壱
――聞いたか。天の姫のこと
――おお、聞いたとも。姫君がこのところ、性に似合わず、荒れ狂うておられるそうな
男は、壁の向こうから聞こえてきた話し声に目を瞬いた。
彼は丁度、彼が世話をする牛らを厩舎に連れ戻してきたところであった。男の名は牽牛、天帝の牛の世話をする牛飼いである。一日を外で過ごし眠たそうな牛たちを、日々繰り返すとおり小まめに手入れをしてやっていたところへ、壁越しに冒頭の会話が聞こえてきた。牽牛は思わず壁へ近寄った。会話をしているものはおそらく二人組みの男、天の宮城に使仕える官吏か誰かだろう。向こうも壁に寄って話をしているらしく、壁に耳を押し付ければ、壁越しでも押し殺した囁き声が聞き取れた。
(姫君が――どうしたのか)
話に登場する天帝の姫君といえば、織女だろう。
彼の、牽牛の妻であった。
もう、どれほどの間会っていないのだろう。
――お可哀想に、夫君に会いたい、会いたいと仰られ、会えねばこのまま焦がれ死ぬと、日々痩せ衰えておられるそうな
――天帝も不憫な真似をなさる。何ゆえ、斯ほどに仲睦まじうていらした夫婦を引き裂かれるのやら
(どういう意味だ)
牽牛は眉を顰めた。彼らの話は、彼に今まで伝えられていた話とはあまりにも異なった。
牽牛が織女を娶った折には、天の朝廷は大騒ぎであった。牽牛は身分の低い牛飼い、対して、織女は天でも名高い機織の名人であり、それ以上に、天帝の大事な一人娘――あまりにも身分の違う二人であった。しかも、その二人を娶わせたのは、天帝本人であるという。
何を考えておられるのやら――そんな言葉が朝廷のそこかしこで囁かれた。
二人の立場が違いすぎる、うまくいくはずもない――そんな声も良く聞かれた。
しかし、牽牛は実直な男であり、織女は真面目な娘であった。婚姻の後も、昼間は牽牛は常のように牛を飼い、織女は天の宮殿で機を織った。そして、夜になると、二人は宛がわれた住まいに戻り、仲睦まじく暮らした。周囲にとっては衝撃的な婚姻にも関わらず、夫婦の生活は好調であり、二人の評判は至ってよいものであった。
牽牛は美しい妻を心から愛していたし、織女も、誠実な夫を愛していた。身分の差異は、二人の生活の上では殆ど問題にならなかった。二人はともにいることで幸福であり、若い二人の蜜月はいつ終わるとも知れなかった。
ある日突然織女が天帝に呼び出されたのは、そんな折であった。父の召還に応えて天の宮城に赴いた織女は、以来牽牛の待つ夫婦の住まいに戻ることはなかった。
織女に何があったと宮城に問えば、織女は身体の不調を訴えて臥せっていると言われる。一度はそれで引き下がったものの、あまりにも長く帰らぬので心配になり、せめて一目でも、ともう一度会いに行った。すると、応対に出た官は冷たくこう言い放ったのである。
「姫君は最早貴殿とはお会いにならぬと、もはや貴殿は夫でもないと、そう仰られておる」
牽牛はただ愕然とした。
妻が、己に会いたくないと、そう言っている。
彼とは夫婦ですらないと言っている。
その事実は、彼を一瞬で打ちのめすだけの威力を持っていた。言葉もなく呆然と立ちすくむ彼を侮蔑の視線でちらりと見ると、官は彼の目の前で扉を閉めた。
それがいつのことであったろうか。ずいぶんと前だったような気もするし、つい昨日のことかもしれない。あれ以来すっかり腑抜けて呆けてしまった牽牛は、日にちすら数えていない。ただ、何も考えずとも体が勝手に日々彼のすべきことを覚えており、頭が虚ろになった状態でも黙々と仕事ばかりは片付けているのである。
(私を――彼女がもう夫とは認めぬのなら)
虚ろな牽牛の心に去来する思いは、ただ今は遠い妻のことばかりであった。
(この身はなぜ今もこうして生き長らえているのだろうか)
彼は死すら願った。しかしたかが牛飼いといえども天の住人である牽牛は、容易く死を選ぶことは許されない。地に住む者達とは寿命もその命の重さも異なった。
(こうして彼女を思いながら惰性に任せて繰り返す日々を、あとどれほど続けなければならないのだろう)
元は物静かながらも朗らかであった牽牛は無口になり、誰とも目を合わせなくなった。青年のあまりの変貌ぶりを心配した仲間が声をかけてもぼんやりと「何でもない」と繰り返すばかりで、手に負えないと友人らも判断し、終いにはただ遠巻きに牽牛を見守るばかりになった。




