漆
「何、故」
踏み出した足は広がり乾きかけた血にねちゃりと沈み込み、足を持ち上げるとまたねちゃりと音がした。
床に着いた膝が粘性のある血で滑りそうになった。
妻の身体に触れた指があまりの冷たさに震えた。
ぐるぐるぐるぐると思考が空転する。
そのようなことがあるはずがないそのようなことがありえるはずもないそのようなことがそのようなことがおそろしいことが――――ならばこれはなんなのだゆめまぼろしかしかしこのにおいこのひかりこのいろ――――そしてかのじょのましろいかおひかりのうせたひとみちからなくおちたうであかくそまるゆびさきみだれてあかいいけにおよぐくろかみ。
今は硬く冷たい彼女の痩躯を、牽牛は両腕で抱きしめた。胸に刺さっていた剣が滑り落ちるのを思わず掴んで握り締めた。
はあ、はあと自分の息の音がやけに大きく聞こえた。心臓の鼓動が身体中に鳴り渡っているように感じた。
何が起こったのか。
手がかりを求めて辺りを見回すと、壁際で女官が織女と同じように自害し果てていた。どうやら彼に書状を託した例の女官だった。おそらくは主の後を追ったのだろう。二人分の血で塗りたくられたせいで部屋がやけにあかく感じられたのだ。
牽牛は妻を再び横たえ、立ち上がった。
戸を内側から開けられて、予想もしていなかったのだろう、死体が動いたとでも思ったのか、見張りの男は「ひぃっ」と怯えた声を出し、みっともなく四つん這いになって無様な格好で逃げの体勢を取った。見上げて、あまりの衝撃に表情を浮かべることすらできないまま牽牛を見つけ、男はぽかんと口を開ける。
「牽牛、殿――」
「妻に、何が、起こったのか、お教え願いたい」
見張りの男の首筋には、いつの間にか血に濡れた刃が突きつけられていた。
誰が、予想しただろうか。
穏やかで物静かな青年に、そのような激情があったことを。
たかが牛飼いの青年に、そのようなことが為せたなどと。
顔色を無くして天帝の執務室に飛び込んできた臣下に、天帝は眉を顰めた。
「へ、陛下……姫様が……姫様が……」
言葉を失った臣に続いて室に駆け込み、ぶるぶると全身を震わせ、床に額を擦り付けて這い蹲る男は、天帝の娘、織女の身辺警護の責任者であった。裏返った声で何度も何度も謝罪する。嫌な予感が全員の胸を過ぎる。天帝の表情が険しくなった。
「申し訳ございません、申し訳ございません、ほんの僅か目を放した隙に……!」
「早う申せ」
側近の一人が冷たく言いつけた。言葉に打ち据えられたかのように男は小さく飛び上がり、見ていて哀れなくらいに縮こまって言った。
「姫様が……自害なされました」
「な……」
部屋の中の人間は一様に絶句した。
「ま、さか――……朕の……朕の織女が、そのような……」
思わず立ち上がった天帝の唇がわなないた。
真っ先に我に返った誰かが、男を怒鳴りつけた。
「何をしていたのだおまえは!」
「もうしわけございませんっ!」
悲鳴のように裏返った声で聞くに堪えない謝罪を続ける男を、容赦なく蹴りつけておいて、側近が天帝を振り返った。
「陛下、この男の処断は如何なされますか」
「……連れてゆけ」
ひい、と這い蹲った男から情けない声が漏れた。天帝の命、それはすなわち――殺せと。
お許しください、お許しくださいませとみっともなく泣き叫びながら力づくで連れて行かれる男を見送って、側近たちは吐き捨てた。
「陛下の至上命令、姫君を守るという職務すら全うできぬ者など、生きる価値もないわ」
「……」
天帝は物も言えず座り込み、両手で顔を覆った。痛ましげに、側近たちが慰めの言葉を口々にかける。
さらにその側近たちを見つめながら、未だ良識ある者は思った。
(――それが姫君にとっては最善の道であったかもしれぬ)
最愛の夫と永遠に引き裂かれ、穢れた想いを抱いた実の父に怯えて生きるよりは。
長い籠の鳥の生活からようやく解き放たれ、幸せな生活を与えられたというのに、それすらも奪われて自害の道しか選べなかった姫は、あまりに哀れだった。
天帝が顔を上げた。ほんの束の間に倍も歳をとったかのような顔に誰もがぎょっとする。
「なぜ……なぜだ、織女」
声すらしわがれていた。
「織女に……朕の織女に一目会えぬか。もう一目あの姿を見たい」
「陛下……」
いたたまれぬ風に側近が声を失った。
そこへ、再び動転した様態で駆け込んでくるものがあった。
「申し上げます、宮城が燃えております! 陛下におかれましては、急ぎお逃げくださいませ!」




