陸
死ネタ入ります。苦手な方はご注意。
それ以来部屋に閉じ込められたきり外に一切出してもらえず、毎日の天帝が訪れるかと怯え、気が狂いそうな日々である、ただ世話をしてくれる女官は昔からの顔馴染みで織女を哀れんでくれるので彼女に書状を託すと、認められた書状は、こう結んでいた。
――愛しい夫君、こうして怯えながらもわたしは貴方のことを日々思い出します
父がそう望む以上再びお会いできぬ身かも知れませぬが、それでも貴方を愛していると、貴方がわたしを愛してくださると思うと、立ち向かう勇気がどこからともなく湧いてきます
わたしの愛しい方、どうかわたしを信じてくださいませ
二度とお眼にかかれぬかもしれませぬが、わたしは一生貴方だけを愛しております
「吾妻――」(「私の妻――」)
小さな呟きが牽牛の口から漏れた。
選んだ日は上弦の月の晩であった。月は早い刻限で沈み、下界で月が出ていないと天界も暗いからである。闇に乗じてことを為すつもりであった。
天の絶対支配者である天帝に剣を向ける者など、天界において皆無である。天の宮城の警備が名ばかりで、兵はほとんど存在せず、ほんの少数の彼らも退屈そうに噂話に興じているばかりなのも、仕方が無いことであった。
それゆえに、牽牛がその気になれば、ほとんど労することもなく宮城内に忍び込むことができた。
織女が宮城で使っていた部屋のことは、二人で暮らすうちに何度か聞いたことがあったので、見つけることは大して難しくはなかった。辿りついたその戸は、しかし他所とは打って変わって厳重な警備体制が敷かれていた。軟禁しているのだから当然といえば当然かもしれないが、それにしてもなにやら慌しい。衛兵たちは顔色をなくし、落ち着きなく辺りを見回しては押し殺した声でひそひそと囁きあい、首を振っていた。
何か、事件でもあったのだろうか。牽牛の胸がざわついた。
織女は無事だろうか。
装飾や置物の多い宮城のこと、隠れる物陰には事欠かなかった。身を潜めたまま、牽牛は耳を澄ませるが、ほとんど何も聞こえない。
「ともかくも、急ぎ陛下にお知らせせねばならぬ。行くぞ」
誰かが、いでたちからして衛兵たちの長官だろうか、虚勢を張ったとしか思ぬ大声で指示を叫んだのが聞こえた。声の調子がおかしい。狼狽が明らかだ。蒼褪めた衛兵たちは躊躇いがちに、その指示に従い、一人の見張りを残し、あとはどこかへ撤退していった。
一人残された見張りは、しばらくうろうろと所在なく歩き回っていたかと思うと、戸の前で座り込んで頭を抱えたり、やはり落ち着きない。
「どうして、こんなことに……」
衛兵が絞り出すようにした言葉が、こっそりと近づいた牽牛の耳に届いた。
その衛兵は落ち着きなく左右を見渡している。何かを見つけようとしているよりは見つかるまいとしている風情だったが、牽牛にとってはあまり変わりない。彼は戸から入ることを諦めた。
だが、まだ手はある。まるで盗賊のようで、好ましくはないが。
相変わらず身を隠しながら、牽牛は中庭に出た。織女の部屋の窓は中庭に面していると聞いていた。そこからの眺めが好きだったと、織女は何度も言っていた。
窓には見張りはいなかった。牽牛は小さく安堵の息をつき、窓枠に手をかけた。
窓を開けるなり、腥い臭いが鼻を突いた。
窓を閉ざしていた布をのけた瞬間、見たこともない光景に、予想だにしなかった光景に、牽牛はただ硬直した。
何を見ているのか理解できない。ただ視線が空しくその場を撫でていくのみで、それが頭に入らない。いや、頭が受け付けないのだ。
その、暗赤色を。
部屋の中心を塗り潰してぬらりと光るものの正体を。
そこに広がるのは最悪の惨事であるという事実を。
「あ、づま」
落とした言葉は掠れていた。
彼の最愛の妻は部屋の中央で己が胸を懐剣で貫き息絶えていた。




