」
龍世は玉置正也をやはり変わった奴だと思った。
それと同時に、彼には人とは違う答えを導き出せる開拓者の資質があるようにも窺える。
彼には決して言わないが、
人の存在としての輝き──
その色を視て取れる龍世が彼に出会った頃から視ている色彩とは、
金色である。
電車を乗るが、教材を一切持って来なかったことに気が付いた龍世。
奈緒を掴まえたところで夏期講習にはやはり出席出来ないかと一瞬懸念したが、教科別に講習は使う教室を分けている為、壬生か平安に無理を言えば使わない方の教材を貸してくれるだろうと打算した。
御鏡本町駅の歩行者デッキから繁華街を抜けていつもの緩い坂道に差し掛かる。奈緒に出遅れて電車には乗ったが多分、時間は一本分しか違わないはずだ。
だが、駆ければ近くその背は見えてもいいと思われたが一向に彼女に追いつく気配がない。
そんなに足早に学校へ向かったのか?
何か胸に嫌な予感を抱きながらも、御鏡第二の正門前にようやく龍世が辿り着く。
今日も壬生虎太郎が風紀委員の登校指導管理を行なっていた。
「おはよう龍世、今日はまた講習ぎりぎりの時間に滑り込みだな。奈緒は一緒じゃないのか?」
予感が形になる。
「奈緒は来てないのか?」
「門を開けてからずっと立ってたが、今日は見てないな。どうしたんだ?」
壬生の目に映らずひっそりと門を潜り抜けたのかもしれない。
実際、可能性は無さそうであるが。
「一応、教室見てみる。それと虎太、教材貸してくれないか?」
「ん?ああ、君とは講習被らないし別に構わないぞ。それより奈緒は大丈夫なのか?」
何も言えない龍世を焦燥感が苛む。
また、俺は──
また?何が?
結局、それからの三時間で奈緒の姿を校内で見つけることは叶わなかった。
「龍世、奈緒と何かあったのか?」
壬生から散々質問攻めを受けた龍世だが、分からないと言う台詞以外での返答を持たない。
奈緒のこと、家のこと、進路のこと──
どれをとっても他人に迷惑しかかからないと思った。龍世は奈緒や壬生や平安が、自分とは違うもっと将来性に溢れた在るべき場所に向かって歩まなければならないのだと、そう思っていたから。
高校でたまたまあの時、五人が同じ青春の時間を過ごしたが、それは龍世にとってとても希少な『まぐれ』だった。同時に彼らの進むべく道を決して自身が邪魔してはならないと。生まれた時からあの父を親に持ち、自分の抱える家庭環境の弊害が他人に悪影響を与えてしまう可能性に自分が最も恐れた。
この感覚は他の誰にも理解し難いだろう、龍世が親から受け継いだ『呪い』の鎖状だ。
あの親にしてその子なのだ、蛙の子は蛙。
龍世は父と同じように、他人を妬み、怨み、羨み、傲慢で、搾取に取り憑かれ、然しその能力に見合わない身の丈も知ろうとしない深い劣等意識と虚栄心を自身の内に秘めている事実と対峙しなければならなかった。
だから奈緒が自分に好意を持っていることなど当然、分かってはいたが受け入れる事が出来なかったのだ。自分が彼女の側にいては、あの子の将来をきっと駄目にしてしまう。
だが実際そうして、彼女を傷つけ泣かし、今学校から追いやった。
夏期講習の三時限目が終わるなり、龍世は図書室へと立ち寄る。
平安静香なら奈緒と連絡を取れるかもしれない。奈緒と平安は親友という仲だ。
案の定、講習の終わった直後の図書室には平安以外の者はいなかった。皆、一旦昼食を取るのでこの時間帯であれば彼女を捕まえ易いだろうと龍世も考え、此処へ来た。
「平安、奈緒見てないか?」
「今日はまだ会ってないけど……何かあったの音羽君?」
ほんの一瞬間を空け、
「講習に来てないみたいだ」
喧嘩をした、とは言えなかった。
平安は一度、携帯を取り出し何か連絡がないか確かめてみるが、
「うーん、奈緒ちゃんのことは音羽君で分からないと私にも分からないよ……」
「連絡取れないか?」
「音羽君には、何かチャットとか届いていないの?」
そもそも連絡を送ってすらいない。
龍世は携帯を取り出しSNSのアプリを開いてみる。
未読が数件。
全て奈緒からのものだった。今朝、自分が二度寝をして夏期講習をサボろうとした時に奈緒から連打されたものだ。
「来なくていいって何?」
「もう電車乗っちゃってるから」
「追試ちゃんと受けないとダメだよ」
「絶対そっち行くから玄関開けといて」
公式スタンプキャラが怒った手振り。
他、数件続いている。
「なあ、平安」
「?」
奈緒が何に傷付いたのか、それは龍世にも分かってはいる。
卒業後に関東に残る意思を龍世が示さなかったからだ。勉強するだとか皆で集まる約束をしただとかは二の次だろう。
「奈緒は……夏期講習とか出て今から準備しておかないと大学入試は難しいぐらいなのか?」
「え?」
奈緒から奪ったのは、勉強する時間、場所、意欲、環境、それら全てをだ。
父から矯正の名目で『汎ゆる』を搾取され続けた龍世には、他人に対する加害妄想に常に敏感だった。
努力というのは先ず「努力を認識」しなければ発起出来ない行動理念だ。機会は平等に訪れるなどと言うのは正しく詭弁で、龍世は認識そのものを奪われて育ってしまった者の苦しみを理解出来る。
だから夏のこの時期が奈緒にとって一生の分岐点となってしまうのか、それが恐ろしかった。
だが平安は龍世の質問に驚いたという顔をしている。
「音羽君、奈緒ちゃんの今の学力知らないの?」
「いや……?俺と似たような感じじゃないのか」
言うと平安は困ったような苦笑いをする。
「学年でも上から数えた方が早いぐらいのはずだよ?昔は奈絵ちゃんと一緒に教えながら勉強してたんだけど、今は全然そんなことないよ」
「マジかよ……あいつ、いつの間に」
「奈絵ちゃんが居なくなったのがきっかけみたい……それから急に勉強頑張るようになったの」
「奈絵が……居なくなって、から……?」
今までそんな素振りはあったのか?
確かに双子の姉妹だ。急逝すればショックも大きいだろう。然し、
何が龍世の胸に引っかかっていた。
奈緒は何と言って部屋を飛び出した?
──龍世だけしか、
まさか、試されているのか?
駄目で元々、龍世は携帯のSNSから奈緒にチャットを送ってみる。
「どこにいる?」
直ぐに既読が付いた。
それから僅かに携帯が震え、
「見つけて」
そう返信された。




