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 天帝は三方を(とばり)で、残り一方を白い壁で囲んだ小さな室房で待っていた。

 そういえば、初めて天帝に拝謁したのもここだったと牽牛は思い出す。あの時は、牛飼い風情に、天帝がいったい何の用か皆目わからず、ただただ当惑していた。さらには、天帝に、娘の婿となってほしいと切り出され、開いた口が塞がらなかった。

 ――そなた以上に、娘に見合う男がおらぬ

 ――私はただの牛飼いです。姫君につりあう、身分の貴き方々はほかにおられましょう

 ――身分など問題ではない。そなたの人柄が気に入ったのだ。多少わがままな娘だが、そなたなら安心して預けられる。どうだ、頼まれてはくれぬか

 そうして、牽牛は織女と婚姻を結ぶことになったのだった。

 そのときはただ驚愕と、美しく優しい妻を得た幸福で深く考えることもなかったが、よくよく考えれば腑に落ちない。

(――――天帝も不憫な真似をなさる)

 天帝に対する疑念が胸の内にある今なら、尚更だ。

 牽牛は、まさに地味で目立たない、静かな男だった。堅実さと誠実さだけが取柄のようなものだが、たとえそれを主眼として婿がねを選んだとしても、数多いる天の貴族の中に人柄の良い者がいなかったはずがない。そこであえて身分の低い凡庸な男を選ぶ理由がわからない。たまたま、織女が素直かつ聡明で、人を身分などで差別しない性格だったからよかったようなものの、尋常に考えれば、うまくいかなかった可能性のほうが高い。

 牽牛が天帝に対し礼を取ると、天帝は開口一番済まなさそうに詫びた。

「すまぬな、牽牛。娘のわがままゆえにそなたを困らせる」

「どういう、意味でございましょうか」

 いっそ無邪気ともいえる調子で問い返されて、天帝は戸惑い気味に口ごもる。

「どういう意味、とは……」

「陛下がわたくしごときに詫びなければならぬようなことなど、ございましたでしょうか」

「我が娘が、織女がそなたとはもう居とうないと申して、そなたの元を無断で出ていったではないか」

「そのことなら、わたくしは深く気にしてはおりませぬ」

「なんと」

 牽牛の殊勝な物言いに、天帝の眉が跳ね上がった。

「娘を許すと申すか」

「許すも何も――」

 牽牛はゆっくりといいながら、天帝の目を窺う。

「――妻は、いずれ我が元に帰ってくるでしょうから」

 ほんの一瞬ひらりと天帝の目の奥に閃いたのは――何なのか。牽牛がそれを認めたと思ったときにはもうそれは隠されており、牽牛にはそれを見たことすら本当なのかわからない。

「そう、思うか」

「はい。陛下もご存知でございましょう、陛下のご選定は正しゅうございました。わたくしと妻はこれ以上ないほど幸せな夫婦にございました」

「だが織女は最早そなたの元へ帰りとうないと言うておる」

 わざと本心以上に余裕を持たせた口調で、牽牛は天帝に笑いかけた。

「何かの間違いでしょう。さもなくば一時の気の迷い。ご安心召されませ、妻は必ずわたくしの元へ帰り来ます。それまでほんのしばらく、妻の気紛れにおつきあいくださいませ。このたびは、そのことをお願い申し上げるために参りました」

 天帝の心を量るために苦し紛れに選んだ言葉だったが、口にしてみると実際そうに違いないと思われてきた。

 そうだ――織女は自分の妻であり、自分は織女の夫なのだ。娶わせたのは天帝だが、愛し合ったのは自分たちだ。

「――さらばそなたの家で織女の帰りを待つが良い」

 急に天帝の態度が変わる。

 妻に逃げられた哀れな男を労わる態度から、邪魔者を目の前から追い払う態度へと。

 その急激な変化を、牽牛は注意深く観察する。織女が戻らぬ理由をそこに見出そうとする。

 天帝が邪険に手を振った。最早視線すら牽牛に向けていない。視界に入れるも疎ましいとばかりに。汚らわしい言葉を口にするような語調で天帝は言った。

「下がれ」

「……――御前を失礼させていただきます」



 牽牛の胸中の黒い疑念が形を成しつつあった。だが彼は

(まさか――……)

 それを認めたくはなかった。それはあまりに恐ろしい――おぞましい発想であり、そのようなことを考え付いた自分すら汚らわしく思えるほどだった。

(陛下は天界でもいと貴き方――そのようなことをなさるはずが)

 ない、とは、しかし言い切れない。それは、考えるだけですらあまりにも不敬で、しかれども――

 葛藤のため周りへの注意が疎かになり、牽牛は宮城の門をくぐるとき、官女と危うくぶつかりそうになった。転びそうになった官女を腕で支えながら牽牛は慌てて謝った。

「あ――これは失礼を」

「牽牛様」

 官女は押し殺した声で囁いた。

「姫様より書状(てがみ)を預かっております」

「……」

 牽牛は思わず官女を見返す。官女は官服の袖で顔を隠すようにしてさらに囁いた。

「人目につかぬところでお読みくださいませ」

 するりと、牽牛の袖口に紙を忍ばせ、官女は足早に宮城の中へと戻っていった。その後姿を強いて見ないようにしながら、牽牛も自然と足早になった。

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