弐
そんな彼の耳に、突然飛び込んできたのが最前の会話である。
もし――もしも彼らの会話が真実だとすれば、いつぞやの官が牽牛に告げた言葉は虚偽である。
『姫君は最早貴殿とはお会いにならぬと、もはや貴殿は夫でもないと、そう仰られておる』
織女は、未だ彼のことを愛し、彼に会いたいと言っているのだ。
そうだ、冷静に考えてみれば、おかしいのである。織女は誠実で思いやりに溢れた女性だった。天の宮城の奥深く、何の不自由もなく慈しまれて育ったにも関わらず、何事においても決して無闇に己の我を通そうとすることはなく、牽牛と二人、双方が納得するまで何度も話し合った。何か過ちを犯せば、隠すこともごまかすこともせず真っ直ぐに謝った。
そんな彼女が、離縁などという重大事を牽牛に言い渡すことを、人伝に任せるはずもない。必ず、どんなに心苦しかろうとも逃げ出さず、自らの口で、真っ直ぐに牽牛の目を見ながら言うに違いないのだ。
織女を愛し愛された牽牛がそれに気づかぬとは。驚愕に打ちのめされていたとはいえ、牽牛は己の愚かさを呪いたくなった。
しかし、それならば。
(なぜ織女は帰ってこない)
一度気づけば疑問はいくらでも湧き上がった。
(官が織女からの言伝と言ったあの離縁の言葉はいったい)
それに加え、盗み聞いた会話の内容も気になった。
(天帝も不憫な真似をなさる、とは)
どういう意味だろう。
何か形のない、黒い疑念が牽牛の胸で形を成そうとしていた。
再三、牽牛は天帝の宮城に赴いた。
出迎えた官にどうしても一目妻に会いたいと嘆願したが、『姫君はそれをお望みではない』と素気無く断られるばかり。しかし、夫婦の道理から言えば、そのような一方的な言い分が通るはずもない、せめて離別を言い渡すことくらい直に対面すべき、と理を説いてみたものの、天帝の一人娘、という彼女の身分を考えれば、一介の牛飼いに対して道理を曲げることも大目に見るべきだと、そういった意味のことを遠回しに言われた。
牽牛の中の不信感は膨れ上がるばかりだった。
(これは、織女の言葉ではない。彼女の言葉ではありえない)
彼女と自分の間に、大きなものが立ち塞がっている。
ならばせめて天帝に、と牽牛は訴えた。織女と婚姻を結んだのは天帝の勧めによってである。
「陛下のお勧めによって成った婚姻を、我が不徳で破談にしてしまったことをお詫びする義理がございます」
そこまでするほどのことでもなかろう、と押し留めようとする官を押し切り、牽牛はなんとか天帝に目通しが叶うことになった。




